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みずからをプラネタリウム弁士、「ぷらべん」と称する河原郁夫氏は、本書の刊行時(2018年12月)で88歳の日本最高齢現役プラネタリウム解説員。

昭和5年(1930)東京生まれの河原氏のプラネタリウム体験は、小学校4年生の時に父に連れられて訪れた東京有楽町の「東日天文館」に始まります。

当時、日本には2ヶ所のプラネタリウム施設があって、ひとつは昭和12年(1937)開館の大阪四ツ橋の「大阪市立電気科学館」、もうひとつが翌年開館の「東日天文館」で、河原少年は開館まもない時期に「東日天文館」を訪れたことになります。


しかし、「東日天文館」は昭和20年(1945)の東京大空襲でプラネタリウムドーム部分を含む4階から上を焼失、廃業やむなく約8年の活動に終止符を打ちます。


短い活動期間でしたが「東日天文館」は、多くの人々(少年少女だけではなく大人を含めて)に感動や夢を与え、星を見る楽しさ、星座やギリシャ神話に親しむ機会を与えてくれた大切な存在でした。

そして、河原少年のようにその後の生き方・進む道までも導き示した存在でもありました。

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「天界」 ↑ 昭和13年12月号の表紙より/「去る十一月2日に開館した東京プラネタリウム」 「天界」のこの号では大阪の「市立電気科学館」に対して「東日天文館」を東京プラネタリウムと呼称しています。


「東日天文館」の焼失後、日本のプラネタリウムは「大阪市立電気科学館」のみでしたが、焼失12年後の昭和32年(1957)に「天文博物館五島プラネタリウム」が東京渋谷に誕生します。

その少し前、東京理科大学を卒業し横須賀市の高校で物理教師に就いていた河原氏に転機が訪れます。


天文少年の頃に知遇を得、生涯の恩師となる元東京天文台の報時課長・水野良平氏からプラネタリウム解説員への転身を勧められたのです。

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本書「ぷらべん」は三つの章立てから成っています。  天文少年の夢/むすばれる星たち/夢を見るための機械、です。


第一章では「東日天文館」との出会いと、ここで得た知識をもとに自宅の物干し台で仰ぎ見て辿る星座たちの姿、口径40mmの望遠鏡を自作し「河原天文台」と名付けて星空を堪能する日々、あこがれの「東京天文台」へ家族に内緒で一人で出かけたときのこと、そして1945年、中学三年生のときの東京大空襲の恐怖の一夜をすごしたときのこと。


第二章は、空襲で焼け出されて横須賀に転居後、ここでも新たに口径80mmの望遠鏡を自作して不自由な生活のなかでも星々を楽しんだこと、生涯の恩師である水野良平氏を始めとして、東京科学博物館の小山ひさ子さんや東京天文台の野附誠夫太陽物理部長、富田技官、小野実教官らとの出会いや交流が綴られ、そして「天文博物館五島プラネタリウム」へ移ってからの新しい仲間たち、草下英明、大谷豊和、小林悦子の諸氏との出会いとプラネタリウム開館までの奮闘が描かれています。


第三章の「夢を見るための機械」では、河原氏が携わったプラネタリウム機材、五藤M-1や五藤GMⅡ-16-T、GM-15-AT1などの特性とエピソードの数々、野尻抱影翁の思い出等々が初期のプラネタリウム施設の活動状況とともに語られています。

「ぷらべん」の文章構成と編集については、大きく二つの特徴を挙げることが出来ると思います。ひとつは各章の冒頭あるいは途中にその当時(河原少年の成長に合わせて)の天文界のトピックスを示してストーリーにメリハリをつけると同時に、大まかな天文学史の流れを知り得る構成になっていると言うこと。

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もうひとつは、これは意表を突く構成ですが、各章のあいだに「春の話題」「夏の話題」「秋の話題」を設けて各季節に見やすい位置に来る星座とその見どころや神話を掲載している点です。 

