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昨年登場の885系特急「サガン鳥栖ラッピングトレイン」がデザイン一新して再登場です。

運行は2019年3月1日からで、2019年11月下旬までの予定、とのこと。

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ソニック 17号 列車番号 3017M  博多発・大分行(大分駅で宮崎空港行のにちりん13号に接続) 2019年6月13日 11時53分撮影 小波瀬西工大前駅付近にて

白地の車体にブルーが爽やかですが、これに田植え直後の田んぼにもう少し水が入っていればさらに情感が増したのではないか、と自分では思っています。

実際、今年の田植え時の水不足は深刻で、農家の皆さんは水の確保に苦労されているようです。本日現在、北部九州は梅雨入りしていない状態です。

2~3日後には梅雨入りできるのではないか、と報道されていますが・・・。



著者・鈴木駿太郎氏は明治28年の神奈川県横須賀生まれ。
神奈川県立第四中学を卒業後、臨時教員養成所に入校、大正末年に文部省中等教員地理科検定合格、小学校・中学校教員在籍二十四年、その後出版業に従事。

教員試験に合格した頃より天文に興味を持ち、教員生活の傍ら星座名や星名の各地域・各言語での呼名やその意味・由来・エピソードなどを蒐集。

これらをまとめた原稿を戦前に東京天文台の神田茂に提出し校閲を得たが出版に至らず、終戦後に朝鮮からの引揚に際して原稿を現地に残したままとなった、とのこと。

戦後、主に社会事業に携わりながら星名蒐集を再開し、昭和40年の秋に脱稿。 完成原稿は東京天文台の関口直甫、神田茂、東京商船大学の渡辺敏夫の諸氏の校閲を経て昭和43年(1968)に恒星社厚生閣より刊行。

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本書冒頭の「まえがき」に『星座を仰いで星々をおぼえ、これに親しむにはこれを神話などと結びつけて記憶することが望ましい、そしてこの場合に利用し得る星図としてはフラムスチード星図が最良のものであると信じ、その図版を借用し、これを中心として解説をすすめてゆくこととした。』

とあるように、本書全334ページのうち48ページを使って見開き2ページのフラムスチード星座絵25図が掲載されています。

フラムスチード星図は、イギリスのグリニッジ天文台の創設に尽力し、その初代台長となったジョン・フラムスチード(1646-1719)の恒星の位置観測に基づき、彼の没後1729年に当時のイギリス画壇の重鎮だったジェームズ・ソーンヒルの原図をもとにした星座絵を添えて出版された星図です。

初版はロンドンで出版されましたが、第2版は1776年にパリで出版されています。その後1781年に新版がロンドンで、第2版の改訂版とも言える第3版が1795年にパリで出版されました。本書の掲載星図は、昭和18年に恒星社厚生閣が発行した「フラムスチード天球図譜」と同じもので1776年の第2版です。

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オリオン座・牡牛座付近/ 星座名と主要星の固有名に加えて中国星座(星宿と天官)の名が記載されています。この図ではオリオンの三ツ星の下に「参(しん)」、オリオン頭部に「觜(し)」、左端のふたご座に「井(せい)」、右上端に「胃(い)」、おうし座にも「昴(ぼう)」と「畢(ひつ)」が見られます。

これらはいずれも「二十八宿」に含まれますが、本文解説ページでは二十八宿以外の星座「天官」も詳細に図示されています。

中国の星座については「中国の星座の歴史/大崎正次著/雄山閣出版/1987年」に非常に詳しい解説が載っていますが、現在ではかなり入手困難であり、ほかに類似書籍が少ないなか、「星の事典」は中国星座にご興味がある方にとって大変有益な図書に成り得ると思います。

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本文解説ページ(オリオン座)/星座の由来とラテン語名のほかにの古代アラビアや古代ヘブライ語での名称と意味、加えて中国の星座名(星宿名・天官名)も解説されています。

また、中国星座だけではなく、江戸時代に渋川春海が制定した星座(61星座・308星)も記載されています。

上の図では ↑ オリオンの三ツ星の右下の「大宰府」、図の上端の「玄蕃(げんば)」が渋川春海の制定星座で、1699年(元禄12年)に春海の嗣子・昔尹(ひさただ)の名で刊行された星図「天文成象」に記載されたものです。春海の制定星座の同定は渡辺敏夫氏によるものです。

