最初にこの本の「はしがき」の一部を抜き出します。

「この本は、さきに日本出版社から「風と光」として、出版されたものでありますが、大阪と廣島の戦災で、世に出ずに消失してしまい、著者沖吉昌登氏の消息もたえました。本社ではこれを遺憾におもって、脇坂景城氏に伝説の方面の執筆を乞い、大修正を加えて、ここに皆さんにお送りすることになりました。」とあります。

そこで調べてみると「風と光」ではなく、「趣味の理科物語 光と風」という書籍が昭和17年に日本出版社から沖吉昌登の著者名で出されていましたので、この本のことだと思います。はしがきの「世に出ずに消失してしまい」というくだりは、出版されたが広く流通する前に大部分を戦災で消失した、ということでしょうね。また、「著者沖吉昌登氏の消息もたえ」とは、この時代の混乱振りとそれに至った戦争の悲惨さをあらためて感じさせる記述で、はしがき執筆者の無念が伝わってくるようです。

沖吉昌登さんの本は「光と風」のみのようですが、共著者の脇坂景城さんは「伝説ガイド 神仏の神話と由来」や「聖書童話 赤い花白い花」など数点を確認することができました。
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脇坂さんは、本日の「大空の神秘」では、「天地がはじめてできた話」を担当し、ヘブライ神話、ギリシヤ神話、エジプト神話、日本神話などを記述しています。さて本文内容ですが、大きくわけて「太陽・月・地球はどうして出来たか」と「気象の変化」と「自然界の水」の三つです。(この稿つづきます)

(お詫びと訂正:6月24日記)
上記の文章中、<「風と光」ではなく、「趣味の理科物語 光と風」>と書きましたが、「風と光」で良い、とのご指摘を頂き、同書の背表紙には縦書きで「風と光」となっている旨のご教示をいただきました。大変申し訳なく、お詫びして訂正させていただきます。
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測地天文学から出発したパリ天文台は、やがて19世紀の天体力学の時代にめざましい活躍をはたすのですが、その後、天体物理学の時代を迎えると新たな対応を求められることになり、パリ郊外のムードンの森に惑星や太陽を観測する近代的設備を持ったムードン天文台が建設されます。19世紀末のことです。そして第二次大戦後、さらに新しい観測手段として電波望遠鏡が注目されることになって建設されたのが、本日のナンセ(NANCAY)電波観測所です。

電場望遠鏡といえば普通、おわん型のパラボラアンテナを思い浮かべると思いますが、ここの電波望遠鏡は二つの向かい合った巨大な電波反射板から成っています。ひとつは固定され、もうひとつは反射板の傾斜が可能です。この形はアメリカのジョン・D・クラウス(1910-2004)が考案したもので、クラウス型と呼ばれるものです。目標天体の導入は地球の自転に頼っています。頼りっきりでは無いでしょうが。

観測所の完成は1963年です。記念切手の図柄はスッキリしていて好感が持てるのですが、初日カバーと記念印のデザイナーはふたつの板を並べただけの切手デザインにもの足りなかったのか、少し内容詰め込み過ぎの図柄にしてしまった、のでは?。
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説明がなければ何を描いているのかよくわからん。
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1905年の消印があるパリ天文台の絵葉書。
画面の奥の二階建ての建物が本館で、屋上のドームはのちに加えられたものの建物自体は建設当時のままの姿。

パリ天文台は、太陽王と呼ばれたルイ14世の治世下、財務を担当するジャン=バティスト・コルベールの建議により1667年に建設が着手され、1671年に完成をみた。

重商主義の立場から当時のフランスは、海外に領土を求めており、植民地政策を推し進めるために正確な地図を必要としていた。そのためには精確に経緯度を知る必要があり、「測地天文学」の充実が国家の急務とされたのです。

パリ天文台の完成はその期待に大いに応えることができ、天文台から世界各地に派遣された科学者の観測により地球が球体ではなく楕円形であることや、のちに長さの単位であるメートルの決定、さらにのちには天体力学の隆盛を得ることが出来ました。
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夕方が来た。私の旅の心は落ちつかなかった。円い行燈のような石の塔につく天文台の燈火が私の部屋から望まれた。私はその燈火を眺めて、暮れそうで暮れない夕方を耐えた。
(エトランゼエ・春陽堂版・55ページより)

大正2年4月、島崎藤村は横浜とフランス・マルセイユ間を往復する定期船エルネスト・シモンの船客となっていた。マルセイユ到着は5月20日で、藤村はこの日より大正5年4月まで3年間をパリで過ごすことになる。

遊学の目的は、文化・芸術の勉強にあったが、その実、前年に自らが起こしてしまった姪・こま子とのけっして世間が認めることのない関係からの逃避でもあった。

藤村が下宿したパリ5区ポオル・ロワイヤル通り86番地は、リュクサンブール公園にほど近いところにあり、この公園の南端にパリ天文台がある。毎日のようにリュクサンブール公園を散策した藤村は、帰路はこの天文台のドームを目印として宿へ向かうことを常としていた。「エトランゼエ」の文中、何度となく「天文台」が出てくる。パリ滞在中、藤村の意識の奥底には絶えず天文台の存在があったのだろう。

しかし、白く輝く天文台の姿は、宿の方角を知る手立てとしてだけではなく、異国の地においてここに至るまでの事実から逃避し、公園の木々の間を歩き続ける藤村にとって、動くことのない、あるいは動かすことの出来ない何かを指し示すものとしてその眼に映ったのではないだろうか。

帰国した藤村はやがて「新生」を発表、自らの姿を世に問うたのだった。

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エトランゼエ 仏蘭西旅行者の群
著者:島崎春樹(藤村)
発行:春陽堂
印刷日:大正11年9月15日
発行日:大正11年9月18日 初版
大正11年10月20日 9版発行
14cm×19.5cm/432ページ

いるか書房本館にエトランゼエをUPしました。現在ウリキレ
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引き継がれるロマン 山崎鏡復元奮戦記
徳王子天体観測所運営委員会編
発行:南の風社
発行日:1985年7月25日 初版
編者:田中真一 徳王子天体観測所運営委員会代表
13cm×18.5cm/238ページ

前回のブログ(6月7日)のタイトルは、今日の本の書名を意識してのこと。
内容はサブタイトルどおりで「山崎正光氏作製の望遠鏡の復元記」

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山崎正光氏は1928年10月27日、日本人として初めて新彗星を発見。また、渡米中に習得した望遠鏡の鏡面研磨法を初めてわが国に紹介したことでも知られる。

1984年6月、生家がある高知県佐川町を訪ねた編者ら一行4名は、山崎氏の次男ご夫婦が保管していた口径20cmの反射望遠鏡の鏡を前にして言葉を失っていた。鏡を収める鏡筒と架台はすでに存在しないものの、眼前の鏡は、氏が発見した彗星を映したに違いないと思われる貴重なものだった。

周期27.9年で回帰する山崎氏の発見した彗星、山崎・ホルベス周期彗星はのちに軌道
を研究した人物の名を冠してクロンメリン彗星と呼ばれることになる。

編者らが訪問したこの年、1984年は山崎氏の発見から56年後のこと。氏が発見したのち2回目の回帰の年に当たる。編者らが訪問した数ヶ月前、山崎・ホルベス周期彗星は冬の夜空を飾ったばかりだった。そして次の回帰はもうすぐ。

カバーイラストは、山崎正光氏の天文関係記録「天文日記」に描かれた望遠鏡見取図。山崎氏自身の
手になるもの。
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