しかも単なる星座案内に終わらず天文知識の基礎的な部分や天体物理の範疇までにも及んでいて、さらに星々への興味が深まる内容になっています。

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天文人生物語と星座案内を交互に配置することによって、河原少年のその後の人生に影響を与えた星々の存在がより一層鮮明になり、同時に天文少年の感動の日々を追体験できる構成になっている、のではないかと思います。


「ぷらべん」は、ある一人の人物が生涯にわたって打ち込んできた事柄を綴った人生賛歌の書でもあります。


「ぷらべん 88歳の星空案内人 河原郁夫」

著者:冨岡一成
発行所:株式会社旬報社
2018年12月20日初版第一刷
編集担当:熊谷満
装丁・デザイン:Boogie Design


北九州市のテーマパーク「スペースワールド」で1990年の開園時から常設展示されていた月の石は、同園の2017年12月31日の閉園を以って所有権を持つ米航空宇宙局(NASA)に返却されていましたが、引き続き展示の希望が多く寄せられていた為、NASAと北九州市との協議の結果、北九州市の「市立いのちのたび博物館」にて再び常設展示されることが決まりました。


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北九州市立いのちのたび博物館  ↑  「月の石」の一般公開は2018年12月22日で、この日に記念式典(除幕式)が行われました。

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展示場所は、正面のサービスカウンターを過ぎてすぐ右側の「地学現象」コーナーです。

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展示の「月の石」は、重さ176.4gの玄武岩で、1969年11月14日に米フロリダ州のケネディ宇宙センターから打ち上げられた「アポロ12号」が月面の「嵐の大洋」の南部から持ち帰ったものの一部です。(アポロ12号は合計34.3kgの岩石を採集し、持ち帰っています。)

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「月の石」の国内常設展示は「いのちのたび博物館」と東京・上野の「国立科学博物館」の2館のみです。国立科学博物館にはアポロ11号とアポロ17号が採集した月の石が展示されていますが、いずれも小片ですので、いのちのたび博物館の月の石は常設展示では国内最大と言えます。

ちなみに1970年(昭和45年)に大阪で開催された日本万国博覧会に展示された「月の石」もアポロ12号が持ち帰ったものでした。

また、「地学現象」コーナーには、「直方隕石(レプリカですが)」や  ↓

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「隕石にさわってみよう」コーナーなどがあり  ↓  興味は尽きないのですが、
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  ↑  カンポデルシエロ隕石(アルゼンチン/1576年発見/重さ約55㎏)

月の石と並んで最大級の呼び物のひとつに恐竜の骨格標本(実物大)がありますので、ぜひ機会があれば「いのちのたび博物館」で自然史を楽しんでください。

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ティラノサウルス・レックス(原標本は米国シカゴのフィールド博物館に展示されている「愛称スー」の実物大全身骨格)、「スー」の奥の首の長い恐竜は「セイスモサウルス」体長35メートルの実物大骨格標本です。


天文現象のビッグイベント時に限って曇りまたは雨になるということを過去何度も経験しましたが、今回もそのとおりで、部分食開始の時刻になっても全天ベタ曇りで太陽は全く見えません。

9時18分 ↓ 食がかなり進んだときにようやく少しだけ薄雲となり、最初の1枚を撮影。

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9時28分  ↓  全天依然として雲に覆われているが、時々薄雲となり、すかさずもう1枚。

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9時38分  ↓  雲のためか撮影能力不足のせいか、ピントが甘いのが難点。

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9時47分  ↓  この頃が食分最大、福岡で食分0.318

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9時50分  ↓  最大を過ぎたのち、黒雲が襲来。

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10時28分  ↓  黒雲ようやく去って1枚撮影。しかしまだ薄雲は掛かったままです。

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10時36分  ↓  雲の去来の合間に撮るため、等間隔の時刻にならないのが残念。

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10時43分  ↓  黒雲と薄雲が交互にやって来る。しかも高度違いで移動方向は真逆。

