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カテゴリ:いろんな本( 59 )

宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」にカラスウリが七回登場します。

その最初は放課後の校庭でカンパネルラたちが今夜の星祭りで川へ流す烏瓜を取りに行く相談をしている場面です。


『ジョバンニが学校の門を出るとき、同じ組の七八人は家へ帰らずカンパネルラをまん中にして校庭の隅の桜の木のところに集まっていました。それはこんやの星祭に青いあかりをこしらえて川へ流す烏瓜を取りに行く相談らしかったのです。』(講談社文庫/天沢退二郎編/「銀河鉄道の夜」より)

二回目はジョバンニとそのお母さんとの会話のなかで現れます。カンパネルラの家にいるザウエルという犬が自分になついていて、ずうっと町の角までついてくる。今夜の星祭りでもきっとザウエルはカンパネルラたちについて行くだろう、と話しているなかで烏瓜が登場します。


次は、配達されて来なかった牛乳を受け取りに、町はずれの牛乳屋さんに行く途中、烏瓜を流しに行くザネリとすれ違ったとき。そしてそのあと、同級生たち六七人に出会ったときにもカラスウリが出てきます。

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2017年10月3日 ↑ 撮影

ザネリはいつも冷やかしの言葉をジョバンニに投げつけていますが、今度もジョバンニをからかい、しかもみんなもその言葉のあとに続きます。ジョバンニは逃げるようにその場を離れ、牧場のうしろのゆるい丘の頂上にある「天気輪の柱」に向います。


その途中の小径で烏瓜のあかりを連想する小さな虫を見つける場面でも登場します。

『草の中には、ぴかぴか青びかりを出す小さな虫もいて、ある葉は青くすかし出され、ジョバンニは、さっきみんなの持って行った烏瓜のあかりのようだとも思いました。』


カラスウリは晩夏から初秋に実をつけ、秋のさかりに朱く熟します。しかしいっせいに熟すのではなく未熟も混在しています。したがって祭りで川に流すカラスウリは未熟のもの熟したものどちらでも可能ですが、文中に「青いひかり」とありますので、やはり未熟の実を使ったものと想像します。

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2017年11月24日 ↑ 撮影

カラスウリはジョバンニとカンパネルラが銀河鉄道の旅に出発するきっかけとなる重要なアイテムですが、その燈明となる形状の詳しい記述はありません。いずれの場面でもさらりとカラスウリの語が現れるのみです。

燈明はそのまま川にながすのか、あるいは小さな舟や筏に乗せるのか、さらにはどのような仕組みで発光しているのか。

ただひとつ分かることは、光はカラスウリの内部そのものから発していること、カラスウリをくり抜いて中にロウソクなどを置いているわけではないことです。

そう考えると筏などに乗せずにそのまま川に流すことのほうが相応しいように思われます。また、宮沢賢治はなぜカラスウリを燈明として設定したのか、と考えると第一にその愛らしい形にあり次に野山でごく普通に見られる身近な存在で親しみを覚えることができる、という点にあったのではないかと推測します。

「素朴」というところを重視し、さらに熟した朱色からの連想で燈明を意識したのではないでしょうか。


「天気輪の柱」のゆるい丘の頂上から銀河鉄道の旅に出発したジョバンニはやがて同じ丘のうえで目を覚まし、カンパネルラとの旅は夢であったことを悟ります。

そして川に降りてゆくジョバンニは、そこで起きた哀しい出来事を知ることになります。このときにもカラスウリが2回登場します。


『その河原の水際に沿ってたくさんのあかりがせわしくのぼったり下ったりしていました。向う岸の暗いどてにも火が七つ八つうごいていました。そのまん中をもう烏瓜のあかりもない川が、わずかに音をたてて灰いろにしずかに流れていたのでした。』

哀しくやるせない結末ですが、ジョバンニはカンパネルラとの旅で「ほんとうの幸福」を求める決心をする。そして新たな旅に出発する(とは書いていないが)清澄感あふれる心の旅路の物語です。


・・・ところで、カラスウリとはまったく関係ないのですが、「銀河鉄道の夜の舞台となったのは山梨県北巨摩郡駒井村(現・韮崎市)」という記事が平成10年3月28日の毎日新聞夕刊に掲載されていますので、この際併せて紹介させて頂きます。

その根拠として宮沢賢治が大正4年(1915年)に入学した盛岡高等農林学校農学科第二部の同級生で同校寄宿舎でも同室だった保阪嘉内が残したハレー彗星のスケッチを挙げています。ハレー彗星の出現は明治43年(1910年)で賢治と嘉内はともに14歳でした。

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スケッチの中央に「銀漢ヲ行ク彗星ハ 夜行列車ノ様ニニテ 遙カ虚空ニ消エニケリ」とあり、左端に「ハーリー彗星之図 五・廿夕八刻」とあります。

明治43年5月20日のハレー彗星のスケッチで、遠くの山々は右から駒岳、地蔵、観音、薬師と書かれています。

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賢治がハレー彗星を見たかどうかはわかりませんが、二人の共通の関心事から推察して嘉内は自分が見たハレー彗星を賢治に話したことがあったと見てよいでしょう。

そのときに「夜行列車のようだった」とのフレーズもあるいは出たかもわかりません。この言葉に刺激されて「銀河鉄道の夜」の執筆に入ったのではないか、という趣旨の記事です。


「銀河鉄道の夜」の舞台は岩手県内だけでも各地に候補があるようですので、山梨県韮崎市でもよいのですが、それにしては「銀河鉄道の夜」に出てくる彗星の単語は一カ所のみ、それも言い間違いのかたちで出てくるのはちょっと不思議です。

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烏瓜 前川千帆・画 ↑ 「月明」第2巻第9号(昭和14年)


「反省叢書」とは何とも即物的な名称ですが、第二輯まで出ているようです。第二輯のタイトルは「美しい日本への道―反省と発足」で著者はドイツ文学者の高橋健二氏。

第二輯は未見ですので詳しい内容はわかりませんが、タイトルどおりの内容なのでしょう。
対して本書は「反省叢書」とは言うものの反省よりも日本人の欠点指摘の書の様相です。

もちろん「反省」はしていますので、航空工学者である著者なりの反省方法と思います。

著者は、戦時中、さまざまな機会を通じて国民の機械類に対する知識不足や製造技術の未熟から来る工業製品の劣悪さに警鐘を鳴らしています。

この場合、工業製品とは航空機ですが、その完成品の品質の悪さは目を覆うばかりで、これでは今次の大戦の完遂は困難であり敗戦は必定、と説き続けていました。

しかし、彼の苦言なり提言は無視され、あるいは冷笑され、さらには官憲に拘引されるということさえありました。

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著者の富塚清は、日本の航空エンジン研究の第一人者で、東京帝国大学工学部機械工学科を大正6年(1917年)に卒業しています。

卒業後は東京帝大の付属属機関である航空研究所の嘱託となり、のちに東京帝大助教授、航空研所員を経て昭和7年(1932)に東京帝大航空学科の教授に就任しました。

教授となった富塚はやがて航空学科の改革に取り組みます。それまではトップダウンの意志決定方式を合議制に変更して教授間の意思疎通を密にし、数学的理論中心の教育方針から機械の取扱い方を重視するなどの体験的教育へ移行させ、学生が実社会に出たときに高い能力を発揮できるような教育プログラムを確立し実施して行きました。

この改革の主旨は、のちに戦時中、富塚が講演会や著述を通して人々に強く訴えてきたことである「機械についての知識を得、取扱いに熟達する」「製造や組み立ての技術向上を目指す」「品質管理を徹底させる」に通じるものがあります。


