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(2016年2月8日の続きです)

明治32年に「神代帝都考 全」を上梓した挟間翁は、上申書を添えてこの著作を宮内省に献本しています。

しかし、すでに明治7年に当時の教部省によって神代三山陵が鹿児島県に治定されていることに加え、 万世一系・神聖不可侵の天皇を中心とした国家体制を執り、神道の国教化を推し進める明治政府の一官庁としては、国体論に結びつきかねない「神代帝都考」の記述を受け入れることは到底不可能なことでした。

ちなみに明治7年治定の神代三山陵(ニニギノミコト、ヒコホホデミノミコト、ウガヤフキアエズノミコトの陵墓)は次のとおりです。

ニニギノミコト 可愛山陵(えのやまのみささぎ)/鹿児島県薩摩川内市宮内町新田神社境内の神亀山
ヒコホホデミノミコト(ホオリノミコト) 高屋山上陵(たかやのやまのえのみささぎ)/鹿児島県霧島市溝辺町神在りの岡
ウガヤフキアエズノミコト 吾平山上陵(あいらのやまのえのみささぎ)/鹿児島県鹿屋市吾平町上名 鵜戸山の「鵜戸窟」内の2つの塚

いずれも鹿児島県内に治定され、宮崎県が主張する御陵は退けられています。これは、明治政府の要人に旧薩摩藩出身者が多く、彼らの意向が働いたという事が通説になっています。

これに対し「神代帝都考」の神代三山陵は、

ニニギノミコト/延永村大字長木オオクビ谷(行橋市長木/隣接地に「二塚」の地名があり、挟間翁は一方をニニギノミコトの御陵とし、片方を妃カムアタツヒメの御陵に因むもの、としています。)
ヒコホホデミノミコト/小波瀬村大字上片島字中之岩屋(苅田町上片島)
ウガヤフキアエズノミコト/苅田村大字提字丸山(苅田町提)

となっています。

さて、宮内省に献本したものの適当にあしらわれた感を持った翁はさらに調査考究し、12年の歳月を掛けて明治44年に「増補訂正 神代帝都考」を脱稿するに至ります。
「増補訂正 神代帝都考」は和綴本6冊で、「神代帝都考 全」の1冊に比べてはるかに多くの神蹟地考証が記されています。

しかしながら、この大部の論考は刊行されることはありませんでした。「増補訂正 神代帝都考」脱稿の年の12月26日に挟間畏三翁は70年の生涯を閉じています。
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「増補訂正 神代帝都考 草案」 ↑ 1993年10月、挟間畏三翁の曾孫「挟間章和氏」(小倉南区)より、苅田町立図書館へ寄贈 現在、同図書館にて「神代帝都考 全」、挟間家系図・その他資料とともに展示公開されています。


「増補訂正 神代帝都考」の脱稿後、30年ほどの時を経て翁の長男挟間延年氏は、『評釈伊勢物語大成/代々木書院 1931』や『国語時相の研究/中文館書店 1933』など多くの著作を持つ国文学者の新井無二郎氏を訪ね、「増補訂正 神代帝都考」の校閲を依頼しています。

新井無二郎氏は、増補訂正の草稿を通読してその考証精緻に感動し、後に「増補訂正 神代帝都考」に触発されたと思われる『神都高天原考/平凡社 1941』を刊行してその著作の中で挟間翁と「神代帝都考」を称賛しています。

増補訂正の脱稿後、長い間世間一般に知られることのなかった翁の遺稿ですが、昭和39年に挟間翁の孫「挟間章雄(ふみお)氏」によって活字化されています。
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「神代帝都考」 ↑ 明治32年刊行の「神代帝都考 全」と「増補訂正 神代帝都考」の合本となっています。