主要星についてはラテン語・アラビヤ語の名称と語源・意味、光度、スペクトル型、変光星、重星などが記され、星雲・星団も著名なものは図付きで解説されています。

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さそり座の解説ページ  ↑ 星座解説は現行星座88のすべてと現在では使われていない星座「アルゴ座」の合計89星座です。
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へびつかい座 ↑ 星の横に添えられた数字は、フラムスチード番号と呼ばれるもので、星座の西の端から順に1・2・3・・と付けられています。

ラムスチード番号は現在の星図でも使われていて、たとえばオリオン座α星(ベテルギウス)は、フラムスチード番号58番星、おとめ座のα星(スピカ)は、おとめ座67番星、という具合です。

巻末に付録として著者考案の「エンドレス星図」が折り込まれています。これは横長の星図を本体から切り取り、両端を糊付けして円筒形にして使うもので、各星座の位置関係がよくわかるユニークな星図です。もちろん、切り取らずにそのまま星図としても使用可能です。



星の事典

著者: 鈴木駿太郎
発行年: 昭和43年1月15日 第1版第1刷発行
発行所: 恒星社厚生閣
発行者: 志賀正路
本体サイズ: 26×19センチ/図版(星図)25図/写真(散光星雲・暗黒星雲・球状星団等)16ページ/本文 122~313ページ/索引 314~332ページ/あとがき 333~334ページ
定価: 2800円
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改訂版: 昭和49年(1974)発行/ページ数等は第1版と同じ/定価4000円(税込)
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改訂2版: 昭和54年(1979))発行/ページ数等は第1版と同じ/定価4500円(税込)
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新装版: 昭和63年(1988)発行/ページ数等は第1版と同じ/定価5800円(税込)
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なお、著者は俳句結社に所属した俳人でもあり、昭和38年に「句集 流星群」を上梓されています。
また、昭和24年創立の横須賀天文同好会にも所属していました。(日本アマチュア天文史改訂版/230ページ)


3月21日、福岡県は桜開花を宣言。前年より2日遅く、例年より2日早い開花とのこと。前日の長崎県の開花に次いで全国2番目の開花宣言。

この日の当地の気温は24.5度で本年度最高を記録。しかし、この後、寒の戻りとなり、晴れ間が時折り覗くものの北風強く、寒い毎日。

本日も気温10度前後の寒い朝を迎えましたが、昨日と違うことは「幻日」の出現です。

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2019年3月25日 7時01分撮影  ↑

幻日出現にはさまざま条件が必要ですが、今朝は、ほぼ無風状態で、これも肝要な条件のひとつ。

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2019年3月25日 7時17分撮影  ↑  今季初めての出現です。


明けましておめでとうございます。
本年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。


今年の干支「亥」に因んで黒田神社(みやこ町)の拝殿の天井絵「イノシシ」を取り上げてみました。

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明治期の画師山田義昌(松高斎霍眠・しょうこうさい かくみん)の画で、明治20年頃の制作(霍眠52才の頃)と考えられています。


山田霍眠の黒田神社天井絵については、2018年7月24日と26日、9月24日にも当ブログに掲載していますので、併せてご覧頂ければ幸いです。

https://irukaboshi.exblog.jp/27005100/


天井絵は、イノシシ以外にも「牛」や「虎」「兎」などの「十二支」の動物が画かれていますが、「子(ネズミ)」は確認できません。

天井板そのものが無くなっている箇所や絵の具の剥落激しく題材不明がいくつかありますので、あるいはそのなかのどれかに描かれていたのかもわかりません。いずれにしても、「十二支」として描いたわけではなく、絵から得る印象として単純に題材として選ばれたのではないかと推察します。


明確に「十二支」として描かれているとわかるのは、拝殿の格天井の中央付近に描かれた『方位図』です。


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『方位図』の二重の円の内側に東西南北が画かれていることがわかると思いますが、その内側の左上の「南」の外側に「馬(午)」が画かれています。


劣化が激しいので次の絵は判別不明ですが、「西」のところに「鶏(酉)」が描かれていますので「午」の次は「羊(未)」であることがわかります。

同様にたどって行くと画面下端の中央に「猪(亥)」が確認できます。

方位図のイノシシは全体像で動きは少なく、絵画として面白みに欠けますが、最初に掲げた草むらから半身を乗り出すイノシシは表情も険しく勢いを感じます。半身の構図が良く効いた作ではないかと思う次第です。


