カテゴリ:星の本・資料/星空( 188 )

本日は中秋の名月だそうですが、秋雨前線と台風24号の影響があるのか当地では朝から小雨模様です。月の観望は絶望的です。ちなみに満月は明日25日の11時52分とのこと。

・・・で、替わりに月と兎とススキの図を掲げます。

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みやこ町勝山黒田の「黒田神社」の天井絵 ↑ 山田義昌(霍眠)画/明治20年頃の制作と考えられています。霍眠52才の頃の作です。

月の欠けた向きから察するに、霍眠は正しく秋の明け方の東の空を描写しているようです。
実際に登る月を観察して描いたのか、それとも構図の関係でこの向きになったのか。


『その夜は早速、二百倍という私にとっては夢のような高倍率で火星をのぞきました。その瞬間、アッと喜びの声をあげました。ごらんなさい、まっ暗な大空を背景として、ポッカリ浮き出ている赤い火星の顔には、実にあざやかに、しかも非常に黒っぽい、大きな模様が極冠から中央にかけて、まるで夢のように浮きぼりにされているではありませんか/(火星の模様-佐伯恒夫)』


上記文章は、「出版ダイジェスト昭和46年5月11日発行第684号」の「特集:天文-先輩たちの観測記」から一部を転記したものです。 しかし、より正確には「恒星社刊・佐伯恒夫著「火星とその観測」昭和27年・33年(改訂版)・43年・52年改訂増補版」からの抜粋です。

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「出版ダイジェスト」はその名称のとおり、紹介したい書籍の主要部分抜粋とオリジナル記事からなる月3回発行の新聞です。 上記引用の第684号「特集:天文」の掲載記事は、「東洋美術のなかの星-野尻抱影/天文ファン-村山定男/彗星観測ノート-関勉/変光星遍歴-下保茂/天の壁画集(スズキ星座図譜・フラムスチード天球図譜)/その他」となっています。

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佐伯恒夫氏(1916-1996)の初めての火星観測は1933年だった、とのことで、この年は2年2か月ごとに地球に接近する火星のいわゆる「小接近」の年でした。

この時の火星は前年の晩秋に獅子座に入った後、徐々に地球に接近しながら獅子座レグルス付近を移動しています。最接近は1933年3月3日です。

つまり、観測好機は冬の間だったわけで、佐伯氏も自作の8センチ反射望遠鏡を使って「寒い冬の夜」に幾夜も観測を続けた、と引用文の前文に記しています。

最接近時の火星の光度はマイナス1等、視直径約14秒、距離は約約1億キロでした。

15年乃至17年ごとに火星が近づく「大接近」時の視直径は約25秒、距離は約5700万キロですので、「大接近」と比べると観測条件はかなり悪いのですが、それでも観測のチャンスであることにかわりなく、上記抜粋文は、火星の模様を初めて見た佐伯氏の驚きと喜びがこちら側にも素直に伝わってくる文章となっています。佐伯氏、17才前後の出来事です。



さて、その大接近の件、今年(2018年)は15年ぶりとなる大接近の年です。 最接近は7月31日ですでに過ぎていますが、まだまだ見やすい位置にあります。

太陽が沈んで星々が見え始めたころ、南東の中天あたりでまっさきに輝く赤い星が火星です。まわりに明るい星が他にありませんので、すぐに見つけられることと思います。


前回の大接近(2003年)は、5576万キロメートルまで接近したのに対し、今回2018年は5761万キロメートルまでで若干の差がありますが、小望遠鏡でも濃い模様などは確認出来ることでしょう。


・・・ということで、本日は過去の火星接近時の写真を使った天文誌の表紙をUPしてみました。


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天文月報 1954年1月号  ↑  南アフリカ・ラモントハッセイ天文台撮影、27インチ屈折望遠鏡使用 撮影日不明
1954年は大接近の年だったわけではありませんが、7月2日に6399万キロまで接近しています。

翌々年の1956年が大接近年で、9月7日に5655万キロまで接近していますので、1954年は準大接近だった、とでも呼んでいいのではないでしょうか。


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天文月報 1971年10月号  ↑  東京天文台(三鷹)撮影、38センチ屈折望遠鏡使用 撮影日は1971年8月8日
上方に白く南極冠が光り、中央に「アリンの爪」や「大シルチス」が見えています。最接近は8月12日で5620万キロまで接近。


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天文ガイド 1969年9月号  ↑  東京天文台(堂平)撮影、91センチ反射望遠鏡使用 撮影日は1969年5月3日
1969年6月9日に7173万キロまで接近していますが、この年は小接近で、翌々年の1971年が大接近であり、最接近日の8月12日と距離は上記のとおり。


次は写真ではなくスケッチですが、同じく1971年の大接近時のものです。

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惑星ガイドブック1 月惑星研究会編 誠文堂新光社 1981年発行
1971年8月10日 25センチ反射望遠鏡による堀口令一氏のスケッチ

