「反省叢書」とは何とも即物的な名称ですが、第二輯まで出ているようです。第二輯のタイトルは「美しい日本への道―反省と発足」で著者はドイツ文学者の高橋健二氏。

第二輯は未見ですので詳しい内容はわかりませんが、タイトルどおりの内容なのでしょう。
対して本書は「反省叢書」とは言うものの反省よりも日本人の欠点指摘の書の様相です。

もちろん「反省」はしていますので、航空工学者である著者なりの反省方法と思います。

著者は、戦時中、さまざまな機会を通じて国民の機械類に対する知識不足や製造技術の未熟から来る工業製品の劣悪さに警鐘を鳴らしています。

この場合、工業製品とは航空機ですが、その完成品の品質の悪さは目を覆うばかりで、これでは今次の大戦の完遂は困難であり敗戦は必定、と説き続けていました。

しかし、彼の苦言なり提言は無視され、あるいは冷笑され、さらには官憲に拘引されるということさえありました。

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著者の富塚清は、日本の航空エンジン研究の第一人者で、東京帝国大学工学部機械工学科を大正6年(1917年)に卒業しています。

卒業後は東京帝大の付属属機関である航空研究所の嘱託となり、のちに東京帝大助教授、航空研所員を経て昭和7年(1932)に東京帝大航空学科の教授に就任しました。

教授となった富塚はやがて航空学科の改革に取り組みます。それまではトップダウンの意志決定方式を合議制に変更して教授間の意思疎通を密にし、数学的理論中心の教育方針から機械の取扱い方を重視するなどの体験的教育へ移行させ、学生が実社会に出たときに高い能力を発揮できるような教育プログラムを確立し実施して行きました。

この改革の主旨は、のちに戦時中、富塚が講演会や著述を通して人々に強く訴えてきたことである「機械についての知識を得、取扱いに熟達する」「製造や組み立ての技術向上を目指す」「品質管理を徹底させる」に通じるものがあります。


本書は中国大陸のどこかに居るはずの終戦後もまだ帰国を果たしていない我が息子に語る、という形式で書かれています。

その為、辛辣な表現で日本人の機械に対しての考え方、あるいは科学に対しての考え方を痛罵しているものの「我が子に語り聞かせているので、まあいいじゃないか」という雰囲気を出しています。

特に冒頭部分の10ページほどは著者の忠告・提言を全く聞き入れようとしなかった人々を痛烈に批判し、「そーれ見たことか」とさえ書いていますが、ここにはユーモアさえ感じられます。

著者は航空機生産現場の事情だけでなく、造船や電気工学、食糧生産方法まで言及していますが、本書に一貫して語られていることは、「幼少時期からの科学教育の重要さ」で、特に幼児期は家庭に居ることが多く、お母さんとの触れあいがいちばん多いのであるから、お母さん(あるいは主婦)が科学意識を持つことが肝要である、と述べて家庭内の日常的科学知識の大切さを海外の事例を紹介して強調しています。

本書はわずか31ページの小冊子ながら、示唆に富む事柄は多く、紹介記事を書いていると際限なく続きそうなので、最後に「見出し」(目次はありません)と文章の一部を転記してこの稿を終わります。


○ 終戦の大詔を拝して/一言居士といふ勿れ/神秘的な証明/神がかりな精神論者/科学なき国とは/科学技術者の素質/科学的能力の相違/航空機生産の楽屋/船や電気はどうか/数的観念の不透明/食糧問題を例にとれば/家庭の問題/基盤なき科学/科学教育の水準/詰込み教育/より高いものを求めよ


『一番いけないのは、科学を生活の中の異物と考えることさ。むこうの人は、科学の中でのびのびと生きているんだ。科学なき生活を人間の生活だと思わないという方が当たっているか。科学を呼吸して生きていると云ってもいい。』

『高き文化だ、大切なのはね。いくら縄張りをひろめたようでも、その国力に副う文化を背後に用意することを怠れば、いかなる目にあうかは、お前等にも身にしみて判った筈だ。』

『科学精神のそもそものもとは、「より高いものを求めるの心」だ。文化の基調の精神さ。日本の敗れのいちばんの大本は、ここの不足にあるんだ。科学々々といったって、僕等は、この「より高いものを求めるの心」の涵養をだよ、第一義的に考えているんだ。これをうまく身につければ、「敗れたり」なんて言葉とは縁切りになる。』



