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カテゴリ:星の本・資料/星空( 194 )

『小学校五年生のとき東日天文館の売店で『宇宙旅行』という本を買った。宇宙船に乗って太陽系から銀河のかなたまで旅行する物語で、子どもが読めるやさしい書き方をしているが、中身は最新の知識がつまっている。 その著者光川ひさしこそ水野良平氏のペンネームであることを知っていたのだ。』 (ぷらべん 88歳の星空案内人 河原郁夫/冨岡一成著/旬報社発行/2018年刊)より

拙ブログの2019年2月21で「ぷらべん(https://irukaboshi.exblog.jp/d2019-02-21/)」を取り上げましたが、その中の一節です。本日の『宇宙旅行』については、そのすべてを上記引用で表していると思いますが、それでは本日のブログが続きませんので、ちょっと捕捉をさせて頂きます。

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「ぷらべん」こと河原郁夫氏の生涯の師「水野良平」は、明治32年(1899)横須賀生まれ。東京物理学校(のちの東京理科大学)を卒業後、東京天文台に奉職。

大正12年(1923)~昭和25年(1950)までの在職中、保時・報時の部門に属して時刻観測に従事。 天文台退任後、横須賀市の私立横須賀学院の教員を経て、昭和31年(1956)天文博物館五藤プラネタリウムの学芸課長となっています。昭和53年(1978)逝去。

水野良平氏が河原氏に新プラネタリウムの解説員の一員に抜擢したのは昭和31年(1956)のことで、河原少年が初めて『宇宙旅行』を手にしてから16年目のことでした。

さて、その「宇宙旅行」の件、発行は昭和15年(1940)で誠文堂新光社から刊行されています。
「僕らの科学文庫」というシリーズの中の1冊で、「宇宙旅行」が刊行された時点での既刊は、次のとおり。


化石の世界-早川一郎著/火と焔-白井俊明著/原子の話-鳩山道夫著/僕らの栄養と食物-川島四郎著/僕らの海-野満隆治著/僕らの船-関谷健哉著/僕らの飛行機-山崎好雄著/算術と数学の歴史-吉岡修一郎著/飛行機の話-山﨑好雄著/ちから-作井誠太著/ひかり-二神哲五郎著の11冊で、「宇宙旅行」を入れて全12冊が既刊。


続巻として、音の世界-田口泖三郎/植物の話-篠遠喜人/僕らの理科実験-藤木源吾/命-永久正志/動物の話-丘英通/家の話-星野昌一、などが予定されていたようです。


「宇宙旅行」は、昭和14年4月から翌年3月にかけて「小学生の科学」に『宇宙見学旅行』と題して連載されたもので、単行本化にあたって大幅に加筆されています。

初版は昭和15年、翌年に修正第5刷が発行され、さらには昭和23年に上・下に分かれて同じ書名で発行されています。

(昭和23年版は7月20日印刷/8月1日発行/上巻・下巻の表示はありませんが、2分冊で刊行されています。 章立てと文章は同じですが、一部の図版を入替または追加をしています。定価百円)

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宇宙船に乗りこむ少年少女たち。


本書全17章は以下のとおり。


● 第一章 月世界の探検

● 第二章 太陽の巻

● 第三章 内惑星の巻

● 第四章 火星の巻

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ローウェルの描いた火星 ↑

● 第五章 小惑星の巻

● 第六章 木星の巻

● 第七章 土星の巻

● 第八章 彗星の巻

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ローマ皇帝カエサル時代に出現した彗星 カエサルとその后が彗星を見て心配をしている場面/右側の図は流星群の説明図で、校庭を周回する生徒たちの中に一塊の群れが出来ている。

● 第九章 天・海・冥の三王星

● 第十章 近距離の恒星

● 第十一章 変わった恒星の色々

● 第十二章 ガス星雲と散開星団

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東京天文台の大望遠鏡 ↑

● 第十三章 銀河と球状星団の巻

● 第十四章 渦状星雲の巻

● 第十五章 宇宙に対する昔の考へと今の考へ

● 第十六章 四次元世界の話

● 第十七章 地球帰還


パイロット光川ひさしが操縦するロケットで太陽系の各惑星を巡り、銀河系の外までを旅する、という設定です。

本書は子ども向けに書かれたものですが、安易な内容に終始しているわけではなく、当時の最新の知見を持って記述されています。

・・・とは言え、「彗星の頭は星の集り」などという部分は、ホイップルの「彗星頭部は汚れた雪玉」説提唱が本書刊行の10年後(1950年)ですので、仕方のないことと思われます。


また、火星の生物については、動物はいないが「植物は生えている」と断言しています。 戦前から戦後しばらくのあいだの天文書を見る場合、火星生物の扱いがどのようになっているか興味深いところです。

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目次の一部  ↑

先に「本書は子ども向け」と書きましたが、第十四章でハッブルの「膨張宇宙説」を詳述していたり、続く第十五章(天文学史)でも膨張宇宙についての解説やアインシュタインの相対性原理についてに話しが及んでいるように、決して子どもだけの本ではありません。宇宙論、天体物理なども入って大人でも充分に楽しめる天文の本になっています。