本書は中国大陸のどこかに居るはずの終戦後もまだ帰国を果たしていない我が息子に語る、という形式で書かれています。

その為、辛辣な表現で日本人の機械に対しての考え方、あるいは科学に対しての考え方を痛罵しているものの「我が子に語り聞かせているので、まあいいじゃないか」という雰囲気を出しています。

特に冒頭部分の10ページほどは著者の忠告・提言を全く聞き入れようとしなかった人々を痛烈に批判し、「そーれ見たことか」とさえ書いていますが、ここにはユーモアさえ感じられます。

著者は航空機生産現場の事情だけでなく、造船や電気工学、食糧生産方法まで言及していますが、本書に一貫して語られていることは、「幼少時期からの科学教育の重要さ」で、特に幼児期は家庭に居ることが多く、お母さんとの触れあいがいちばん多いのであるから、お母さん(あるいは主婦)が科学意識を持つことが肝要である、と述べて家庭内の日常的科学知識の大切さを海外の事例を紹介して強調しています。

本書はわずか31ページの小冊子ながら、示唆に富む事柄は多く、紹介記事を書いていると際限なく続きそうなので、最後に「見出し」(目次はありません)と文章の一部を転記してこの稿を終わります。


○ 終戦の大詔を拝して/一言居士といふ勿れ/神秘的な証明/神がかりな精神論者/科学なき国とは/科学技術者の素質/科学的能力の相違/航空機生産の楽屋/船や電気はどうか/数的観念の不透明/食糧問題を例にとれば/家庭の問題/基盤なき科学/科学教育の水準/詰込み教育/より高いものを求めよ


『一番いけないのは、科学を生活の中の異物と考えることさ。むこうの人は、科学の中でのびのびと生きているんだ。科学なき生活を人間の生活だと思わないという方が当たっているか。科学を呼吸して生きていると云ってもいい。』

『高き文化だ、大切なのはね。いくら縄張りをひろめたようでも、その国力に副う文化を背後に用意することを怠れば、いかなる目にあうかは、お前等にも身にしみて判った筈だ。』

『科学精神のそもそものもとは、「より高いものを求めるの心」だ。文化の基調の精神さ。日本の敗れのいちばんの大本は、ここの不足にあるんだ。科学々々といったって、僕等は、この「より高いものを求めるの心」の涵養をだよ、第一義的に考えているんだ。これをうまく身につければ、「敗れたり」なんて言葉とは縁切りになる。』



● わが科学敗れたり 反省叢書第一輯

著者: 富塚清
印刷: 昭和二十年十一月一日
発行: 昭和二十年十一月五日
発行者: 中野勝義
印刷者: 南澤幸男
印刷所: 信濃毎日新聞社
発行所: 大日本飛行協会
配給元: 日本出版配給統制株式会社
出版会承認 え五五〇一二二
定価: 六十銭/13×18センチ/31ページ


なお、この稿の冒頭に反省叢書は第二輯まで、と書きましたが、二輯以降も出ているのかもわかりません。未確認です。
(2017年4月19日・21日の続きです)

松下紀久雄はスマトラでの取材旅行中、ボルネオ報道班への転属を命じられています。

スマトラの取材旅行からシンガポールへ戻った松下紀久雄は、取材で得たスケッチを「昭南日報」へ寄稿した後、ボルネオのクチンへと向かいます。

本書の「ボルネオの一夜」によると、クチン到着は「前田閣下」の葬儀の2~3日前ということで、昭和17年10月中旬~下旬にはすでにボルネオでの取材活動に入っていたものと推測されます。

前田閣下とは、前田利為(まえだ としなり)ボルネオ守備軍司令官のことで、昭和17年9月5日にボルネオ沖で搭乗機が消息を絶ち、のちに機の残骸と遺体が発見され葬儀が執り行われています。

著者のクチン入りはその葬儀の数日前であったため、葬儀参列に各地から参集した士官・下士官・名士でクチンの町は溢れ、宿を取ることに難儀した、とのこと。

『南を見てくれ』の第3章「ボルネオ」は、11のエピソードに説明付きの31点のイラストとヤギ・サル・ワニ・コウモリなどを描いた説明なしの9点のカットで構成されています。


記事タイトルは次のとおり。

ボルネオの一夜/サラワツクの歴史/久鎮の町/サラワツク川/イカンタマコ/樹間のコーヒー店/ボルネオの子/農民指導/兵隊さんの先生/クチンウヰスキー/海ダイヤ族


サラワツクはボルネオ島の西側の現マレーシア領サラワク州でクチンはその州都、イカンタマコとは空気呼吸が可能で陸上を移動することができる「歩く魚」のことで「キノボリウオ」のことだろうと思いますが、ものの本によると空気呼吸はできるが木に登ることはない、とあるものの、著者は木に登っているのを見たと書いています。
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日の丸を付けた船が行き交う「サラワツク川」 ↑

「兵隊さんの先生」は、ボルネオでも日本語教育がさかんで、学校では子どもたちが熱心に日本語を学んでいるという話、「ボルネオの子」のなかにも日本語教育の成果がさりげなく出てきます。

この「ボルネオの章」に限らず「シンガポールの章」「スマトラの章」の各エピソードに日本語教育とその成果が頻出します。

日本語教育が占領軍の重要施策で宣伝班の主要な任務であったことがよくわかると思います。

『南を見てくれ』の記事とイラストは、現地の風俗・住居・街角の様子・子どもたち・市場風景・遭遇した出来事などに始終し、戦闘場面などの軍事的なものは一切出てきません。
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クチン港町 ↑

これは著者の現地入りがシンガポール陥落後であり、従軍記者のように最前線取材ではなかったことと関連するものと思いますが、日本軍占領後の現地は安定しているということを伝えたいがための意図的編集に加え、著者の好みというか好奇心による記事内容とイラストレーションの選択が行われた結果ではないかと推測します。

また、政治・軍事的風刺画も現地新聞に寄稿したものと想像しますが、これらは『南を見てくれ』には1点登場するのみです。その1点についても「イギリスの国旗が描かれた旅行カバンを担いで葉巻を咥えたチャーチルが旅に出る」というもので、イギリス軍の降伏を描いているのでしょうが、敵意剥き出しで描かれているわけではありません。

敗者を侮蔑的に描こうと思えばどのようにも描けたでしょうがそうしなかった、少なくとも本書には掲載しなかったということは、著者のプロパガンダに対する考え方ないしは性格が表れているように思われると同時に、本書を「東南アジア紀行画文集」に仕立てたかった、という意図を感じさせられます。
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家には一軒一軒小さな橋がかかっている ↑ 右側のイラストは、「サラを食べるこども」 サラというのは色も白いし日本の甘酒のような物で、一杯サトセン(一銭)、の説明付き

第4章は「報道漫画について 序と編輯後記にかへて」で、3ページに亘って報道漫画を含む宣伝活動の重要性とその意義が述べられています。

その中から一部を転記してこの稿を終わります。

『・・・・、報道漫画の條件としては、その作家の深い観察から来る現実性であって、抽象的な理論や、自己の主観から来るものではなく、あくまで戦争遂行上の国家目的と同目標でなくてはならないと思ふ。』

報道班員の任務上、そのとおりなのですが、本書に限っては南方の珍しい光景を集めた画文集の趣きです。



『南を見てくれ』

著者: 松下起久雄(注・奥付の印刷のまま)
印刷: 昭和十九年八月十五日
発行: 昭和十九年八月廿日 第一刷
定価: 六圓
特別行為税相当額: 五十銭
売価: 六圓五十銭
出版会承認イ180100
2000部発行(3000部と印刷した上に2000部の紙片を貼付している)
15×21cm/204ページ