「全」にしても「増補訂正」にしてもその記述内容を一言でいうと「神代の帝都は九州北東部、なかでも中心を成すのは豊前・豊後地方である」に尽きます。

これを論証するにあたって記紀を始めとする古典・中世・近世の文献約65点に加え、多数の神社・仏閣の縁起、郡村誌を参考にし、引用しています。

この厖大な引用文及び現存地名考証と現地調査を持って「それぞれのミコトの神跡地はここである」と述べていますので、今この拙ブログの数行で書き表すことは不可能です。

「神代帝都考」で比定した神跡地の現住所をここに羅列しても、なぜそのようになるのかは原本をお読み頂けなければ理解できない、と考えるからです。

しかし、原本及び昭和39年の合本は、ともに漢文混じりの旧仮名遣いで少々読み難い感があります。

そこで、非常に解りやすい解説書『「神代帝都考」解説』(昭和40年及び増訂再版・昭和46年、友石孝之著)がありますので、この著作と併読することをお勧めします。

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顕彰碑設立記念 挟間畏三先生著 「神代帝都考」解説 ↑

昭和四十年十月十日印刷
昭和四十年十月十五日発行
著作者 福岡県行橋市南本町二八一三 友石孝之
発行所 福岡県行橋市南本町二八一三 美夜古文化懇話会
印刷所 北九州市小倉区高田町二丁目 豊国印刷社
限定 五〇〇 頒価三五〇円
19cm×13cm/91ページ/ハードカバー 「古墳時代の墳墓遺蹟図(定村責二作成)」1枚/顕彰碑設立経過報告及び碑文 3ページ

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増訂再版 挟間畏三先生著 「神代帝都考」解説 ↑

昭和四十五年十二月十日印刷
昭和四十六年一月十五日発行
著作者 福岡県行橋市南本町二、八一三 友石孝之
発行所 福岡県行橋市南本町二、八一三 美夜古文化懇話会
印刷所 北九州市小倉区高田町二丁目 三陽印刷社
限定 五〇〇
18cm×12.7cm/93ページ/ソフトカバー 「古墳時代の墳墓遺蹟図(定村責二作成)」1枚/狭間畏三先生碑建設経過報告 95~96ページ
挟間先生をしのぶ座談会 97~107ページ(美夜古文化 第十七号より転載)
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『神代帝都考 全』

明治32年8月16日印刷
明治32年8月19日発行
著作者兼発行者 挟間畏三 福岡県豊前国京都郡小波瀬村二百四十二番地
印刷者 島連太郎 東京市神田区美土代町二丁目一番地
印刷所 三光社 東京市神田区美土代町二丁目一番地
発売所 東京堂 東京市神田区表神保町三番地
定価 金五拾銭
神代帝都考序 青萍 末松謙澄
端文 乃楽舎 岡吉胤
緒言 編者謹識
彩色附図1 神代帝都全図/彩色附図2 天孫降臨以後神蹟図/彩色附図3 阿邪訶比良夫貝之図
巻末広告 徴古新論 一名神達哲学 全三冊 大教正岡吉胤著/題字 久我従一位副島伯爵・東久世従二位福羽子爵
和綴じ本70丁+3頁/15.5×23cm

●序文の青萍末松謙澄は挟間畏三と私塾「水哉園」の同門、後輩/「神代帝都考 全」の刊行時は第3次伊藤内閣で逓信大臣(明治31年)を務め、のちに第4次伊藤内閣の内務大臣(明治33年)となる。/安政2年8月20日(1855年9月30日)生、大正9年10月5日没

●端文の岡吉胤は、旧肥前佐賀藩士、国学者、神職/維新後に神祇官となる。伊勢神宮の禰宜を務めたのち皇祖教をおこし管長となった。/天保4年(1833)10月28日生、明治40年7月13日没

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『神代帝都考 全』の巻末に岡吉胤の著書「徴古新論」の広告が掲載されています。 ↑
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『神代帝都考 (神代帝都考全と増補訂正神代帝都考の合本)』

昭和39年2月20日印刷
昭和39年3月1日発行
発行者 挟間章雄 北九州市小倉区堺町116番地
印刷所 株式会社天地堂印刷製本所 北九州市小倉区大手町
331ページ+あとがき1ページ+写真ページ他4ページ+附図3枚/函付き/非売品/15.5×22cm

●増補訂正神代帝都考の序 新井無二郎/山口県吉敷郡下郷村生まれの国学者、小学校教員をへて明治32年國學院国文科卒業、山口中学校教師、明治学院講師、慶應義塾大学講師、駒澤大学教授等を歴任/明治8年9月11日生、昭和32年7月11日没/序の日付は昭和17年7月。