光川ひさし名義の天文書は1940年発行の「宇宙旅行」だけのようですが、水野良平での著作は以下の通り。


● 宇宙旅行/光川ひさし/誠文堂新光社/1940年/A5変形

● 宇宙旅行 (二分冊)/誠文堂新光社/1948年/A5変形 /上巻(第一章~第九章)は179ページ/下巻(第十章~第十七章)は168ページ

● プラネタリウムの話/四季の星座/恒星社厚生閣/1957年/A5判

● 最新天体写真集/法政大学出版局/1958年/A5判

● ベツレヘムの星/新教出版社/1959年/B6判

● 時・暦・プラネタリウム/ポプラ社/1963年/B5判

● 星と伝説 目で見る児童百科3/偕成社/1963年/B5判

● 宇宙の謎/大陸書房/1969年/B6判

● うずまく宇宙/正進社/1969年/新書版

● 星とともに/私家版/1969年/A5判


単行本の刊行は以上ですが、雑誌類への寄稿はたくさんあります。また、光川ひさしのペンネームで創作童話などがあります。(刊行の天文書は多分上記の通りと思いますが、筆者(ブログ主)のわかる範囲だけですので、まだあるかもわかりません。)

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宇宙船出発の口絵: 画者は鈴木登良治のはずですが、サインがよく読めません。辛うじてT.Suzuki となっているようですが。
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『宇宙旅行』

著者: 光川久(みつかわひさし)
印刷: 昭和十五年六月二十五日
第一刷発行: 昭和十五年七月一日
修正第五刷発行: 昭和十六年十一月二十五日
発行所: 誠文堂新光社
発行者: 小川菊松
印刷者: 小坂孟
製本: 村田文泉閣
16×19センチ(本体)/356ページ/定価二円

装幀と本扉: 初山滋
挿絵: 鈴木登良治

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『宇宙旅行』の箱裏面と本体裏面


みずからをプラネタリウム弁士、「ぷらべん」と称する河原郁夫氏は、本書の刊行時(2018年12月)で88歳の日本最高齢現役プラネタリウム解説員。

昭和5年(1930)東京生まれの河原氏のプラネタリウム体験は、小学校4年生の時に父に連れられて訪れた東京有楽町の「東日天文館」に始まります。

当時、日本には2ヶ所のプラネタリウム施設があって、ひとつは昭和12年(1937)開館の大阪四ツ橋の「大阪市立電気科学館」、もうひとつが翌年開館の「東日天文館」で、河原少年は開館まもない時期に「東日天文館」を訪れたことになります。


しかし、「東日天文館」は昭和20年(1945)の東京大空襲でプラネタリウムドーム部分を含む4階から上を焼失、廃業やむなく約8年の活動に終止符を打ちます。


短い活動期間でしたが「東日天文館」は、多くの人々(少年少女だけではなく大人を含めて)に感動や夢を与え、星を見る楽しさ、星座やギリシャ神話に親しむ機会を与えてくれた大切な存在でした。

そして、河原少年のようにその後の生き方・進む道までも導き示した存在でもありました。

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「天界」 ↑ 昭和13年12月号の表紙より/「去る十一月2日に開館した東京プラネタリウム」 「天界」のこの号では大阪の「市立電気科学館」に対して「東日天文館」を東京プラネタリウムと呼称しています。


「東日天文館」の焼失後、日本のプラネタリウムは「大阪市立電気科学館」のみでしたが、焼失12年後の昭和32年(1957)に「天文博物館五島プラネタリウム」が東京渋谷に誕生します。

その少し前、東京理科大学を卒業し横須賀市の高校で物理教師に就いていた河原氏に転機が訪れます。


天文少年の頃に知遇を得、生涯の恩師となる元東京天文台の報時課長・水野良平氏からプラネタリウム解説員への転身を勧められたのです。

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本書「ぷらべん」は三つの章立てから成っています。  天文少年の夢/むすばれる星たち/夢を見るための機械、です。


第一章では「東日天文館」との出会いと、ここで得た知識をもとに自宅の物干し台で仰ぎ見て辿る星座たちの姿、口径40mmの望遠鏡を自作し「河原天文台」と名付けて星空を堪能する日々、あこがれの「東京天文台」へ家族に内緒で一人で出かけたときのこと、そして1945年、中学三年生のときの東京大空襲の恐怖の一夜をすごしたときのこと。


第二章は、空襲で焼け出されて横須賀に転居後、ここでも新たに口径80mmの望遠鏡を自作して不自由な生活のなかでも星々を楽しんだこと、生涯の恩師である水野良平氏を始めとして、東京科学博物館の小山ひさ子さんや東京天文台の野附誠夫太陽物理部長、富田技官、小野実教官らとの出会いや交流が綴られ、そして「天文博物館五島プラネタリウム」へ移ってからの新しい仲間たち、草下英明、大谷豊和、小林悦子の諸氏との出会いとプラネタリウム開館までの奮闘が描かれています。