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10時53分  ↓  まもなく部分食終了。

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11時3分 ↓ 最後の1枚。この後再び全天厚雲に覆われ、さらには一時的に激しい雨となりましたが、やがて日差しは戻り、冬晴れの上天気となりました。

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福岡での食終了は11時4分でした。


今回もまた大事な時間帯だけに雲がやってくる、と言うことを追体験したようなものですが、薄雲のときには「日食サングラスなしの肉眼」で欠けた太陽を見ることができた、と言う初めての経験をした部分日食でもありました。自己満足度70パーセントです。


明けましておめでとうございます。
本年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。


今年の干支「亥」に因んで黒田神社(みやこ町)の拝殿の天井絵「イノシシ」を取り上げてみました。

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明治期の画師山田義昌(松高斎霍眠・しょうこうさい かくみん)の画で、明治20年頃の制作(霍眠52才の頃)と考えられています。


山田霍眠の黒田神社天井絵については、2018年7月24日と26日、9月24日にも当ブログに掲載していますので、併せてご覧頂ければ幸いです。

https://irukaboshi.exblog.jp/27005100/


天井絵は、イノシシ以外にも「牛」や「虎」「兎」などの「十二支」の動物が画かれていますが、「子(ネズミ)」は確認できません。

天井板そのものが無くなっている箇所や絵の具の剥落激しく題材不明がいくつかありますので、あるいはそのなかのどれかに描かれていたのかもわかりません。いずれにしても、「十二支」として描いたわけではなく、絵から得る印象として単純に題材として選ばれたのではないかと推察します。


明確に「十二支」として描かれているとわかるのは、拝殿の格天井の中央付近に描かれた『方位図』です。


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『方位図』の二重の円の内側に東西南北が画かれていることがわかると思いますが、その内側の左上の「南」の外側に「馬(午)」が画かれています。


劣化が激しいので次の絵は判別不明ですが、「西」のところに「鶏(酉)」が描かれていますので「午」の次は「羊(未)」であることがわかります。

同様にたどって行くと画面下端の中央に「猪(亥)」が確認できます。

方位図のイノシシは全体像で動きは少なく、絵画として面白みに欠けますが、最初に掲げた草むらから半身を乗り出すイノシシは表情も険しく勢いを感じます。半身の構図が良く効いた作ではないかと思う次第です。


ところで、「十二支」の子・丑・寅・卯・・・・は、それぞれ鼠・牛・虎・兎・・・と動物で表されますが、本来はこれらの動物とは全く関係なく、一年間の農作業を示したものであることが、中国の漢代の「白虎通」に書かれているそうです。


子(シ)・丑(チュウ)・寅(イン)・卯(ボウ)・・・亥(ガイ)が、作物の成長段階を表した言葉である、と言うことだそうで子(シ)は種(タネ)の状態、丑(チュウ)は、曲がった細いひも(紐)の状態、つまりタネから細いひものような根が出るとき、

次の寅(イン)の本来の字形は、真っ直ぐに伸びた「矢」のかたちで、芽や根がまさに伸び出ようとしている状態、卯(ボウ)の字形は窓を左右に開いた形が元々で、タネから芽と根が窓を開くように出て来た状態を表しているのだそうです。


同じように、昨年の干支・「戌(ジュツ)」は、武器である「才(ほこ)」が本来の字形で、刈り入れた作物を外敵から大切に守ることを表し、本年の干支「亥(ガイ)」は、動物の全体の骨組(骸骨)の意味や「ことごとく・すべて」の意味があり、全体の総まとめを表している、とのことです。

つまり、一年間を12に分けた時、それぞれの時季の農作業の指針となる「農暦」が本来の姿であり、覚えやすくするために身近の動物の名称を取り入れた、と言うことが「白虎通」に解説されているそうです。

・・・となれば、過去11年間の総まとめの年が今年である、と言うことになりますが、さて、うまくまとめることが出来るかどうか・・・。


(2018年7月24日の続きです)

