流星塵回報の編集・発行人は森久保茂氏で、NO.1は1964年1月に発刊されています。最終号は確認できていませんが、東亜天文学会の「天界」952号(2004年9月号)に『2004年3月に第160号を発行』とあり、この年の5月29日に森久保氏は逝去されていますので、第160号が最終号ではないかと推測します。
間違っていましたら何卒ご容赦ください。
NO.12(画像左側)の発行は1965年10月で、NO.13は翌年1月。 ↑ 縦25㎝横35㎝の大きさの用紙を二つ折りにして両面印刷した4ページの刊行物です。全国各地の観測者からの報告を森久保氏が取りまとめ、隔月に私費で発刊されていました。
NO.12の記載内容は、樋口八重子/屋代高校/西原重行/山田一雄の各氏の観測報告です。樋口八重子氏は、1965年8月の観測結果、屋代高校天文気象班は1965年8月・9月、西原重行氏と山田一雄氏は9月・10月の結果報告です。
NO.13は、森久保茂氏の「雨水濾過法について」の記事、西原重行/樋口八重子/屋代高校の各氏の観測報告で1965年9月~12月までの結果が掲載されています。 流星塵の採集方法はいずれも「ガラス板法」が取られています。
「雨水濾過法について」から一部抜粋すると、『雨水濾過法はガラス板法より正確な定量測定法と思って私が考察した方法であったが、其の結果はガラス板法と全く同じで、装置や操作はかなり煩雑であるから、定量測定法としてはガラス板法に優っているとは云えない』 『従って私の雨水濾過法による定量測定は40年12月まで(10年7ケ月)とし、41年1月よりは、ガラス板法のみとする。』とあります。
NO.12の22ページと23ページ(年初からの通番) ↑ 屋代高校天文気象班と西原重行氏の観測報告
NO.12の24ページ(最終ページ) ↑ 山田一雄氏の報告 発行の日付は1965年10月30日です。いずれの観測者も大きさ5~15ミクロンの範囲で多くの流星塵を捉えています。
NO.13の第1ページ ↑ 「雨水濾過法について」の記事と山田一雄氏の動勢です。山田氏は1955年12月より流星塵の採集・検鏡を始められた、とのこと。
NO.13の第2ページと第3ページ ↑ 左ページは西原重行氏による報告で、大きさによる分布と月別の検出数が示されています。大きさ(直径)では15ミクロン程度が最も多く、月別では7~9月に検出数が増大していることがわかります。右ページは樋口八重子氏の報告で、やはり15ミクロンのところが最も多い結果となっています。
NO.13の第4ページ ↑ 屋代高校天文気象班の報告 西原重行氏と樋口八重子氏は150倍で検鏡、屋代高校は600倍で検鏡していますが、やはり15ミクロン前後にピークがあるような結果になっています。
我が国で流星塵の採集・検鏡が継続的に行われるようになったのは1954年からで、1953年10月に行われた長谷川一郎氏による流星塵採集・検鏡・測定についての講演(東亜天文学会大坂例会)が切っ掛けとなっています。
当初、採集・検鏡者はこの時の聴講者であった石崎正子さん・片岡良子さんの両名のみでしたが、その後都留寿美子さん、柳川静子さんが加わり主として関西方面の方々によって流星塵検出が行われていました。
一方、関東でも1954年秋に斉藤馨児、村山定男の両氏が雨水中より流星塵を検出していて、『流星塵回報』発行者の森久保茂氏もこれにならって1955年1月9日より流星塵検出を開始。
その後、採集・検鏡者は少数ながらも全国的に広がりをみせ、富山市の田崎昭一、長野県の樋口八重子、同じく長野の西原重行、仙台市の宮城県第一女子高校、静岡県の清水南高校、四日市市の鈴木寿々子、埼玉県の佐川治恵、等々の諸氏の活動が記録されています。