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星の手帖 1988年夏号 ↑ 特集-火星大接近 河出書房新社発行
火星の南極冠付近 NASAのバイキング2号オービター(1976-78年に火星軌道上で運用)が撮影した極冠の縮小期の映像


1988年の大接近時の距離は、5881万キロ、最接近は9月22日、最も明るいときの光度は、マイナス2.7等
この大接近の2年前にも地球に近づいており、その時の距離は6037キロ、最接近は1986年7月16日


火星は冬期に地球に近づいたときよりも夏期に接近のときのほうが互いの軌道の関係上、距離は短くなります。 冬期最接近時の例を少し掲載します。

1950年3月27日  9719万㎞

1952年5月8日  8350万㎞

1958年11月8日  7295万㎞

1960年12月25日 9077万㎞

1963年2月3日   10029万㎞

1965年3月12日  10000万㎞

1975年12月9日  8459万㎞

1978年1月19日  9771万㎞

1980年2月26日  10132万㎞

1993年1月3日   9365万㎞

1995年2月11日  10107万㎞


いずれも小接近のときの距離で平均9360万㎞離れています。 一方、夏に接近した場合は平均で6570万㎞でその差は、2790万㎞となります。


過去70年間の大接近(5回)はすべて夏に起きています。 平均の接近距離は、5697万㎞です。 今回2018年は5761万㎞ですので平均的な大接近というところでしょうか。

次回の大接近は2035年9月11日で5691万㎞と予測されています。


豊前国分寺の三重塔の二層の丸桁部分に密教に取り込まれた12の星座(十二宮)の像が浮き彫りされています。


豊前国分寺(金光明山護国院国分寺)の創建は天平13年(741年)3月の聖武天皇の詔をその元始としますが、実際に完成したのは天平勝宝8年(756年)頃と考えられています。

その後、平安時代~室町時代を通じて寺院を維持していたと思われますが、安土桃山時代に入り天正年間(1573~1592年)の豊後大友宗麟による豊前国侵入の兵火によって七堂伽藍を擁した国分寺は消滅してしまいます。

灰燼に帰したのち、一時期再興が図られたものの往時の隆盛を取り戻すことができず、本格的な再興は江戸時代の慶安3年(1650年)まで待つことになります。

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豊前国分寺は平安時代末期から戦国時代までは天台宗の影響下にあったと思われますが、現在、豊前国分寺の宗旨は真言宗であり、高野山の末寺になったのはこの慶安3年の再興以降と考えられています。
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豊前国分寺の山門 ↑ 高野山真言宗 金光明山豊前国分寺と書かれています。

さて、十二宮のことに戻りますが、十二宮または黄道12星座とは、大洋・月・惑星の通り道である黄道を春分点を起点として30度ずつ12の星座に分けたもので、起源は紀元前6~7世紀にチグリス・ユーフラテス両河流域に発展したカルデア文化まで遡ることができます。

この十二宮はのちに密教に取り入れられて仏教保護と怨敵降伏を祈願する護法尊のなかのひとつとなります。


紀元前450年頃、インドの北東部ガンジス河中流域で誕生した仏教は、釈迦の入滅後100年(前3世紀頃)ほどして上座部と大衆部と言う二つの部派に分かれ、この二部派がさらに分裂して多くの仏教諸派が興隆します。

そして諸派のうち紀元前後に発生したと思われる大乗仏教の一部がその発展段階でインド古来の呪術や土俗的信仰を取り入れて、徐々に密教化して行きます。さらにはバラモン教のタントラの影響やヒンドゥー教の神秘主義を取り込むなどして、7世紀頃に密教が成立します。


このインドやインド周辺の土着文化・諸宗教を取り込んだ初期密教時代(3世紀~7世紀中頃)には、古代インド天文学の暦法や古代オリエントからの占星術や十二宮も取り込まれていて、これら暦法や占星術、十二宮、星宿などの密教的概念がインドから中国へと伝わり、唐の乾元2年(759年)に不空によって漢訳されたとされる「宿曜経」として空海により806年に初めて我が国に請来されています。

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三重塔  東南側から撮影 ↑ 2018年5月20日撮影


豊前国分寺の三重塔の十二宮は以下のとおりです。


塔の正面(東側)の左端より ↓ 男女宮(ふたご座)   小女宮(おとめ座)  巨蟹宮(かに座)

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北側の左端より ↓ 天秤宮(てんびん座)  天蝎宮(さそり座)  天弓宮(いて座)

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西側の左端より ↓ 宝瓶宮(みずがめ座)  磨羯宮(やぎ座) 双魚宮(うお座)

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南側の左端より ↓ 白羊宮(おひつじ座)  金牛宮(おうし座)  獅子宮(しし座)

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十二宮は星曼荼羅や胎蔵界曼荼羅の最外院に二十八宿(28の星座)とともに描かれていて、その位置はほぼ決まっています。