発行者: 松川健文
整版者: 光村原色版印刷所
印刷者: 光村原色版印刷所
発行所: 新紀元社
配給元: 日本出版配給株式会社

なお、「報道漫画について 序と編輯後記にかへて」の文章末尾の日付は昭和十九年六月で、「松下紀久雄」とあり、その肩書きは「建設漫画会」です。

また、この稿を書くにあたって「戦時下の古本探訪 こんな本があった」 ↓ 櫻本富雄著/インパクト出版会発行/1997年 を参考にさせて頂きました。
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(2017年4月19日の続きです)

『南を見てくれ』の4つの章のうち第2章の「スマトラ」は、「昭南島」と「ボルネオ」の章の倍の100ページを割いて、36のエピソードに53点のイラストが添えられています。

イラストの数は「昭南島」の2倍、「ボルネオ」の3倍あります。1942年の9月に行われたと推定されるスマトラ島の取材旅行が、著者にとって如何に印象深いものだったか窺われます。

イラスト53点のうち、「南洋の中央市場 セントラル・パサル」「日本語進駐」「牛のカバラとタイプの音」「スマトラの子供」「砂糖より高い塩が出来る」の記事に添えられた5点は、「昭南日報」の連載記事「明朗なスマトラ新生譜(1942年10月16日から10月21日まで5回掲載)」に付されたイラストの再録です。

イラストの多くは住居や人物・風俗、市場の様子、旅行中の印象的な出来事、印象深い風景などです。旅行参加者は、「陣中新聞」の佐々木六郎上等兵、「昭南画報社」の菅野カメラマン、「昭南日報」の外勤部長・葉勤生、マライ紙編集次長アブドラカメル、それに松下紀久雄とマライ人の運転手の総勢6人です。

「陣中新聞」というのは、占領地で軍政を敷いた陸軍第25軍司令部新聞班が発行した日本将兵向けの「陣中新聞『建設戦』」のことです。

スマトラ島滞在中、取材旅行は2回行われています。

第1回目は、スマトラ島北部を巡る旅で、スマトラ島東北部の最大都市メダンを拠点に、海岸線沿いに北上し商都「ロークスマウェ」を経て「ビルン」に至り、さらに内陸部の「タケゴン」へと進んでいます。途中、アチェ州の漁村パンテラジヤ、シンパンバレツク温泉、シグリ、コタラジヤなどで休息・食事・取材を行っています。

取材といっても本書の記事内容を見るかぎり、「見学」に近いかたちの気が向くままの旅のようです。ただし、さまざまな危険を伴う旅行だったようで、決して気楽な旅ではなかったことと思います。
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ガヨ族の婦人たち ↑

2回目は、メダン→プラパット→バリゲ→シボロンボロン→シピロック→コタノパン→デイコック→パダン→メダンで、メダンより南側の内陸と西海岸の取材旅行でした。1回目、2回目ともに20日間程度の旅行だったようです。

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「三銭のコーヒーと一圓の定食」の挿絵 ↑ 左側のイラストは「アチェの漁村」。 ヤシの木陰で筆者たちに敬礼する少年が描かれています。

 文章なしでイラストのみのページが結構あります。『南を見てくれ』のサブタイトルが「南方画信」であることがよくわかります。

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「ガヨ族のアパート生活」の挿絵 ↑ このイラストは、「昭南日報」に掲載されたイラストの再録、とのこと。
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「スマトラは牛が多過ぎる」より ↑ 空かんを叩き、クラクションを鳴らしても動こうとしない牛たち。  右から二人目の人物は首からカメラを提げていますので「菅野カメラマン」なのでしょう。

(続きます)
シンガポールは1942年2月15日の陥落から1945年9月12日の在シンガポール日本軍降伏までの約3年半、日本の占領下にありました。

この間、占領地の住民に対する宣伝宣撫・日本国内向けの報道・現地日本軍将兵への啓蒙及び慰問・対敵宣伝などを目的として、作家・画家・新聞記者・雑誌記者・編集者・映画関係者・放送関係者・印刷関係者・演劇関係者等々が徴用され、シンガポールをはじめとしてスマトラ・ボルネオ・ジャワなどの占領地各地でいわゆる「文化工作」が行われました。

『南を見てくれ』の著者「松下紀久雄」も徴用されて現地での「文化工作」に従事した人物のひとりで、同じく徴用された横山隆一や近藤日出造、麻生豊、清水崑、小野佐世男らと同様に漫画家でイラストレーターでした。
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南方戦線・占領地における文化政策やプロパガンダの「文化工作」従事者の徴用・派遣は1941年10月に始まっていますが、松下紀久雄の徴用時期ははっきりしていないようです。

しかし、1942年5月に現地華字紙「昭南日報」に彼が描いたイラストが掲載されていますので、この頃にはすでにシンガポールで活動していたと考えられています。

彼のシンガポールでの活動拠点は、日本軍が接収したロビンソン・ロード45-49号の南洋商報社(昭南画報社)で、陸軍企画部宣伝班の美術部に所属して、華字紙「昭南日報」や英字紙「昭南タイムス(THE SYONAN TIMES)」に漫画(イラストレーション)を提供していました。

『南を見てくれ』は、「昭南島」「スマトラ」「ボルネオ」「報道漫画について」の4章から成り、それぞれの土地で見聞きしたこと、経験したことを合計69のエピソードで綴り、全124点のイラストレーションを添えています。イラストは記事内容に沿ったものもあれば、記事とは関係なく現地で彼の印象に残ったと思われる風俗・人物・建物などが取り上げられています。

「昭南島」の章では17のエピソードに31点のイラストが添えられています。記事タイトルは次のとおり。


昭南島の日本語学校/神保学校/特別市立中央病院/マライの増産/チャーチル市場/ユビーとケダモノ/昭南神社/新世界/バタの臭みから味噌汁の味へ/新聞売り/南進通りオーチャード・ロード/印度人の番人/昭南島の劇場/昭南島人種展/華僑の街/税金納入済/華僑の子供


いずれも日本軍政下でのシンガポールの繁栄・日本人への親しみなどが語られ、物資の豊富さや治安のよさ、日本語教育の成果などが強調されています。

しかし実際は必ずしも現地社会が安定していたわけでなく、抗日華僑グルーブの存在や闇市の横行、金融の崩壊など多くの問題を抱えていました。

・・・が、これらには全く触れられていません。これは著者が自身の考えで意図的にスルーしたものか、軍部による指導によるものなのか判断は付きませんが、これこそ文章とイラストによるプロパガンダそのものなのでしょう。

「文化工作」の重要な仕事のひとつに「現地の人に対する日本語教育」がありましたが、『南を見てくれ』においても日本語学習熱の高まりとその成果が各エピソードの随所で見受けられます。

「昭南島の日本語学校」に添えられたイラスト ↓ 『南を見てくれ』にはたくさんの子どもと女性の姿が登場します。
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宣伝班が運営していた日本語学校は、詩人の神保光太郎を園長とする「昭南日本学園」とその付設の「昭南児童園」がありました。

学校では日本語学習に加えて、日本の皇国思想の移殖が試みられたことはいうまでもありません。

「神保学校」の挿絵 ↓ 
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「神保学校」に添えられたイラストは、「Syonan Times」の連載記事「昭南島建設」のイラストの再録です。
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「バタの臭みから味噌汁の味へ」の挿絵 ↑