● わが科学敗れたり 反省叢書第一輯

著者: 富塚清
印刷: 昭和二十年十一月一日
発行: 昭和二十年十一月五日
発行者: 中野勝義
印刷者: 南澤幸男
印刷所: 信濃毎日新聞社
発行所: 大日本飛行協会
配給元: 日本出版配給統制株式会社
出版会承認 え五五〇一二二
定価: 六十銭/13×18センチ/31ページ


なお、この稿の冒頭に反省叢書は第二輯まで、と書きましたが、二輯以降も出ているのかもわかりません。未確認です。
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# by iruka-boshi | 2017-06-29 19:19 | Comments(0)
5月27日・28日の両日、門司みなと祭が開催されました。

第74回となる今回も北九州市門司港地区をはじめとして大里地区・レトロ地区・栄町商店街などでさまざまなイベントが開催され、大勢の人々でにぎわいました。

そのイベントのひとつとして、門司港西海岸にて艦船の一般公開が行われましたので出掛けてみました。

一般公開の艦船は【汽船「銀河丸」】、【海上自衛隊ミサイル艇「しらたか」】、【海上保安庁巡視艇「はやなみ」「ともなみ」】の4隻で、そのうちの「銀河丸」と「しらたか」の船内見学に参加しました。

汽船「銀河丸」は、「独立行政法人 海技教育機構」所属の遠洋航海実習船で平成16年6月に就航しています。

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全長116.40メートル/幅18.0メートル/総トン数6185トン/最大搭載人員246名(実習生定員180名)/三井造船(株)千葉造船工場建造
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航海船橋(ブリッジ) ↑ ここには無線室もあります。 実習生用船橋はこの下層です。 ↓
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実習生用船橋 ↑ オンボード操船シュミレータの一部、さまざまな操船シュミレータ機能が付加されています。同じ船橋に航海科実習室があります。
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機関室 ↑ 三菱製ディーゼル/1基 機関科演習室と体育室はこの第2甲板(デッキ)にあります。乗組員や実習生の食堂はこの上の甲板です。
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レーダーマストと各種アンテナ群 ↑ ↓
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CAPTAIN DAY ROOMも公開されていました。 ↑
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船尾のいちばん下に「IMO 9271274」と書かれていますが、これは国際海事機関(IMO)が個々の船舶、船舶所有者、船舶管理者に与えた船舶識別番号、とのこと。

なお、「銀河丸」は6月1日に出港だそうです。

また、今後の北九州港(門司港)の練習船寄港予定は海王丸8月14日~8月18日、青雲丸10月20日~10月25日、大成丸11月7日~11月11日、ということです。


続いてミサイル艇「しらたか」に乗船。

「しらたか」は佐世保地方隊第3ミサイル艇隊に所属。竣工は平成16年3月24日です。
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全長50.1メートル/最大幅8.4メートル/基準排水量200.0トン、乗員は約21名で船体はステルス構造になっています。三菱重工業(株)下関造船所建造

ブリッジの上部から覗く白い円盤は「射撃管制レーダ・81式射撃指揮装置2型(FCS-2-31C)」、アンテナマストの最上は「電波探知装置(NOLR-9B)」です。

また、ブリッジ上部の左端に「航海用レーダ(OPS-20)」が見えています。
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電波探知装置の下は「対水上レーダ(OPS-18-3)」、白い二つの球体は「衛星通信装置」です。 ↑ 画面手前の「しらたか」と書かれたボートは複合型作業艇(臨検用)です。
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62口径76ミリ速射砲 ↑ イタリアのオート・メラーラ社開発/日本製鋼所でライセンス生産 船体同様にステルス性を考慮して傾斜をつけた外見デザインになっています。
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左右両舷に設置されている六連装の「チャフロケットランチャー(SRBOC)」 ↑ 「MARK 137 MOD 1」発射機  ↓
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ランチャーの横に置かれた説明版に「電波を反射するアルミ箔片を詰めたロケットを発射し、空中に雲のように広がったアルミ箔に敵ミサイルを誘導する」 とありました。
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ブリッジ ↑ 座席はシートベルト付きで、勤務中は全て着席、とのこと。
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SSM-1B90式対艦誘導弾発射筒 ↑ 誘導弾の射程は150~200km、弾頭重量260kg、最大速力1150km/h
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発射筒の下部(画面の右下)に質量が書かれています。↓ 「飛翔体・667kg/発射筒本体・350kg/誘導弾総質量・1017kg」 
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文字の右上の円形ハンドル状のものは「燃料注入口」
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「しらたか」の総員離艦安全守則ですが、日常生活でも活用できそうなのが一つ二つありますね???

