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第二今川橋梁の完成は明治28年(1895)で、この年は現在の平成筑豊鉄道の元始となる「豊州鉄道」の開業の年でもあります。

全長130m、高さ19mのプレートガーダー8連の橋梁ですが、架設当初はドイツのハーコート製ボーストリングプラットトラス形式の鉄橋でした。


しかし、その後増大する輸送量に伴う加重と車輌の重量化に対応するため、強度不足のボーストリング形式に替わって現在のプレートガーダー形式に架け替えられました。

架け替えは昭和元年(1926)で、この時、当初からある赤レンガの橋脚の間にコンクリート橋脚が増設されています。

ボーストリングトラスとは、橋の上部構造物が弓(bow)のように放物線を描く形式で、明治期の九州の鉄道路線の多くで採用されています。

このことは、九州初の鉄道路線を開通させた「九州鉄道会社」が顧問技師として1887年(明治20年)にドイツから招聘したヘルマン・ルムシェッテルの指示あるいは影響によるもので、「九州鉄道会社」の路線工事の影響下にあった「豊州鉄道」も例外ではありませんでした。

ちなみに行橋~田川伊田の間の橋梁は架設当初はすべてドイツのハーコート製で、なかでも第二今川橋梁は支間62.37mという長大さで当時の九州では最長であり、またボーストリング型としても最長を誇っていました。(支間62.37mは「土木史研究 第12号 1992年6月」によります。)

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画面左側、崎山駅方面/右側、源じいの森駅方面 ↑ 今川峡谷に架かる全長130mのプレートガーダー橋梁
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源じいの森駅側の橋脚  ↑  画面右側、源じいの森駅方面
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高さ19m  ↑  画面奥、源じいの森駅方面
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画面左側、源じいの森駅方面  ↑  橋脚台は1辺が約1m60cmから2m超の不等辺五角形
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笠石の下は三段に石組みされていますが、いちばん下の石は草と土に覆われて少し見える程度です。
この下にも石組みが成されていると思いますがよくわかりません。
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源じいの森駅側の橋台  ↑
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レンガ橋脚  ↑  画面奥/崎山駅方面
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↑  コンクリート橋脚
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崎山駅側の「架違い橋脚」  ↑
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撤去された木製枕木が橋の近くに数ヶ所に分けて集められています。
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平成30年2月25日撮影  ↑  旧型車両塗装の412号
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平成30年3月11日撮影  ↑  へいちく公式LINEスタンプ 411号


この第二今川橋梁は国鉄時代からよく知られた撮影地で、橋を俯瞰する峠道の脇に、鉄道ファンの手になると思われる手作りの時刻表が設置されていました。 昭和40年代のことです。


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リーターズダイジェストはアメリカの総合家庭雑誌で、1922年の創刊です。世界中に非常に多くの読者を有し、英語版にとどまらず各地の言語に対応した版を持ち、さらにデジタル版、点字版、音声版なども発行する巨大出版社です。  日本語版の創刊は1946年6月ですが1986年2月に休刊となっています。


本日の「星によみがえる家名 イケヤ彗星の発見」の著者テリー・レッサー・モリス(1914年-1993年)は、アメリカのフリージャーナリストで、さまざまな雑誌に寄稿するかたわら歴史、スポーツ、社会問題などに材を取ったノンフィクションや小説を発表しています。

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画像の最下段に小さく「レッドブックより要約」と印刷 ↑ されていますが、この「レッドブック」とは1903年5月にシカゴで創刊された家庭実用雑誌です。

「レッドブック」の創刊当初の記事は、有名作家の短編小説や芸能情報、ファッション情報などで占められていましたが、やがて社会問題や道徳に関する記事を主とする編集方針に切り替えられ、対象読者を既婚女性あるいは若い女性とし、さまざまな困難に立ち向かう女性の姿や知的成長を志向する女性についての話を掲載する総合雑誌となって行きます。

成功談や生き方の指針となる記事を掲載するという編集方針は、リーターズダイジェスト誌の方針とも合致していることにより、レッドブック誌の記事をリーターズダイジェスト誌に転載したものと思われます。

リーターズダイジェスト掲載の「イケヤ彗星の発見」は要約となっていますが、1967年に「The boy who redeemed his father's name; Kaoru Ikeya.」のタイトルでレッドブックマガジン社から出版されています。