タイトルの意味するところは、洋風の街並みや生活様式が日本風になってきた、ということでイラストの「ハイストリート」も日本人向きの食堂や商店が軒をならべているとのこと。

街角のインド人風の交通巡査は背中に交通指示機を背負い、日の丸の腕章をつけています。洋車(チャー)と呼ばれる人力車が重要な交通手段となっています。


(2017年4月21日に続きます)
(2017年2月10日の続きです)

「富士山頂」は全22章で構成され、そのうち第1章から19章までは雑誌連載時のもの。20章~22章は連載終了後に書き加えられたものである、とのこと。また、連載終了後に著者は野中到との面会の機会を得、『構成にさしつかへない程度の訂正を加へた(作者記)』ということです。

「富士山頂」の刊行が敗戦直後の昭和23年であったことは、「高嶺の雪」の刊行時と同様の現象を世間にもたらしたようで、佐伯清の監督で映画化(昭和23年6月公開)され、戦争とそれに続く敗戦で疲弊した人々を勇気づけたようです。 また、昭和42年にも山下秀雄の監督で再度映画化されました。 

野中夫妻の山頂滞在を題材にした小説で最もよく知られているのは、新田次郎の「芙蓉の人」であろうと思いますが、こちらも幾度となくテレビドラマ化されています。

いつの時代であっても二人の壮挙とお互いの信頼・愛情は人々の胸を打つものと思われます。

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「富士山頂」挿絵 ↑ 曾宮一念 画

橋本英吉は、野中到を剛直廉潔で不撓不屈の精神を持った人物として描いています。文章中、ある意味で非情とも思えるほどの描写もあります。

しかし、岡田武松(第4代中央気象台長)は「続測候琑談」に「野中到翁」と題して次のようなエピソードを披瀝しています。

昭和8年8月、野中到は令嬢の恭子嬢を伴って例年の如く富士山頂の中央気象台観測所に滞在していたときのこと、明治28年に建設した野中観測所の跡地に風力鉄塔を建設することについてさまざまなアドバイスを行っていた野中のところへ観光客を率いた強力が近づいてきて、明治期の野中の偉業の説明を始めた。

一通り説明を終えた強力は近くにいた野中到に向って、『野中さんはモウトウに死んだでしょうな』と尋ねた。するとその当人が『モウとうに死んで仕舞った』と真面目くさって答えたと言う。

もちろん怒って答えたのではなくジョークとして発した言葉なのですが、士族の家に生まれ、明治男子として育った到ではあっても剛直だけではなく、このような一面もあった、というお話し。


さて、「富士と水銀」と「富士山頂」の作者「橋本英吉」のこと。

明治31年、福岡県築上郡吉富村、現・吉富町幸子(こうじ)に橋本周右衛門の次男として誕生。本名は「亀吉」。明治37年、父の死去に伴ない叔母の縁戚の白石家の養子となり、のちに入籍して「白石亀吉」となっています。

大正2年、高等小学校卒業後、郵便局職員となるが翌年三井田川鑛業所に転職、伊田鑛の支柱夫を8年間ほど勤め、25歳(大正11年)で上京。 大正13年、博文館印刷(後の共同印刷)のモノタイプ工となり、この頃より新聞懸賞小説に応募するようになって行き、大正15年11月、川端康成や横光利一が中心メンバーとなる「文藝時代」に「炭脈の昼」を発表し、実質的な作家デビューを果たします。


それ以後、プロレタリア文学誌「文藝戦線」やプロレタリア作家同盟の機関紙「戦旗」、前衛芸術家同盟の機関紙「前衛」、あるいは「文藝春秋」「中央公論」「改造」「文学評論」「文学界」等々、多くの雑誌に鉱山労働、農村生活、労働争議などの作品を次々に発表します。

一般的に橋本英吉はプロレタリア作家と位置付けされていますが、昭和15年に「富士」、翌年に「寵児の生涯」「天平」を発表した頃より歴史小説も手掛けるようになり、作品の幅が広がって行きます。
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「富士山頂」裏表紙 ↑ 曾宮一念 画

プロレタリア作家のイメージのみを強調すると「富士山頂」は橋本英吉としては少し異色の存在です。歴史小説でもありません。しかし、過去の歴史的偉業を取り上げ、従来の考えを打破するように行動する主人公の姿を描いたこの作品は、橋本英吉の数々のプロレタリア文学作品に一脈通じるものがあるようにも思われます。
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「富士と水銀」が掲載された「文藝春秋」の目次  (挿絵は「川端龍子」) ↑ 左端の橋本英吉に並んで「横光利一」が見えるのは偶然にしても、何か因縁めいたものを感じます。

橋本英吉は29歳の頃に横光利一と出会って以来、さまざまな形で庇護を受け、一時的ではあるものの横光の紹介で文藝春秋社に席を置いたこともありました。

橋本英吉の作風は新感覚派の雄の一人である横光利一の影響を受けていると云われています。

このことを考えると、橋本英吉は昭和初期の文学界の二大潮流のひとつであるプロレタリア文学の優れた代表者のひとりであると同時に、もうひとつの潮流である新感覚派の感性をも併せ持った、まぎれもなく昭和初年から10年代を代表する作家だった、と言えるのではないでしょうか。


○ 高嶺の雪/落合直文著
明治29年9月12日印刷
明治29年9月25日発行
発行所 明治書院/定価弐拾五銭

○ 文藝春秋 第21巻第1号/「富士と水銀」を掲載
昭和17年12月20日印刷納本
昭和18年1月1日発行
発行所 文藝春秋社/定価五十銭

○ 富士山頂/橋本英吉著
昭和23年3月10日初版印刷
昭和23年3月15日初版発行
昭和23年6月30日再版発行
発行所 鎌倉文庫/定価九拾円
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○ 芙蓉の人/新田次郎著(文春文庫版)
1975年5月25日 第1刷
1990年6月5日 第24刷
発行所 文藝春秋/定価360円(本体350円)
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○ 富士案内 芙蓉日記/野中至 野中千代子著(平凡社ライブラリー563)
2006年1月11日 初版第1刷
発行所 平凡社/定価1300円(税別)

なお、野中夫妻を描いた作品は上記のほかに、「芙蓉の人」の著者あとがきによると「小説と詩と評論」の第24号(昭和40年9月)に「白い標柱/石一郎著」があるとのことです。
富士山頂での本格的な気象観測は、東京帝国大学の物理教師トマス・メンデンホールによって明治13年に行われた気圧・気温・湿度などの測定を嚆矢とします。

メンデンホールは明治11年から明治14年まで東京帝国大学理学部で講師を務め、この間、明治12年からは理学部観象台の気象部門の観測主任となって気象観測にも従事しています。

明治13年の富士山頂気象観測の際は、理学部第一期生の田中館愛橘や隈本有尚、内務省地理局測量課の中村精男(のちに第3代中央気象台長就任)らを伴っており、気象観測だけではなく重力測定、天体観測、測量などを実施しています。山頂での実際の気象観測は、理学部星学科の隈本有尚が担当したとのこと。

また、明治20年には内務省地理局雇いのドイツ人技師エルヴィン・クニッピングが富士山頂を形成する八つのピークのひとつ「久須志岳」直下の須走口で中央気象台の正戸豹之助とともに気象観測を行っています。クニッピングは明治16年に日本で初めて天気図を作成し気象予報を行ったことでも知られています。

その後、明治22年に久須志岳の石室(石積みの小屋)で行われた中村精男らによる観測を経て、明治28年から富士山頂(久須志岳)での定期的な気象観測が始まることになります。