「みなと祭」としては少し違和感がありますが、自衛隊の広報活動の一環として陸上自衛隊小倉駐屯地の「82式指揮通信車」も展示されていましたので紹介します。
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乗員8名/全備重量13.6t/全長5.72m/全幅2.48m/全高2.38m/最低地上高0.45m/最高速度100Km/h/武装12.7mm重機関銃/小松製作所製
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# by iruka-boshi | 2017-05-29 20:03 | Comments(0)
(2017年4月19日・21日の続きです)

松下紀久雄はスマトラでの取材旅行中、ボルネオ報道班への転属を命じられています。

スマトラの取材旅行からシンガポールへ戻った松下紀久雄は、取材で得たスケッチを「昭南日報」へ寄稿した後、ボルネオのクチンへと向かいます。

本書の「ボルネオの一夜」によると、クチン到着は「前田閣下」の葬儀の2~3日前ということで、昭和17年10月中旬~下旬にはすでにボルネオでの取材活動に入っていたものと推測されます。

前田閣下とは、前田利為(まえだ としなり)ボルネオ守備軍司令官のことで、昭和17年9月5日にボルネオ沖で搭乗機が消息を絶ち、のちに機の残骸と遺体が発見され葬儀が執り行われています。

著者のクチン入りはその葬儀の数日前であったため、葬儀参列に各地から参集した士官・下士官・名士でクチンの町は溢れ、宿を取ることに難儀した、とのこと。

『南を見てくれ』の第3章「ボルネオ」は、11のエピソードに説明付きの31点のイラストとヤギ・サル・ワニ・コウモリなどを描いた説明なしの9点のカットで構成されています。


記事タイトルは次のとおり。

ボルネオの一夜/サラワツクの歴史/久鎮の町/サラワツク川/イカンタマコ/樹間のコーヒー店/ボルネオの子/農民指導/兵隊さんの先生/クチンウヰスキー/海ダイヤ族


サラワツクはボルネオ島の西側の現マレーシア領サラワク州でクチンはその州都、イカンタマコとは空気呼吸が可能で陸上を移動することができる「歩く魚」のことで「キノボリウオ」のことだろうと思いますが、ものの本によると空気呼吸はできるが木に登ることはない、とあるものの、著者は木に登っているのを見たと書いています。
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日の丸を付けた船が行き交う「サラワツク川」 ↑

「兵隊さんの先生」は、ボルネオでも日本語教育がさかんで、学校では子どもたちが熱心に日本語を学んでいるという話、「ボルネオの子」のなかにも日本語教育の成果がさりげなく出てきます。

この「ボルネオの章」に限らず「シンガポールの章」「スマトラの章」の各エピソードに日本語教育とその成果が頻出します。

日本語教育が占領軍の重要施策で宣伝班の主要な任務であったことがよくわかると思います。

『南を見てくれ』の記事とイラストは、現地の風俗・住居・街角の様子・子どもたち・市場風景・遭遇した出来事などに始終し、戦闘場面などの軍事的なものは一切出てきません。
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クチン港町 ↑

これは著者の現地入りがシンガポール陥落後であり、従軍記者のように最前線取材ではなかったことと関連するものと思いますが、日本軍占領後の現地は安定しているということを伝えたいがための意図的編集に加え、著者の好みというか好奇心による記事内容とイラストレーションの選択が行われた結果ではないかと推測します。

また、政治・軍事的風刺画も現地新聞に寄稿したものと想像しますが、これらは『南を見てくれ』には1点登場するのみです。その1点についても「イギリスの国旗が描かれた旅行カバンを担いで葉巻を咥えたチャーチルが旅に出る」というもので、イギリス軍の降伏を描いているのでしょうが、敵意剥き出しで描かれているわけではありません。

敗者を侮蔑的に描こうと思えばどのようにも描けたでしょうがそうしなかった、少なくとも本書には掲載しなかったということは、著者のプロパガンダに対する考え方ないしは性格が表れているように思われると同時に、本書を「東南アジア紀行画文集」に仕立てたかった、という意図を感じさせられます。
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家には一軒一軒小さな橋がかかっている ↑ 右側のイラストは、「サラを食べるこども」 サラというのは色も白いし日本の甘酒のような物で、一杯サトセン(一銭)、の説明付き