黒田神社の格天井絵を大きく分けると、植物・動物・人物・器物・風景となりますが、このうち風景は「松に富士」を描いた1点のみ。 それもかなり形式的な図柄で江戸時代以来の観念的富士山図そのものです。

この形式的構図は「比翼の靏」や「扇にお多福面」「面箱に翁面」「鹿に紅葉」「唐獅子」「花卉図」「竹に雀」などにもみられます。形式的構図を伝統的題材と構図と言い換えても良いのですが、普段から見慣れた構図は鑑賞者に安心感を与え神社に相応しい落ち着いた雰囲気を創り出す半面、新鮮味がありません。

全体の多くを占める植物(花)の絵も伝統的技法で描かれていますので、静謐感はありますが動きに乏しく、審美眼を持たない私(ブロク主)が言うのも僭越ですが面白みに欠けるように思われます。

だからこそなのでしょうか、花卉図の1/3程度は花に「雀」を配して変化富んだ構図を創出しているようです。


それに対して、人物図は表情豊かに個性的顔立ちでそれぞれの天井絵に描き分けられています。 そして動いている人物像は真に躍動感に満ちた姿ポーズを取り、座する人物や横臥する人物を描いた図はその場の静寂感がこちらまで伝わってくる趣きです。

神仙図などはある程度の決まりごとのなかで描くのでしょうが、その制約のなかで描かれた鯉に乗る仙人、飛竜を御する神人、桃を手にして静かに佇む仙人、等々、その仙人のそれぞれの神力までも描こうとしているかのようです。

「万歳図」や「神仙図」などは手本となる画帳があるのかもわかりませんが、それにしても黒田神社の天井絵人物画は山田霍眠の畢生の出来栄えなのではないでしょうか。


・・・なので、今回は「人物画」のみをいくつかご紹介してこの稿を終わります。なお、拝殿の周囲に掲げられた三十六歌仙の奉納画はいつの時代の制作でどなたの手になる作品かよく解りません。線描の強弱・濃淡などを見ると霍眠の画とは異なるように思いますが、どうでしょうか? 乞う、ご教示です。


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一反木綿に乗る仙人図???


なお、この稿の初回(2018年7月24日)に掲載した霍眠の略歴は「郷土史さいがわ 第十九号/画師 松高斎霍眠(山田義昌)-山鹿村「上の庄屋」弟義昌の生涯/一川淳江著/平成13年」を参考にさせて頂きました。

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黒田神社の二の鳥居とその奥の三の鳥居
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拝殿正面の頭貫上の「松、梅、笹に豊前国の領主小笠原家の家紋と同じ三階菱」の透かし彫り。
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左側の木鼻 ↑ 右側の木鼻 ↓
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黒田神社は、文化14年(1817年)に拝殿が焼失しています。現代の拝殿は、明治15年(1882年)に改築されたものです。

霍眠の天井絵は黒田神社のほかに、みやこ町勝山宮原の「若宮八幡宮」、みやこ町犀川花熊の「二児神社」、香春町採「来迎寺」などに残っています。

また、京都四条派の菊池芳水に師事して専門画家となった霍眠の子息・季造(山田元仙)の天井絵も若宮八幡宮の一部に残り、「聖徳太子画像(みやこ町犀川・長善寺)」や「釈迦涅槃図(香春町採銅所・来迎寺)」も残されていることを付記いたします。

霍眠は、明治39年(1906年)に田川市糒の長男廣吉の家で死去しています。享年72才。墓はみやこ町犀川山鹿にあります。

墓の裏面は墓誌で甥の吉田増蔵(学軒)による撰文と書が刻まれています。


福岡県みやこ町勝山中黒田の「黒田神社」に明治期の画師山田義昌(松高斎霍眠・しょうこうさい かくみん)制作の格天井絵が残されています。

黒田神社はもともと村内(黒田村)に分散していた八幡宮・天疫神・天神社の三社を合祀したもので、建立の年代ははっきりしませんが、建立後しばらくして奉納されたと思われる後土御門上皇の書による額「三社和光」の裏面に、文明十四年壬寅(1482年)と彫られていることにより、室町時代からの長い社歴を有している神社であることがわかります。