胎蔵界曼荼羅図での方位は、図に向って上側が東、左側が北、下側が西、右側が南となります。

京都・東寺の伝真言院曼荼羅や大阪・松尾寺の孔雀経曼荼羅の十二宮の位置は、


東側     男女宮/金牛宮/白羊宮

北側     獅子宮/小女宮/巨蟹宮

西側     天秤宮/天蝎宮/天弓宮

南側     宝瓶宮/磨羯宮/双魚宮


大阪・久米田寺の星曼荼羅や大阪・金剛寺の星曼荼羅、延暦寺旧蔵で現在は宮内庁所蔵の星曼荼羅では、


上側   宝瓶宮/磨羯宮/双魚宮

左側   男女宮/金牛宮/白羊宮

下側   獅子宮/小女宮/巨蟹宮

右側   天秤宮/天蝎宮/天弓宮    となっています。


位置の違いは、空海が請来した現図系曼荼羅(胎蔵界曼荼羅)と平安時代中期の真言宗の僧・香隆寺僧正寛空が創案し、弟子の成就院大僧正寛助が平安末期に整備した寛助系星曼荼羅との違いのようです。


豊前国分寺の三重塔の十二宮の位置は男女宮と獅子宮が入れ替わっているものの胎蔵界曼荼羅図・星曼荼羅図ともに一致しています。
但し、方位は無関係です。時計まわりに一つずつずらしていくと現図系曼荼羅と同じになり、東西南北を入れ替えると星曼荼羅と同じ位置になります。

この三重塔は明治28年に建立されたもので、十二宮の浮き彫りも当時のものそのままです。

塔の周囲に十二宮を配している理由としては、真言宗の教主である大日如来の三昧耶形(さまやぎょう=象徴物・シンボル)が宝塔であり、塔が大日如来を表していることを踏まえて、大日如来は「宇宙そのもの」であることを強調するために星座(十二宮)を配置したのではないかと思われることがひとつ。

もうひとつは、明治期の建立であることで伝統を踏まえつつも、これまでとは違った意匠で新しい時代に相応しい新鮮感を求めた結果ではなかったか、と想像します。


リーターズダイジェストはアメリカの総合家庭雑誌で、1922年の創刊です。世界中に非常に多くの読者を有し、英語版にとどまらず各地の言語に対応した版を持ち、さらにデジタル版、点字版、音声版なども発行する巨大出版社です。  日本語版の創刊は1946年6月ですが1986年2月に休刊となっています。


本日の「星によみがえる家名 イケヤ彗星の発見」の著者テリー・レッサー・モリス(1914年-1993年)は、アメリカのフリージャーナリストで、さまざまな雑誌に寄稿するかたわら歴史、スポーツ、社会問題などに材を取ったノンフィクションや小説を発表しています。

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画像の最下段に小さく「レッドブックより要約」と印刷 ↑ されていますが、この「レッドブック」とは1903年5月にシカゴで創刊された家庭実用雑誌です。

「レッドブック」の創刊当初の記事は、有名作家の短編小説や芸能情報、ファッション情報などで占められていましたが、やがて社会問題や道徳に関する記事を主とする編集方針に切り替えられ、対象読者を既婚女性あるいは若い女性とし、さまざまな困難に立ち向かう女性の姿や知的成長を志向する女性についての話を掲載する総合雑誌となって行きます。

成功談や生き方の指針となる記事を掲載するという編集方針は、リーターズダイジェスト誌の方針とも合致していることにより、レッドブック誌の記事をリーターズダイジェスト誌に転載したものと思われます。

リーターズダイジェスト掲載の「イケヤ彗星の発見」は要約となっていますが、1967年に「The boy who redeemed his father's name; Kaoru Ikeya.」のタイトルでレッドブックマガジン社から出版されています。

「redeemed」は「取り戻す」という意味で使っていると思いますが、このままでは良くわからないタイトルになっています。邦題の「星によみがえる家名」も文章を読んで初めて納得するタイトルではないでしょうか。

記事内容を大雑把にいうと家庭の不和を克服し、母親の愛情に支えられて自身の夢であり目標である新彗星発見に挑み続ける少年、ということで、リーターズダイジェストの編集方針に完全に当てはまる成長・成功物語です。

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もちろん記事内容は事実に即していて、日々の彗星捜索風景や池谷薫氏にとって最初の彗星となる「1963a イケヤ彗星」発見時の様子がドラマティックに描かれています。
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池谷氏といえば最初に思い浮かぶことは「イケヤ・セキ彗星」と思いますが、この世紀の大彗星発見物語ではなく、池谷氏発見の最初の彗星「1963a」を取り上げたところに著者テリー・モリスのジャーナリストとしての卓見が表れていると言ってよいと思います。


