「日本平観光天文センター」については、拙ブログにて過去2回取り上げています。

2012年10月3日のhttp://irukaboshi.exblog.jp/16925957/「日本平プラネタリウム No.5」と2014年3月19日のhttp://irukaboshi.exblog.jp/20482378/「富士観日本平センター絵葉書」です。

記述重複を避けて今回は簡単に記しますので、前回、前々回を併せてご覧頂ければ幸いです。

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パンフレットは三つ折りになっていて、広げた時の大きさは25×52.5センチ、畳んだときは25×17.5センチです。発行は昭和35年5月で観光天文センターの開業直後となります。

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おもて面に天文センターの全景と電波塔、それに清水市街地が描かれ、畳んだときの裏面に美保地区と清水港、遠くに富士山が描かれています。駐車場に整列した白と赤に塗り分けられたたくさんのボンネット型バスが往時の賑わいを象徴しているようです。

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裏面の「ステレオ望遠鏡」は、「五藤式ステレオ観光望遠鏡5C型」と思うのですが、ピラーには上下の高さ調節用の円形ハンドルがついていないようですので、あるいは単眼の観光望遠鏡7S型のピラーを流用、もしくは7S型のピラーの派生型を使用しているのかもわかりません。

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パンフを開いたときの内側面です。↑ 左側に「プラネタリューム観覧の図」とその下に「マンモス観光望遠鏡」の写真、中央付近に「観光天文センターに設置されたプラネタリュウム」、その上部に「天文台に設置された天体望遠鏡」が載っています。
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「プラネタリューム観覧の図」のプラネタリウム機材は「ツアイス製」のようですが、機種はよくわかりません。ツアイスⅢ型かな? しかしⅡ型でもあるようだし・・。

観覧の紳士淑女の皆さんは、顔立ちや服装から日本人ではないことは確かです。


天文センターに実際に設置されたプラネタリウム機材は、五藤光学M-1型の2号機ですが、M-1型の観覧風景の写真を採用していないのは、パンフレット制作時にはまだ稼働していなかった、のかもわかりません。五藤光学M-1型は、恒星球が回転軸の中心に近い内側に、惑星投影機が外側につけられた「モリソン型」と呼ばれるものです。

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巨大な観光望遠鏡は、「五藤式マンモス観光望遠鏡6S型」で、パンフの説明によりますと「世界最大の地上用観光望遠鏡で口径30センチ、鏡筒4.7メートル、ヨーロッパのアルプス山麓にある口径24.4センチ、4メートルのものを凌駕」しているとのこと。パンフの絵では屋上に4機設置されているようになっています。

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天文台の6mドームには「五藤光学20cm屈折の1号機」が設置されています。
有効径200mm/焦点距離2400mm/12.5×50mmファインダー/有効径80mmのガイディングスコープ/水晶発振式追尾装置を附属

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五藤式20cm赤道儀 ↑ 「天界」1962年3月号の裏面広告より  『この望遠鏡は現在日本で作られる望遠鏡では最大級のもので、東京国際見本市にも出品され、多大のおほめのおことばをいただきました。』 と書かれています。 パンフレット掲載の写真と比べると細かいところで若干の形状違いがあるようです。


表側の左端は日本平観光天文センターの経営母体である「富士観光株式会社」の取締役社長の石川武義の「御挨拶」です。

このご挨拶のなかで『昭和21年末当地日本平開発の目的で株式会社日本平ホテルとして発足した当社は、爾来10余年間、微力乍ら観光事業の振興に努めて参りましたが、当観光天文センターの建設も、私の観光事業計画の一環として長年にわたる念願の一つでありまして』とあります。


経営者石川武義は、観光ホテル経営をはじめとして旅行業、不動産業、広告宣伝業、保険代理業などを営む多角的行動の経済人でしたが、随筆集「旅と湯女」の著作を持っているところを見るとなかなかの粋人でもあったと推察します。


「御挨拶」に書かれているように集客施設に天文台・プラネタリウムを併設するというアイデアは長年温めてきたもののようですが、この発想はどこから来たものか、併設アイデアの原点というか切っ掛けのようなものがあったのではないかと想像します。


自在に考えを巡らせることができる粋人魂の発露のひとつとは思いますが、もし発想の切っ掛けがあるのであれば、是非とも知りたいところです。



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# by iruka-boshi | 2018-01-20 12:38 | Comments(0)

明けましておめでとうございます。
本年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。

毎年、拙ブログの元日テーマはその年の干支に因んだ星座絵を載せていますので、本年は当然「戌・犬」ですね。

犬の星座は小犬座・大犬座・猟犬座とありますが、今年はりょうけん座の星座絵を載せます。次の戌年には小犬座・大犬座を予定していますが、はたしてその時までこのブログは存続しているのか?