「三社和光」の奉納額については不思議な出来事が語り継がれています。  ↓

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明治十二年の銘がある一の鳥居から二の鳥居を望む。 ↓

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さて、画師山田霍眠のこと。

幼名は宮内、のちに源吾と改めた山田義昌は天保六乙未年(1835年)に父利兵衛、母とちの間に三男として誕生。

利兵衛(山田重孝)は山鹿村(みやこ町犀川山鹿地区)の庄屋職を勤め、義昌の祖父に当たる弥次兵衛(山田知義)も庄屋であり、さらに義昌の兄耕作も庄屋となり、義昌自身も幕末から明治に改まる前後に夏吉村(田川市)や中津原村(香春町)の庄屋となっています。

幼時から利発であったと伝えられる義昌は、長じて大分県中津の三原屋(府県御定宿・汽船客取扱所 一等旅籠屋)の店員となり、のちに大橋監場(藩米の検査所)勤務を経て小倉城代中野家の若党に加えられていた時に、のちの筆頭家老嶋村志津馬と大羽内蔵之助に見出されて藩学の「思永館」の庶務主任書記に抜擢されています。

義昌はこの庶務主任書記時代に絵を始めたと思われますが、特定の師匠に就いて絵を習ったのではなく独習だったのではないか、と云われています。

このことは、「山田義昌之墓」の裏面の墓碑に「吉田学軒」の撰文で『少小善書画俳歌皆無所師承蓋其天稟使然也(少々書画俳歌を善くするも皆師承するところなし けだしその天稟の然らしむるなり)』とあることからも、ある程度納得させられることと思われます。

吉田学軒は「昭和元号の創案者・吉田増蔵」で山田義昌の甥に当たります。
増蔵の母「いつ」は、山田義昌のすぐ上の姉です。


その霍眠山田義昌が黒田神社に残した格天井絵は、拝殿中央に49枚、左右脇殿にそれぞれ54枚ずつで合計157枚。

制作は明治20年頃で霍眠が52才の頃のことと云われています。 霍眠は明治5年に庄屋を辞し、現在の田川市の糒で酒造業を始めていますが、5年あまりで火難に遭い、添田町に移住。 その後、大橋町(現 行橋市)で京都・仲津両郡の郡書記などを勤めるも、故郷山鹿に帰郷。 以後、画業に専念したということです。

拝殿中央の天井絵  ↓  奥に「天満宮」の額が掲げられています。画面最手前の中央の白い円形は、十二支の方位図。

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左脇殿  ↓  牛若丸・弁慶の奉納額が見えています。
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右脇殿  ↑  拝殿の周囲には「三十六歌仙」扁額が奉納されています。

天井絵の題材は多岐にわたっていますが、いちばん多いのは中国や日本の故事・説話の一場面を描いたもので46画あります。

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次いで靏・鷲・オシドリ・鴨・ニワトリなどの鳥を描いた31画
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その次は菊・水仙・アジサイ・芍薬・ソテツ・オモダカなどの植物(花)の27画、動物(ネコ.犬.神馬.鯉.虎、猿、鹿、イノシシなど)の18画
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神仙図11画、門付芸など芸能を描いた4画、武者絵3画、以下、方位図、美人図、波千鳥、翁面、松に富士山、おたふく面、天狗(異人図?)、飾り人形図が各1画と続きます。
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色彩が完全に剥落して何が描かれているかわからないものが4画、奉納の大額に一部または全部が隠れていて題材不明が4画、天井板そのものが無い箇所が一カ所です。


上記のように最も多い題材は故事・説話ですが、これは概数と思ってください。・・・というのも、単なる人物画なのか、それとも何かの故事を表しているのか判然としないものもあるためです。