さて、その「1963a」の発見事情は「天界第453号 1963年2月号」に池谷氏本人の手になる記事が掲載されていて、それによると彗星捜索は1961年の8月頃に始めたが、計画的に捜索するようになったのは1962年1月2日からで、この日を起点として「1963a」発見までについやした時間は135.5時間、捜索回数は109回にのぼる、とのこと。


使用望遠鏡は自作の21cmF6.7の反射望遠鏡、1963年1月3日午前5時05分、南東の空低く海蛇座π星の近くに光度約12等級の新彗星を発見。


天界記事は「発見事情」だけではなく自作望遠鏡についても記されていますが、望遠鏡自作の経緯や発見に至るまでの葛藤はリーターズダイジェスト誌により詳しく書かれ、さらに第2イケヤ彗星1964f、イケヤ・セキ彗星1965fについても書かれていますので、機会があればぜひ「リーターズダイジェスト」の一読をお奨めします。(天界の1963a記事は1963年3月号にも掲載されています。)


1963aは発見後徐々に明るさを増し1月5日の倉敷天文台の本田氏の観測で光度10等級、1月8日関勉氏の観測で9等級、1月22日・24日両日の明石市立天文科学館の菅野氏の観測で8等級となっています。しかし増光とは裏腹に1963aは日ごとに南下して地平線に近づき、2月初旬には日本からは見えなくなってしまいました。

・・・が、2月18日頃に再び北上、今度は夕方の南天に姿を現した1963aは光度4等級に達していました。

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SKY AND TELESCOPE 1963 APRIL ↑ 2月25日 カリフォルニア州フレイジャー山にて撮影 7インチ反射鏡使用 光度3.5等
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大マゼラン星雲と小マゼラン星雲の間を行くイケヤ彗星 ↑ 2月15日 オーストラリア・ニューサウスウェールズ州ナラブリにて撮影 キャノン35mmカメラ使用 ( これと同一の写真が「天文と気象1963年9月号/地人書館」に載っています。)
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↑ ページの上の写真、2月18日 一時間露出のイケヤ彗星の軌跡 光度約4等  下の写真、2月23日 ニューメキシコにて撮影 右側、2月26日撮影 光度3.5等

ニューメキシコでの観測によると2月18日光度4.2等/20日光度3.7等/21日3.9等/24~26日3.6等、とのこと。

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SKY AND TELESCOPE 1963 MAY ↑ 3月13日撮影 彗星の頭部の左側の星は魚座α星で光度4等、尾はくじら座γ星に達しています。 ブロニカ6×6判50mmレンズ使用

右側の写真、3月13日撮影 7インチ・フッカー鏡使用 カリフォルニア州ロス・パドレスにて撮影

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左端から、3月13日光度4.3等 3月14日 3月19日光度4.4等 3月20日のイケヤ彗星 7インチ・フッカー鏡使用 カリフォルニア州ロス・パドレスにて撮影 3月26日の観測で光度4.6等

彗星はこの後徐々に暗くなり、4月中旬6等級、5月初旬7等級、5月下旬には光度9等級となっています。

余談ですが、池谷氏は当時19歳で、これは史上最年少の新彗星発見記録となっています。(5年後にアメリカのマーク・ホイテッカー(16歳)に記録を破られています。)


「日本平観光天文センター」については、拙ブログにて過去2回取り上げています。

2012年10月3日のhttp://irukaboshi.exblog.jp/16925957/「日本平プラネタリウム No.5」と2014年3月19日のhttp://irukaboshi.exblog.jp/20482378/「富士観日本平センター絵葉書」です。

記述重複を避けて今回は簡単に記しますので、前回、前々回を併せてご覧頂ければ幸いです。

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パンフレットは三つ折りになっていて、広げた時の大きさは25×52.5センチ、畳んだときは25×17.5センチです。発行は昭和35年5月で観光天文センターの開業直後となります。



おもて面に天文センターの全景と電波塔、それに清水市街地が描かれ、畳んだときの裏面に美保地区と清水港、遠くに富士山が描かれています。駐車場に整列した白と赤に塗り分けられたたくさんのボンネット型バスが往時の賑わいを象徴しているようです。

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裏面の「ステレオ望遠鏡」は、「五藤式ステレオ観光望遠鏡5C型」と思うのですが、ピラーには上下の高さ調節用の円形ハンドルがついていないようですので、あるいは単眼の観光望遠鏡7S型のピラーを流用、もしくは7S型のピラーの派生型を使用しているのかもわかりません。

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パンフを開いたときの内側面です。↑ 左側に「プラネタリューム観覧の図」とその下に「マンモス観光望遠鏡」の写真、中央付近に「観光天文センターに設置されたプラネタリュウム」、その上部に「天文台に設置された天体望遠鏡」が載っています。
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「プラネタリューム観覧の図」のプラネタリウム機材は「ツアイス製」のようですが、機種はよくわかりません。ツアイスⅢ型かな? しかしⅡ型でもあるようだし・・。