第三章の「夢を見るための機械」では、河原氏が携わったプラネタリウム機材、五藤M-1や五藤GMⅡ-16-T、GM-15-AT1などの特性とエピソードの数々、野尻抱影翁の思い出等々が初期のプラネタリウム施設の活動状況とともに語られています。

「ぷらべん」の文章構成と編集については、大きく二つの特徴を挙げることが出来ると思います。ひとつは各章の冒頭あるいは途中にその当時(河原少年の成長に合わせて)の天文界のトピックスを示してストーリーにメリハリをつけると同時に、大まかな天文学史の流れを知り得る構成になっていると言うこと。

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もうひとつは、これは意表を突く構成ですが、各章のあいだに「春の話題」「夏の話題」「秋の話題」を設けて各季節に見やすい位置に来る星座とその見どころや神話を掲載している点です。 

しかも単なる星座案内に終わらず天文知識の基礎的な部分や天体物理の範疇までにも及んでいて、さらに星々への興味が深まる内容になっています。

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天文人生物語と星座案内を交互に配置することによって、河原少年のその後の人生に影響を与えた星々の存在がより一層鮮明になり、同時に天文少年の感動の日々を追体験できる構成になっている、のではないかと思います。


「ぷらべん」は、ある一人の人物が生涯にわたって打ち込んできた事柄を綴った人生賛歌の書でもあります。


「ぷらべん 88歳の星空案内人 河原郁夫」

著者:冨岡一成
発行所:株式会社旬報社
2018年12月20日初版第一刷
編集担当:熊谷満
装丁・デザイン:Boogie Design


北九州市のテーマパーク「スペースワールド」で1990年の開園時から常設展示されていた月の石は、同園の2017年12月31日の閉園を以って所有権を持つ米航空宇宙局(NASA)に返却されていましたが、引き続き展示の希望が多く寄せられていた為、NASAと北九州市との協議の結果、北九州市の「市立いのちのたび博物館」にて再び常設展示されることが決まりました。


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北九州市立いのちのたび博物館  ↑  「月の石」の一般公開は2018年12月22日で、この日に記念式典(除幕式)が行われました。

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展示場所は、正面のサービスカウンターを過ぎてすぐ右側の「地学現象」コーナーです。

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展示の「月の石」は、重さ176.4gの玄武岩で、1969年11月14日に米フロリダ州のケネディ宇宙センターから打ち上げられた「アポロ12号」が月面の「嵐の大洋」の南部から持ち帰ったものの一部です。(アポロ12号は合計34.3kgの岩石を採集し、持ち帰っています。)

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「月の石」の国内常設展示は「いのちのたび博物館」と東京・上野の「国立科学博物館」の2館のみです。国立科学博物館にはアポロ11号とアポロ17号が採集した月の石が展示されていますが、いずれも小片ですので、いのちのたび博物館の月の石は常設展示では国内最大と言えます。

ちなみに1970年(昭和45年)に大阪で開催された日本万国博覧会に展示された「月の石」もアポロ12号が持ち帰ったものでした。

また、「地学現象」コーナーには、「直方隕石(レプリカですが)」や  ↓

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「隕石にさわってみよう」コーナーなどがあり  ↓  興味は尽きないのですが、
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  ↑  カンポデルシエロ隕石(アルゼンチン/1576年発見/重さ約55㎏)

月の石と並んで最大級の呼び物のひとつに恐竜の骨格標本(実物大)がありますので、ぜひ機会があれば「いのちのたび博物館」で自然史を楽しんでください。

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ティラノサウルス・レックス(原標本は米国シカゴのフィールド博物館に展示されている「愛称スー」の実物大全身骨格)、「スー」の奥の首の長い恐竜は「セイスモサウルス」体長35メートルの実物大骨格標本です。


天文現象のビッグイベント時に限って曇りまたは雨になるということを過去何度も経験しましたが、今回もそのとおりで、部分食開始の時刻になっても全天ベタ曇りで太陽は全く見えません。

9時18分 ↓ 食がかなり進んだときにようやく少しだけ薄雲となり、最初の1枚を撮影。

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9時28分  ↓  全天依然として雲に覆われているが、時々薄雲となり、すかさずもう1枚。

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9時38分  ↓  雲のためか撮影能力不足のせいか、ピントが甘いのが難点。

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9時47分  ↓  この頃が食分最大、福岡で食分0.318

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9時50分  ↓  最大を過ぎたのち、黒雲が襲来。

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10時28分  ↓  黒雲ようやく去って1枚撮影。しかしまだ薄雲は掛かったままです。

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10時36分  ↓  雲の去来の合間に撮るため、等間隔の時刻にならないのが残念。

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10時43分  ↓  黒雲と薄雲が交互にやって来る。しかも高度違いで移動方向は真逆。

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10時53分  ↓  まもなく部分食終了。

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11時3分 ↓ 最後の1枚。この後再び全天厚雲に覆われ、さらには一時的に激しい雨となりましたが、やがて日差しは戻り、冬晴れの上天気となりました。