あるいは、象と人物を描いた天井絵などは、どちらが主なのか良く分からず動物画なのか人物画なのか、または故事に因んだものなのか等々、判断に苦しみ、結果として場違いな分類に入っている絵が多々あるのではないかと思われるからです。


2018年7月26日に続きます。


宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」にカラスウリが七回登場します。

その最初は放課後の校庭でカンパネルラたちが今夜の星祭りで川へ流す烏瓜を取りに行く相談をしている場面です。


『ジョバンニが学校の門を出るとき、同じ組の七八人は家へ帰らずカンパネルラをまん中にして校庭の隅の桜の木のところに集まっていました。それはこんやの星祭に青いあかりをこしらえて川へ流す烏瓜を取りに行く相談らしかったのです。』(講談社文庫/天沢退二郎編/「銀河鉄道の夜」より)

二回目はジョバンニとそのお母さんとの会話のなかで現れます。カンパネルラの家にいるザウエルという犬が自分になついていて、ずうっと町の角までついてくる。今夜の星祭りでもきっとザウエルはカンパネルラたちについて行くだろう、と話しているなかで烏瓜が登場します。


次は、配達されて来なかった牛乳を受け取りに、町はずれの牛乳屋さんに行く途中、烏瓜を流しに行くザネリとすれ違ったとき。そしてそのあと、同級生たち六七人に出会ったときにもカラスウリが出てきます。

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2017年10月3日 ↑ 撮影

ザネリはいつも冷やかしの言葉をジョバンニに投げつけていますが、今度もジョバンニをからかい、しかもみんなもその言葉のあとに続きます。ジョバンニは逃げるようにその場を離れ、牧場のうしろのゆるい丘の頂上にある「天気輪の柱」に向います。


その途中の小径で烏瓜のあかりを連想する小さな虫を見つける場面でも登場します。

『草の中には、ぴかぴか青びかりを出す小さな虫もいて、ある葉は青くすかし出され、ジョバンニは、さっきみんなの持って行った烏瓜のあかりのようだとも思いました。』


カラスウリは晩夏から初秋に実をつけ、秋のさかりに朱く熟します。しかしいっせいに熟すのではなく未熟も混在しています。したがって祭りで川に流すカラスウリは未熟のもの熟したものどちらでも可能ですが、文中に「青いひかり」とありますので、やはり未熟の実を使ったものと想像します。

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2017年11月24日 ↑ 撮影

カラスウリはジョバンニとカンパネルラが銀河鉄道の旅に出発するきっかけとなる重要なアイテムですが、その燈明となる形状の詳しい記述はありません。いずれの場面でもさらりとカラスウリの語が現れるのみです。

燈明はそのまま川にながすのか、あるいは小さな舟や筏に乗せるのか、さらにはどのような仕組みで発光しているのか。

ただひとつ分かることは、光はカラスウリの内部そのものから発していること、カラスウリをくり抜いて中にロウソクなどを置いているわけではないことです。

そう考えると筏などに乗せずにそのまま川に流すことのほうが相応しいように思われます。また、宮沢賢治はなぜカラスウリを燈明として設定したのか、と考えると第一にその愛らしい形にあり次に野山でごく普通に見られる身近な存在で親しみを覚えることができる、という点にあったのではないかと推測します。

「素朴」というところを重視し、さらに熟した朱色からの連想で燈明を意識したのではないでしょうか。


「天気輪の柱」のゆるい丘の頂上から銀河鉄道の旅に出発したジョバンニはやがて同じ丘のうえで目を覚まし、カンパネルラとの旅は夢であったことを悟ります。

そして川に降りてゆくジョバンニは、そこで起きた哀しい出来事を知ることになります。このときにもカラスウリが2回登場します。


『その河原の水際に沿ってたくさんのあかりがせわしくのぼったり下ったりしていました。向う岸の暗いどてにも火が七つ八つうごいていました。そのまん中をもう烏瓜のあかりもない川が、わずかに音をたてて灰いろにしずかに流れていたのでした。』