観覧の紳士淑女の皆さんは、顔立ちや服装から日本人ではないことは確かです。


天文センターに実際に設置されたプラネタリウム機材は、五藤光学M-1型の2号機ですが、M-1型の観覧風景の写真を採用していないのは、パンフレット制作時にはまだ稼働していなかった、のかもわかりません。五藤光学M-1型は、恒星球が回転軸の中心に近い内側に、惑星投影機が外側につけられた「モリソン型」と呼ばれるものです。

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巨大な観光望遠鏡は、「五藤式マンモス観光望遠鏡6S型」で、パンフの説明によりますと「世界最大の地上用観光望遠鏡で口径30センチ、鏡筒4.7メートル、ヨーロッパのアルプス山麓にある口径24.4センチ、4メートルのものを凌駕」しているとのこと。パンフの絵では屋上に4機設置されているようになっています。

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天文台の6mドームには「五藤光学20cm屈折の1号機」が設置されています。
有効径200mm/焦点距離2400mm/12.5×50mmファインダー/有効径80mmのガイディングスコープ/水晶発振式追尾装置を附属

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五藤式20cm赤道儀 ↑ 「天界」1962年3月号の裏面広告より  『この望遠鏡は現在日本で作られる望遠鏡では最大級のもので、東京国際見本市にも出品され、多大のおほめのおことばをいただきました。』 と書かれています。 パンフレット掲載の写真と比べると細かいところで若干の形状違いがあるようです。


表側の左端は日本平観光天文センターの経営母体である「富士観光株式会社」の取締役社長の石川武義の「御挨拶」です。

このご挨拶のなかで『昭和21年末当地日本平開発の目的で株式会社日本平ホテルとして発足した当社は、爾来10余年間、微力乍ら観光事業の振興に努めて参りましたが、当観光天文センターの建設も、私の観光事業計画の一環として長年にわたる念願の一つでありまして』とあります。


経営者石川武義は、観光ホテル経営をはじめとして旅行業、不動産業、広告宣伝業、保険代理業などを営む多角的行動の経済人でしたが、随筆集「旅と湯女」の著作を持っているところを見るとなかなかの粋人でもあったと推察します。


「御挨拶」に書かれているように集客施設に天文台・プラネタリウムを併設するというアイデアは長年温めてきたもののようですが、この発想はどこから来たものか、併設アイデアの原点というか切っ掛けのようなものがあったのではないかと想像します。


自在に考えを巡らせることができる粋人魂の発露のひとつとは思いますが、もし発想の切っ掛けがあるのであれば、是非とも知りたいところです。



明けましておめでとうございます。
本年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。

毎年、拙ブログの元日テーマはその年の干支に因んだ星座絵を載せていますので、本年は当然「戌・犬」ですね。

犬の星座は小犬座・大犬座・猟犬座とありますが、今年はりょうけん座の星座絵を載せます。次の戌年には小犬座・大犬座を予定していますが、はたしてその時までこのブログは存続しているのか?

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JAN HEVELIUS 「THE STAR ATLAS」1968年ロシア語版より ↑ りょうけん座


熊(おおぐま座)を追う男(うしかい座)が引きつれる二匹の猟犬の星座で、17世紀のポーランドの天文学者ヨハンネス・ヘヴェリウスが新設した10星座のうちのひとつです。

犬の星座は「小犬座・大犬座・猟犬座」の三つと最初に記しましたが、実はかつて「ケルベルス座」という地獄の番犬を描いた星座がありました。

この「ケルベルス座」もヘヴェリウスの10星座のひとつです。しかし、現行の88星座には含まれず失われた星座となっています。場所はヘルクレス座のヘルクレが左手で持った小枝のあたりです。

さて、りょうけん座の二匹の猟犬のうち、上(北側)の犬は「アステリオン」と名付けられ、下(南側)の犬はカーラまたはカラと名付けられています。

ここでちょっと混乱するのは、りょうけん座のβ星(星座絵の下の方の犬カーラの眼のあたり)の固有名もカーラと呼ばれ、しかも別名がアステリオンということ。

カーラはギリシア語で「かわいいもの、親愛なもの」を意味し、アステリオンは、やはりギリシア語で「星のきらめく」を意味する、とのこと。(出典:星座の神話/原惠著)


りょうけん座の二匹はその特徴的な顔と肢体からグレイハウンドと考えられていますので、J.G.WOOD著/THE ILLUSTRATED NATURAL HISTORY (MAMMALIA)、1880年刊行より4種のグレイハウンドを転載します。

グレイハウンドにはたくさんの種類がありますが、図版を引用した図鑑では6種のみ取り上げられていました。そのうちの4種です。

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 ↑ 左側・グレイハウンド、右側・アイリッシュグレイハウンド


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左側・スコッチグレイハウンド、↑ 右側・ロシアングレイハウンド

