「直方むかしばなし」 福岡県直方市発行 昭和55年
第一話の「じねんじょと川えび」の掲載は昭和47年4月号で、第百話は昭和55年7月号の「規時会(きじかい)」となっています。毎号欠かさず掲載されていて第百話に達するまでに八年四カ月を要しています。
この間、直方市の伝説や民話、歴史秘話、昔の暮らしぶりなどを幅広く紹介していて、どの話題を取り上げても非常に面白く、興味が尽きません。
第百話の「規時会(きじかい)」というのは、明治40年刊の「福岡県鞍手郡福地村是」に載っていることとして、当時は時間を守るという観念が極めて薄く、集会などの場合、通達通りに人々が集まることが稀でありさまざまなことに支障をきたした、ということで、福地村(畑、永満寺、上境、中泉)に「規時会」という名称の時間を守ることを旨とする団体を創ったというお話し。
時(とき)の話題は第六十三話にもあって、時刻はお寺の鐘をついて知らせていたが、農繁期に入ると日の出の「明け六つ」では間に合わず、夜が明けるまえから庄屋や村役人が太鼓を叩いて村中を廻り、村人を起こして仕事にかり立てていた、という話し。
このほかにも明治5年の「新暦の採用」のときの騒動や筑豊ならではの「石炭採掘」に纏わる話しや山伏の話し、「みこしをかつぐさる(猿)」「にせ幽霊」「人力車物語」「異人さんの見た筑豊」などなど、紹介したいものはたくさんあるのですが、先日「直方隕石」を見てきたばかりですので、「直方むかしばなし」のなかからこの隕石に関するお話をふたつばかり。
第八十五話「須賀神社の飛石」/昭和五十四年四月号掲載
「天平七年の夏、九州で天然痘が流行し、多くの死者が出ました。当時、九州の政治の中心であった大宰府は、各地の神社やお寺に令を出し、疫病退散の祈願をさせました。
筑前国鞍手郡境郷の武徳神社(現、須賀神社)でも祈願が行われ、疫病をつかさどる牛頭天王が祭られました。そのためか、猛威をふるった天然痘の流行も次第に下火となり、ついに消えていきました。
その後約百年たった承和五年四月、再び九州に疫病が発生しましたが、牛頭天王に祈願をささげた下境地区では死者の数が極めて少なかったので、村人は牛頭天王の霊験を語りあい、一時は、新たに社殿を建てようという話まで出たほどでした。
再び村に平和がおとずれ、人々が疫病のことも社殿建立のことも忘れかけた貞観三年の四月七日の夜のこと、境郷一帯の空が急に明るくなったと思うと、武徳神社の境内で大きな爆発音がおこりました。
驚いた村人が次々に集まってきました。社殿の一部が焼けてこわれ、土が深くえぐられていました。夜が明けて恐る恐るのぞいた穴の底から黒色の、大人のこぶしほどの重い石が発見されました。
「須賀神社の飛石」より 挿絵:赤星月人
村人はこの飛石を見て、これは、牛頭天王の警告にちがいないと信じました。そして、再び疫病が発生しないように、今度こそ牛頭天王を祭る社殿を建てようということになりました。」(以下略、引用文も途中少し省略しています。)
続きます。