哀しくやるせない結末ですが、ジョバンニはカンパネルラとの旅で「ほんとうの幸福」を求める決心をする。そして新たな旅に出発する(とは書いていないが)清澄感あふれる心の旅路の物語です。


・・・ところで、カラスウリとはまったく関係ないのですが、「銀河鉄道の夜の舞台となったのは山梨県北巨摩郡駒井村(現・韮崎市)」という記事が平成10年3月28日の毎日新聞夕刊に掲載されていますので、この際併せて紹介させて頂きます。

その根拠として宮沢賢治が大正4年(1915年)に入学した盛岡高等農林学校農学科第二部の同級生で同校寄宿舎でも同室だった保阪嘉内が残したハレー彗星のスケッチを挙げています。ハレー彗星の出現は明治43年(1910年)で賢治と嘉内はともに14歳でした。

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スケッチの中央に「銀漢ヲ行ク彗星ハ 夜行列車ノ様ニニテ 遙カ虚空ニ消エニケリ」とあり、左端に「ハーリー彗星之図 五・廿夕八刻」とあります。

明治43年5月20日のハレー彗星のスケッチで、遠くの山々は右から駒岳、地蔵、観音、薬師と書かれています。

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賢治がハレー彗星を見たかどうかはわかりませんが、二人の共通の関心事から推察して嘉内は自分が見たハレー彗星を賢治に話したことがあったと見てよいでしょう。

そのときに「夜行列車のようだった」とのフレーズもあるいは出たかもわかりません。この言葉に刺激されて「銀河鉄道の夜」の執筆に入ったのではないか、という趣旨の記事です。


「銀河鉄道の夜」の舞台は岩手県内だけでも各地に候補があるようですので、山梨県韮崎市でもよいのですが、それにしては「銀河鉄道の夜」に出てくる彗星の単語は一カ所のみ、それも言い間違いのかたちで出てくるのはちょっと不思議です。

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烏瓜 前川千帆・画 ↑ 「月明」第2巻第9号(昭和14年)


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アゲハがとまる細枝は、夏の間に蝶の幼虫が葉を食べつくして軸だけになった山椒の木。

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ひまわりと山椒の枝を行き来していたアゲハは、仔猫の好奇心をいたく刺激し、
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ごらんのとうり。  この直後、蝶はヒラリと身をかわして秋空へ・・・。

この個体の蝶(ナミアゲハ)は、かなり弱々しく頼りない飛翔ぶりでしたが、羽に傷みなどはなく、完璧な美しさを保っていましたので、羽化してまだ間もない状態なのでしょう。

アゲハは例年10月下旬くらいまで見ることができます。 しかし、ここ最近の天候不順や気温低下で恐らく我が家周辺では最後のアゲハとなるのではないか、と思っています。
今が見ごろのシロバナヒガンバナ、我が家の近くでは築上町の正光寺の一万本のシロバナヒガンバナが有名ですが、そこまで出かけなにくても我が家の庭を含めてこの時季、あちこちの庭先で咲き誇っているさまをみることができます。

そのうちのひとつ、苅田町の白川郵便局前の小川の土手にて撮影のシロバナです。
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文字を描いているような、いないような。よくわかりませんが、人の手でわざわざ植えられていることだけはわかります。
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でも、よくよく見ると最初は「白川」と書かれていますね。次は不明でそのあとは、「の里」かな?


・・・、とここまで書いてふっとひらめいたのは、「しぜんの里」 ?

