(2022年11月14日の続きです)
小川敬吉は明治15年(1882)に現在の築上町宇留津に誕生。日露戦争(1904-1905)に従軍後、東京に移住し小学校教員生活のかたわら、工手学校(現在の工学院大学)に通い、建築学を学んでいます。
明治40年(1907)、内務省宗教局(現在の文化庁)に就職。大正3年(1914)に大阪府生國魂神社の再建工事の現場監督を務めたおり、再建工事の設計顧問だった関野貞の勧めにより、大正5年に朝鮮総督府博物館の嘱託員となります。
小川は嘱託員となったその年、さっそく平安南道の古墳調査に加わり、以後、朝鮮半島全土で主に楽浪郡時代と高句麗時代の古墳群の発掘や石造物・古建築の調査に従事します。 昭和4年、江原道金剛郡の長安寺大雄殿の修理監督を務めた後、古建築修理にその活躍の場を広げ、特に昭和11年の修徳寺大雄殿の修理の際には柱端に高麗時代に創建されたことを示す墨書を発見、調査の結果を受けて後に修徳寺大雄殿が韓国の国宝に指定される、という経緯も残されています。
「小川敬吉の事績」のパンフレット裏面 略年譜、朝鮮総督府博物館絵葉書、生國魂神社の図案、設計した渋沢栄一頌徳碑、総持寺(横浜市)の梵鐘図案、など。 右下写真は、南大門前の小川と弟(右側)。
建築物概観模写、等 『日本の伝統建築の外観写真をもとに模写したもの。30枚から成り、「K.OGAWA1910」のサインがある。明治43年(1910)は、小川が内務省宗教局で国内の古社寺保存修理に関わっていた頃で、自らの勉強のために模写したものだろう。(展示解説パネルより転記/佐賀県立名護屋城博物館所蔵)』
木造建築物調査記録 ↑ 細密な実測、精巧な作図は当時まだスケッチ程度の実測図を描いていた日本考古学を各段に進歩させ、その手法は現在に引き継がれている、とのこと。(解説パンフレットより)
石造物調査記録 ↑ 『朝鮮半島南東部、かつて新羅があった慶州の石造物を調査した際の実測図や罫紙に書かれたメモ。(展示解説パネルより転記/佐賀県立名護屋城博物館所蔵)』
野帳・日誌 ↑ 『修徳寺大雄殿(忠清南道礼山郡徳山面)や華厳寺覚皇殿(全羅南道求礼郡馬山面)、長安寺四聖殿(江原道淮陽郡内金剛面)修理工事に関する日誌や略測図、メモが書かれる。文字が非常に細かく、小川の几帳面さがうかがわれる。(展示解説パネルより転記/佐賀県立名護屋城博物館所蔵)』
玄化寺の碑と亀趺(北朝鮮開城市)の実測図 ↑ 亀趺(きふ)は、亀形に装飾された石造物で、石柱や石碑の台座石として使用されています。
小川敬吉は27年6か月間、朝鮮半島に於いて文化財調査や古建築修理に従事したのち、昭和19年3月に戦況の悪化に伴い生地の築上町宇留津に帰郷。
帰郷後は八津田村の村長に就任(昭和22年)し、八築中学校(現在の築上町立築城中学校)建設や築城海軍航空隊の跡地利用の検討などの業務に精力的に関わっていましたが、昭和25年に会合出席中に倒れ、67年の生涯を閉じています。
愛用のドイツICA社製のガラス乾板カメラ COMPUR 革製カメラケースとともに佐賀県立名護屋城博物館が所蔵しています。レンズはカールツァイス イエナ Tessar 1:4.5 f=15㎝
愛用のカメラを携えて朝鮮半島全土で約30年にわたって古墳・古建築・文化財の調査・修理・保存に奔走した小川敬吉は、帰郷する際、膨大な量の実測図やスケッチ、写真と関係書類を持ち帰っています。これらの資料は朝鮮考古学者で戦後しばらくの間朝鮮半島に留まり、韓国人の研究者育成に貢献した有光教一によって保管されたのち、京都大学建築学教室が購入しています。
資料は昭和57年頃、当時同志社大学学生だった水谷昌義によって整理され目録化されています。目録は「朝鮮学報 第116号(昭和60年7月刊)」でみることが出来ます。