第4章は「報道漫画について 序と編輯後記にかへて」で、3ページに亘って報道漫画を含む宣伝活動の重要性とその意義が述べられています。

その中から一部を転記してこの稿を終わります。

『・・・・、報道漫画の條件としては、その作家の深い観察から来る現実性であって、抽象的な理論や、自己の主観から来るものではなく、あくまで戦争遂行上の国家目的と同目標でなくてはならないと思ふ。』

報道班員の任務上、そのとおりなのですが、本書に限っては南方の珍しい光景を集めた画文集の趣きです。



『南を見てくれ』

著者: 松下起久雄(注・奥付の印刷のまま)
印刷: 昭和十九年八月十五日
発行: 昭和十九年八月廿日 第一刷
定価: 六圓
特別行為税相当額: 五十銭
売価: 六圓五十銭
出版会承認イ180100
2000部発行(3000部と印刷した上に2000部の紙片を貼付している)
15×21cm/204ページ

発行者: 松川健文
整版者: 光村原色版印刷所
印刷者: 光村原色版印刷所
発行所: 新紀元社
配給元: 日本出版配給株式会社

なお、「報道漫画について 序と編輯後記にかへて」の文章末尾の日付は昭和十九年六月で、「松下紀久雄」とあり、その肩書きは「建設漫画会」です。

また、この稿を書くにあたって「戦時下の古本探訪 こんな本があった」 ↓ 櫻本富雄著/インパクト出版会発行/1997年 を参考にさせて頂きました。
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# by iruka-boshi | 2017-04-29 12:47 | Comments(0)
(2017年4月19日の続きです)

『南を見てくれ』の4つの章のうち第2章の「スマトラ」は、「昭南島」と「ボルネオ」の章の倍の100ページを割いて、36のエピソードに53点のイラストが添えられています。

イラストの数は「昭南島」の2倍、「ボルネオ」の3倍あります。1942年の9月に行われたと推定されるスマトラ島の取材旅行が、著者にとって如何に印象深いものだったか窺われます。

イラスト53点のうち、「南洋の中央市場 セントラル・パサル」「日本語進駐」「牛のカバラとタイプの音」「スマトラの子供」「砂糖より高い塩が出来る」の記事に添えられた5点は、「昭南日報」の連載記事「明朗なスマトラ新生譜(1942年10月16日から10月21日まで5回掲載)」に付されたイラストの再録です。

イラストの多くは住居や人物・風俗、市場の様子、旅行中の印象的な出来事、印象深い風景などです。旅行参加者は、「陣中新聞」の佐々木六郎上等兵、「昭南画報社」の菅野カメラマン、「昭南日報」の外勤部長・葉勤生、マライ紙編集次長アブドラカメル、それに松下紀久雄とマライ人の運転手の総勢6人です。

「陣中新聞」というのは、占領地で軍政を敷いた陸軍第25軍司令部新聞班が発行した日本将兵向けの「陣中新聞『建設戦』」のことです。

スマトラ島滞在中、取材旅行は2回行われています。

第1回目は、スマトラ島北部を巡る旅で、スマトラ島東北部の最大都市メダンを拠点に、海岸線沿いに北上し商都「ロークスマウェ」を経て「ビルン」に至り、さらに内陸部の「タケゴン」へと進んでいます。途中、アチェ州の漁村パンテラジヤ、シンパンバレツク温泉、シグリ、コタラジヤなどで休息・食事・取材を行っています。

取材といっても本書の記事内容を見るかぎり、「見学」に近いかたちの気が向くままの旅のようです。ただし、さまざまな危険を伴う旅行だったようで、決して気楽な旅ではなかったことと思います。
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ガヨ族の婦人たち ↑

2回目は、メダン→プラパット→バリゲ→シボロンボロン→シピロック→コタノパン→デイコック→パダン→メダンで、メダンより南側の内陸と西海岸の取材旅行でした。1回目、2回目ともに20日間程度の旅行だったようです。

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「三銭のコーヒーと一圓の定食」の挿絵 ↑ 左側のイラストは「アチェの漁村」。 ヤシの木陰で筆者たちに敬礼する少年が描かれています。

 文章なしでイラストのみのページが結構あります。『南を見てくれ』のサブタイトルが「南方画信」であることがよくわかります。

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「ガヨ族のアパート生活」の挿絵 ↑ このイラストは、「昭南日報」に掲載されたイラストの再録、とのこと。
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「スマトラは牛が多過ぎる」より ↑ 空かんを叩き、クラクションを鳴らしても動こうとしない牛たち。  右から二人目の人物は首からカメラを提げていますので「菅野カメラマン」なのでしょう。

