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鴎外の婢 松本清張著(その3)

(2011年2月26日のつづき)

主人公浜村は、木村モトの娘「ミツ」の嫁ぎ先である平尾台の麓の行橋市福丸まで来たのだが、ミツはすでに亡くなっていることを知らされる。しかしその死は不審な点が多く、どうやら悲劇的な最期であったことが窺えた。さらに浜村はミツの遺児「ハツ」の存在を知り、ハツの嫁ぎ先の行橋市上稗田(かみひえだ)へと向う。

福丸から上稗田まで車で20分たらずの距離。途中、勝山町黒田(旧黒田村、現みやこ町勝山黒田)を通る。以下の引用はその黒田地区の場面。

「西の山裾が道路近くに迫っているところに、かなりかたまった人家がみえた。運転手はその村に通じるせまい道の四つ角で車をとめる。「右のほうに行くと、黒田ちゅう村へ行きます。上黒田、中黒田、下黒田とあります。稗田は左の方さ曲ります。」

長崎君は、浜村がこの土地に興味をもっているとみ、説明した。「ああ、そう。じゃ、稗田のほうに行ってもらおうか」と言ったが、浜村はその国道わきに立っている低い木標に気づき、その文字に眼を凝らした。『綾塚。福岡県文化財保護委員会』

行ってみますか、と長崎君が浜村の顔を見て言った。ここまで来たついでである。何もかも眼に入れておこうと思い、車が一台ようやく通れる道に乗り入れさせた。」(鴎外の婢より)

このあと文章は、狭間畏三の「神代帝都考」や吉田東伍、津田左右吉、森貞次郎らの名をあげてこの綾塚古墳の説明についやされ、さらに、著者清張自身の私見らしきものも披瀝されている。

綾塚古墳の築造年代は石室構造から7世紀頃と考えられていますが、玄室内から出土した北宋銭や白磁片などにより、平安時代にはすでに石室入り口は開口されていたとみられています。その為、古くからその存在は広く知られていたものと見え、文人など多くの旅人が訪れ、さまざまな記録を残しています。

そのなかのひとつ、貝原益軒(1630~1714年)の「豊国紀行」の元禄7年(1694年)5月17日の条に

『(前略)黒田村によりて大なる窟を見よと云。けふ黒田村に宿すれば、明日直方迄いたるに便能からんとおもひ、夜中にたどりゆきて、黒田村の弥三右衛門が家を訪ね、(後略)』とあり、翌18日の日記に『宿りをいでゝ、朝黒田村の石窟にいたる。其深さよこに入事十間。おくの間は畳八でう つらぬるばかり。(中略)里人はこゝを女体権現と云。いかゞしたる故やらん いぶかし。(後略)』

益軒はなぜ「女体権現」と呼ぶか不思議に思っているようですが、この地は景行天皇ゆかりの地でありその妃を(古墳の石室に)祀っていたことなどにより「女帝窟」の異名を持つことからきているものと推察します。

(私の実家はこの古墳のすぐ近くであり、子供のころはこの古墳を「にょたいくつ」または「にょていくつ」あるいは「じょていくつ」と呼んでいた。土地の古老は今でも「にょたい窟」「にょてい窟」などと呼ぶ)
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石室の前方に鳥居が建てられ、「女帝神社」と掲げられています。また、玄室にはこの地方で確認できる唯一の家型石棺が安置され、この石棺そのものを御神体としています。
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鳥居の脇に立てられた説明版。


つづきます。
by iruka-boshi | 2011-04-03 21:09 | いろんな本 | Comments(2)
Commented by 大乃井音楽図像学研究所 at 2011-04-07 18:45 x
『神代帝都考 解説』友石孝之著 美夜古文化懇話会刊 を読みますと、青龍窟を高天原と見立てておりp・54、ここはやはり石の文化や地名原義、記紀の地政的解釈の座標軸になっているようですね。

たしか糸島郡で発掘された古墳の石棺を公民館に置いたところ縄文時代の子供の幽霊が走りまわり、教育委員会の職員に複数、目撃され新聞にも載ったようです。
Commented by iruka-boshi at 2011-04-13 12:22
綾塚古墳はかつて古墳そのものをご神体とする神社だったそうで、これはこの地に古くから伝わる青龍窟伝説や土蜘蛛(反権力者集団)伝説、景行天皇の后の伝説、仲哀天皇の后の神功皇后伝説などと邪馬台国女王の伝説等の女帝伝説と綾塚古墳が代表する巨石とが結びついて、やがて神社というか信仰対象になったのではないか、とさえ思われます。素人考えですが・・・。