ところで、「十二支」の子・丑・寅・卯・・・・は、それぞれ鼠・牛・虎・兎・・・と動物で表されますが、本来はこれらの動物とは全く関係なく、一年間の農作業を示したものであることが、中国の漢代の「白虎通」に書かれているそうです。


子(シ)・丑(チュウ)・寅(イン)・卯(ボウ)・・・亥(ガイ)が、作物の成長段階を表した言葉である、と言うことだそうで子(シ)は種(タネ)の状態、丑(チュウ)は、曲がった細いひも(紐)の状態、つまりタネから細いひものような根が出るとき、

次の寅(イン)の本来の字形は、真っ直ぐに伸びた「矢」のかたちで、芽や根がまさに伸び出ようとしている状態、卯(ボウ)の字形は窓を左右に開いた形が元々で、タネから芽と根が窓を開くように出て来た状態を表しているのだそうです。


同じように、昨年の干支・「戌(ジュツ)」は、武器である「才(ほこ)」が本来の字形で、刈り入れた作物を外敵から大切に守ることを表し、本年の干支「亥(ガイ)」は、動物の全体の骨組(骸骨)の意味や「ことごとく・すべて」の意味があり、全体の総まとめを表している、とのことです。

つまり、一年間を12に分けた時、それぞれの時季の農作業の指針となる「農暦」が本来の姿であり、覚えやすくするために身近の動物の名称を取り入れた、と言うことが「白虎通」に解説されているそうです。

・・・となれば、過去11年間の総まとめの年が今年である、と言うことになりますが、さて、うまくまとめることが出来るかどうか・・・。


(2018年7月24日の続きです)

黒田神社の格天井絵を大きく分けると、植物・動物・人物・器物・風景となりますが、このうち風景は「松に富士」を描いた1点のみ。 それもかなり形式的な図柄で江戸時代以来の観念的富士山図そのものです。

この形式的構図は「比翼の靏」や「扇にお多福面」「面箱に翁面」「鹿に紅葉」「唐獅子」「花卉図」「竹に雀」などにもみられます。形式的構図を伝統的題材と構図と言い換えても良いのですが、普段から見慣れた構図は鑑賞者に安心感を与え神社に相応しい落ち着いた雰囲気を創り出す半面、新鮮味がありません。

全体の多くを占める植物(花)の絵も伝統的技法で描かれていますので、静謐感はありますが動きに乏しく、審美眼を持たない私(ブロク主)が言うのも僭越ですが面白みに欠けるように思われます。

だからこそなのでしょうか、花卉図の1/3程度は花に「雀」を配して変化富んだ構図を創出しているようです。


それに対して、人物図は表情豊かに個性的顔立ちでそれぞれの天井絵に描き分けられています。 そして動いている人物像は真に躍動感に満ちた姿ポーズを取り、座する人物や横臥する人物を描いた図はその場の静寂感がこちらまで伝わってくる趣きです。

神仙図などはある程度の決まりごとのなかで描くのでしょうが、その制約のなかで描かれた鯉に乗る仙人、飛竜を御する神人、桃を手にして静かに佇む仙人、等々、その仙人のそれぞれの神力までも描こうとしているかのようです。

「万歳図」や「神仙図」などは手本となる画帳があるのかもわかりませんが、それにしても黒田神社の天井絵人物画は山田霍眠の畢生の出来栄えなのではないでしょうか。


・・・なので、今回は「人物画」のみをいくつかご紹介してこの稿を終わります。なお、拝殿の周囲に掲げられた三十六歌仙の奉納画はいつの時代の制作でどなたの手になる作品かよく解りません。線描の強弱・濃淡などを見ると霍眠の画とは異なるように思いますが、どうでしょうか? 乞う、ご教示です。


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一反木綿に乗る仙人図???