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JAN HEVELIUS 「THE STAR ATLAS」1968年ロシア語版より ↑ りょうけん座


熊(おおぐま座)を追う男(うしかい座)が引きつれる二匹の猟犬の星座で、17世紀のポーランドの天文学者ヨハンネス・ヘヴェリウスが新設した10星座のうちのひとつです。

犬の星座は「小犬座・大犬座・猟犬座」の三つと最初に記しましたが、実はかつて「ケルベルス座」という地獄の番犬を描いた星座がありました。

この「ケルベルス座」もヘヴェリウスの10星座のひとつです。しかし、現行の88星座には含まれず失われた星座となっています。場所はヘルクレス座のヘルクレが左手で持った小枝のあたりです。

さて、りょうけん座の二匹の猟犬のうち、上(北側)の犬は「アステリオン」と名付けられ、下(南側)の犬はカーラまたはカラと名付けられています。

ここでちょっと混乱するのは、りょうけん座のβ星(星座絵の下の方の犬カーラの眼のあたり)の固有名もカーラと呼ばれ、しかも別名がアステリオンということ。

カーラはギリシア語で「かわいいもの、親愛なもの」を意味し、アステリオンは、やはりギリシア語で「星のきらめく」を意味する、とのこと。(出典:星座の神話/原惠著)


りょうけん座の二匹はその特徴的な顔と肢体からグレイハウンドと考えられていますので、J.G.WOOD著/THE ILLUSTRATED NATURAL HISTORY (MAMMALIA)、1880年刊行より4種のグレイハウンドを転載します。

グレイハウンドにはたくさんの種類がありますが、図版を引用した図鑑では6種のみ取り上げられていました。そのうちの4種です。

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 ↑ 左側・グレイハウンド、右側・アイリッシュグレイハウンド


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左側・スコッチグレイハウンド、↑ 右側・ロシアングレイハウンド

グレイハウンドはヨーロッパでは貴族だけが飼うことを許されていたということですが、何ゆえに牧夫が引きつれているのか。

この牧夫は貴族出身だった、あるいは貴族から一時期的預かっているなどと考えられます(?)が、りょうけん座が出現する遙か以前より貴族をも凌駕して神々の領域に座する牧夫としては、グレイハウンドこそ自身に最も相応しい猟犬であると自覚し、我ら凡夫も追認にしくはなく、ヘヴェリウスもグレイハウンドを引きつれることに納得済みだった、ということではないでしょうか(??)。


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# by iruka-boshi | 2018-01-01 17:39 | Comments(0)

12月22日は冬至。

冬至といえば「カボチャ」ということで、本日は豊前地方の特産品「三毛門かぼちゃ」を紹介します。

下の写真は、JR三毛門駅の駅舎前ロータリーに置かれた巨大なカボチャのオブジェです。

実際、「三毛門かぼちゃ」は大きなものでは重さ7kgほどにも成長する巨大品種です。

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2017年8月22日撮影 ↑


三毛門村史(昭和29年)に『天正5年頃(1577年頃)印度カンポチャ国人が当時の城主大友宗麟に種々のものを献上した。その中に南瓜があった。』と記され、『三毛門村の人で緒方氏という土豪が南瓜の種を持ち帰り、三毛門村に撒いたところ土質に適し結実した故試食してみれば甘味きわめて強い、以来適地適作として多く栽培するに至った。』

とあって、これが「三毛門かぼちゃ」の由来。

南瓜(ニホンカボチャ)は中央アメリカが原産地で、日本渡来については諸説あるものの、大友宗麟へ献上された「宗麟南瓜」がその最初のようで、豊後地方で栽培されていた「宗麟南瓜」が豊前の三毛門地区に伝わり福岡県豊前市三毛門で栽培されるようになったものが「三毛門かぼちゃ」とのことです。


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約20年前に設置されたこの看板は、老朽化のためにすでに撤去されています。 ↑ 2017年8月22日撮影

看板には「昭和21年に三毛門南瓜音頭おどりが誕生した」とあり、「緑の畑におへそをだして 生まれたカボチャの赤ちゃんは まるい顔して笑います 三毛門南瓜は可愛いかぼちゃ」とあります。


三毛門かぼちゃを紹介する新しい看板は、三毛門駅前にある三毛門南瓜保存会事務所壁面に説明の内容を充実させて2017年10月18日に設置されています。

毎年春に保存会の皆さんの協力のもと、三毛門小学校の三年生たちが播種し二学期の最初頃に体験収獲を行っています。


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# by iruka-boshi | 2017-12-23 12:11 | Comments(0)
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とりあえず画像のみUPします。
文章はまた後日に。
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# by iruka-boshi | 2017-12-21 19:06 | Comments(0)

宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」にカラスウリが七回登場します。

その最初は放課後の校庭でカンパネルラたちが今夜の星祭りで川へ流す烏瓜を取りに行く相談をしている場面です。


『ジョバンニが学校の門を出るとき、同じ組の七八人は家へ帰らずカンパネルラをまん中にして校庭の隅の桜の木のところに集まっていました。それはこんやの星祭に青いあかりをこしらえて川へ流す烏瓜を取りに行く相談らしかったのです。』(講談社文庫/天沢退二郎編/「銀河鉄道の夜」より)

二回目はジョバンニとそのお母さんとの会話のなかで現れます。カンパネルラの家にいるザウエルという犬が自分になついていて、ずうっと町の角までついてくる。今夜の星祭りでもきっとザウエルはカンパネルラたちについて行くだろう、と話しているなかで烏瓜が登場します。


