福岡県立育徳館中学・高等学校の講堂「思永館」にて記念講演会が開催されました。

講演中の「みやこ町教育委員会」の川本英紀氏 ↑
講演に先立ち、同校運動場に於いて「秋月黒田藩砲術林流抱え大筒保存会」による抱え大筒実射の演武が披露されています。
最初は3人同時撃ちの「浮舟」と名付けられた片膝立ての座撃ち。
何しろ抱え大筒の演武はこの時初めての体験だったので、その轟音には心底驚いた。
連射でシャッターを切ってたのだが思わず手元が震えてしまって、しかもタイミングも狂っていて火を噴く瞬間は捉えることが出来なかった。
周囲に飛び散ってるのは、弾丸の代わりに詰め込まれた古新聞や不用になった封筒などの紙屑類の破片。
何度シャッターを切っても煙しか写らず。撃ち手は反動の「のけ反り」に耐えている様子。砲身と左手はサラシで固く結ばれています。
「浮舟」の次は同じく座撃ちの「霞」で、その次は立ち撃ちの「稲妻」。 ↓
これは反動が大きく、体力を要するとのこと。
やはり煙しか写らず。射撃の瞬間から約1秒後の写真。 ↑ 撃ちかたは、「村雨」「霞」「浮舟」「稲妻」の4型があります。
火縄に火を移している様子。演武の後、大筒を持たせてもらったが、ズッスリ重く30kgあるそうです。
よく見るとちょっと小さめの大筒もあり、これには丸に十の字の島津家の家紋が入ってました。
保存会の発足は昭和46年で、年4回定期の演武披露(1月-射ち初め、4月-秋月春祭り、9月-秋月観月会、12月-射ち納め)と各種行事での披露。
秋月の乱は、明治九年(1876)10月に、政府の開化政策に不満を持った旧秋月藩士族(以下、秋月士族とよぶ)約250名が蜂起した事件で、明治初期に起きた、いわゆる「不平士族の反乱」の一つである。秋月士族は熊本の神風連の乱に呼応して兵をあげ、旧豊津藩士族(以下、豊津士族とよぶ)と合流、さらに萩の前原一誠らと合流する計画であった。
10月29日、秋月士族が豊津に到着後、育徳学校校長・入江淡を交渉相手に挙兵を求めたが、政府軍の到着を待つ豊津側は、交渉を長引かせるだけでこれに応じようとしなかった。同日夕刻、政府軍が戦闘を始めるや、育徳学校に立て籠もっていた豊津士族は政府軍を助けるため戦闘に加わり、結果、秋月側は多数の死傷者を出し敗走したのである。(福岡県立育徳館高等学校二百五十年史 より)
戦場となった豊津から敗退した秋月藩士(秋月党)の隊長今村百八郎らは小石原を経て江川村(現甘木市)へ向かい、砲術隊長中野五郎三郎は現嘉穂市の農家縄田家にかくまわれることになります。
戦で傷ついた中野五郎三郎は縄田家で手厚い介護を得、そのお礼に抱え大筒を贈り、林流砲術を伝授します。爾後、抱え大筒と砲術は代々縄田家において受け継がれますが、砲術はいったん途絶えます。
しかし、戦後(太平洋戦争)、伝承者の縄田勇造氏によって傷んだ大筒の復元と砲術の復活が図られ、昭和46年の保存会結成を持って砲術が継承され、現在に至っています。

「秋月の乱 150年」のポスター
● 演武:秋月黒田藩砲術林流抱え大筒
● 記念講演会:「秋月の乱 乱後150年の疑問」 講師:川本英紀氏(みやこ町教育委員会)
● パネルディスカッション「秋月の乱150年を考える」
同時開催
● みやこ町歴史民俗博物館友の会30周年記念講演会
● 演奏:福岡県立育徳館中学校・高等学校管弦楽部 曲目:「アルルの女」よりファランドール/「007」メドレー/ハンガリー舞曲第5番/他 全7曲
なお、みやこ町歴史民俗博物館にて「秋月の乱 150年」記念企画展(10月18日~11月30日)開催と秋月の乱の戦死者を供養する150回忌墓前法要が「甲塚墓地(みやこ町)」にて営まれた(10月29日)ことを付記します。
講演会資料より ↓

画像右端の電文(東京発小倉電信局着/明治9年10月27日) ↑ 「豊津士族 騒がしき風聞有り 不都合に付き 早く説諭せよ なお様子詳しく返事を待つ」