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福岡での食終了は11時4分でした。


今回もまた大事な時間帯だけに雲がやってくる、と言うことを追体験したようなものですが、薄雲のときには「日食サングラスなしの肉眼」で欠けた太陽を見ることができた、と言う初めての経験をした部分日食でもありました。自己満足度70パーセントです。


本日は中秋の名月だそうですが、秋雨前線と台風24号の影響があるのか当地では朝から小雨模様です。月の観望は絶望的です。ちなみに満月は明日25日の11時52分とのこと。

・・・で、替わりに月と兎とススキの図を掲げます。

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みやこ町勝山黒田の「黒田神社」の天井絵 ↑ 山田義昌(霍眠)画/明治20年頃の制作と考えられています。霍眠52才の頃の作です。

月の欠けた向きから察するに、霍眠は正しく秋の明け方の東の空を描写しているようです。
実際に登る月を観察して描いたのか、それとも構図の関係でこの向きになったのか。


『その夜は早速、二百倍という私にとっては夢のような高倍率で火星をのぞきました。その瞬間、アッと喜びの声をあげました。ごらんなさい、まっ暗な大空を背景として、ポッカリ浮き出ている赤い火星の顔には、実にあざやかに、しかも非常に黒っぽい、大きな模様が極冠から中央にかけて、まるで夢のように浮きぼりにされているではありませんか/(火星の模様-佐伯恒夫)』


上記文章は、「出版ダイジェスト昭和46年5月11日発行第684号」の「特集:天文-先輩たちの観測記」から一部を転記したものです。 しかし、より正確には「恒星社刊・佐伯恒夫著「火星とその観測」昭和27年・33年(改訂版)・43年・52年改訂増補版」からの抜粋です。

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「出版ダイジェスト」はその名称のとおり、紹介したい書籍の主要部分抜粋とオリジナル記事からなる月3回発行の新聞です。 上記引用の第684号「特集:天文」の掲載記事は、「東洋美術のなかの星-野尻抱影/天文ファン-村山定男/彗星観測ノート-関勉/変光星遍歴-下保茂/天の壁画集(スズキ星座図譜・フラムスチード天球図譜)/その他」となっています。

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佐伯恒夫氏(1916-1996)の初めての火星観測は1933年だった、とのことで、この年は2年2か月ごとに地球に接近する火星のいわゆる「小接近」の年でした。

この時の火星は前年の晩秋に獅子座に入った後、徐々に地球に接近しながら獅子座レグルス付近を移動しています。最接近は1933年3月3日です。

つまり、観測好機は冬の間だったわけで、佐伯氏も自作の8センチ反射望遠鏡を使って「寒い冬の夜」に幾夜も観測を続けた、と引用文の前文に記しています。

最接近時の火星の光度はマイナス1等、視直径約14秒、距離は約約1億キロでした。

15年乃至17年ごとに火星が近づく「大接近」時の視直径は約25秒、距離は約5700万キロですので、「大接近」と比べると観測条件はかなり悪いのですが、それでも観測のチャンスであることにかわりなく、上記抜粋文は、火星の模様を初めて見た佐伯氏の驚きと喜びがこちら側にも素直に伝わってくる文章となっています。佐伯氏、17才前後の出来事です。



さて、その大接近の件、今年(2018年)は15年ぶりとなる大接近の年です。 最接近は7月31日ですでに過ぎていますが、まだまだ見やすい位置にあります。

太陽が沈んで星々が見え始めたころ、南東の中天あたりでまっさきに輝く赤い星が火星です。まわりに明るい星が他にありませんので、すぐに見つけられることと思います。


前回の大接近(2003年)は、5576万キロメートルまで接近したのに対し、今回2018年は5761万キロメートルまでで若干の差がありますが、小望遠鏡でも濃い模様などは確認出来ることでしょう。


・・・ということで、本日は過去の火星接近時の写真を使った天文誌の表紙をUPしてみました。


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天文月報 1954年1月号  ↑  南アフリカ・ラモントハッセイ天文台撮影、27インチ屈折望遠鏡使用 撮影日不明
1954年は大接近の年だったわけではありませんが、7月2日に6399万キロまで接近しています。

翌々年の1956年が大接近年で、9月7日に5655万キロまで接近していますので、1954年は準大接近だった、とでも呼んでいいのではないでしょうか。


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天文月報 1971年10月号  ↑  東京天文台(三鷹)撮影、38センチ屈折望遠鏡使用 撮影日は1971年8月8日
上方に白く南極冠が光り、中央に「アリンの爪」や「大シルチス」が見えています。最接近は8月12日で5620万キロまで接近。


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天文ガイド 1969年9月号  ↑  東京天文台(堂平)撮影、91センチ反射望遠鏡使用 撮影日は1969年5月3日
1969年6月9日に7173万キロまで接近していますが、この年は小接近で、翌々年の1971年が大接近であり、最接近日の8月12日と距離は上記のとおり。


