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昨日(6/24日)、関東地方では驚異的な暑さを記録したようですね。当地でも35.3度まで気温が上がり、6月としては観測史上最高温度に達っしたそうです。

関東の場合、前日に蓄えられた地上付近の熱が夜になっても雲にさえぎられて上空に抜け出すことが出来なかったうえに、当日、フェーン現象が重なったためとのこと。

本日の「気象の話」の「フェーン」の項目を見ると、

「昭和八年七月二十五日 山形市では午前中は軟風で風向も定まっていなかったが、午後風向が南西となると気温が急昇して十五時に四〇.六度、湿度二六%となり、最高四〇.八度を観測した。これはわが国の最高気温である。これはいわゆるフェーンのために気温が上昇したのである。」と書かれています。文章はこのあと、図と数式を使ってフェーン現象発生のメカニズムを説いています。
うち中で読む科学の本⑨ 気象の話/山田国親著_d0163575_1274820.jpg

著者の山田国親氏は、昭和4年に東京大学理学部地震学科を卒業ののち、旧陸軍気象部に籍を置き、気象観測所長・教官を勤めています。この本が出された当時(昭和24年)の肩書きは「中央気象台附属気象技術官養成所 講師」で昭和20年9月からのことです。

中央気象台附属気象技術官養成所の前身「中央気象台附属測候技術官養成所」の設置は大正11年で、「気象技術官養成所」に改称されるのは昭和14年、昭和26年に「中央気象台研修所」と名を変え、さらに昭和31年に「気象庁研修所」に変更、現在の「気象大学校」となったのは昭和37年のことです。

さて、「気象の話」は「うち中で読む科学の本」シリーズの1冊で、この時点(昭和24年)での既刊は「気象の話」を入れて9冊あります。ラインナップは「ニュートンのりんご/ビタミンの話/電波の話/魚の話/原子物語/ワットの鉄びん/細菌の話/天気予報の話」で、「以下、寄生虫の話、地震の話など続々刊行の予定」となっています。

内容は「やさしい文章と解説でうち中揃って楽しく読める科学の本」の惹起文のとおりなんですが、けっして子供向きではなく、むしろ、学生~大人向けの一般教養書よりちょっと上という感じです。

数式がところどころ出てきますが、これを無視しても文意は充分に伝わってきます。また、文章に添えられた全部で75もの図と多くの数値表でさらに理解度は高まることと思います。

全体が11の章に分けられ、それぞれの章に例えば「大気の底の圧力はどのくらいか」とか「気圧の測り方」とか「火災と湿度」とかの小項目がたくさん掲げられています。

・・・で、その小項目にはそれぞれの項目に即したエピソードが加えられていて、これがすこぶる面白い。本日はそのなかから一つだけ転記します。文章は非常に短いので、全文を書き写します。

読み終わったあと「なあ~んだ。それがどーした!。」と突っ込みを入れたくなるかもわかりませんが、まあ、読んで見てください。

「ニュートンの少年時代」/「外は非常に風が強く吹いていた。この中を一人の少年が風を背に受けては飛び、風に向っては飛び、何回も幅跳びをやっていた。少年に聞くと幅跳びの距離で風の速さを測っているのだとのこと、これはニュートンの少年時代のある日の出来事であった。」

以上が全文ですが、子供のころ、台風シーズンにこんなことやってませんでした?。
ポンッと飛び上がると風のチカラでいつもより遠くまで飛べるんじゃないか、と思ったりして。

このニュートン少年のエピソードは「風」の章に載っています。章立ては「地球と空気」「気温」「大気中の水蒸気」「雲」「雨」「気団と前線」「温帯低気圧」「高層の気象」「季節の気象」「気象学の発達史と気象事業」等々です。

うち中で読む科学の本⑨ 気象の話
著者:山田国親
印刷:昭和二十四年五月二十日
発行:昭和二十四年五月二十五日
発行所:主婦之友社
13×18.5cm/299ページ
定価:百十円
詳細不明の・・・、天文同好会の会誌と言ってよいのやら...。
よくわかりませんが、日付の前の「Note Observation」が誌名で、その第22号ということでしょうか。

執筆者は東山天文台(名古屋市)の「H.Yamada」氏です。二つ折りの4ページ会誌?(あるいは講習会などのテキスト?)で、画像はその表紙です。

描かれているのはオリオン星雲で、「V.G.Fessenkovに依って描かれたオリオン星雲の姿」の添え書きがあります。「山田 写」とも書かれています。
Note Observation - 22 Feb.6.1954_d0163575_15202638.jpg