(続きます)
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# by iruka-boshi | 2017-04-21 14:10 | Comments(0)
シンガポールは1942年2月15日の陥落から1945年9月12日の在シンガポール日本軍降伏までの約3年半、日本の占領下にありました。

この間、占領地の住民に対する宣伝宣撫・日本国内向けの報道・現地日本軍将兵への啓蒙及び慰問・対敵宣伝などを目的として、作家・画家・新聞記者・雑誌記者・編集者・映画関係者・放送関係者・印刷関係者・演劇関係者等々が徴用され、シンガポールをはじめとしてスマトラ・ボルネオ・ジャワなどの占領地各地でいわゆる「文化工作」が行われました。

『南を見てくれ』の著者「松下紀久雄」も徴用されて現地での「文化工作」に従事した人物のひとりで、同じく徴用された横山隆一や近藤日出造、麻生豊、清水崑、小野佐世男らと同様に漫画家でイラストレーターでした。
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南方戦線・占領地における文化政策やプロパガンダの「文化工作」従事者の徴用・派遣は1941年10月に始まっていますが、松下紀久雄の徴用時期ははっきりしていないようです。

しかし、1942年5月に現地華字紙「昭南日報」に彼が描いたイラストが掲載されていますので、この頃にはすでにシンガポールで活動していたと考えられています。

彼のシンガポールでの活動拠点は、日本軍が接収したロビンソン・ロード45-49号の南洋商報社(昭南画報社)で、陸軍企画部宣伝班の美術部に所属して、華字紙「昭南日報」や英字紙「昭南タイムス(THE SYONAN TIMES)」に漫画(イラストレーション)を提供していました。

『南を見てくれ』は、「昭南島」「スマトラ」「ボルネオ」「報道漫画について」の4章から成り、それぞれの土地で見聞きしたこと、経験したことを合計69のエピソードで綴り、全124点のイラストレーションを添えています。イラストは記事内容に沿ったものもあれば、記事とは関係なく現地で彼の印象に残ったと思われる風俗・人物・建物などが取り上げられています。

「昭南島」の章では17のエピソードに31点のイラストが添えられています。記事タイトルは次のとおり。


昭南島の日本語学校/神保学校/特別市立中央病院/マライの増産/チャーチル市場/ユビーとケダモノ/昭南神社/新世界/バタの臭みから味噌汁の味へ/新聞売り/南進通りオーチャード・ロード/印度人の番人/昭南島の劇場/昭南島人種展/華僑の街/税金納入済/華僑の子供


いずれも日本軍政下でのシンガポールの繁栄・日本人への親しみなどが語られ、物資の豊富さや治安のよさ、日本語教育の成果などが強調されています。

しかし実際は必ずしも現地社会が安定していたわけでなく、抗日華僑グルーブの存在や闇市の横行、金融の崩壊など多くの問題を抱えていました。

・・・が、これらには全く触れられていません。これは著者が自身の考えで意図的にスルーしたものか、軍部による指導によるものなのか判断は付きませんが、これこそ文章とイラストによるプロパガンダそのものなのでしょう。

「文化工作」の重要な仕事のひとつに「現地の人に対する日本語教育」がありましたが、『南を見てくれ』においても日本語学習熱の高まりとその成果が各エピソードの随所で見受けられます。

「昭南島の日本語学校」に添えられたイラスト ↓ 『南を見てくれ』にはたくさんの子どもと女性の姿が登場します。
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宣伝班が運営していた日本語学校は、詩人の神保光太郎を園長とする「昭南日本学園」とその付設の「昭南児童園」がありました。

学校では日本語学習に加えて、日本の皇国思想の移殖が試みられたことはいうまでもありません。

「神保学校」の挿絵 ↓ 
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「神保学校」に添えられたイラストは、「Syonan Times」の連載記事「昭南島建設」のイラストの再録です。
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「バタの臭みから味噌汁の味へ」の挿絵 ↑

タイトルの意味するところは、洋風の街並みや生活様式が日本風になってきた、ということでイラストの「ハイストリート」も日本人向きの食堂や商店が軒をならべているとのこと。

街角のインド人風の交通巡査は背中に交通指示機を背負い、日の丸の腕章をつけています。洋車(チャー)と呼ばれる人力車が重要な交通手段となっています。


(2017年4月21日に続きます)
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# by iruka-boshi | 2017-04-19 22:29 | Comments(0)