十二宮/豊前国分寺の三重塔 京都郡みやこ町豊津
豊前国分寺の三重塔の二層の丸桁部分に密教に取り込まれた12の星座(十二宮)の像が浮き彫りされています。
豊前国分寺(金光明山護国院国分寺)の創建は天平13年(741年)3月の聖武天皇の詔をその元始としますが、実際に完成したのは天平勝宝8年(756年)頃と考えられています。
その後、平安時代~室町時代を通じて寺院を維持していたと思われますが、安土桃山時代に入り天正年間(1573~1592年)の豊後大友宗麟による豊前国侵入の兵火によって七堂伽藍を擁した国分寺は消滅してしまいます。
灰燼に帰したのち、一時期再興が図られたものの往時の隆盛を取り戻すことができず、本格的な再興は江戸時代の慶安3年(1650年)まで待つことになります。
豊前国分寺の山門 ↑ 高野山真言宗 金光明山豊前国分寺と書かれています。
さて、十二宮のことに戻りますが、十二宮または黄道12星座とは、太陽・月・惑星の通り道である黄道を春分点を起点として30度ずつ12の星座に分けたもので、起源は紀元前6~7世紀にチグリス・ユーフラテス両河流域に発展したカルデア文化まで遡ることができます。
この十二宮はのちに密教に取り入れられて仏教保護と怨敵降伏を祈願する護法尊のなかのひとつとなります。
紀元前450年頃、インドの北東部ガンジス河中流域で誕生した仏教は、釈迦の入滅後100年(前3世紀頃)ほどして上座部と大衆部と言う二つの部派に分かれ、この二部派がさらに分裂して多くの仏教諸派が興隆します。
そして諸派のうち紀元前後に発生したと思われる大乗仏教の一部がその発展段階でインド古来の呪術や土俗的信仰を取り入れて、徐々に密教化して行きます。さらにはバラモン教のタントラの影響やヒンドゥー教の神秘主義を取り込むなどして、7世紀頃に密教が成立します。
このインドやインド周辺の土着文化・諸宗教を取り込んだ初期密教時代(3世紀~7世紀中頃)には、古代インド天文学の暦法や古代オリエントからの占星術や十二宮も取り込まれていて、これら暦法や占星術、十二宮、星宿などの密教的概念がインドから中国へと伝わり、唐の乾元2年(759年)に不空によって漢訳されたとされる「宿曜経」として空海により806年に初めて我が国に請来されています。
豊前国分寺の三重塔の十二宮は以下のとおりです。
塔の正面(東側)の左端より ↓ 男女宮(ふたご座) 小女宮(おとめ座) 巨蟹宮(かに座)
北側の左端より ↓ 天秤宮(てんびん座) 天蝎宮(さそり座) 天弓宮(いて座)
西側の左端より ↓ 宝瓶宮(みずがめ座) 磨羯宮(やぎ座) 双魚宮(うお座)
南側の左端より ↓ 白羊宮(おひつじ座) 金牛宮(おうし座) 獅子宮(しし座)
十二宮は星曼荼羅や胎蔵界曼荼羅の最外院に二十八宿(28の星座)とともに描かれていて、その位置はほぼ決まっています。
胎蔵界曼荼羅図での方位は、図に向って上側が東、左側が北、下側が西、右側が南となります。
京都・東寺の伝真言院曼荼羅や大阪・松尾寺の孔雀経曼荼羅の十二宮の位置は、
東側 男女宮/金牛宮/白羊宮
北側 獅子宮/小女宮/巨蟹宮
西側 天秤宮/天蝎宮/天弓宮
南側 宝瓶宮/磨羯宮/双魚宮
大阪・久米田寺の星曼荼羅や大阪・金剛寺の星曼荼羅、延暦寺旧蔵で現在は宮内庁所蔵の星曼荼羅では、
上側 宝瓶宮/磨羯宮/双魚宮
左側 男女宮/金牛宮/白羊宮
下側 獅子宮/小女宮/巨蟹宮
右側 天秤宮/天蝎宮/天弓宮 となっています。
位置の違いは、空海が請来した現図系曼荼羅(胎蔵界曼荼羅)と平安時代中期の真言宗の僧・香隆寺僧正寛空が創案し、弟子の成就院大僧正寛助が平安末期に整備した寛助系星曼荼羅との違いのようです。
豊前国分寺の三重塔の十二宮の位置は男女宮と獅子宮が入れ替わっているものの胎蔵界曼荼羅図・星曼荼羅図ともに一致しています。
但し、方位は無関係です。時計まわりに一つずつずらしていくと現図系曼荼羅と同じになり、東西南北を入れ替えると星曼荼羅と同じ位置になります。
この三重塔は明治28年に建立されたもので、十二宮の浮き彫りも当時のものそのままです。
塔の周囲に十二宮を配している理由としては、真言宗の教主である大日如来の三昧耶形(さまやぎょう=象徴物・シンボル)が宝塔であり、塔が大日如来を表していることを踏まえて、大日如来は「宇宙そのもの」であることを強調するために星座(十二宮)を配置したのではないかと思われることがひとつ。
もうひとつは、明治期の建立であることで伝統を踏まえつつも、これまでとは違った意匠で新しい時代に相応しい新鮮感を求めた結果ではなかったか、と想像します。