なお、この稿の初回(2018年7月24日)に掲載した霍眠の略歴は「郷土史さいがわ 第十九号/画師 松高斎霍眠(山田義昌)-山鹿村「上の庄屋」弟義昌の生涯/一川淳江著/平成13年」を参考にさせて頂きました。

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黒田神社の二の鳥居とその奥の三の鳥居
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拝殿正面の頭貫上の「松、梅、笹に豊前国の領主小笠原家の家紋と同じ三階菱」の透かし彫り。
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左側の木鼻 ↑ 右側の木鼻 ↓
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黒田神社は、文化14年(1817年)に拝殿が焼失しています。現代の拝殿は、明治15年(1882年)に改築されたものです。

霍眠の天井絵は黒田神社のほかに、みやこ町勝山宮原の「若宮八幡宮」、みやこ町犀川花熊の「二児神社」、香春町採「来迎寺」などに残っています。

また、京都四条派の菊池芳水に師事して専門画家となった霍眠の子息・季造(山田元仙)の天井絵も若宮八幡宮の一部に残り、「聖徳太子画像(みやこ町犀川・長善寺)」や「釈迦涅槃図(香春町採銅所・来迎寺)」も残されていることを付記いたします。

霍眠は、明治39年(1906年)に田川市糒の長男廣吉の家で死去しています。享年72才。墓はみやこ町犀川山鹿にあります。

墓の裏面は墓誌で甥の吉田増蔵(学軒)による撰文と書が刻まれています。


福岡県みやこ町勝山中黒田の「黒田神社」に明治期の画師山田義昌(松高斎霍眠・しょうこうさい かくみん)制作の格天井絵が残されています。

黒田神社はもともと村内(黒田村)に分散していた八幡宮・天疫神・天神社の三社を合祀したもので、建立の年代ははっきりしませんが、建立後しばらくして奉納されたと思われる後土御門上皇の書による額「三社和光」の裏面に、文明十四年壬寅(1482年)と彫られていることにより、室町時代からの長い社歴を有している神社であることがわかります。


「三社和光」の奉納額については不思議な出来事が語り継がれています。  ↓

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明治十二年の銘がある一の鳥居から二の鳥居を望む。 ↓

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さて、画師山田霍眠のこと。

幼名は宮内、のちに源吾と改めた山田義昌は天保六乙未年(1835年)に父利兵衛、母とちの間に三男として誕生。

利兵衛(山田重孝)は山鹿村(みやこ町犀川山鹿地区)の庄屋職を勤め、義昌の祖父に当たる弥次兵衛(山田知義)も庄屋であり、さらに義昌の兄耕作も庄屋となり、義昌自身も幕末から明治に改まる前後に夏吉村(田川市)や中津原村(香春町)の庄屋となっています。

幼時から利発であったと伝えられる義昌は、長じて大分県中津の三原屋(府県御定宿・汽船客取扱所 一等旅籠屋)の店員となり、のちに大橋監場(藩米の検査所)勤務を経て小倉城代中野家の若党に加えられていた時に、のちの筆頭家老嶋村志津馬と大羽内蔵之助に見出されて藩学の「思永館」の庶務主任書記に抜擢されています。

義昌はこの庶務主任書記時代に絵を始めたと思われますが、特定の師匠に就いて絵を習ったのではなく独習だったのではないか、と云われています。

このことは、「山田義昌之墓」の裏面の墓碑に「吉田学軒」の撰文で『少小善書画俳歌皆無所師承蓋其天稟使然也(少々書画俳歌を善くするも皆師承するところなし けだしその天稟の然らしむるなり)』とあることからも、ある程度納得させられることと思われます。

吉田学軒は「昭和元号の創案者・吉田増蔵」で山田義昌の甥に当たります。
増蔵の母「いつ」は、山田義昌のすぐ上の姉です。


その霍眠山田義昌が黒田神社に残した格天井絵は、拝殿中央に49枚、左右脇殿にそれぞれ54枚ずつで合計157枚。

制作は明治20年頃で霍眠が52才の頃のことと云われています。 霍眠は明治5年に庄屋を辞し、現在の田川市の糒で酒造業を始めていますが、5年あまりで火難に遭い、添田町に移住。 その後、大橋町(現 行橋市)で京都・仲津両郡の郡書記などを勤めるも、故郷山鹿に帰郷。 以後、画業に専念したということです。

拝殿中央の天井絵  ↓  奥に「天満宮」の額が掲げられています。画面最手前の中央の白い円形は、十二支の方位図。

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左脇殿  ↓  牛若丸・弁慶の奉納額が見えています。
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右脇殿  ↑  拝殿の周囲には「三十六歌仙」扁額が奉納されています。

