『その夜は早速、二百倍という私にとっては夢のような高倍率で火星をのぞきました。その瞬間、アッと喜びの声をあげました。ごらんなさい、まっ暗な大空を背景として、ポッカリ浮き出ている赤い火星の顔には、実にあざやかに、しかも非常に黒っぽい、大きな模様が極冠から中央にかけて、まるで夢のように浮きぼりにされているではありませんか/(火星の模様-佐伯恒夫)』


上記文章は、「出版ダイジェスト昭和46年5月11日発行第684号」の「特集:天文-先輩たちの観測記」から一部を転記したものです。 しかし、より正確には「恒星社刊・佐伯恒夫著「火星とその観測」昭和27年・33年(改訂版)・43年・52年改訂増補版」からの抜粋です。

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「出版ダイジェスト」はその名称のとおり、紹介したい書籍の主要部分抜粋とオリジナル記事からなる月3回発行の新聞です。 上記引用の第684号「特集:天文」の掲載記事は、「東洋美術のなかの星-野尻抱影/天文ファン-村山定男/彗星観測ノート-関勉/変光星遍歴-下保茂/天の壁画集(スズキ星座図譜・フラムスチード天球図譜)/その他」となっています。

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佐伯恒夫氏(1916-1996)の初めての火星観測は1933年だった、とのことで、この年は2年2か月ごとに地球に接近する火星のいわゆる「小接近」の年でした。

この時の火星は前年の晩秋に獅子座に入った後、徐々に地球に接近しながら獅子座レグルス付近を移動しています。最接近は1933年3月3日です。

つまり、観測好機は冬の間だったわけで、佐伯氏も自作の8センチ反射望遠鏡を使って「寒い冬の夜」に幾夜も観測を続けた、と引用文の前文に記しています。

最接近時の火星の光度はマイナス1等、視直径約14秒、距離は約約1億キロでした。

15年乃至17年ごとに火星が近づく「大接近」時の視直径は約25秒、距離は約5700万キロですので、「大接近」と比べると観測条件はかなり悪いのですが、それでも観測のチャンスであることにかわりなく、上記抜粋文は、火星の模様を初めて見た佐伯氏の驚きと喜びがこちら側にも素直に伝わってくる文章となっています。佐伯氏、17才前後の出来事です。



さて、その大接近の件、今年(2018年)は15年ぶりとなる大接近の年です。 最接近は7月31日ですでに過ぎていますが、まだまだ見やすい位置にあります。

太陽が沈んで星々が見え始めたころ、南東の中天あたりでまっさきに輝く赤い星が火星です。まわりに明るい星が他にありませんので、すぐに見つけられることと思います。


前回の大接近(2003年)は、5576万キロメートルまで接近したのに対し、今回2018年は5761万キロメートルまでで若干の差がありますが、小望遠鏡でも濃い模様などは確認出来ることでしょう。


・・・ということで、本日は過去の火星接近時の写真を使った天文誌の表紙をUPしてみました。


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天文月報 1954年1月号  ↑  南アフリカ・ラモントハッセイ天文台撮影、27インチ屈折望遠鏡使用 撮影日不明
1954年は大接近の年だったわけではありませんが、7月2日に6399万キロまで接近しています。

翌々年の1956年が大接近年で、9月7日に5655万キロまで接近していますので、1954年は準大接近だった、とでも呼んでいいのではないでしょうか。


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天文月報 1971年10月号  ↑  東京天文台(三鷹)撮影、38センチ屈折望遠鏡使用 撮影日は1971年8月8日
上方に白く南極冠が光り、中央に「アリンの爪」や「大シルチス」が見えています。最接近は8月12日で5620万キロまで接近。


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天文ガイド 1969年9月号  ↑  東京天文台(堂平)撮影、91センチ反射望遠鏡使用 撮影日は1969年5月3日
1969年6月9日に7173万キロまで接近していますが、この年は小接近で、翌々年の1971年が大接近であり、最接近日の8月12日と距離は上記のとおり。