2ページ目は、「不定形ガス状星雲の一般論」と題し、オリオン大星雲などの不定形ガス状星雲が光る原因とされた従来の説(星雲中に含まれるネブリウム(Nebulium)と仮に名付けられた未知の元素の作用とする説/1864年~)を退け、自らの観測によりプレアデス星団を包むガス状星雲の光る原因を究明したスライファーの功績(星団の中の恒星が発する光を反射して光っているとする説/1912年)を紹介しています。

3ページ目は、ハッブルが1922年に発見した「星雲の明るさと、星雲を光らせている恒星の間には逆2乗の法則が成り立つ」ことを「エネルギー源恒星の光度と星雲の拡がりとの関係」のタイトルで解説しています。

4ページ目(最終ページ)は、オリオン大星雲についての解説と表紙に描かれたオリオン大星雲の図についての説明です。一部を転記します。

「最近ソビエット連邦のV.G.Fessenkovはオリオン星雲の見とり図を発表した(1ページ参照)。彼の作品は恐らく多くの議論をまきおこし、又非難を受けるかも知れない。見取り図は過去の如何なるそれとも似ていない。

・・・彼はこの図の中に、星々をつなぐ繊糸状の「星鎖」をいくつも描いている。彼はオリオン星雲内に行われつゝある原始恒星の誕生を暗示するのである。・・・比較的無意識に美しさを味はっていたオリオン星雲も、今この新しいロシヤの科学者に依る発表と同時に、一度注意の眼を向けたいと思う。」


Note Observation - 22 Feb.6.1954
Higasiyama Astronomical Observation by H.Yamada
「ORION NEBULA」
25.5×35.5cm用紙を二つ折り/4ページ

ところで、謎の元素ネブリウムはその後どうなったのか。

ウェストン・スライファーによって星雲が発光する理由が解明されても、依然として星雲スペクトル中に現れる輝線の由来(ウィリアム・ニコルソンによって元素ネブリウムの存在が指摘された)は謎のままでした。

・・・が、やがて、ヘンリー・ノリス・ラッセルが発表した「恒星から輻射される強烈な紫外線または電子の流れは、たとえ低温で低密度のガスであっても当たれば輝線を放ち得る」という説を手がかりに、1927年に至ってアメリカの天文学者アイラ・ボーエンにより、正体不明のスペクトル線はイオン化した酸素であることを突き止められ、ネブリウム問題は解決されたのでした、とのことです。
今年もビワが店頭に並ぶ季節になりました。

我が庭先のビワの木もたくさんの実をつけ、次々に食べ頃を迎えています。
この時期、田舎道を行けばあちらこちらの庭先や屋敷の隅などに大量の実をつけたビワの木に出会います。ビワの木は剪定をせずに放って置くとかなりの大きさになるので、遠目には黄色の丸い花がいっせいに咲いているように見えます。

当地は「茂木ビワ」の一大産地長崎に近いこともあって、それぞれの庭先のビワの品種はほとんど「茂木」のようです。
ビワ_d0163575_13531728.jpg

庭先のビワ。
長径4~5センチです。やや小ぶりですが、甘さは店頭ものと比べて引けを取りません。

ビワの原産地は中国の江南地方だそうで、日本列島には非常に古い時代に渡来し、列島西南部の石灰岩地帯などに着生した、とのこと。しかし、この野生種の実は小さく酸味も強いため、ほとんど利用されることはなかったそうです。

果樹として栽培されるようになるのは8世紀ごろからで「正倉院文書」や平安時代の「延喜式」などに記述が見られるものの、依然として利用価値は低く、食用としてはさほど重要視されていなかったように思えます。

・・・が、同じく平安時代の「三代実録」の元慶7(西暦883)年5月3日の条に陽成天皇が宴を催すにあたり、「枇子杷一銀椀を賜う」た、とあるので、饗応に呈するほどのビワもあったのではないでしょうか。あるいは、単なる珍味としてのビワ饗応だったのでしょうか。

現在、店頭に出回っているビワは在来種を改良したものではなく、江戸時代末期(天保~弘化の頃)に中国南部から長崎に伝来した種を茂木村の三浦シオという女性がもらい受け、栽培したことが始まりだそうです。関東南部から中国・四国地方で多く見られる「田中ビワ」はこの茂木ビワの実生から発見されたもので、明治中期から栽培されています。
ビワ_d0163575_1355370.jpg

花が咲いたようにも見えるビワの木ですが、問題は大きくなりすぎること。我が家では毎年5~6本、枝を落としています。

「枇杷黄なり 空はあやめの花曇り」 素堂
# by iruka-boshi | 2011-06-17 13:58 | Comments(0)
かなりインパクトのあるタイトルですが、この地名は実在します。
ただし、湖の名前ではなく、Kintamaniは高原の名前です。