次は、配達されて来なかった牛乳を受け取りに、町はずれの牛乳屋さんに行く途中、烏瓜を流しに行くザネリとすれ違ったとき。そしてそのあと、同級生たち六七人に出会ったときにもカラスウリが出てきます。

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2017年10月3日 ↑ 撮影

ザネリはいつも冷やかしの言葉をジョバンニに投げつけていますが、今度もジョバンニをからかい、しかもみんなもその言葉のあとに続きます。ジョバンニは逃げるようにその場を離れ、牧場のうしろのゆるい丘の頂上にある「天気輪の柱」に向います。


その途中の小径で烏瓜のあかりを連想するす小さな虫を見つける場面でも登場します。

『草の中には、ぴかぴか青びかりを出す小さな虫もいて、ある葉は青くすかし出され、ジョバンニは、さっきみんなの持って行った烏瓜のあかりのようだとも思いました。』


カラスウリは晩夏から初秋に実をつけ、秋のさかりに朱く熟します。しかしいっせいに熟すのではなく未熟も混在しています。したがって祭りで川に流すカラスウリは未熟のもの熟したものどちらでも可能ですが、文中に「青いひかり」とありますので、やはり未熟の実を使ったものと想像します。

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2017年11月24日 ↑ 撮影

カラスウリはジョバンニとカンパネルラが銀河鉄道の旅に出発するきっかけとなる重要なアイテムですが、その燈明となる形状の詳しい記述はありません。いずれの場面でもさらりとカラスウリの語が現れるのみです。

燈明はそのまま川にながすのか、あるいは小さな舟や筏に乗せるのか、さらにはどのような仕組みで発光しているのか。

ただひとつ分かることは、光はカラスウリの内部そのものから発していること、カラスウリをくり抜いて中にロウソクなどを置いているわけではないことです。

そう考えると筏などに乗せずにそのまま川に流すことのほうが相応しいように思われます。また、宮沢賢治はなぜカラスウリを燈明として設定したのか、と考えると第一にその愛らしい形にあり次に野山でごく普通に見られる身近な存在で親しみを覚えることができる、という点にあったのではないかと推測します。

「素朴」というところを重視し、さらに熟した朱色からの連想で燈明を意識したのではないでしょうか。


「天気輪の柱」のゆるい丘の頂上から銀河鉄道の旅に出発したジョバンニはやがて同じ丘のうえで目を覚まし、カンパネルラとの旅は夢であったことを悟ります。

そして川に降りてゆくジョバンニは、そこで起きた哀しい出来事を知ることになります。このときにもカラスウリが2回登場します。


『その河原の水際に沿ってたくさんのあかりがせわしくのぼったり下ったりしていました。向う岸の暗いどてにも火が七つ八つうごいていました。そのまん中をもう烏瓜のあかりもない川が、わずかに音をたてて灰いろにしずかに流れていたのでした。』

哀しくやるせない結末ですが、ジョバンニはカンパネルラとの旅で「ほんとうの幸福」を求める決心をする。そして新たな旅に出発する(とは書いていないが)清澄感あふれる心の旅路の物語です。


・・・ところで、カラスウリとはまったく関係ないのですが、「銀河鉄道の夜の舞台となったのは山梨県北巨摩郡駒井村(現・韮崎市)」という記事が平成10年3月28日の毎日新聞夕刊に掲載されていますので、この際併せて紹介させて頂きます。

その根拠として宮沢賢治が大正4年(1915年)に入学した盛岡高等農林学校農学科第二部の同級生で同校寄宿舎でも同室だった保阪嘉内が残したハレー彗星のスケッチを挙げています。ハレー彗星の出現は明治43年(1910年)で賢治と嘉内はともに14歳でした。

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スケッチの中央に「銀漢ヲ行ク彗星ハ 夜行列車ノ様ニニテ 遙カ虚空ニ消エニケリ」とあり、左端に「ハーリー彗星之図 五・廿夕八刻」とあります。

明治43年5月20日のハレー彗星のスケッチで、遠くの山々は右から駒岳、地蔵、観音、薬師と書かれています。

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賢治がハレー彗星を見たかどうかはわかりませんが、二人の共通の関心事から推察して嘉内は自分が見たハレー彗星を賢治に話したことがあったと見てよいでしょう。

そのときに「夜行列車のようだった」とのフレーズもあるいは出たかもわかりません。この言葉に刺激されて「銀河鉄道の夜」の執筆に入ったのではないか、という趣旨の記事です。


「銀河鉄道の夜」の舞台は岩手県内だけでも各地に候補があるようですので、山梨県韮崎市でもよいのですが、それにしては「銀河鉄道の夜」に出てくる彗星の単語は一カ所のみ、それも言い間違いのかたちで出てくるのはちょっと不思議です。

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烏瓜 前川千帆・画 ↑ 「月明」第2巻第9号(昭和14年)


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# by iruka-boshi | 2017-12-15 14:09 | Comments(0)