グレイハウンドはヨーロッパでは貴族だけが飼うことを許されていたということですが、何ゆえに牧夫が引きつれているのか。

この牧夫は貴族出身だった、あるいは貴族から一時期的預かっているなどと考えられます(?)が、りょうけん座が出現する遙か以前より貴族をも凌駕して神々の領域に座する牧夫としては、グレイハウンドこそ自身に最も相応しい猟犬であると自覚し、我ら凡夫も追認にしくはなく、ヘヴェリウスもグレイハウンドを引きつれることに納得済みだった、ということではないでしょうか(??)。


誠文堂新光社の「全天恒星図2000」は、1984年9月25日に第1刷が発行され、地人書館の「標準星図2000」は、1995年6月10日に初版が発行されています。

また、恒星社厚生閣の「全天星図2000年分点」は1989年3月15日の発行となっています。
これら出版大手の2000年分点星図の発行年を思うと、個人的出版物の「21世紀星図(Epoch 2.000)」の発行年が1979年6月であることは驚くべきことではないでしょうか。
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「野外星図2000」(誠文堂新光社)の発行が1982年12月1日であることと比べても、著者の労苦は多大であったであろうと拝察いたします。

ちなみに「21世紀星図(Epoch 2.000)」刊行の一か月前に発刊された中野繁氏の「スター・アトラス 星座手帖」は1950年分点です。

まあ、精度や使用目的や使い勝手の良さなどを論じないで、分点だけを取り上げても仕方がない、と言われればそのとうりなのですが。


篠田星図は全天が20枚の星図に分けられ、7.5等級までの恒星に変光星・重星・星雲星団・超新星痕跡が記されています。
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白鳥座付近の星図、 ↑ 銀河や北アメリカ星雲などの青色と赤い書込み文字の対比が美しく、見ていてあきない。
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オリオン座付近、バーナードループも美しく描かれていますが、図版の枚数が少ないためか各星座が若干小さく、4等級と5等級の区別、6等級と7等級の区別などが付け難い感があるようです。
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星図に「星座・図版対照表」と「簡易星雲星団表」の付表が付いています。
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表の左端はNGC、IC、その他のカタロク番号です。その右側2列は2000年分点による赤経・赤緯で、次は図版(星図)の番号、その次は天体の種類(例えば系外星雲は1、散開星団は2、惑星状星雲は6、という具合)、次は写真等級でその次は天体の視直径を角度で表しています。右端に少しだけ写っている部分はメシエ番号です。
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星図のすべてに著者自筆のサインと押印があります。「21世紀星図」の名称とともに著者の星図制作の思い入れがこちら側にも伝わってくるようです。
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北極星付近 ↑   篠田星図は、実際の星図としての使用に加えて「星図を眺める楽しみ」という要素も含まれているようで、この星図を所持していることによって、美しい星空を我が手に納めているという満足感?あるいは充実感?、を満たしてくれるような気がします。



「21世紀星図(Epoch 2.000)」及び付表
著者: 篠田皎
発行年: 1979年6月

図版: 20枚/最微7.5等級/2000年分点
星図面: 30×23センチ
付表: 40ページ
星図全体サイズ・37×26センチ/ルーズリーフ式
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月齢26.7 金星光度-4.0等 2017年8月19日4時01分撮影

保元元年(1156年)7月の「保元の乱」で敗死した左大臣藤原頼長の日記「台記」の久寿二年(1155年)7月の条に、月と金星(太白)の接近の事が記されています。

『廿六日辛未 深更月犯太白、即使人問泰親、使者帰来曰、泰親立地仰天』

7月26日の深更に月が太白を犯す、現代の言葉でいうと「合」となった時、陰陽博士安倍泰親に事の次第を問わせています。

そして、翌27日に『廿七日壬申 泰親□月犯太白、天子悪 先帝崩象歟、母主悪、関白殿北政所将薨象歟、立太子皇子歟』と記しています。

「月、太白を犯すは天子に悪あり。先帝崩じたまう象か、また女主に悪あり、これは関白殿の北政所が薨ぜんとする象か、また太子か皇子のことか」と、安倍泰親が答えています。
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5時14分撮影 ↑ 朝焼けが濃くなるに連れ、金星は淡くなって行きました。

陰陽道が盛んであった平安時代、月星の接近は忌むべき出来事であり凶事の前兆とされ、「合」が確認されると陰陽博士は意見や判断を書き記した勘文を天皇へ密奏し、しかるべき寺院で悪凶退散の御修法を執り行うことを勧めていました。

月星接近はよくあることですが、当時の宮廷社会では未来を予測する一大関心事で、新星や彗星の出現などの天文異変と併せて公卿の日記や説話物語集に頻出しています。

例えば、「大鏡」「宇治拾遺物語」「今昔物語」「古今著聞集」「玉葉」「明月記」「吾妻鏡」「実隆公記」「後法興院政家記」などです。

上記の「台記」の久寿二年(1155年)7月の「月犯太白」については、斉藤国治氏の天文計算があります。それによると「接近」というよりは「食」で、1155年8月26日2時59分に金星が月の裏側に潜入、3時42分に出現した「金星食」だったようです。この時の月は月齢25.8、金星光度は-3.5等とのこと。