しかし、これらの観測はすべて夏の一時期だけに限られており、冬季を含む観測は皆無でした。さらには高層の気象観測の重要性は認識されつつもその観測はおろか厳冬期の富士山頂は危険すぎて未だ登頂を試みた者はいない、と言うのが当時の状況でした。

そのようななか、頂上での越冬気象観測を企図した人物がいました。橋本英吉の小説「富士と水銀」及び「富士山頂」は、無謀とも思える冬季の富士山頂での越冬気象観測を敢行した野中到・千代子夫妻の苦闘の物語です。

明治28年1月3日、野中到は冬季の富士山頂の状況確認のため御殿場から登山を開始。 その日は太郎坊の小屋で仮眠を取り、翌4日午前3時30分に小屋を出発、そして午前9時20分に五合目に到着。 しかしここで堅氷に打ち込むために持参した長柄の鳶口の柄が根元から折れ、さらに滑り止めの靴底の釘も曲がったことにより登山を断念。

この経験をもとに装備品の改良を重ねた野中は、同年2月15日から翌日にかけて再び頂上登攀を試み、強風と厳寒のなか16日正午過ぎに頂上の「銀明水」附近に達し、冬季登山が可能であることを立証しました。 

越冬観測の成功を確信した野中は、その年の夏から秋にかけて富士山頂のピークのひとつ「剣ヶ峰」に6坪ほどの観測小屋を建設し、同年10月1日より気象観測を開始します。

小説「富士と水銀」は、この観測小屋の建設場面から始まります。小屋建設地の地ならしと小屋を囲む石垣積みを任されていた石工たちは、強風と厳寒下の重労働で極度に疲弊し、工事の中断を野中に申し入れします。 

しかし工事を急ぐ野中は頑として聞き入れず続行を主張。 石工たちの再三の申し入れにも拘らず工事中断を拒否していた野中でしたが、石工棟梁の直言にはさすがに言葉をつなぐことが出来ませんでした。
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「富士と水銀」は、昭和18年発行の「文藝春秋 新年号(第21巻第1号)」 ↑ に掲載された小説ですが、それ以前に野中夫妻の偉業を書き記した著作があります。
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「富士と水銀」 ↑

観測開始から82日目の12月21日、野中到は激烈な環境下で昼夜の区別なく2時間おきに1日12回の観測、という過酷な仕事で体調を壊し、死に至る一歩手前の状態に陥ります。

そして10月12日より到とともに観測に従事した千代子も到と同様に重篤の状態下にあり、二人の救出は一刻を争うまでの状況に進展。

支援者たちの懸命により辛うじて生還したその翌年、明治29年9月25日に明治書院から夫妻の艱難辛苦と壮挙を記した「高嶺の雪」が発行されます。著者は国文学者で歌人の落合直文です。 

この「高嶺の雪」が「富士と水銀」に先駆する厳冬期富士山頂滞在をテーマとした最初の小説となっています。

「高嶺の雪」は、野中到が明治27年11月発刊の気象集誌(大日本気象学会の機関誌)に寄稿した「富士山頂気象観測所設立のために、敢て大方の志士に告ぐ」を始めとして同じく気象集誌掲載の「富士山頂寒中滞在概況」「富士山観測所気象器械」等からの転載、あるいは救出直後の明治29年1月7日から同年2月1日まで「報知新聞」に17回連載された千代子の山頂滞在手記「芙蓉日記」からの引用などがページの多くに割かれています。それゆえ、この「高嶺の雪」は、小説・文芸作品というよりは記録文学といったほうが良いかもわかりません。

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国立国会図書館デジタルコレクションより「高嶺の雪」 ↑ ↓ 同じく、「高嶺の雪」の口絵写真 野中夫妻と富士山頂 野中観測所
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「高嶺の雪」が発刊された明治29年9月は、日清戦争終結(明治28年3月)による高揚感とその後の三国干渉(明治28年4月勧告)による挫折感と憤懣から国威発揚の気運が高まっていた時期であり、越冬観測は中断されたものの夫妻の壮挙は国民の大きな歓心を得、石塚正治は戯曲「野中至」を書き、伊井蓉峰は市村座で「野中至氏不二山剣ヶ峰測候所の場」を上演。 

千代子夫人の「芙蓉日記(明治32年「少国民第11年14号に掲載)」や「芙蓉和歌集」も出版されるなどの熱狂に包まれます。「高嶺の雪」も版を重ねたことは言うまでりません。

しかし、やがてこの壮挙は地元関係者と一部の気象関係者のみに記憶される過去の一部となって行きます。

再び野中夫妻の挙行が注目されるのは、昭和23年3月に鎌倉文庫より橋本英吉著「富士山頂」が上梓されてからのことになります。
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「富士山頂」の装幀・口絵・挿絵は、曾宮一念  ↑

「富士山頂」に先立って発表された「富士と水銀」は、過酷な石積み作業の場面から始まります。そしていくつかのエピソードを挟んで事業完遂の困難さや自然の猛威が語られ、衰弱してもなお下山を拒否する夫妻の説得と決死の救出場面で最終章を迎えています。

これらの場面のひとつひとつは非常に興味深く面白い読み物となっていますが、雑誌掲載という執筆上の制約があったのでしょうエピソード展開に少しもの足りなさを感じます。


その点は「富士山頂」のあとがきの「作者記」に、『この作品は伝記ではなく、小説でありますから、事実の取捨選択は小説らしく、かなり自由にしました。』とあるように事実の仔細には拘らず小説全体を大きく三つないし四つの場面に分け、各場面に物語のピークを持って来て書かれた単行本「富士山頂」で解決されていると言えます。

それぞれのピークは、小屋建設とそれに至るまでの困難、頂上滞在観測の過酷、衰弱の過程、救出の厳しさ、などで、これらの場面は大きく感動を呼び、深く小説内に引き込まれます。(「富士山頂」は発表時は雑誌「人間」に連載されています。また「測候時報」にも山頂滞在観測の記事があるとのこと)

(2017年2月12日へ続きます。)
(2016年2月8日の続きです)

明治32年に「神代帝都考 全」を上梓した挟間翁は、上申書を添えてこの著作を宮内省に献本しています。

しかし、すでに明治7年に当時の教部省によって神代三山陵が鹿児島県に治定されていることに加え、 万世一系・神聖不可侵の天皇を中心とした国家体制を執り、神道の国教化を推し進める明治政府の一官庁としては、国体論に結びつきかねない「神代帝都考」の記述を受け入れることは到底不可能なことでした。

ちなみに明治7年治定の神代三山陵(ニニギノミコト、ヒコホホデミノミコト、ウガヤフキアエズノミコトの陵墓)は次のとおりです。

ニニギノミコト 可愛山陵(えのやまのみささぎ)/鹿児島県薩摩川内市宮内町新田神社境内の神亀山
ヒコホホデミノミコト(ホオリノミコト) 高屋山上陵(たかやのやまのえのみささぎ)/鹿児島県霧島市溝辺町神在りの岡
ウガヤフキアエズノミコト 吾平山上陵(あいらのやまのえのみささぎ)/鹿児島県鹿屋市吾平町上名 鵜戸山の「鵜戸窟」内の2つの塚

いずれも鹿児島県内に治定され、宮崎県が主張する御陵は退けられています。これは、明治政府の要人に旧薩摩藩出身者が多く、彼らの意向が働いたという事が通説になっています。

