大石高平翁碑/千仏鍾乳洞絵葉書 昭和5年
小倉郷土会と美夜古文化懇話会の顕彰によるもので、撰文は劉寒吉、書は椿市村々長・塚内與四朗の揮毫です。
碑は高さ1.8m、横2.7mの自然石を使用、碑文面は1.3m×0.85mの大きさ。
大石翁は明治10年4月京都郡椿市村高来に誕生、豊津中学校で学んだのち、歩兵第14連隊に入隊し日露戦争に従軍。帰郷後は小倉市役所や門司兵器製造所勤務を経て、大正4年に椿市村長に就任しています。翁が千仏鍾乳洞の開発を思い立ったのは大正10年頃のことといいます。
当時、鍾乳洞の存在は地元民には知られていたものの深い叢林に埋もれ、しかも洞のある平尾台は陸軍省の関門要塞地帯の一部を成していたため訪れる人もほとんどいない、という状況でした。
このことを惜しんだ翁は、学術的にも観光地としての郷土発展のためにも開発保存が必要として関係諸機関に開発を請願しますが受けいられず、やむなく私財を投じての自力開発に着手します。
鍾乳洞までの道を整備することなど開発に5年あまりを要し、大正15年7月に開洞式を迎えることになります。しかし翁はさらに天然記念物の指定を目指し、関係部局との折衝を続ける日々を送ります。
現地調査に訪れた内務省の嘱託員の調査後の死去や管轄官庁の変更(内務省→文部省)、陸軍省の要塞地帯の問題解決等幾多の労苦を経て、昭和10年12月24日に国の天然記念物指定を得るに至り、ようやく大石翁の十数年来の悲願は達成されます。
しかし、時代はやがて戦争の世と移り、保存はともかくとして、観光洞としての経営は困難を極めたのではないか、と想像します。
戦後、大石翁は千仏洞の権利を他者に譲渡してまもなく、昭和25年12月4日に歿しています。波瀾に満ちた74年の生涯でした。
千仏鍾乳洞の12枚組絵葉書のうち、人物が写っているものを3枚掲載します。 封筒に押された入洞記念印の日付は昭和5年8月9日です。発行は経営者大石高平。また、洞の名称は「千佛大石鍾乳洞」となっています。
絵葉書セットに同封された「洞内案内図」 ↓ 鬼柱 天戸岩 導楽地頭など現在の案内図の名称と微妙に違った名がつけられています。
鍾乳洞入口 ↑ 上部に「大石洞」と掘られています。
「初音の乳」 ↑ 絵葉書の少年は左手にロウソクを灯していますが、これは撮影のための目印でしょうか。右手にはたくさんのロウソクの束が見えます。
「地獄トンネル」から顔を出す少年。 右手にやはりロウソクを持っています。・・・、このロウソクが気になる、、、。それにしても見事な形状の鍾乳石です。
以下に顕彰碑の碑文を掲載しますが、読みやすいように改行して転載します。
大石髙平翁碑
千仏鍾乳洞開発ノ先覚者大石高平翁ハ行橋市高来ノ人ナリ
少壮ノ頃ヨリ千仏洞ノ叢林中ニ埋没シアルヲ惜ミ切ニ是ガ顕世ヲ念ズレドモ京都郡椿市村長 京都郡会議員 京都郡農会議員 京都郡教育会評議員等ヲ歴任スルナドノコトアリテ意ニ任セス
然レドモ千仏洞開発ハ翁ノ悲願ナリ 翁乃チ決然トシテ一切ノ栄職を辞シ余生ヲ捧ゲテ洞ノ顕世事業ニ邁進スルコトトナレリ 時ニ世人此ノ拳ヲ狂ト為シテ嘲笑スレドモ翁ハ毫モ意ニ介スルコトナシ私財ヲ擲ツテ刻苦専念遂ニ大正十五年七月開洞式ヲ挙行スルコトヲ得タリ
次デ昭和十年十二月天然記念物ニ指定サルルヤ学術研究ニ観光ニ千仏洞ハ一躍シテ天下ニ其ノ名声ヲ謳ハルルニ至レリ
今次大戦後管理ヲ他ニ譲渡シタリト雖モ昭和二十五年十二月行年七十四歳ヲ以テ歿スルマデ生涯ヲ挙ゲテ千仏鍾乳洞開発ニ努メタル醇乎タル翁ノ名ハ洞ノ在ラン限リ不朽ノ光栄ニ輝クモノトイフベキナリ
昭和三十年八月
撰文 劉 寒吉
顕彰者 小倉郷土會 美夜古文化懇話会
なお、千仏鍾乳洞の名称は近くに所在する「千佛寺(千佛大師堂)」に由来しています。
千佛寺は僧行基により天平13年(741)に草創された叡山願光寺(行橋市)の末寺で、天慶元年(938)頃に空也上人により開かれた、とのこと。この千佛寺は戦国時代に大友宗麟によって焼き払われ、奥の院だけが残ったのが、現在の千佛不動堂だそうです。
邪霊を口にくわえた蛟(みずち)が写っているようです。
一番下のお写真には学生さんの上に宝冠を付けた観音さんが、
入口の集合写真にはこれまた学生さんの両肩に
天狗らしきものが顔をだしております。
F君のご先達のようなこの学生さん、霊媒体質なのでしょうか^^。