中国古来の占星術では月と星(あるいは惑星と恒星、惑星と惑星、など)が、0°.7以内に接近すれば重大天変の「犯」とされていました。

本日の月と金星の接近は7°ばかりですので、「犯」とは言えないようですね。
表紙は、特異な形状の尾を持つ彗星としてよく知られた「モーアハウス彗星」です。1908年9月1日にアメリカのDaniel Walter Morehouseによって発見され、翌年5月まで観測されました。

絶対光度は4.1等級と推定されています。尾は最大6個まで分割されたように見え、なかには彗星頭部から完全に分離されたように見える尾もあったそうです。


さて、本書の冒頭に1947年1月25日の日付で『昭和十二年の末頃から、暇あるにまかせ、ゆったりした気持ちで、時々の話題を把へ、主として「天文学雑誌」のために書いた短文を、一括して上梓したものである』とあります。

そして 『時期遅れのものは皆書き改め、新時代の日本に向くやうにしたことを断って置く。』と続きます。
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ヤーキース天文台撮影 ↑ 「モーアハウス彗星」表紙

しかし、一部の文章には執筆年月日が記載されているものの、「天界」への掲載年月が書かれていませんので、単なる好奇心から掲載年を調べてみました。

以下のとおりです。タイトルの番号は目次順です。


1.羊の星座          天界第23巻第260号・1943年
2.蛇の星座          天界第21巻第243号・1941年
3.馬に因む星座         天界第22巻第256号・1942年
4.支那の星座         天界第19巻第221号・1939年
5.三種類の遊星(外遊星、内遊星、月)    天界第20巻第229号・1940年

6.わが地球の薄衣      天界第19巻第213号・1939年
7.地球の自轉は変る       天界第18巻第206号・1938年
8.月の光の明るさ       天界第22巻第250号・1942年
9.木星界のおめでた(新衛星発見のこと) ●「天文学雑誌」に掲載と思われるが掲載号不明 文末に「一九四六・六・二四」の日付あり
10.木星の衛星を弄ぶ(蝕や掩蔽など)    天界第21巻第238号・1941年

11.木星系のモデルを作る      天界第19巻第222号・1939年
12.小遊星を楽しむ        天界第18巻第202号・1938年
13.ヴエスタのいたづら       天界第18巻第205号・1938年
14.世界のいろいろ (各遊星の事など)   天界第21巻第236号・1941年 天界記事では「いろいろの世界」
15.闘ふ星々         天界第21巻第244号・1941年

16.太陽は巨大なサイクロトロン   天界第22巻第254号・1942年
17.愈々太陽黑點が大活動  天界第18巻第204号・1938年
18.星の大きさは?    天界第18巻第203号・1938年(1938・3執筆)
19.宇宙最大の星    天界第21巻第239号・1941年
20.ミラ星の最近の消息   天界第23巻第263号・1943年(1943・1・5執筆)
21.牛座あたりの妖雲   天界第22巻第258号・1942年(1942・10・3執筆)
22.銀河宇宙測量の一例  天界第20巻第231号・1940年
23.算へることと測定すること   天界第20巻第223号・1939年
24.天体が進化するまで   天界第20巻第227号・1940年
25.膨張宇宙説(光速の変化を考へて)    天界第21巻第240号・1941年(時と暦の特輯号)

26.宇宙も進化する(相対論や原子論へ) 天界第18巻第209号・1938年(1938・6・18執筆)
27.コロンブスの天文学     天界第20巻第233号・1940年
28.コペルニクの言葉(訳)     天界第20巻第230号・1940年
29.コペルニクは水星を見なかつたか?(訳) 天界第23巻第262号・1943年
30.オルバースの跡を尋ねて(ブレーメン市へ) 天界第19巻第212号・1938年(1938・10・25執筆)

31.ヘイル博士の小傳 天界第18巻第207号・1938年(1938・6・1執筆)
32.星の名で呼ばれる九つの化学元素 ●「天文学雑誌」に掲載と思われるが掲載号不明 文末に「一九四六・六・二四」の日付あり
33.レンズ奇譚二つ三つ   天界第21巻第245号・1941年
34.学術と人生(グレゴリ氏原文の訳) 天界第19巻第214・215号・1939年
35.天文常数一覧(一九四〇年度) 天界第20巻第225号・1940年

36.星を見て方角を知る法   天界第18巻第201号・1938年
37.子供の疑問と解き明かし   天界第22巻第255号・1942年
38.冬至の話(暦の出発点として) 天界第18巻第199号・1937年