次は写真ではなくスケッチですが、同じく1971年の大接近時のものです。

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惑星ガイドブック1 月惑星研究会編 誠文堂新光社 1981年発行
1971年8月10日 25センチ反射望遠鏡による堀口令一氏のスケッチ

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星の手帖 1988年夏号 ↑ 特集-火星大接近 河出書房新社発行
火星の南極冠付近 NASAのバイキング2号オービター(1976-78年に火星軌道上で運用)が撮影した極冠の縮小期の映像


1988年の大接近時の距離は、5881万キロ、最接近は9月22日、最も明るいときの光度は、マイナス2.7等
この大接近の2年前にも地球に近づいており、その時の距離は6037キロ、最接近は1986年7月16日


火星は冬期に地球に近づいたときよりも夏期に接近のときのほうが互いの軌道の関係上、距離は短くなります。 冬期最接近時の例を少し掲載します。

1950年3月27日  9719万㎞

1952年5月8日  8350万㎞

1958年11月8日  7295万㎞

1960年12月25日 9077万㎞

1963年2月3日   10029万㎞

1965年3月12日  10000万㎞

1975年12月9日  8459万㎞

1978年1月19日  9771万㎞

1980年2月26日  10132万㎞

1993年1月3日   9365万㎞

1995年2月11日  10107万㎞


いずれも小接近のときの距離で平均9360万㎞離れています。 一方、夏に接近した場合は平均で6570万㎞でその差は、2790万㎞となります。


過去70年間の大接近(5回)はすべて夏に起きています。 平均の接近距離は、5697万㎞です。 今回2018年は5761万㎞ですので平均的な大接近というところでしょうか。

次回の大接近は2035年9月11日で5691万㎞と予測されています。


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# by iruka-boshi | 2018-08-19 22:40 | Comments(0)


今年の3月から博多~長崎間で運行されています「JR九州885系特急かもめ」の「サガン鳥栖ラッピングトレイン」ですが、このラッピングトレインは大分~博多間でもソニックとして運行されています。

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小波瀬西工大前駅附近にて2018年8月15日撮影   大分発 博多行 ソニック 10号 列車番号 3010M


6両編成の両面にブルーとピンクのチームカラーを基調にして選手・監督・マスコットキャラクター・エンブレムを配しています。各車両のデザインは両面が異なっていて、上り・下りともに人目を惹く派手なラッピングトレインを楽しむことができます。


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# by iruka-boshi | 2018-08-16 08:32 | Comments(0)

(2018年7月24日の続きです)

黒田神社の格天井絵を大きく分けると、植物・動物・人物・器物・風景となりますが、このうち風景は「松に富士」を描いた1点のみ。 それもかなり形式的な図柄で江戸時代以来の観念的富士山図そのものです。

この形式的構図は「比翼の靏」や「扇にお多福面」「面箱に翁面」「鹿に紅葉」「唐獅子」「花卉図」「竹に雀」などにもみられます。形式的構図を伝統的題材と構図と言い換えても良いのですが、普段から見慣れた構図は鑑賞者に安心感を与え神社に相応しい落ち着いた雰囲気を創り出す半面、新鮮味がありません。

全体の多くを占める植物(花)の絵も伝統的技法で描かれていますので、静謐感はありますが動きに乏しく、審美眼を持たない私(ブロク主)が言うのも僭越ですが面白みに欠けるように思われます。

だからこそなのでしょうか、花卉図の1/3程度は花に「雀」を配して変化富んだ構図を創出しているようです。


それに対して、人物図は表情豊かに個性的顔立ちでそれぞれの天井絵に描き分けられています。 そして動いている人物像は真に躍動感に満ちた姿ポーズを取り、座する人物や横臥する人物を描いた図はその場の静寂感がこちらまで伝わってくる趣きです。

神仙図などはある程度の決まりごとのなかで描くのでしょうが、その制約のなかで描かれた鯉に乗る仙人、飛竜を御する神人、桃を手にして静かに佇む仙人、等々、その仙人のそれぞれの神力までも描こうとしているかのようです。

「万歳図」や「神仙図」などは手本となる画帳があるのかもわかりませんが、それにしても黒田神社の天井絵人物画は山田霍眠の畢生の出来栄えなのではないでしょうか。


・・・なので、今回は「人物画」のみをいくつかご紹介してこの稿を終わります。なお、拝殿の周囲に掲げられた三十六歌仙の奉納画はいつの時代の制作でどなたの手になる作品かよく解りません。線描の強弱・濃淡などを見ると霍眠の画とは異なるように思いますが、どうでしょうか? 乞う、ご教示です。


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一反木綿に乗る仙人図???