これに対し「神代帝都考」の神代三山陵は、

ニニギノミコト/延永村大字長木オオクビ谷(行橋市長木/隣接地に「二塚」の地名があり、挟間翁は一方をニニギノミコトの御陵とし、片方を妃カムアタツヒメの御陵に因むもの、としています。)
ヒコホホデミノミコト/小波瀬村大字上片島字中之岩屋(苅田町上片島)
ウガヤフキアエズノミコト/苅田村大字提字丸山(苅田町提)

となっています。

さて、宮内省に献本したものの適当にあしらわれた感を持った翁はさらに調査考究し、12年の歳月を掛けて明治44年に「増補訂正 神代帝都考」を脱稿するに至ります。
「増補訂正 神代帝都考」は和綴本6冊で、「神代帝都考 全」の1冊に比べてはるかに多くの神蹟地考証が記されています。

しかしながら、この大部の論考は刊行されることはありませんでした。「増補訂正 神代帝都考」脱稿の年の12月26日に挟間畏三翁は70年の生涯を閉じています。
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「増補訂正 神代帝都考 草案」 ↑ 1993年10月、挟間畏三翁の曾孫「挟間章和氏」(小倉南区)より、苅田町立図書館へ寄贈 現在、同図書館にて「神代帝都考 全」、挟間家系図・その他資料とともに展示公開されています。


「増補訂正 神代帝都考」の脱稿後、30年ほどの時を経て翁の長男挟間延年氏は、『評釈伊勢物語大成/代々木書院 1931』や『国語時相の研究/中文館書店 1933』など多くの著作を持つ国文学者の新井無二郎氏を訪ね、「増補訂正 神代帝都考」の校閲を依頼しています。

新井無二郎氏は、増補訂正の草稿を通読してその考証精緻に感動し、後に「増補訂正 神代帝都考」に触発されたと思われる『神都高天原考/平凡社 1941』を刊行してその著作の中で挟間翁と「神代帝都考」を称賛しています。

増補訂正の脱稿後、長い間世間一般に知られることのなかった翁の遺稿ですが、昭和39年に挟間翁の孫「挟間章雄(ふみお)氏」によって活字化されています。
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「神代帝都考」 ↑ 明治32年刊行の「神代帝都考 全」と「増補訂正 神代帝都考」の合本となっています。

「全」にしても「増補訂正」にしてもその記述内容を一言でいうと「神代の帝都は九州北東部、なかでも中心を成すのは豊前・豊後地方である」に尽きます。

これを論証するにあたって記紀を始めとする古典・中世・近世の文献約65点に加え、多数の神社・仏閣の縁起、郡村誌を参考にし、引用しています。

この厖大な引用文及び現存地名考証と現地調査を持って「それぞれのミコトの神跡地はここである」と述べていますので、今この拙ブログの数行で書き表すことは不可能です。

「神代帝都考」で比定した神跡地の現住所をここに羅列しても、なぜそのようになるのかは原本をお読み頂けなければ理解できない、と考えるからです。

しかし、原本及び昭和39年の合本は、ともに漢文混じりの旧仮名遣いで少々読み難い感があります。

そこで、非常に解りやすい解説書『「神代帝都考」解説』(昭和40年及び増訂再版・昭和46年、友石孝之著)がありますので、この著作と併読することをお勧めします。

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顕彰碑設立記念 挟間畏三先生著 「神代帝都考」解説 ↑

昭和四十年十月十日印刷
昭和四十年十月十五日発行
著作者 福岡県行橋市南本町二八一三 友石孝之
発行所 福岡県行橋市南本町二八一三 美夜古文化懇話会
印刷所 北九州市小倉区高田町二丁目 豊国印刷社
限定 五〇〇 頒価三五〇円
19cm×13cm/91ページ/ハードカバー 「古墳時代の墳墓遺蹟図(定村責二作成)」1枚/顕彰碑設立経過報告及び碑文 3ページ

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増訂再版 挟間畏三先生著 「神代帝都考」解説 ↑

昭和四十五年十二月十日印刷
昭和四十六年一月十五日発行
著作者 福岡県行橋市南本町二、八一三 友石孝之
発行所 福岡県行橋市南本町二、八一三 美夜古文化懇話会
印刷所 北九州市小倉区高田町二丁目 三陽印刷社
限定 五〇〇
18cm×12.7cm/93ページ/ソフトカバー 「古墳時代の墳墓遺蹟図(定村責二作成)」1枚/狭間畏三先生碑建設経過報告 95~96ページ
挟間先生をしのぶ座談会 97~107ページ(美夜古文化 第十七号より転載)
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『神代帝都考 全』

明治32年8月16日印刷
明治32年8月19日発行
著作者兼発行者 挟間畏三 福岡県豊前国京都郡小波瀬村二百四十二番地
印刷者 島連太郎 東京市神田区美土代町二丁目一番地
印刷所 三光社 東京市神田区美土代町二丁目一番地
発売所 東京堂 東京市神田区表神保町三番地
定価 金五拾銭
神代帝都考序 青萍 末松謙澄
端文 乃楽舎 岡吉胤
緒言 編者謹識
彩色附図1 神代帝都全図/彩色附図2 天孫降臨以後神蹟図/彩色附図3 阿邪訶比良夫貝之図
巻末広告 徴古新論 一名神達哲学 全三冊 大教正岡吉胤著/題字 久我従一位副島伯爵・東久世従二位福羽子爵
和綴じ本70丁+3頁/15.5×23cm

●序文の青萍末松謙澄は挟間畏三と私塾「水哉園」の同門、後輩/「神代帝都考 全」の刊行時は第3次伊藤内閣で逓信大臣(明治31年)を務め、のちに第4次伊藤内閣の内務大臣(明治33年)となる。/安政2年8月20日(1855年9月30日)生、大正9年10月5日没

●端文の岡吉胤は、旧肥前佐賀藩士、国学者、神職/維新後に神祇官となる。伊勢神宮の禰宜を務めたのち皇祖教をおこし管長となった。/天保4年(1833)10月28日生、明治40年7月13日没

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『神代帝都考 全』の巻末に岡吉胤の著書「徴古新論」の広告が掲載されています。 ↑
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『神代帝都考 (神代帝都考全と増補訂正神代帝都考の合本)』

昭和39年2月20日印刷
昭和39年3月1日発行
発行者 挟間章雄 北九州市小倉区堺町116番地
印刷所 株式会社天地堂印刷製本所 北九州市小倉区大手町
331ページ+あとがき1ページ+写真ページ他4ページ+附図3枚/函付き/非売品/15.5×22cm

●増補訂正神代帝都考の序 新井無二郎/山口県吉敷郡下郷村生まれの国学者、小学校教員をへて明治32年國學院国文科卒業、山口中学校教師、明治学院講師、慶應義塾大学講師、駒澤大学教授等を歴任/明治8年9月11日生、昭和32年7月11日没/序の日付は昭和17年7月。

●あとがき 医学博士挟間章雄/挟間畏三の長女「養」の四男、産婦人科医/明治29年2月11日生、昭和44年5月8日没

●新井無二郎に校閲を依頼した挟間延年は、挟間畏三の長男/明治5年6月9日生、昭和28年5月1日没(姉2人「ヨウ」「セツ」と妹1人「レキ」)
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『挟間畏三(古八郎是之)』 京都郡延永手永大庄屋/福岡県県会議員

●天保13年(1842)6月15日、京都郡新津手永大庄屋「挟間次郎左衛門宗矩(次郎蔵)」と妻「琴女」の長男として誕生。幼名豊一 (8人兄弟、姉1人、弟4人、妹2人)

