黒田神社の天井絵/松高斎霍眠・山田義昌
福岡県みやこ町勝山中黒田の「黒田神社」に明治期の画師山田義昌(松高斎霍眠・しょうこうさい かくみん)制作の格天井絵が残されています。
黒田神社はもともと村内(黒田村)に分散していた八幡宮・天疫神・天神社の三社を合祀したもので、建立の年代ははっきりしませんが、建立後しばらくして奉納されたと思われる後土御門上皇の書による額「三社和光」の裏面に、文明十四年壬寅(1482年)と彫られていることにより、室町時代からの長い社歴を有している神社であることがわかります。
「三社和光」の奉納額については不思議な出来事が語り継がれています。 ↓
明治十二年の銘がある一の鳥居から二の鳥居を望む。 ↓
さて、画師山田霍眠のこと。
幼名は宮内、のちに源吾と改めた山田義昌は天保六乙未年(1835年)に父利兵衛、母とちの間に三男として誕生。
利兵衛(山田重孝)は山鹿村(みやこ町犀川山鹿地区)の庄屋職を勤め、義昌の祖父に当たる弥次兵衛(山田知義)も庄屋であり、さらに義昌の兄耕作も庄屋となり、義昌自身も幕末から明治に改まる前後に夏吉村(田川市)や中津原村(香春町)の庄屋となっています。
幼時から利発であったと伝えられる義昌は、長じて大分県中津の三原屋(府県御定宿・汽船客取扱所 一等旅籠屋)の店員となり、のちに大橋監場(藩米の検査所)勤務を経て小倉城代中野家の若党に加えられていた時に、のちの筆頭家老嶋村志津馬と大羽内蔵之助に見出されて藩学の「思永館」の庶務主任書記に抜擢されています。
義昌はこの庶務主任書記時代に絵を始めたと思われますが、特定の師匠に就いて絵を習ったのではなく独習だったのではないか、と云われています。
このことは、「山田義昌之墓」の裏面の墓碑に「吉田学軒」の撰文で『少小善書画俳歌皆無所師承蓋其天稟使然也(少々書画俳歌を善くするも皆師承するところなし けだしその天稟の然らしむるなり)』とあることからも、ある程度納得させられることと思われます。
吉田学軒は「昭和元号の創案者・吉田増蔵」で山田義昌の甥に当たります。
増蔵の母「いつ」は、山田義昌のすぐ上の姉です。
その霍眠山田義昌が黒田神社に残した格天井絵は、拝殿中央に49枚、左右脇殿にそれぞれ54枚ずつで合計157枚。
制作は明治20年頃で霍眠が52才の頃のことと云われています。 霍眠は明治5年に庄屋を辞し、現在の田川市の糒で酒造業を始めていますが、5年あまりで火難に遭い、添田町に移住。 その後、大橋町(現 行橋市)で京都・仲津両郡の郡書記などを勤めるも、故郷山鹿に帰郷。 以後、画業に専念したということです。
拝殿中央の天井絵 ↓ 奥に「天満宮」の額が掲げられています。画面最手前の中央の白い円形は、十二支の方位図。
天井絵の題材は多岐にわたっていますが、いちばん多いのは中国や日本の故事・説話の一場面を描いたもので46画あります。
上記のように最も多い題材は故事・説話ですが、これは概数と思ってください。・・・というのも、単なる人物画なのか、それとも何かの故事を表しているのか判然としないものもあるためです。
あるいは、象と人物を描いた天井絵などは、どちらが主なのか良く分からず動物画なのか人物画なのか、または故事に因んだものなのか等々、判断に苦しみ、結果として場違いな分類に入っている絵が多々あるのではないかと思われるからです。
2018年7月26日に続きます。