次は写真ではなくスケッチですが、同じく1971年の大接近時のものです。

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惑星ガイドブック1 月惑星研究会編 誠文堂新光社 1981年発行
1971年8月10日 25センチ反射望遠鏡による堀口令一氏のスケッチ

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星の手帖 1988年夏号 ↑ 特集-火星大接近 河出書房新社発行
火星の南極冠付近 NASAのバイキング2号オービター(1976-78年に火星軌道上で運用)が撮影した極冠の縮小期の映像


1988年の大接近時の距離は、5881万キロ、最接近は9月22日、最も明るいときの光度は、マイナス2.7等
この大接近の2年前にも地球に近づいており、その時の距離は6037キロ、最接近は1986年7月16日


火星は冬期に地球に近づいたときよりも夏期に接近のときのほうが互いの軌道の関係上、距離は短くなります。 冬期最接近時の例を少し掲載します。

1950年3月27日  9719万㎞

1952年5月8日  8350万㎞

1958年11月8日  7295万㎞

1960年12月25日 9077万㎞

1963年2月3日   10029万㎞

1965年3月12日  10000万㎞

1975年12月9日  8459万㎞

1978年1月19日  9771万㎞

1980年2月26日  10132万㎞

1993年1月3日   9365万㎞

1995年2月11日  10107万㎞


いずれも小接近のときの距離で平均9360万㎞離れています。 一方、夏に接近した場合は平均で6570万㎞でその差は、2790万㎞となります。


過去70年間の大接近(5回)はすべて夏に起きています。 平均の接近距離は、5697万㎞です。 今回2018年は5761万㎞ですので平均的な大接近というところでしょうか。

次回の大接近は2035年9月11日で5691万㎞と予測されています。


豊前国分寺の三重塔の二層の丸桁部分に密教に取り込まれた12の星座(十二宮)の像が浮き彫りされています。


豊前国分寺(金光明山護国院国分寺)の創建は天平13年(741年)3月の聖武天皇の詔をその元始としますが、実際に完成したのは天平勝宝8年(756年)頃と考えられています。

その後、平安時代~室町時代を通じて寺院を維持していたと思われますが、安土桃山時代に入り天正年間(1573~1592年)の豊後大友宗麟による豊前国侵入の兵火によって七堂伽藍を擁した国分寺は消滅してしまいます。

灰燼に帰したのち、一時期再興が図られたものの往時の隆盛を取り戻すことができず、本格的な再興は江戸時代の慶安3年(1650年)まで待つことになります。

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豊前国分寺は平安時代末期から戦国時代までは天台宗の影響下にあったと思われますが、現在、豊前国分寺の宗旨は真言宗であり、高野山の末寺になったのはこの慶安3年の再興以降と考えられています。
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豊前国分寺の山門 ↑ 高野山真言宗 金光明山豊前国分寺と書かれています。

さて、十二宮のことに戻りますが、十二宮または黄道12星座とは、大洋・月・惑星の通り道である黄道を春分点を起点として30度ずつ12の星座に分けたもので、起源は紀元前6~7世紀にチグリス・ユーフラテス両河流域に発展したカルデア文化まで遡ることができます。

この十二宮はのちに密教に取り入れられて仏教保護と怨敵降伏を祈願する護法尊のなかのひとつとなります。


紀元前450年頃、インドの北東部ガンジス河中流域で誕生した仏教は、釈迦の入滅後100年(前3世紀頃)ほどして上座部と大衆部と言う二つの部派に分かれ、この二部派がさらに分裂して多くの仏教諸派が興隆します。

そして諸派のうち紀元前後に発生したと思われる大乗仏教の一部がその発展段階でインド古来の呪術や土俗的信仰を取り入れて、徐々に密教化して行きます。さらにはバラモン教のタントラの影響やヒンドゥー教の神秘主義を取り込むなどして、7世紀頃に密教が成立します。


このインドやインド周辺の土着文化・諸宗教を取り込んだ初期密教時代(3世紀~7世紀中頃)には、古代インド天文学の暦法や古代オリエントからの占星術や十二宮も取り込まれていて、これら暦法や占星術、十二宮、星宿などの密教的概念がインドから中国へと伝わり、唐の乾元2年(759年)に不空によって漢訳されたとされる「宿曜経」として空海により806年に初めて我が国に請来されています。

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三重塔  東南側から撮影 ↑ 2018年5月20日撮影


豊前国分寺の三重塔の十二宮は以下のとおりです。


塔の正面(東側)の左端より ↓ 男女宮(ふたご座)   小女宮(おとめ座)  巨蟹宮(かに座)

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北側の左端より ↓ 天秤宮(てんびん座)  天蝎宮(さそり座)  天弓宮(いて座)

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西側の左端より ↓ 宝瓶宮(みずがめ座)  磨羯宮(やぎ座) 双魚宮(うお座)

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南側の左端より ↓ 白羊宮(おひつじ座)  金牛宮(おうし座)  獅子宮(しし座)

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十二宮は星曼荼羅や胎蔵界曼荼羅の最外院に二十八宿(28の星座)とともに描かれていて、その位置はほぼ決まっています。