なお、この稿の初回(2018年7月24日)に掲載した霍眠の略歴は「郷土史さいがわ 第十九号/画師 松高斎霍眠(山田義昌)-山鹿村「上の庄屋」弟義昌の生涯/一川淳江著/平成13年」を参考にさせて頂きました。

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黒田神社の二の鳥居とその奥の三の鳥居
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拝殿正面の頭貫上の「松、梅、笹に豊前国の領主小笠原家の家紋と同じ三階菱」の透かし彫り。
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左側の木鼻 ↑ 右側の木鼻 ↓
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黒田神社は、文化14年(1817年)に拝殿が焼失しています。現代の拝殿は、明治15年(1882年)に改築されたものです。

霍眠の天井絵は黒田神社のほかに、みやこ町勝山宮原の「若宮八幡宮」、みやこ町犀川花熊の「二児神社」、香春町採「来迎寺」などに残っています。

また、京都四条派の菊池芳水に師事して専門画家となった霍眠の子息・季造(山田元仙)の天井絵も若宮八幡宮の一部に残り、「聖徳太子画像(みやこ町犀川・長善寺)」や「釈迦涅槃図(香春町採銅所・来迎寺)」も残されていることを付記いたします。

霍眠は、明治39年(1906年)に田川市糒の長男廣吉の家で死去しています。享年72才。墓はみやこ町犀川山鹿にあります。

墓の裏面は墓誌で甥の吉田増蔵(学軒)による撰文と書が刻まれています。


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# by iruka-boshi | 2018-07-26 05:48 | Comments(0)

福岡県みやこ町勝山中黒田の「黒田神社」に明治期の画師山田義昌(松高斎霍眠・しょうこうさい かくみん)制作の格天井絵が残されています。

黒田神社はもともと村内(黒田村)に分散していた八幡宮・天疫神・天神社の三社を合祀したもので、建立の年代ははっきりしませんが、建立後しばらくして奉納されたと思われる後土御門上皇の書による額「三社和光」の裏面に、文明十四年壬寅(1482年)と彫られていることにより、室町時代からの長い社歴を有している神社であることがわかります。


「三社和光」の奉納額については不思議な出来事が語り継がれています。  ↓

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明治十二年の銘がある一の鳥居から二の鳥居を望む。 ↓

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さて、画師山田霍眠のこと。

幼名は宮内、のちに源吾と改めた山田義昌は天保六乙未年(1835年)に父利兵衛、母とちの間に三男として誕生。

利兵衛(山田重孝)は山鹿村(みやこ町犀川山鹿地区)の庄屋職を勤め、義昌の祖父に当たる弥次兵衛(山田知義)も庄屋であり、さらに義昌の兄耕作も庄屋となり、義昌自身も幕末から明治に改まる前後に夏吉村(田川市)や中津原村(香春町)の庄屋となっています。

幼時から利発であったと伝えられる義昌は、長じて大分県中津の三原屋(府県御定宿・汽船客取扱所 一等旅籠屋)の店員となり、のちに大橋監場(藩米の検査所)勤務を経て小倉城代中野家の若党に加えられていた時に、のちの筆頭家老嶋村志津馬と大羽内蔵之助に見出されて藩学の「思永館」の庶務主任書記に抜擢されています。

義昌はこの庶務主任書記時代に絵を始めたと思われますが、特定の師匠に就いて絵を習ったのではなく独習だったのではないか、と云われています。

このことは、「山田義昌之墓」の裏面の墓碑に「吉田学軒」の撰文で『少小善書画俳歌皆無所師承蓋其天稟使然也(少々書画俳歌を善くするも皆師承するところなし けだしその天稟の然らしむるなり)』とあることからも、ある程度納得させられることと思われます。

