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西鉄バス「明治坑」バス停 飯塚市

筑豊炭田(福岡県北東部の田川、直方、飯塚とその周辺)の一角をなす嘉穂郡頴田町(かいたまち、2006年に飯塚市に編入)の勢田地区にある「明治坑」のバス停標識です。

我が家(行橋市)から国道201号線を田川方面へ車で15分ばかり走ると五木寛之の「青春の門」で一躍その名を知られるようになった「香春岳」が見えてきます。その香春岳の麓を回り込むようにして田川直方バイパスへ出て10分あまり、筑豊魚市場を過ぎてすぐの交差点を左折します。
西鉄バス「明治坑」バス停 飯塚市_d0163575_22463817.jpg

この交差点は右折すると民陶の上野焼(あがのやき)の窯元が集まった上野峡へ続く道となり、左折すると旧頴田町を通って飯塚市への近道となるところです。

道はやがて緩やかな登り道となり峠に差し掛かりますが、数分ばかりで道は開けてきてまばらに民家が見えてきたあたりが旧頴田町勢田地区です。

ここは何度も通ったことがありますが、通るたびにこのバス停の地名表示が気になっていました。地名に「坑」がつくからには、土地柄からして炭鉱の入口が近くにあるのではないかと思っていたからです。調べてみると予想通りここは「明治鉱業」の「明治炭坑第1坑」が近くにあったところで、その名が地名として残っているというわけです。

「明治炭坑第1坑」の開発は、安川敬一郎を祖とするのちの「明治鉱業」によるもので、その明治鉱業の社史に

『明治20年12月、大城炭坑に機械装置の立坑(坑口の幅7.6尺長さ12尺)開鑿の工を起し、翌21年5月、120尺(3636.36糎)で上層3尺層に、6月末192尺で第2層5尺層に達した。当時、筑豊における立坑としては、目尾立坑(180尺、5454.50糎)、藤棚立坑(120尺)、新入旧立坑(130尺)、大之浦立坑(125尺)の4坑だけで、しかもいずれもが3カ年以上の年月を要したのに比べ、大城炭坑では当時としては驚異的な短い期間に堀さくを完了したのである』

という一節があります。

この大城炭坑がのちの「明治第1坑」で、明治29年4月に「明治炭坑株式会社」を創立した際に改称されています。

バス停の写真は一昨日の9月12日に撮ったものですが、残暑厳しい午後2時頃撮影とあって、人影は皆無です。車にもほとんど出会いませんでした。

朝夕の時間帯の通行状況はわかりませんが、すぐ近くをこの道と平行して国道200号パイパスが飯塚まで通っていますので、大体想像は付くのではないでしょうか。

将来このバス路線は廃止になること無きにしもあらず、です。そうなると、当然そのうちにバス停は撤去されることでしょうから、このバス停周辺の人はともかくとして、他の地区からの通過者たちは「明治坑」の地名表示を見ることもなく、やがて忘れられてしまうのではないでしょうか。

そう考えるとこのバス停表示は「昔、ここに炭鉱坑道入口があったんだ」という記念碑のようにも思えてきて、カメラのシャッターを切った次第です。

地名はその土地の歴史そのものをあらわしていると思います。ゆめゆめ読みにくいとか地名発音が硬いとか親しみが持てないとか行政上管理がしやすいなどの理由で廃止・地名変更などはしてもらいたくないと思いつつ、ちょっと飯塚まで行ってきました。我が家から飯塚市内まで一時間あまりのドライブでした。
by iruka-boshi | 2010-09-14 22:47 | Comments(7)
Commented by なつひこ at 2010-09-15 23:46 x
文京区の弥生町も一部 根津に編入されてものの
住民の反対運動で元に戻ったとか 
想い入れのある地名は、そのままにしてほしいが
形になった例でしょうか?

サト-ハチロさんの「弥生町賛歌」という詩もあるそうです
Commented by iruka-boshi at 2010-09-16 12:07
郷土愛のひとつの表れなんでしょうね。
地名には歴史的なものとその土地固有の性格のようなものが抱合されているように思えます。場所さえ特定できればそれで良いのならば、記号や番号のみの市町村名でも可能です。(極端に言えばですが)K-3番町とか第127番市とかですね。数年前、実家の町の名が合併で変更されました。ひらがなの町名だけはしないで貰いたかったが、危惧した通り、ひらがなの町名になってしまった。ガッカリ! 平仮名では意味がなさず、これでは記号と一緒です。意味などいらない、場所がわかればそれで良い、という人もいるかもわかりませんが。
Commented by 大乃井音楽図像学研究所 at 2010-09-17 08:37 x
アイヌ語による地名表記法 
『北海道地名漢字解』 本多 貢 、北海道新聞社刊、より
赤泊=ワッカ +トマリ(飲み水がある 港)
金駒内=ケム+オマ+ナイ(飢饉 ある 川)            このように定住しない生活形態にとって、地名とは音声言語によるすぐれたライフラインの記憶システムだと思われます。
地名は「動く民」にとつては生死に係わる視覚的被写界深度なのでしょうか。
Commented by iruka-boshi at 2010-09-17 20:08
そうですよね。やはり地名に情報がはいっていたほうがよいとおもいますが、現在では本来の意味(情報)を意識することはほとんどないでしょうね。例えば別府とか馬場とか城内とかの地名は各地にありますが、意識して使うことはまずないでしょう。しかしそれでもいいんです。まったく記号と化した市町名になるよりは。
Commented by 杉さん at 2018-08-29 21:44 x
ここから、たしか左に上がった所に炭坑の長屋が今もたくさん残っています。懐かしく思います!
取り壊さないでほしい、心から思います。


Commented by 杉さん at 2018-08-29 21:46 x
ここから、たしか左に上がった所に炭坑の長屋が今もたくさん残っています。懐かしく思います!
取り壊さないでほしい、心から思います。


Commented by iruka-boshi at 2018-08-30 20:42
私の住む町にも外見は炭住と同じ長屋が数カ所あります。
しかし大半は無人で住人の多くは鉄筋の県営あるいは町営のアパートに越しています。木造の長屋住宅も昭和の遺産のようなものでしょう。お教え頂いた炭住にも機会をみて行ってみたいものです。以前、香春岳近くの無人炭住を訪ねてみたことがありますが、狭い通りなどを見ているうちに「ここには現在とは違う種類の活気やある種の高揚感もあったのだろう」と想像した次第です。静寂に包まれていただけに昔日の繁栄ぶりとその影を見た思いでした。(コメントをありがとうございました。)