胎蔵界曼荼羅図での方位は、図に向って上側が東、左側が北、下側が西、右側が南となります。

京都・東寺の伝真言院曼荼羅や大阪・松尾寺の孔雀経曼荼羅の十二宮の位置は、


東側     男女宮/金牛宮/白羊宮

北側     獅子宮/小女宮/巨蟹宮

西側     天秤宮/天蝎宮/天弓宮

南側     宝瓶宮/磨羯宮/双魚宮


大阪・久米田寺の星曼荼羅や大阪・金剛寺の星曼荼羅、延暦寺旧蔵で現在は宮内庁所蔵の星曼荼羅では、


上側   宝瓶宮/磨羯宮/双魚宮

左側   男女宮/金牛宮/白羊宮

下側   獅子宮/小女宮/巨蟹宮

右側   天秤宮/天蝎宮/天弓宮    となっています。


位置の違いは、空海が請来した現図系曼荼羅(胎蔵界曼荼羅)と平安時代中期の真言宗の僧・香隆寺僧正寛空が創案し、弟子の成就院大僧正寛助が平安末期に整備した寛助系星曼荼羅との違いのようです。


豊前国分寺の三重塔の十二宮の位置は男女宮と獅子宮が入れ替わっているものの胎蔵界曼荼羅図・星曼荼羅図ともに一致しています。
但し、方位は無関係です。時計まわりに一つずつずらしていくと現図系曼荼羅と同じになり、東西南北を入れ替えると星曼荼羅と同じ位置になります。

この三重塔は明治28年に建立されたもので、十二宮の浮き彫りも当時のものそのままです。

塔の周囲に十二宮を配している理由としては、真言宗の教主である大日如来の三昧耶形(さまやぎょう=象徴物・シンボル)が宝塔であり、塔が大日如来を表していることを踏まえて、大日如来は「宇宙そのもの」であることを強調するために星座(十二宮)を配置したのではないかと思われることがひとつ。

もうひとつは、明治期の建立であることで伝統を踏まえつつも、これまでとは違った意匠で新しい時代に相応しい新鮮感を求めた結果ではなかったか、と想像します。


リーターズダイジェストはアメリカの総合家庭雑誌で、1922年の創刊です。世界中に非常に多くの読者を有し、英語版にとどまらず各地の言語に対応した版を持ち、さらにデジタル版、点字版、音声版なども発行する巨大出版社です。  日本語版の創刊は1946年6月ですが1986年2月に休刊となっています。


本日の「星によみがえる家名 イケヤ彗星の発見」の著者テリー・レッサー・モリス(1914年-1993年)は、アメリカのフリージャーナリストで、さまざまな雑誌に寄稿するかたわら歴史、スポーツ、社会問題などに材を取ったノンフィクションや小説を発表しています。

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画像の最下段に小さく「レッドブックより要約」と印刷 ↑ されていますが、この「レッドブック」とは1903年5月にシカゴで創刊された家庭実用雑誌です。

「レッドブック」の創刊当初の記事は、有名作家の短編小説や芸能情報、ファッション情報などで占められていましたが、やがて社会問題や道徳に関する記事を主とする編集方針に切り替えられ、対象読者を既婚女性あるいは若い女性とし、さまざまな困難に立ち向かう女性の姿や知的成長を志向する女性についての話を掲載する総合雑誌となって行きます。

成功談や生き方の指針となる記事を掲載するという編集方針は、リーターズダイジェスト誌の方針とも合致していることにより、レッドブック誌の記事をリーターズダイジェスト誌に転載したものと思われます。

リーターズダイジェスト掲載の「イケヤ彗星の発見」は要約となっていますが、1967年に「The boy who redeemed his father's name; Kaoru Ikeya.」のタイトルでレッドブックマガジン社から出版されています。

「redeemed」は「取り戻す」という意味で使っていると思いますが、このままでは良くわからないタイトルになっています。邦題の「星によみがえる家名」も文章を読んで初めて納得するタイトルではないでしょうか。

記事内容を大雑把にいうと家庭の不和を克服し、母親の愛情に支えられて自身の夢であり目標である新彗星発見に挑み続ける少年、ということで、リーターズダイジェストの編集方針に完全に当てはまる成長・成功物語です。

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もちろん記事内容は事実に即していて、日々の彗星捜索風景や池谷薫氏にとって最初の彗星となる「1963a イケヤ彗星」発見時の様子がドラマティックに描かれています。
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池谷氏といえば最初に思い浮かぶことは「イケヤ・セキ彗星」と思いますが、この世紀の大彗星発見物語ではなく、池谷氏発見の最初の彗星「1963a」を取り上げたところに著者テリー・モリスのジャーナリストとしての卓見が表れていると言ってよいと思います。


さて、その「1963a」の発見事情は「天界第453号 1963年2月号」に池谷氏本人の手になる記事が掲載されていて、それによると彗星捜索は1961年の8月頃に始めたが、計画的に捜索するようになったのは1962年1月2日からで、この日を起点として「1963a」発見までについやした時間は135.5時間、捜索回数は109回にのぼる、とのこと。