この活動を懇談会や研究発表会の面で見てみると関西方面では、1955年10月24日に大阪で開催された第一回流星塵会議(山本一清、村山定男、長谷川一郎の諸氏を交えて石崎正子さんのご自宅を開放して開催)が最も早く、次に1958年8月31日開催の流星塵研究懇談会(大坂市電気科学館にて)、さらに1961年10月29日の流星及び流星塵シンポジウム開催(山本天文台にて)と続いています。
関東では、1962年1月21日に開催された第一回流星塵研究会(東京上野・国立科学博物館)が最初で、翌1963年8月14日には同じく国立科学博物館にて第二回流星塵研究会が開催されています。
この他にも西日本流星及び流星塵観測者会議(1962年8月4・5日/山口市)、東日本流星隕石流星塵研究会(1964年5月31日/川崎市)などがありますが、上記以外にも1955年3月及び翌年4月に山本天文台において開催された東亜天文学会流星委員会の席上でも流星塵が話題になったものと思います。
最初期からの観測者の石崎正子さん(1902年1月27日-2002年1月15日)は、南極で採集した流星塵を検鏡・検出した数名のなかの一人として知られていて、流星塵関連の記事ではよく目にします。
このエピソードについては、第一次南極越冬隊(1957年2月15日-翌58年2月24日)の隊長であった西堀栄三郎が著書「南極越冬記/岩波新書/昭和33年」のなかで「宇宙塵の研究をはじめる」の章を設けて記しています。
『基地に「天界」という天文学の雑誌が来ている。その中に、宇宙塵の記事があった。・・・その宇宙塵の中に、顕微鏡的な小さいものが、地表に落ちてきて、流星塵とよばれている。大体は、鉄やニッケルでできていて、磁性をおびている。「天界」の記事をよんで、わたしも、ここで流星塵の研究をやって見ようと思い立つ。』
基地とはもちろん南極「昭和基地」ですが、西堀氏はここで飲料水を得るために海氷や氷山の氷を入れて溶かす大きな容器の底に不純物とともに沈殿した流星塵を磁石を使って採集しています。
最初は融氷水のなかの流星塵採集でしたが、のちに『基地の風上側にある測量台の上に、ピースの空きカンを半分の高さにきったのをとりつけ、これを風よけとして、その中に顕微鏡のプレパラートにポマードをぬったのをあおむけに入れておく。』方法に変え、プレパラート上に落下した流星塵を検鏡する方法をとっていました。
しかし、『毎日顕微鏡でみるのは、なかなか手間もかかるし、小さいものは見のがしてしまう。結局、プレパラートを保存して帰り、帰国ののち、適当な処理をして、石崎さんか誰かによくしらべてもらうことにしよう。』とあって、西堀越冬隊長は、石崎さんとの出会いについて次のように記しています。
『出発前に大阪へ行ったとき、友人の木村作治郎君(京大教授)が、自分の小学校時代の友だちである石崎正子さんという女性を紹介した。大阪の病院の院長さんの奥さんである。アマチュア天文学者で、趣味で宇宙塵の研究をしている。その人が、南極でぜひ宇宙塵の採集をしてきてくれといった。』
南極越冬記 ↑ 西堀栄三郎著/岩波新書/昭和33年第1刷
南極の氷山の氷の中より発見された流星塵 ↑ その下の写真は立体砲弾型の雪の結晶で、「内地ではたいへんめずらしいが、南極ではザラである」と注があります。
南極で採集された流星塵は、依頼者の石崎さんだけではなく、片岡良子さん、森久保茂さんら数名の方々にも手渡され、それぞれにおいて検鏡・検出が行われています。
なお、2004年5月29日に逝去された森久保さんの追悼文が「天界」2004年9月号に、2002年1月15日に逝去された石崎さんの追悼文が「天界」2002年3月号に掲載されていることを付記します。
また、「流星塵研究25年の歩み/森久保茂」が天文月報1980年10月号に、「流星塵落下数の永年変化/森久保茂」が「天界」2002年8月号にそれぞれ掲載されていることも付記してこの稿を終わります。
※ 「南極越冬記」に『基地に「天界」という天文学の雑誌が来ている』というくだりがありますが、この「天界」は1956年10月号の流星塵特集号のこと(と思う)。