されど天界は変わらず/東京大学天文学教室諏訪疎開の記録 龍鳳書房刊 (その2)

小平・畑中両先生の会話を書きとめた守山氏は当時(昭和20年)入学したばかりの1年生で、氏を含む新入生5名は物理学科の学生と一緒に下諏訪の「神の湯旅館」に疎開したため、「されど天界は変わらず」のもととなった「上諏訪日誌」には直接関係していない。
・・・が、綿屋で両先生と同じ炬燵を囲む仕儀となったのは、教室が指定した疎開日より早く諏訪入りしてしまったため行くところがなく、しばらくのあいだ綿屋に滞在していたから、とのこと。
さて、その「上諏訪日誌」のこと、日誌は昭和20年4月29日の「天長節」の日から始まっている。
『1945年4月29日(日)(天長節)晴 午前9時:藤田、畑中、丸山、高島学校拝賀式に参列。10時:第二次の荷物着、直に学校と綿屋に運搬。午後:小尾来る。午後8時までに敢闘して大略整理す。夜は非常に明朗なり。』
日誌の初日の筆者は昭和17年10月入学の丸山進氏。この日より10日あまり丸山氏が日誌をつけ、その後、岡田正光(ジョセフM.岡田)・三澤邦彦・松永泰輔・檀原毅・北岡清・井田茂・守永晃・小尾信彌・海野和三郎・石田五郎の諸氏が書き継ぎ、
10月19日の『個人の荷物の発送をはじめる。ひる井田来る。夜、藤田敦賀へ畑中上京 岡田浦和へ。ここに分室に残るもの 守永 井田両先輩のみなりき。因に教室の貨車は22日(月)秋葉原安着。24日(水)午後より運送。恙なく納まった。安心! 安心! これで終り。』の畑中講師のあとから書き足したと思われる日誌で終了している。

約半年間にわたる、諏訪での疎開生活が綴られた「上諏訪日誌」(上)/綿屋旅館では、藤田助教授、畑中助手ほか14名の学生等が寝食を共にした。(下)/茅野作之助氏提供(されど天界は変わらず より)
「上諏訪日誌」に加えて昭和20年8月2日から8月15日までの日誌「南安曇陸地測量部活動記録」の収録までが、「されど天界は変わらず」の第Ⅰ部になっています。
「南安曇陸地測量部活動記録」は、石田五郎・海野和三郎・三輪欣二・大脇直明の諸氏が温明国民学校(南安曇郡三郷村)にて勤労動員したときの日誌。当時、温明国民学校には参謀本部陸地測量部の一部が疎開していて、諸氏はここで作成されていた暦(海軍水路部の航海暦)の計算に従事した、とのこと。
「南安曇陸地測量部活動記録」については、「第Ⅱ部」の「終戦前後の記 大脇直明」に詳しく書かれていますが、この「終戦前後の記」と小平・畑中両先生のエピソードを記した「下諏訪の半年」、それに「上諏訪の人々 進士晃(守永晃)」「諏訪の温泉宿で迎えた終戦 小尾信彌」「上諏訪日誌-東大天文学教室の疎開 海野和三郎」の5編により「第Ⅱ部 天界を夢見続けた人々」が構成されています。
続く第Ⅲ部は「若き天文学者たちとのふれあい」のタイトルで、学生たちが投宿した綿屋旅館の経営者茅野夫妻の子供たち(長女金丸道子さん・長男茅野作之助氏・次女三輪悦子さん・三女有賀洋子さん)による思い出話や教室の疎開先として綿屋旅館決定に奔走した蜥蜴座新星の発見者五味一明氏と学生たちの交流、学生たちが食事に通い、何度となく日誌に登場する「たぬき食堂」の金井ますえさんと五味氏との対話による当時の暮らしぶりや学生たちの日常生活等々、興味深い話が綴られています。
日誌に登場する学生や先生方は戦後日本の天文界に次々と新風を吹き込み、さらに世界の天文界をリードして行くことになるのですが、その学究の初期の段階において日々の食糧にも事欠くなか、また将来に少なからず不安を抱いた事もあるであろうに、綴られた文章には過度な悲嘆はなく、むしろユーモアさえ含ませて日々の出来事を冷静に書きとめている姿を見、強い感銘を受けます。
なお、「天文月報」の1993年11月号に小平桂一氏による書評が掲載されていることを付記します。
されど天界は変わらず/東京大学天文学教室諏訪疎開の記録
発行日:1993年8月1日初版
定価:1500円(本体1456円・税44円)
編者:東京大学理学部天文学教室OB
編集者:大井俊男
発行者:酒井春人
発行所:有限会社龍鳳書房
印刷:三和印刷株式会社
製本:関製本株式会社
用紙:株式会社夏目
製作スタッフ 表紙デザイン/大井香苗 写真撮影/丸山義正 製作アシスト/田中美和子
19.5×14cm/175ページ(写真8ページ/終戦の頃の諏訪湖周辺地図1葉/挿入写真多数)