使用望遠鏡は自作の21cmF6.7の反射望遠鏡、1963年1月3日午前5時05分、南東の空低く海蛇座π星の近くに光度約12等級の新彗星を発見。


天界記事は「発見事情」だけではなく自作望遠鏡についても記されていますが、望遠鏡自作の経緯や発見に至るまでの葛藤はリーターズダイジェスト誌により詳しく書かれ、さらに第2イケヤ彗星1964f、イケヤ・セキ彗星1965fについても書かれていますので、機会があればぜひ「リーターズダイジェスト」の一読をお奨めします。(天界の1963a記事は1963年3月号にも掲載されています。)


1963aは発見後徐々に明るさを増し1月5日の倉敷天文台の本田氏の観測で光度10等級、1月8日関勉氏の観測で9等級、1月22日・24日両日の明石市立天文科学館の菅野氏の観測で8等級となっています。しかし増光とは裏腹に1963aは日ごとに南下して地平線に近づき、2月初旬には日本からは見えなくなってしまいました。

・・・が、2月18日頃に再び北上、今度は夕方の南天に姿を現した1963aは光度4等級に達していました。

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SKY AND TELESCOPE 1963 APRIL ↑ 2月25日 カリフォルニア州フレイジャー山にて撮影 7インチ反射鏡使用 光度3.5等
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大マゼラン星雲と小マゼラン星雲の間を行くイケヤ彗星 ↑ 2月15日 オーストラリア・ニューサウスウェールズ州ナラブリにて撮影 キャノン35mmカメラ使用 ( これと同一の写真が「天文と気象1963年9月号/地人書館」に載っています。)
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↑ ページの上の写真、2月18日 一時間露出のイケヤ彗星の軌跡 光度約4等  下の写真、2月23日 ニューメキシコにて撮影 右側、2月26日撮影 光度3.5等

ニューメキシコでの観測によると2月18日光度4.2等/20日光度3.7等/21日3.9等/24~26日3.6等、とのこと。

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SKY AND TELESCOPE 1963 MAY ↑ 3月13日撮影 彗星の頭部の左側の星は魚座α星で光度4等、尾はくじら座γ星に達しています。 ブロニカ6×6判50mmレンズ使用

右側の写真、3月13日撮影 7インチ・フッカー鏡使用 カリフォルニア州ロス・パドレスにて撮影

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左端から、3月13日光度4.3等 3月14日 3月19日光度4.4等 3月20日のイケヤ彗星 7インチ・フッカー鏡使用 カリフォルニア州ロス・パドレスにて撮影 3月26日の観測で光度4.6等

彗星はこの後徐々に暗くなり、4月中旬6等級、5月初旬7等級、5月下旬には光度9等級となっています。

余談ですが、池谷氏は当時19歳で、これは史上最年少の新彗星発見記録となっています。(5年後にアメリカのマーク・ホイテッカー(16歳)に記録を破られています。)


「日本平観光天文センター」については、拙ブログにて過去2回取り上げています。

2012年10月3日のhttp://irukaboshi.exblog.jp/16925957/「日本平プラネタリウム No.5」と2014年3月19日のhttp://irukaboshi.exblog.jp/20482378/「富士観日本平センター絵葉書」です。

記述重複を避けて今回は簡単に記しますので、前回、前々回を併せてご覧頂ければ幸いです。

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パンフレットは三つ折りになっていて、広げた時の大きさは25×52.5センチ、畳んだときは25×17.5センチです。発行は昭和35年5月で観光天文センターの開業直後となります。



おもて面に天文センターの全景と電波塔、それに清水市街地が描かれ、畳んだときの裏面に美保地区と清水港、遠くに富士山が描かれています。駐車場に整列した白と赤に塗り分けられたたくさんのボンネット型バスが往時の賑わいを象徴しているようです。

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裏面の「ステレオ望遠鏡」は、「五藤式ステレオ観光望遠鏡5C型」と思うのですが、ピラーには上下の高さ調節用の円形ハンドルがついていないようですので、あるいは単眼の観光望遠鏡7S型のピラーを流用、もしくは7S型のピラーの派生型を使用しているのかもわかりません。

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パンフを開いたときの内側面です。↑ 左側に「プラネタリューム観覧の図」とその下に「マンモス観光望遠鏡」の写真、中央付近に「観光天文センターに設置されたプラネタリュウム」、その上部に「天文台に設置された天体望遠鏡」が載っています。
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「プラネタリューム観覧の図」のプラネタリウム機材は「ツアイス製」のようですが、機種はよくわかりません。ツアイスⅢ型かな? しかしⅡ型でもあるようだし・・。

観覧の紳士淑女の皆さんは、顔立ちや服装から日本人ではないことは確かです。


天文センターに実際に設置されたプラネタリウム機材は、五藤光学M-1型の2号機ですが、M-1型の観覧風景の写真を採用していないのは、パンフレット制作時にはまだ稼働していなかった、のかもわかりません。五藤光学M-1型は、恒星球が回転軸の中心に近い内側に、惑星投影機が外側につけられた「モリソン型」と呼ばれるものです。