シロバナヒガンバナのうしろはアジサイで、土手に沿って長く長く植えられ、これもまた花の季節になると見応え充分です。

石垣とともにいい雰囲気を出しています。
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あけましておめでとうございます。本年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。


上図は、中国河南省唐河県の「針織廠画像石墓」の墓門の鋪首銜環(宮殿や地下墳墓の扉に取り付けられた円環形の引き手/銜は、「くわえる」で環をくわえている)の上部に浅浮彫りされた朱雀で、後漢前期の画像石です。

「河南省画像石拓本展図録/北九州市立美術館発行/1975年」から転載したものですが、図録の説明によると鋪首の部分を含めて大きさ136×65cmの拓本とのこと。

朱雀と鋪首は、ほぼ同じ大きさに描かれていますので、朱雀部分のみでは65×50cmくらいでしょうか。
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左側、墓門北門南扇の朱雀、右側、墓門北門北扇の朱雀 ↑

朱雀は南の守りを司る神獣(神鳥)で、宮殿や地下墳墓では南側に配されます。しかしこの「針織廠石墓」では「北門」となっています。

地下墳墓の入り口(正面)は南向きが原則です。そのため南側に朱雀が描かれることが通常ですので「南門」ではないかと思い、少し奇異な感じがします。

南門が正面入り口であれば朱雀で何の問題もないのですが、実はこの「針織廠石墓」は、東向きに築造され東が正面となっています。

南側を正面とする造墓は後漢中期以降にはっきりしてきますが、「針織廠石墓」が造られたと思われる頃(前漢後期~後漢前期)は、その前の「周」「秦」の時代より東西軸を重視した「坐西朝東」(東向き)で墳墓が造られていました。したがって「北門」は東側正面の右手、つまり北側にある門ということだと思います。

南北軸を重視する都城(城郭都市)の建設は後漢からで、宮殿も坐北朝南(南向き)です。宮殿は一般的に前殿である「朝」と後殿である「寝」に分けられています。

朝は皇帝が政務をとる場で寝は日常生活の場です。宮殿の構造に倣った地下墳墓もこの頃より南側を正面入り口とし、南面する北の奥が最高位の場所となり墳墓主室が置かれています。

下の画像は奈良県明日香村の「キトラ古墳」の朱雀です。キトラ古墳の正面入り口は正しく南側で朱雀は原則通り南壁に描かれています。西の守りを司る白虎、東の青竜、北の玄武も原則通りの位置に配されています。
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平成13年4月4日付けの毎日新聞朝刊より   ↑

キトラ古墳の築造は7世紀末~8世紀初めと考えられ、東西軸を重視した周~前漢時代より1000年以上経過しています。南北軸を重視した後漢からでも600年以上経っています。

中国の墳墓において朱雀や青竜などの方位を守護する四神が登場するのは後漢からで、それ以前では四神に相当するものは存在するものの方位の守護神としては確立していないようです。(四神の方位の原初的な観念は春秋戦国時代(前770~前221年)の曽侯乙墓にすでに見られます。)

もういちど「針織廠石墓」のことに戻ると、墳墓は東を正面として「朱雀」が描かれています。そして「白虎」と「青竜」はともに「南主室北壁門」にあり、方位とは無関係に描かれているようです。

しかも白虎も青竜も羽を持った人物「羽人」とともに描かれています。「羽人」は天帝の使者です。白虎も青竜も羽人に制御され、被葬者(墓主人)を天上界に迎えに来ているように解釈されます。また、墓中に入り込む邪鬼を追い払う「辟邪」の意味も込められていたと思われます。
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羽人と白虎  ↑ 羽人と青竜 ↓   白虎は翼があるので「麒麟」でしょうね。
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そうしてみると「針織廠石墓」の朱雀は、「河南省画像石拓本展 図録」では朱雀となっていますが、「朱雀」ではなく天帝の使者であり、被葬者(墓主人)の徳の高さを表す瑞獣である「鳳凰」とみることができるのではないでしょうか。

鳳凰は、麒麟・竜・霊亀と同じように徳の高い人物(王者などの為政者)が出現したときに現れる瑞獣とされ、戦国時代の楚の「長沙子弾庫楚墓」、同じく楚の「長沙陳家大山楚墓」、前漢の「馬王堆墓」「洛陽卜千秋墓」などに見ることが出来ます。