天井絵の題材は多岐にわたっていますが、いちばん多いのは中国や日本の故事・説話の一場面を描いたもので46画あります。

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次いで靏・鷲・オシドリ・鴨・ニワトリなどの鳥を描いた31画
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その次は菊・水仙・アジサイ・芍薬・ソテツ・オモダカなどの植物(花)の27画、動物(ネコ.犬.神馬.鯉.虎、猿、鹿、イノシシなど)の18画
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神仙図11画、門付芸など芸能を描いた4画、武者絵3画、以下、方位図、美人図、波千鳥、翁面、松に富士山、おたふく面、天狗(異人図?)、飾り人形図が各1画と続きます。
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色彩が完全に剥落して何が描かれているかわからないものが4画、奉納の大額に一部または全部が隠れていて題材不明が4画、天井板そのものが無い箇所が一カ所です。


上記のように最も多い題材は故事・説話ですが、これは概数と思ってください。・・・というのも、単なる人物画なのか、それとも何かの故事を表しているのか判然としないものもあるためです。

あるいは、象と人物を描いた天井絵などは、どちらが主なのか良く分からず動物画なのか人物画なのか、または故事に因んだものなのか等々、判断に苦しみ、結果として場違いな分類に入っている絵が多々あるのではないかと思われるからです。


2018年7月26日に続きます。


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アゲハがとまる細枝は、夏の間に蝶の幼虫が葉を食べつくして軸だけになった山椒の木。

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ひまわりと山椒の枝を行き来していたアゲハは、仔猫の好奇心をいたく刺激し、
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ごらんのとうり。  この直後、蝶はヒラリと身をかわして秋空へ・・・。

この個体の蝶(ナミアゲハ)は、かなり弱々しく頼りない飛翔ぶりでしたが、羽に傷みなどはなく、完璧な美しさを保っていましたので、羽化してまだ間もない状態なのでしょう。

アゲハは例年10月下旬くらいまで見ることができます。 しかし、ここ最近の天候不順や気温低下で恐らく我が家周辺では最後のアゲハとなるのではないか、と思っています。
今が見ごろのシロバナヒガンバナ、我が家の近くでは築上町の正光寺の一万本のシロバナヒガンバナが有名ですが、そこまで出かけなにくても我が家の庭を含めてこの時季、あちこちの庭先で咲き誇っているさまをみることができます。

そのうちのひとつ、苅田町の白川郵便局前の小川の土手にて撮影のシロバナです。
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文字を描いているような、いないような。よくわかりませんが、人の手でわざわざ植えられていることだけはわかります。
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でも、よくよく見ると最初は「白川」と書かれていますね。次は不明でそのあとは、「の里」かな?


・・・、とここまで書いてふっとひらめいたのは、「しぜんの里」 ?

シロバナヒガンバナのうしろはアジサイで、土手に沿って長く長く植えられ、これもまた花の季節になると見応え充分です。

石垣とともにいい雰囲気を出しています。
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あけましておめでとうございます。本年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。


上図は、中国河南省唐河県の「針織廠画像石墓」の墓門の鋪首銜環(宮殿や地下墳墓の扉に取り付けられた円環形の引き手/銜は、「くわえる」で環をくわえている)の上部に浅浮彫りされた朱雀で、後漢前期の画像石です。

「河南省画像石拓本展図録/北九州市立美術館発行/1975年」から転載したものですが、図録の説明によると鋪首の部分を含めて大きさ136×65cmの拓本とのこと。

朱雀と鋪首は、ほぼ同じ大きさに描かれていますので、朱雀部分のみでは65×50cmくらいでしょうか。
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左側、墓門北門南扇の朱雀、右側、墓門北門北扇の朱雀 ↑

朱雀は南の守りを司る神獣(神鳥)で、宮殿や地下墳墓では南側に配されます。しかしこの「針織廠石墓」では「北門」となっています。

地下墳墓の入り口(正面)は南向きが原則です。そのため南側に朱雀が描かれることが通常ですので「南門」ではないかと思い、少し奇異な感じがします。

南門が正面入り口であれば朱雀で何の問題もないのですが、実はこの「針織廠石墓」は、東向きに築造され東が正面となっています。

南側を正面とする造墓は後漢中期以降にはっきりしてきますが、「針織廠石墓」が造られたと思われる頃(前漢後期~後漢前期)は、その前の「周」「秦」の時代より東西軸を重視した「坐西朝東」(東向き)で墳墓が造られていました。したがって「北門」は東側正面の右手、つまり北側にある門ということだと思います。