この高原のふもとにバトゥール湖というのがありますので、著者はこの湖を仮にキンタマニー湖と呼んだのでしょう。あるいはこのような別名があるのかもわかりません。

いづれにしてもKintamaniはバリ島の有名な観光地のひとつだそうですので、行かれたことのある方は、大勢いらっしゃることと思います。

著者はこの湖があるバリ島に旧海軍民政部の技師(医官)として2年あまり滞在しています。そのときの体験を綴った表題作のほか、ヤップ島・サイパン島での体験談、日本軍占領直後のアンボン島(モルッカ諸島の一部)白人婦女収容所でのできごと、マーシャル諸島の病院で目にした「アンナ」と書かれた女性の頭蓋骨に纏わる秘話、ジャワ島のボイテンゾルグ植物園(現ボゴール植物園)見学の話などで構成されています。
キンタマニー湖の魔女_d0163575_0582938.jpg

著者は医大卒業後、国内の病院で勤務医として働いていましたが、やがて先輩医師に誘われて南洋庁所属の医官としてヤップ島へ渡ります。渡航した年代は本書のなかには書かれていませんが、著述の前後の文章から昭和10年頃のことと思われます。

当時、南洋群島は日本の委任統治下にあり、サイパン・ヤップ・パラオ・トラック・ポナペ・ヤルート・アンガウルの各官営病院へ医師を派遣していました。

著者はヤップとサイパンに5年ほど滞在し、このとき出会った数々の椿事・珍事件を現地の風習を交えて軽妙洒脱な筆運びで書きとめています。サイパン滞在の時期は書かれていませんが、アメリア・イヤハートの話題が出てきますので、昭和12年頃のことだろうと思います。

盧溝橋事件は昭和12年の7月に起きていますので、著者のサイパン滞在時にはすでに日中戦争に入っていたと思われます。それなのにこの本の内容の脱力的なこと!!。 

一ヶ所のみ、機雷処理失敗による悲惨な出来事が書かれていますが、あとは戦闘場面など一切出てきません。

ひとつには、南洋群島まで戦火が拡大していなかったこと、もうひとつは著者が海軍・陸軍の軍医ではなく、南洋庁所属の医官であったことが挙げられると思います。さらには、意識的に悲惨な話題には触れないようにした、のかも知れません。

マーシャル諸島の病院での「アンナ」の物語は悲惨と言えば悲惨なことに違いありませんが、哀切極まる出来事を情を込めて綴っていますので、読了後、何かしら暖かいものが心に残ります。

後半の「白人婦女収容所」「マダム・マタハリ」「バリ島夜話」「慰安所の生態」等々は、二度目の渡航時のことで今度は海軍民政部の医官の肩書きでした。

このときはすでに太平洋戦争にはいっていたようで、大洋丸撃沈事件に触れた個所があるので昭和17年以降のことを書いたものと思います。

内容は前半のヤップ・サイパン勤務時同様、ちょっと信じがたいほど浮世離れというか、戦時中離れしたものになっています。特に表題作「キンタマニー湖の魔女」は、スリリングな物語展開のなかにユーモアを散りばめて絶妙なバランスで魔女を語っています。


キンタマニー湖の魔女 元海軍民政部技師の記録から
著者:吉田昇平
発行日:昭和38年1月10日 初版
発行所:同盟通信社
装丁:布施信太郎
17.5×11cm/311ページ
アルデバラン食の観測を呼びかける回報で、発行は大阪の電気科学館内に本部を置いた「天文研究会」の観測部です。

よく似た名称に神田茂氏の「日本天文研究会」がありますが、本日の「天文研究会」は、伊達英太郎氏が主宰した「少年天文研究会」がその始まりとなっています。
観測回報/天文研究会_d0163575_2431191.jpg

1929年、「天文同好会(のちの東亜天文協会・東亜天文学会)」の大阪南支部長・伊達英太郎氏は、大阪地方を中心に全国より同好者を募って「少年天文研究会」を組織。

約70名の参加を得て会誌「Milky Way」を発行するなど活発な動きを示していましたが、会結成の2年後に解散、あらためて1931年に「天文研究会」と名称を変えて再発足させています。

同研究会は、1937年に電気科学館が開設されたのち、同館内を本部として活動しているのですが、本日の「観測回報」、発行年が書かれていませんので昭和何年のアルデバラン食かわかりません。

しかし、旧字体で書かれていますので少なくとも戦前であろう、とは推測します。(・・・戦後しばらくは旧字体を用いていたという事例もありますが。)

アルデバラン食は珍しい現象ではないと思いますので、それ自体はさほど気になりませんが、食が起きた年を知ることでこの回報の発行年がわかります。・・・が、発行年を調べるにしても食の回数が多いことですから、ちょっとそこまではその気が起きません。

本日は、こんなこともありました、という程度の単なる紹介です。