吉田学軒は「昭和元号の創案者・吉田増蔵」で山田義昌の甥に当たります。
増蔵の母「いつ」は、山田義昌のすぐ上の姉です。


その霍眠山田義昌が黒田神社に残した格天井絵は、拝殿中央に49枚、左右脇殿にそれぞれ54枚ずつで合計157枚。

制作は明治20年頃で霍眠が52才の頃のことと云われています。 霍眠は明治5年に庄屋を辞し、現在の田川市の糒で酒造業を始めていますが、5年あまりで火難に遭い、添田町に移住。 その後、大橋町(現 行橋市)で京都・仲津両郡の郡書記などを勤めるも、故郷山鹿に帰郷。 以後、画業に専念したということです。

拝殿中央の天井絵  ↓  奥に「天満宮」の額が掲げられています。画面最手前の中央の白い円形は、十二支の方位図。

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左脇殿  ↓  牛若丸・弁慶の奉納額が見えています。
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右脇殿  ↑  拝殿の周囲には「三十六歌仙」扁額が奉納されています。

天井絵の題材は多岐にわたっていますが、いちばん多いのは中国や日本の故事・説話の一場面を描いたもので46画あります。

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次いで靏・鷲・オシドリ・鴨・ニワトリなどの鳥を描いた31画
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その次は菊・水仙・アジサイ・芍薬・ソテツ・オモダカなどの植物(花)の27画、動物(ネコ.犬.神馬.鯉.虎、猿、鹿、イノシシなど)の18画
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神仙図11画、門付芸など芸能を描いた4画、武者絵3画、以下、方位図、美人図、波千鳥、翁面、松に富士山、おたふく面、天狗(異人図?)、飾り人形図が各1画と続きます。
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色彩が完全に剥落して何が描かれているかわからないものが4画、奉納の大額に一部または全部が隠れていて題材不明が4画、天井板そのものが無い箇所が一カ所です。


上記のように最も多い題材は故事・説話ですが、これは概数と思ってください。・・・というのも、単なる人物画なのか、それとも何かの故事を表しているのか判然としないものもあるためです。

あるいは、象と人物を描いた天井絵などは、どちらが主なのか良く分からず動物画なのか人物画なのか、または故事に因んだものなのか等々、判断に苦しみ、結果として場違いな分類に入っている絵が多々あるのではないかと思われるからです。


2018年7月26日に続きます。


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# by iruka-boshi | 2018-07-24 04:43 | Comments(0)

豊前国分寺の三重塔の二層の丸桁部分に密教に取り込まれた12の星座(十二宮)の像が浮き彫りされています。


豊前国分寺(金光明山護国院国分寺)の創建は天平13年(741年)3月の聖武天皇の詔をその元始としますが、実際に完成したのは天平勝宝8年(756年)頃と考えられています。

その後、平安時代~室町時代を通じて寺院を維持していたと思われますが、安土桃山時代に入り天正年間(1573~1592年)の豊後大友宗麟による豊前国侵入の兵火によって七堂伽藍を擁した国分寺は消滅してしまいます。

灰燼に帰したのち、一時期再興が図られたものの往時の隆盛を取り戻すことができず、本格的な再興は江戸時代の慶安3年(1650年)まで待つことになります。

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豊前国分寺は平安時代末期から戦国時代までは天台宗の影響下にあったと思われますが、現在、豊前国分寺の宗旨は真言宗であり、高野山の末寺になったのはこの慶安3年の再興以降と考えられています。
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豊前国分寺の山門 ↑ 高野山真言宗 金光明山豊前国分寺と書かれています。

さて、十二宮のことに戻りますが、十二宮または黄道12星座とは、大洋・月・惑星の通り道である黄道を春分点を起点として30度ずつ12の星座に分けたもので、起源は紀元前6~7世紀にチグリス・ユーフラテス両河流域に発展したカルデア文化まで遡ることができます。