●嘉永6年(1853)2月10日、京都郡上稗田の村上仏山の私塾「水哉園」に入門、のちに豊後日田の広瀬淡窓の私塾「咸宜園」に入門

●明治2年前後、仲津郡花熊村の中原雪と結婚/長女「養」、二女「セツ」、長男「延年」、三女「レキ」

●明治28年、「神代帝都考」の執筆開始/明治32年8月19日、「神代帝都考」発刊

●明治44年、「増補訂正 神代帝都考」稿本6冊を脱稿/この年12月26日没

●昭和39年3月、挟間章雄、「神代帝都考」合本を刊行

●昭和40年3月、挟間畏三顕彰碑設立準備会開催/7月、地鎮祭執行/10月16日除幕式

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挟間畏三顕彰碑 ↑ 顕彰碑の裏手の林のなかに挟間畏三翁及び挟間家の墓所があります。
(2016年1月14日の続きです)

松本清張の推理小説「鴎外の婢」に挟間翁の「神代帝都考」が登場し、物語展開に重要な役割を演じていることを拙ブログの「鴎外の婢 松本清張著/2011年2月18日」「(その2)/2011年2月26日」「(その3)/2011年4月3日」及び「(その4)/2011年4月19日」に書きましたので、ここでは重複を避けますが「鴎外の婢」の中に藤田良祐著の「北九州の古代国家」からの引用がありますので少し長くなりますが転記します。

『近畿地方に成立した古代王朝の全身が、その東遷以前に、北九州の部族連合体であったことは、三世紀半に編纂された三国史東夷伝倭人の条の記事を見ても明らかである。(中略)記紀には人名にも地名にもトヨの字が多く出てくるが、魏志倭人伝の「台与」がその音を写したものとすれば、後代に「豊」の漢字をあてはめた地名は北九州にずっと以前からあったものとみなければならない。

ツクシが奈良朝期にできた九州の広い呼び名で、豊の国がその中の狭い地域の呼び名であったことから、豊のほうが古い名であり、大化後の行政区画である豊前豊後のうち、豊前がその原体である。それも豊前平野を占める京都郡(旧仲津郡を含む)が中心であったことは、従来史家のいずれも認めるところである。(後略)』

記紀に多出する「トヨ」と北九州との係りを述べたくだりですが、実は著者の藤田良祐もその著書「北九州の古代国家」も「鴎外の婢」の中だけに存在する架空の著者・著書です。松本清張はかなりのページ数を割いて「北九州の古代国家」の内容と小説中の人物・藤田良祐の歴史解説を記していますが、これは取りも直さず清張自身の歴史認識と解して良いと思われます。
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「鴎外の婢」 ↑ 光文社/昭和56年4月1日34版発行(昭和45年4月30日初版)/カッパ・ノベルス新書版/カバーイラスト生頼範義

「神代帝都考」では「トヨ」と挟間翁の主張する帝都の場所との関係を「第1篇 国号考」から説いています。

多くの別名を持つ日本の国号のうち、神代以降の国号を除いたいくつかの国号、例えば「豊瑞穂国」「豊葦原瑞穂国」「豊葦原中津国」「豊葦原千五百秋瑞穂国」「筑紫国」「浦安国」「磯輪上秀真国(しわかみほつまのくに)」「細戈千足国(くはしほこちたりのくに)」などがいずれも「豊の国」を指していることを「豊前古城記」に載る「祝詞」や「神代秘要抄」の中の「豊前風土記」の文章、あるいは「神別本紀」の一節を挙げて詳細に記しています。

また、記紀に云う「筑紫日向」が九州(筑紫)のなかの日向国(宮崎県)ではなく、「筑紫」とは「豊の国」そのものであることを、日本書紀景行紀、安閑紀、仲哀紀、雄略紀、継体紀、旧事紀本紀、古事記神武東征の条の記事などを挙げて論証し、「筑紫」が九州全体を示すようになるのは後の世のこととしています。

さらに、「日向国(宮崎県~鹿児島県)」の名は景行天皇の治世に名づけられたものであり、神代にあるはずはなく、「日向」とは「日向国」のことではなく文字通り「向陽」の義で皇居の近傍の地をいう美称としています。

「神代帝都考」は苅田町高城山(高千穂峯)からカルスト台地平尾台一帯をイザナギ・イザナミ二神に因む「イサヤマ」としていますが、そのイサヤマの南端(平尾台の最南端)に「竜ケ鼻」と呼ばれる山塊があります。

下の画像の左最奥の「へ」の字の形の山です。この「竜ケ鼻」の麓にイサヤマの名を遺す「諌山村」、現みやこ町勝山諌山(いさやま)があります。また、諌山地区には「宮原」の地名を始めとして神跡地を示す地名がいくつか残されている、としています。 ↓
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苅田町上片島より撮影 中央を流れる川は小波瀬川です。

「竜ケ鼻」の「竜」もそうですが、豊前地方には「ヒコホホデミノミコト(山幸彦)」の妃「トヨタマヒメ」の神話に仏教説話が入り込んだ結果と思われる「竜」の字がつく地名が散在しています。

「竜ケ鼻」から続く画面右側の大きな山塊のピーク付近は「桶の辻」と呼ばれています。 ↑ この山の中腹あたりに「トヨタマヒメ伝説」が仏教説話化されたと見られる名称の鍾乳洞「青竜窟」があります。

「桶の辻」の地名は天照大神の岩戸隠れの際、アメノウズメノミコトが岩戸の前で伏せた桶を踏み鳴らしたという神話に因むもの、としています。「神代帝都考 全」では平尾台は古名の「広野(ひろの)」で出てきますが(現在でも古老は平尾台を広野と呼ぶ)、広野はカルスト台地ゆえ、鍾乳洞やドリーネなどの特有の地形を持っています。

狭間翁はこの鍾乳洞を黄泉の国への入り口と考え、鍾乳洞の奥の坂道を古事記に云う「黄泉比良坂(よもつひらさか)」に比定しています。「神代帝都考 全」に鍾乳洞の形状を詳しく述べていて、これはどうやら平尾台はもとより、日本国内では非常に珍しい竪穴の鍾乳洞「牡鹿洞」を指しているようです。

入口から洞底まで垂直に約30m、洞底から奥へ奥へと緩やかな坂道が続いていて、いかにも「黄泉比良坂」のイメージがあり、千仏鍾乳洞や羊群原と並んで平尾台観光の人気スポットとなっています。

「神代帝都考 全」を刊行した明治32年の翌年、翁は当時、陸軍第12師団の軍医部長として小倉に赴任していた森鴎外を訪ねています。

このことは、鴎外の「小倉日記」の明治33年4月22日に『挟間畏三来り訪ふ。隆準(りゅうせつ)秀眉の美丈夫にして、年四十五六なるべし。 かつて神代帝都考を著したるものなり。』と書かれています。しかし、翁が携えたであろう「神代帝都考 全」の内容なり感想については一切触れていません。

これは挟間翁の鴎外宅訪問に先立つ明治33年2月4日に翁と私塾「水哉園」で同門だった杉山貞の来訪を受けた際の日記に、杉山貞の言葉として『昔日同門の士にして、その少しく漢籍を読みしを知るのみ。はからざりき、にわかに神代帝都考を著すことあらんとは』と記して「神代帝都考」に批判的な杉山に同意したとも思われる記述を残していることに通ずるものがあります。

ここのところは、松本清張が「鴎外の婢」のなかで『著者は豊前国京都郡のひとである。郷土愛から歴史を歪め、わが住む地方に牽強付会する例は珍しくないから、この著者もそうした郷土史家の一人であろう』と「鴎外の婢」の主人公・浜村に語らせている場面や『郷土の中に天孫降臨の地や皇孫四代の皇居跡をおさめるために無理な解釈や語呂合わせが行われている。』と語る場面に見られるように(主人公・浜村の考えは著者・松本清張の考えでもある)、鴎外も同様の気持ちだったのではないでしょうか。