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巨大な観光望遠鏡は、「五藤式マンモス観光望遠鏡6S型」で、パンフの説明によりますと「世界最大の地上用観光望遠鏡で口径30センチ、鏡筒4.7メートル、ヨーロッパのアルプス山麓にある口径24.4センチ、4メートルのものを凌駕」しているとのこと。パンフの絵では屋上に4機設置されているようになっています。

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天文台の6mドームには「五藤光学20cm屈折の1号機」が設置されています。
有効径200mm/焦点距離2400mm/12.5×50mmファインダー/有効径80mmのガイディングスコープ/水晶発振式追尾装置を附属

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五藤式20cm赤道儀 ↑ 「天界」1962年3月号の裏面広告より  『この望遠鏡は現在日本で作られる望遠鏡では最大級のもので、東京国際見本市にも出品され、多大のおほめのおことばをいただきました。』 と書かれています。 パンフレット掲載の写真と比べると細かいところで若干の形状違いがあるようです。


表側の左端は日本平観光天文センターの経営母体である「富士観光株式会社」の取締役社長の石川武義の「御挨拶」です。

このご挨拶のなかで『昭和21年末当地日本平開発の目的で株式会社日本平ホテルとして発足した当社は、爾来10余年間、微力乍ら観光事業の振興に努めて参りましたが、当観光天文センターの建設も、私の観光事業計画の一環として長年にわたる念願の一つでありまして』とあります。


経営者石川武義は、観光ホテル経営をはじめとして旅行業、不動産業、広告宣伝業、保険代理業などを営む多角的行動の経済人でしたが、随筆集「旅と湯女」の著作を持っているところを見るとなかなかの粋人でもあったと推察します。


「御挨拶」に書かれているように集客施設に天文台・プラネタリウムを併設するというアイデアは長年温めてきたもののようですが、この発想はどこから来たものか、併設アイデアの原点というか切っ掛けのようなものがあったのではないかと想像します。


自在に考えを巡らせることができる粋人魂の発露のひとつとは思いますが、もし発想の切っ掛けがあるのであれば、是非とも知りたいところです。



明けましておめでとうございます。
本年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。

毎年、拙ブログの元日テーマはその年の干支に因んだ星座絵を載せていますので、本年は当然「戌・犬」ですね。

犬の星座は小犬座・大犬座・猟犬座とありますが、今年はりょうけん座の星座絵を載せます。次の戌年には小犬座・大犬座を予定していますが、はたしてその時までこのブログは存続しているのか?

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JAN HEVELIUS 「THE STAR ATLAS」1968年ロシア語版より ↑ りょうけん座


熊(おおぐま座)を追う男(うしかい座)が引きつれる二匹の猟犬の星座で、17世紀のポーランドの天文学者ヨハンネス・ヘヴェリウスが新設した10星座のうちのひとつです。

犬の星座は「小犬座・大犬座・猟犬座」の三つと最初に記しましたが、実はかつて「ケルベルス座」という地獄の番犬を描いた星座がありました。

この「ケルベルス座」もヘヴェリウスの10星座のひとつです。しかし、現行の88星座には含まれず失われた星座となっています。場所はヘルクレス座のヘルクレが左手で持った小枝のあたりです。

さて、りょうけん座の二匹の猟犬のうち、上(北側)の犬は「アステリオン」と名付けられ、下(南側)の犬はカーラまたはカラと名付けられています。

ここでちょっと混乱するのは、りょうけん座のβ星(星座絵の下の方の犬カーラの眼のあたり)の固有名もカーラと呼ばれ、しかも別名がアステリオンということ。

カーラはギリシア語で「かわいいもの、親愛なもの」を意味し、アステリオンは、やはりギリシア語で「星のきらめく」を意味する、とのこと。(出典:星座の神話/原惠著)


りょうけん座の二匹はその特徴的な顔と肢体からグレイハウンドと考えられていますので、J.G.WOOD著/THE ILLUSTRATED NATURAL HISTORY (MAMMALIA)、1880年刊行より4種のグレイハウンドを転載します。

グレイハウンドにはたくさんの種類がありますが、図版を引用した図鑑では6種のみ取り上げられていました。そのうちの4種です。

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 ↑ 左側・グレイハウンド、右側・アイリッシュグレイハウンド


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左側・スコッチグレイハウンド、↑ 右側・ロシアングレイハウンド

グレイハウンドはヨーロッパでは貴族だけが飼うことを許されていたということですが、何ゆえに牧夫が引きつれているのか。

この牧夫は貴族出身だった、あるいは貴族から一時期的預かっているなどと考えられます(?)が、りょうけん座が出現する遙か以前より貴族をも凌駕して神々の領域に座する牧夫としては、グレイハウンドこそ自身に最も相応しい猟犬であると自覚し、我ら凡夫も追認にしくはなく、ヘヴェリウスもグレイハウンドを引きつれることに納得済みだった、ということではないでしょうか(??)。