南北軸を重視する都城(城郭都市)の建設は後漢からで、宮殿も坐北朝南(南向き)です。宮殿は一般的に前殿である「朝」と後殿である「寝」に分けられています。

朝は皇帝が政務をとる場で寝は日常生活の場です。宮殿の構造に倣った地下墳墓もこの頃より南側を正面入り口とし、南面する北の奥が最高位の場所となり墳墓主室が置かれています。

下の画像は奈良県明日香村の「キトラ古墳」の朱雀です。キトラ古墳の正面入り口は正しく南側で朱雀は原則通り南壁に描かれています。西の守りを司る白虎、東の青竜、北の玄武も原則通りの位置に配されています。
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平成13年4月4日付けの毎日新聞朝刊より   ↑

キトラ古墳の築造は7世紀末~8世紀初めと考えられ、東西軸を重視した周~前漢時代より1000年以上経過しています。南北軸を重視した後漢からでも600年以上経っています。

中国の墳墓において朱雀や青竜などの方位を守護する四神が登場するのは後漢からで、それ以前では四神に相当するものは存在するものの方位の守護神としては確立していないようです。(四神の方位の原初的な観念は春秋戦国時代(前770~前221年)の曽侯乙墓にすでに見られます。)

もういちど「針織廠石墓」のことに戻ると、墳墓は東を正面として「朱雀」が描かれています。そして「白虎」と「青竜」はともに「南主室北壁門」にあり、方位とは無関係に描かれているようです。

しかも白虎も青竜も羽を持った人物「羽人」とともに描かれています。「羽人」は天帝の使者です。白虎も青竜も羽人に制御され、被葬者(墓主人)を天上界に迎えに来ているように解釈されます。また、墓中に入り込む邪鬼を追い払う「辟邪」の意味も込められていたと思われます。
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羽人と白虎  ↑ 羽人と青竜 ↓   白虎は翼があるので「麒麟」でしょうね。
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そうしてみると「針織廠石墓」の朱雀は、「河南省画像石拓本展 図録」では朱雀となっていますが、「朱雀」ではなく天帝の使者であり、被葬者(墓主人)の徳の高さを表す瑞獣である「鳳凰」とみることができるのではないでしょうか。

鳳凰は、麒麟・竜・霊亀と同じように徳の高い人物(王者などの為政者)が出現したときに現れる瑞獣とされ、戦国時代の楚の「長沙子弾庫楚墓」、同じく楚の「長沙陳家大山楚墓」、前漢の「馬王堆墓」「洛陽卜千秋墓」などに見ることが出来ます。
(2016年11月3日の続きです) 
前回は→こちら。


一階ホールへと続く階段  ↓ 壁面は外壁のデザインに呼応して屈曲し、視線をリズミカルに舞台中央へと向かわせます。
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壁面の屈曲デザイン ↑ 画像上部のギザギザはピンルームの底部です。
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舞台は幅20メートル、奥行9.5メートル ↑ ホールは1050人収容できます。
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ピンルームの外観デザインも直線を基調とし、会館全体の雰囲気を統一させています。
さらには、トイレドアも直線を取り入れた ↓ デザインとなっています。
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行橋市民会館は昭和39年9月の開館以来、さまざまな催し物の場として多くの市民に親しまれてきましたが、平成28年10月30日開催の「ありがとう市民会館 美夜古芸術祭」を最後として52年間の歴史を閉じることになりました。
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最終公演は、第1部が行橋・京築地方に伝わる豊玉姫伝説をモチーフにした「音楽物語 浦島太郎」、第2部は開館から今日までの社会の幾多の出来事を歌とともに振り返り見る、という2部構成の音楽と映像と語りで綴る市民会館50年の歴史物語でした。
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市民会館の建坪は2758平方メートル、事業費1億5828万円 国民年金還元融資を受けたほか、たくさんの市民からの寄付金で完成を迎えています。

落成式は行橋市制10周年記念式典と合わせて昭和39年10月10日に行われましたが、この日は「第18回夏季オリンピック東京大会」の開会式当日でもありました。