・・・、とは言え清張は、『ある意味の郷土愛から出たものだが、当時のことで、方法的に稚拙であったのはまぬがれない。今では考古学や比較神話学などの近接学問がよほど進み、また、発掘によって遺物の蒐集が豊富になっているので、古代の京都郡に新しい照射ができるようになった。先覚者挟間畏三翁が今日であれば、大きな感慨にふけられることであろう。』と小説中の架空の書「北九州古代国家論」に書きとめています。

「北九州古代国家論」の著者藤田良祐は、清張の分身ともいえる立場で、藤田の考えは清張の考えでもあって、清張は「神代帝都考」を全面否定するのではなく、地名考証の方法に問題があったものの、旧来の天孫降臨神話に一石を投じた「神代帝都考」の上梓を評価し、先覚者としての挟間畏三に敬意を表しつつ、「鴎外の婢」のストーリー展開に重要な役目を負わせて登場させています。
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平尾台から高城山塊へ/右端の山は大平山で、高城山・諌山はこの山に隠れて写っていません。

画面中央の山間に「神御子(こみこ)」という名の地があります。挟間翁は、ここは黄泉の国から逃げ帰ったイザナギノミコトが禊払いした時に生まれた「アマテラスオオミカミ」「ツクヨミノミコト」「スサノオノミコト」の三貴子の成長の地としています。

続きます。
(2015年12月24日の続きです)

天孫ニニギノミコトが日向の高千穂に天降る場面は「釈日本紀」が引用する「日向風土記」に次のようにあります。

『日向の国の風土記に曰く、臼杵の郡の内、知鋪の郷。天津彦々火瓊瓊杵尊、天の磐座を離れ、天の八重雲をおしわけて、稜威(いつ)の道別きて、日向の高千穂の二上の峯に天降りましき。』

また、「日本書紀」では『皇孫、すなわち天磐座を離ち、また天八重雲を押し分けて、稜威の道別に道別きて、日向の襲の高千穂峯に天降ります。すでにして皇孫の遊行すかたちは、槵日(くしひ)の二上の天浮橋より、浮渚(うきじま)り平らに立たして、・・・』、とあります。「稜威(いつ)」とは神聖なこと、神(天皇・天子)の威光のことです。

ここに出てくる「二上の峯」について挟間翁は『この山は二峯並立して大小高低形状共に相ひとしきを以ってその特徴を取りて二上峯と名づけ、且つこの山脈、槵生峯(くしおみね→高城山(高千穂峯)のこと)より分岐したるを持って槵日二上峯と称せしなるべし。そして天孫行宮の跡は二上峯の下にあり。今これを「天ケ谷」と称す。』と記しています。

高千穂峯(高城山)の別名「槵生峯」とは、頂上に「天の逆鉾」に擬せられた巨岩があり、この巨岩があたかも地中より生えているかのように見えることから来ています。
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苅田町小波瀬より見た高城山(高千穂峰)の南東に位置する二つのピークを持った山。 ↑ 左方は高城山・大久保山です。

挟間翁はこの山を「二上山」に比定したものと思われます。下の画像は「二上山」付近の地形図です。画面上部に標高419と書かれた高城山、その右下に標高406の諌山、中央の十字の印あたりは大久保山です。画面の苅田町と書かれた文字の上に316と数字が入ったあたりが、「二上山」です。 ↓
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さて、ニニギノミコトは「天ケ谷」を仮の宮としたのち、領地巡遊を開始します。

最初にニニギノミコトの叔母であり「天ケ谷」の行宮の守護神でもある宗像三女神の宮処の「浮渚(うきじま)」を訪れます。浮渚は「宇佐島」とも云い、挟間翁は苅田町の東部沖合いに位置する「神ノ島」をその地に比定しています。比定理由は「増補訂正 神代帝都考」に縷々述べられていますが、ここでは割合します。

次にミコトは「膂宍空国(そししのむなくに)」に向います。「膂」は「背」のことで、背中まわりの肉は薄く、しかも背骨に沿って長い。したがって挟間翁は「背肉」のように細く長く続く地形を持つ地域「小倉南区曽根、吉田、門司区吉志、猿喰、柄杓田、白野江」などの北九州東部海岸地域を「膂宍空国(そししのむなくに)」に比定しています。

この地域は足立山、戸ノ上山、風師山などが西から迫り、東側は周防灘の海岸線が間近く細長い地形です。

ミコトが「天ケ谷」の行宮を発幸したのちの道順は、日本書紀に『膂宍の空国を、頓丘(ひたお)から国まぎとおりて、吾田の長屋の笠沙の岬に到ります』とあります。

挟間翁は、この「頓丘(ひたお)」を筑前国鞍手郡頓野村としています。ミコトの最終到着地は「吾田の長屋の笠沙の岬」で、ここでオオヤマツミノカミの娘・カムアタツヒメ、別名コノハナノサクヤビメに出会います。

日本書紀の順路は、膂宍の空国→頓丘→笠沙の岬、と一直線ですが、「増補訂正 神代帝都考」では各地の地名、地形、神社所在地、祭神、古文献、口碑などから詳細に巡見行路を記しています。

北九州東部の「膂宍空国」に入ったのち、城野村蜷田→三萩野字道原→中谷村山本→鏡ケ池→西谷村大字道原→頓丘(頓野村)→頓野村感田→雲取山→頓野村通り谷→高取山→田川郡上野村→添田村井原→安真木村安宅と続きます。

こののちは、嘉穂郡・夜須郡・朝倉郡を巡遊しますが、すべて転記するとかなり煩雑になるので省略し、再び田川郡に入ったところから転記します。

田川郡方城村伊方→福知山→西谷村頂吉→来歴(きべ)峠→採銅所村→西谷村道原→京都郡諌山村矢山→諌山村宮原(宮原と黒田村箕田にまたがって「吾田津原」という地名があり、挟間翁はこの地をニニギノミコトの妃カムアタツヒメの父オオヤマツミノカミの居処としています)

諌山村から黒田村を通り、延永村長木(現・行橋市長木)に至ったときミコトは『朝日の直刺す国、夕日の日照る国ぞ。かれ、ここはいと吉き地(古事記)』として、この地に宮居を定めた、と挟間翁は説きます。

長木(おさぎ)は「長が来た」であり、隣接地の行橋市吉国の地名も「いと吉き地」にちなみ、同じく隣接の「延永(ひたふる/現在地名は「のぶなが」)、「二塚」も宮居にちなんでいる、としています。

記紀では「笠沙の岬」に至ったとありますが、翁は「笠沙の岬が見える所に至った」とし、「笠沙の岬」を豊前京都郡苅田村大字尾倉字加世田に比定しています。
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行橋市長木より高城山塊を見る ↑ 右側が高城山塊、左側の山並みはカルスト台地平尾台です。「神代帝都考」では高城山塊から平尾台一帯を「イサヤマ」としています。

画面中央やや左側のピークが ↓ 高城山419メートル、その右の緩やかなピークは諌山405.9メートル、続くなだらかな山並みは大久保山389.6メートル、右端は大平山332メートル。
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高城山の左側の谷間付近に「京都峠」があります。挟間翁によると諌山(いさやま)はイザナギ・イザナミの二神にちなむもの、大久保山の「くぼ」は神跡地に多い地名、とのこと。(苅田町白川より撮影)

つづきます。