北九州平和資料室TICO PLACE主催の戦跡巡りに参加しました。今回の訪問地は「小倉陸軍造兵廠・地下道(小倉北区大手町)」「四式連絡艇を格納した洞窟基地(門司区大積)」「高射砲陣地跡(小倉北区赤坂手向山)」の3か所です。
四式連絡艇は陸軍が開発したベニヤ板製小型体当たり特攻艇で、艇内に爆薬を搭載したものです。
私はこのうち「小倉陸軍造兵廠/地下通路見学」に参加しました。
通路見学前に大手町公園脇にある「造兵廠跡地碑」を訪問。
手前から「防空監視哨」「造兵廠跡地碑」「給水塔のレプリカ」 ↑
防空監視哨 ↑ 窓枠の奥が実際の監視窓で横20センチほど、縦は5㎝足らずの極狭の窓です。
防空監視哨の説明 ↑
造兵廠跡地碑 ↑ 裏面に小倉造兵廠設立の経緯が記されています。
跡地石碑の形は造兵廠敷地を模しています。
小倉陸軍造兵廠は昭和8年に「小倉工廠」の名称で完成、昭和15年に陸軍兵器本部が置かれ「小倉陸軍造兵廠」に改称されていますが、元始は日清戦争時に設営された「門司兵器修理所」で、大正5年に陸軍造兵廠が直轄する「小倉兵器製造所」となった後、大正12年の関東大震災により被害を受けた東京砲兵工廠の移転先として小倉の地が選定され、前記のように昭和8年に完成、という経緯があります。
製造施設は3か所に分かれていて各製造所で軽戦車等の軍用車両、小銃・機関銃・高射機関砲等の機銃類、高射砲弾、風船爆弾、化学兵器、軍刀などを製造していました。ちなみに昭和1年生まれの私(筆者)の父はここで戦車組み立てに従事していたそうです。18歳前後の事です。
給水塔のレプリカ ↑ ↓ 給水塔の説明
概要を説明する講師の右に少しだけ見えている開口部が地下通路への入口。 造兵廠の地下通路のイメージとして地中深く降りていくような気がしていましたが、意外にも入口はすぐ横の建物とほぼ同じ平面にありました。
もっとも、入口から数十メートル進んだ先にある鉄扉の向こう側が本道とのことで、ここから先は深い位置にあるのかもわかりません。本道と各製造所はそれぞれ別の通路でつながっています。
また、小倉陸軍造兵廠を建設するにあたり、関東大震災時に東京工廠内の電柱が倒壊し、従業員の避難に支障を来したことを参考にして電線などのインフラはこの地下通路(本道)に納められています。
画像奥に錆びた鉄扉が見えます。
No.3と描かれた鉄扉から先は立入禁止です。↑ No.3の文字は当時のものか、戦後接収した米軍が書いたものかは不明とのこと。 左の壁の配電盤跡のようなものは当時のものです。
天井はかなり高い。当時も今も送風設備などはなく、本日の外気温約30度のところ、施設内はそれよりやや低い程度で、当時は夏場のこの中での作業は大変だったであろうと想像します。 ↓
小銃試射場へ向かう通路。 ↑ 右壁の白い部分は補強のため戦後に設置したコンクリートブロック。 通路はかなり狭いが補強のコンクリートブロック設置で狭くなったのではないかと推測します。地下通路入口の上は現在では駐車場になっていますが、小銃試射場へ向かう通路の上は、道路やマンションなどです。

入口から入って右側の部屋。 ↑ 天井から下がる電線は当時のものか補強工事時に使用したのか、あるいは接収米軍が残したものか不明です。
この先に試射場がありますが、ここから先は立入禁止です。 ↓ 左側の鉄扉は当時のもので、開けたままの状態で開口部はコンクリートブロックで塞がれています。

以下は、造兵廠跡地碑の裏面の碑文です。
陸軍造兵廠東京工廠が関東大震災で壊滅的な打撃を受けて 東京移転を決定した。全国各地から工場誘致の猛運動が展開されたが 昭和2年小倉に国防 軍事上の見地から決定。在来の小倉兵器製造所を合併 昭和8年開庁した。以後 わが国旧陸軍の近代兵器製造工場の拠点として 昭和20年の大戦終了まで製造を続けた。地積は約60万㎡ 最盛期には約4万人が従事した。往時をしのび その一角に記念碑を建てる。
平成2年10月吉日
旧小倉陸軍造兵廠従業員有志
なお、主催者の
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