「redeemed」は「取り戻す」という意味で使っていると思いますが、このままでは良くわからないタイトルになっています。邦題の「星によみがえる家名」も文章を読んで初めて納得するタイトルではないでしょうか。

記事内容を大雑把にいうと家庭の不和を克服し、母親の愛情に支えられて自身の夢であり目標である新彗星発見に挑み続ける少年、ということで、リーターズダイジェストの編集方針に完全に当てはまる成長・成功物語です。

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もちろん記事内容は事実に即していて、日々の彗星捜索風景や池谷薫氏にとって最初の彗星となる「1963a イケヤ彗星」発見時の様子がドラマティックに描かれています。
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池谷氏といえば最初に思い浮かぶことは「イケヤ・セキ彗星」と思いますが、この世紀の大彗星発見物語ではなく、池谷氏発見の最初の彗星「1963a」を取り上げたところに著者テリー・モリスのジャーナリストとしての卓見が表れていると言ってよいと思います。


さて、その「1963a」の発見事情は「天界第453号 1963年2月号」に池谷氏本人の手になる記事が掲載されていて、それによると彗星捜索は1961年の8月頃に始めたが、計画的に捜索するようになったのは1962年1月2日からで、この日を起点として「1963a」発見までについやした時間は135.5時間、捜索回数は109回にのぼる、とのこと。


使用望遠鏡は自作の21cmF6.7の反射望遠鏡、1963年1月3日午前5時05分、南東の空低く海蛇座π星の近くに光度約12等級の新彗星を発見。


天界記事は「発見事情」だけではなく自作望遠鏡についても記されていますが、望遠鏡自作の経緯や発見に至るまでの葛藤はリーターズダイジェスト誌により詳しく書かれ、さらに第2イケヤ彗星1964f、イケヤ・セキ彗星1965fについても書かれていますので、機会があればぜひ「リーターズダイジェスト」の一読をお奨めします。(天界の1963a記事は1963年3月号にも掲載されています。)


1963aは発見後徐々に明るさを増し1月5日の倉敷天文台の本田氏の観測で光度10等級、1月8日関勉氏の観測で9等級、1月22日・24日両日の明石市立天文科学館の菅野氏の観測で8等級となっています。しかし増光とは裏腹に1963aは日ごとに南下して地平線に近づき、2月初旬には日本からは見えなくなってしまいました。

・・・が、2月18日頃に再び北上、今度は夕方の南天に姿を現した1963aは光度4等級に達していました。

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SKY AND TELESCOPE 1963 APRIL ↑ 2月25日 カリフォルニア州フレイジャー山にて撮影 7インチ反射鏡使用 光度3.5等
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大マゼラン星雲と小マゼラン星雲の間を行くイケヤ彗星 ↑ 2月15日 オーストラリア・ニューサウスウェールズ州ナラブリにて撮影 キャノン35mmカメラ使用 ( これと同一の写真が「天文と気象1963年9月号/地人書館」に載っています。)
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↑ ページの上の写真、2月18日 一時間露出のイケヤ彗星の軌跡 光度約4等  下の写真、2月23日 ニューメキシコにて撮影 右側、2月26日撮影 光度3.5等

ニューメキシコでの観測によると2月18日光度4.2等/20日光度3.7等/21日3.9等/24~26日3.6等、とのこと。

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SKY AND TELESCOPE 1963 MAY ↑ 3月13日撮影 彗星の頭部の左側の星は魚座α星で光度4等、尾はくじら座γ星に達しています。 ブロニカ6×6判50mmレンズ使用

右側の写真、3月13日撮影 7インチ・フッカー鏡使用 カリフォルニア州ロス・パドレスにて撮影

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左端から、3月13日光度4.3等 3月14日 3月19日光度4.4等 3月20日のイケヤ彗星 7インチ・フッカー鏡使用 カリフォルニア州ロス・パドレスにて撮影 3月26日の観測で光度4.6等

彗星はこの後徐々に暗くなり、4月中旬6等級、5月初旬7等級、5月下旬には光度9等級となっています。

余談ですが、池谷氏は当時19歳で、これは史上最年少の新彗星発見記録となっています。(5年後にアメリカのマーク・ホイテッカー(16歳)に記録を破られています。)


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