この十二宮はのちに密教に取り入れられて仏教保護と怨敵降伏を祈願する護法尊のなかのひとつとなります。


紀元前450年頃、インドの北東部ガンジス河中流域で誕生した仏教は、釈迦の入滅後100年(前3世紀頃)ほどして上座部と大衆部と言う二つの部派に分かれ、この二部派がさらに分裂して多くの仏教諸派が興隆します。

そして諸派のうち紀元前後に発生したと思われる大乗仏教の一部がその発展段階でインド古来の呪術や土俗的信仰を取り入れて、徐々に密教化して行きます。さらにはバラモン教のタントラの影響やヒンドゥー教の神秘主義を取り込むなどして、7世紀頃に密教が成立します。


このインドやインド周辺の土着文化・諸宗教を取り込んだ初期密教時代(3世紀~7世紀中頃)には、古代インド天文学の暦法や古代オリエントからの占星術や十二宮も取り込まれていて、これら暦法や占星術、十二宮、星宿などの密教的概念がインドから中国へと伝わり、唐の乾元2年(759年)に不空によって漢訳されたとされる「宿曜経」として空海により806年に初めて我が国に請来されています。

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三重塔  東南側から撮影 ↑ 2018年5月20日撮影


豊前国分寺の三重塔の十二宮は以下のとおりです。


塔の正面(東側)の左端より ↓ 男女宮(ふたご座)   小女宮(おとめ座)  巨蟹宮(かに座)

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北側の左端より ↓ 天秤宮(てんびん座)  天蝎宮(さそり座)  天弓宮(いて座)

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西側の左端より ↓ 宝瓶宮(みずがめ座)  磨羯宮(やぎ座) 双魚宮(うお座)

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南側の左端より ↓ 白羊宮(おひつじ座)  金牛宮(おうし座)  獅子宮(しし座)

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十二宮は星曼荼羅や胎蔵界曼荼羅の最外院に二十八宿(28の星座)とともに描かれていて、その位置はほぼ決まっています。


胎蔵界曼荼羅図での方位は、図に向って上側が東、左側が北、下側が西、右側が南となります。

京都・東寺の伝真言院曼荼羅や大阪・松尾寺の孔雀経曼荼羅の十二宮の位置は、


東側     男女宮/金牛宮/白羊宮

北側     獅子宮/小女宮/巨蟹宮

西側     天秤宮/天蝎宮/天弓宮

南側     宝瓶宮/磨羯宮/双魚宮


大阪・久米田寺の星曼荼羅や大阪・金剛寺の星曼荼羅、延暦寺旧蔵で現在は宮内庁所蔵の星曼荼羅では、


上側   宝瓶宮/磨羯宮/双魚宮

左側   男女宮/金牛宮/白羊宮

下側   獅子宮/小女宮/巨蟹宮

右側   天秤宮/天蝎宮/天弓宮    となっています。


位置の違いは、空海が請来した現図系曼荼羅(胎蔵界曼荼羅)と平安時代中期の真言宗の僧・香隆寺僧正寛空が創案し、弟子の成就院大僧正寛助が平安末期に整備した寛助系星曼荼羅との違いのようです。


豊前国分寺の三重塔の十二宮の位置は男女宮と獅子宮が入れ替わっているものの胎蔵界曼荼羅図・星曼荼羅図ともに一致しています。
但し、方位は無関係です。時計まわりに一つずつずらしていくと現図系曼荼羅と同じになり、東西南北を入れ替えると星曼荼羅と同じ位置になります。

この三重塔は明治28年に建立されたもので、十二宮の浮き彫りも当時のものそのままです。

塔の周囲に十二宮を配している理由としては、真言宗の教主である大日如来の三昧耶形(さまやぎょう=象徴物・シンボル)が宝塔であり、塔が大日如来を表していることを踏まえて、大日如来は「宇宙そのもの」であることを強調するために星座(十二宮)を配置したのではないかと思われることがひとつ。

もうひとつは、明治期の建立であることで伝統を踏まえつつも、これまでとは違った意匠で新しい時代に相応しい新鮮感を求めた結果ではなかったか、と想像します。


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# by iruka-boshi | 2018-06-07 21:40 | Comments(0)