以上、38話で1937年(昭和12年)から1946年(昭和21年)にかけて掲載あるいは執筆されたものです。
●「天文学雑誌」は、終戦の少し前から戦後の一時期に使われた「天界」の別誌名です。掲載号不明の記事は、「天界」「天文学雑誌」以外かもわかりません。

あまり意味はないのですが、掲載年を数えると以下のようになります。掲載本数の右は、その年の天文界の出来事です。

1937年 1  水星の太陽面経過/大阪市立電気科学館開館/銀河団のミッシングマス問題の指摘(ツヴィッキー)
1938年 9  原子核反応による太陽熱源の説明(ワイゼッカー)/木星の第10衛星Lysithea、第11衛星Carme発見(ニコルソン)/東日天文館開館
1939年 5  コロナ輝線の同定(グロトリアン)/火星大接近/中性子星の質量限界を計算(オッペンハイマー/ヴォルコフ)
1940年 6  岡林・本田彗星発見/Sky & Telescope誌創刊/星間分子の発見(マッケラー)
1941年 7  フレンド・リース・本田彗星発見
1942年 5  太陽フレアによる電波を捕捉(ジェームス・ヘイ)/ Tタウリ型星の発見(ジョイ)
1943年 3  北海道・名寄皆既日食
1944年 0  天体の種族の発見(バーデ)
1945年 0 星間中性水素原子が波長21cmの電波を放射する可能性を示唆(ファン・デ・フルスト)/宇宙線研究により朝日文化賞受賞(仁科芳雄)
1946年 2  恒星の磁場を発見(バブコック)/アメリカにてジャコビニ流星群大出現/フィジカル・レビュー誌にビッグバン理論発表(ガモフ)
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  計38話

内容別では、星座×4、惑星科学×5、地球科学×3、月×1、小惑星×2、天体力学×1、電波天文学×1、恒星天文学×4、星間物理学×1、銀河天文学×1、膨張宇宙論×1、天体物理学×1、天文学史×5、望遠鏡×1、天文文化史×1、天文定数×1、天文教育×2、暦×1、その他×2  となり、ほどよいバランスと思うのですが、日蝕や彗星記事がないのがちょっと残念。

それぞれの話題は、その執筆の元となる観測や研究が存在していて、例えば「9.木星界のおめでた」は、1938年のニコルソンによる木星の新衛星発見に基づいていますし、「19.宇宙最大の星」は、1941年2月にジョージ・H・ハービグが発表した論文に基づいて書かれたものとなっています。 

また、「20.ミラ星の最近の消息」は、1940年のアレゲニ天文台のバーンスの観測に基づくものであり、「21.牛座あたりの妖雲」は、S.W.マコウスキーの一連の研究発表によるものです。

ほかにも、「25.膨張宇宙説」は、1940年のウィルマ・C・アンダーソンの光速測定に基づいて書かれ、「22.銀河宇宙測量の一例」は、G・L・カムの研究に基づくものなどの例をあげることができます。

こうして見ると海外の天文情報は比較的入来していた戦前はともかく、情報源が限られていた戦中においても、恒星物理や星間物理などの世界の天文界の動向・成果を積極的に取り入れ、それらを平易に解説した幾多の文章は、天文プロとアマチュアの橋渡し役に鋭意徹した著者ならではの面目躍如もの、と言えると思います。戦後に書き改めたものがある、とは言えです。
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ところで、本書冒頭に『主として「天文学雑誌」のために書いた短文』とあるにもかかわらず、ほとんどが「天界」掲載の文章なのはどうしたことか。

著者の思い違いか、あるいは「天文学雑誌」も「天界」も名称が違っても著者にとっては同一のものと認識していたからなのか、それとも幾つかの文章を提示して、実際の選択は編集者に一任した結果なのか・・・。まあ、どうでも良いことですが。

ちなみに本書発行の昭和22年4月時点の誌名は「天文学雑誌」でした。


『天文新話』

著者:山本一清
発行所:恒星社厚生閣       東京都京橋区銀座西八丁目八都ビル 振替東京五九六〇〇番
発行者:恒星社厚生閣 岡本正一  東京都京橋区銀座西八丁目八
印刷所:行政学会印刷所      東京都立川市曙町三ノ五五
配給元:日本出版配給株式会社
印刷:昭和二十二年四月十五日
発行:昭和二十二年四月二十日
日本出版協会会員番号:A110030番
4000部印刷/12.5×18センチ/174ページ/定価四十五円
月と金星の接近は何度見ても飽きないし、何度撮影しても面白い。・・が、拙ブログで何度も見せられている方々はもう飽きあきしたのでは?    ・・でもヤッパリ美しいと思うでしょ?
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2016年12月3日 17時39分撮影 月齢4、金星マイナス4等

『日暮るれば 山の端に出る 夕づつの ほしとは見れど あかぬ君かな』  「古今六帖」より