●あとがき 医学博士挟間章雄/挟間畏三の長女「養」の四男、産婦人科医/明治29年2月11日生、昭和44年5月8日没

●新井無二郎に校閲を依頼した挟間延年は、挟間畏三の長男/明治5年6月9日生、昭和28年5月1日没(姉2人「ヨウ」「セツ」と妹1人「レキ」)
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『挟間畏三(古八郎是之)』 京都郡延永手永大庄屋/福岡県県会議員

●天保13年(1842)6月15日、京都郡新津手永大庄屋「挟間次郎左衛門宗矩(次郎蔵)」と妻「琴女」の長男として誕生。幼名豊一 (8人兄弟、姉1人、弟4人、妹2人)

●嘉永6年(1853)2月10日、京都郡上稗田の村上仏山の私塾「水哉園」に入門、のちに豊後日田の広瀬淡窓の私塾「咸宜園」に入門

●明治2年前後、仲津郡花熊村の中原雪と結婚/長女「養」、二女「セツ」、長男「延年」、三女「レキ」

●明治28年、「神代帝都考」の執筆開始/明治32年8月19日、「神代帝都考」発刊

●明治44年、「増補訂正 神代帝都考」稿本6冊を脱稿/この年12月26日没

●昭和39年3月、挟間章雄、「神代帝都考」合本を刊行

●昭和40年3月、挟間畏三顕彰碑設立準備会開催/7月、地鎮祭執行/10月16日除幕式

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挟間畏三顕彰碑 ↑ 顕彰碑の裏手の林のなかに挟間畏三翁及び挟間家の墓所があります。
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今朝、8時少し前より1時間ほど「幻日」が見られました。
当地では今冬、2回目の出現です。(いつも空ばかり見ているわけではありませんので、もっと出現していたかもわかりません)

幻日は、さほど特筆するほどの珍現象ではありませんが、やはり自分にとってはトピックスです。
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2016年2月18日8時17分撮影 ↑ 地面は暗くてよくわからないと思いますが、一面「霜」です。

下の画像は2016年1月31日16時44分撮影 まもなく日没の頃です。左端の電柱の右側にひとつ、中央の電柱の影になっている太陽と左の幻日との等間隔の右側、電線の間にもう一つ現れています。

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冬の寒さが苦手なわたしですが、時にはこんな冬空からのプレゼントもあり、このときだけは「冬もいいものだ」と思っています。
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(2016年1月14日の続きです)

松本清張の推理小説「鴎外の婢」に挟間翁の「神代帝都考」が登場し、物語展開に重要な役割を演じていることを拙ブログの「鴎外の婢 松本清張著/2011年2月18日」「(その2)/2011年2月26日」「(その3)/2011年4月3日」及び「(その4)/2011年4月19日」に書きましたので、ここでは重複を避けますが「鴎外の婢」の中に藤田良祐著の「北九州の古代国家」からの引用がありますので少し長くなりますが転記します。

『近畿地方に成立した古代王朝の全身が、その東遷以前に、北九州の部族連合体であったことは、三世紀半に編纂された三国史東夷伝倭人の条の記事を見ても明らかである。(中略)記紀には人名にも地名にもトヨの字が多く出てくるが、魏志倭人伝の「台与」がその音を写したものとすれば、後代に「豊」の漢字をあてはめた地名は北九州にずっと以前からあったものとみなければならない。

ツクシが奈良朝期にできた九州の広い呼び名で、豊の国がその中の狭い地域の呼び名であったことから、豊のほうが古い名であり、大化後の行政区画である豊前豊後のうち、豊前がその原体である。それも豊前平野を占める京都郡(旧仲津郡を含む)が中心であったことは、従来史家のいずれも認めるところである。(後略)』

記紀に多出する「トヨ」と北九州との係りを述べたくだりですが、実は著者の藤田良祐もその著書「北九州の古代国家」も「鴎外の婢」の中だけに存在する架空の著者・著書です。松本清張はかなりのページ数を割いて「北九州の古代国家」の内容と小説中の人物・藤田良祐の歴史解説を記していますが、これは取りも直さず清張自身の歴史認識と解して良いと思われます。
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「鴎外の婢」 ↑ 光文社/昭和56年4月1日34版発行(昭和45年4月30日初版)/カッパ・ノベルス新書版/カバーイラスト生頼範義

「神代帝都考」では「トヨ」と挟間翁の主張する帝都の場所との関係を「第1篇 国号考」から説いています。

多くの別名を持つ日本の国号のうち、神代以降の国号を除いたいくつかの国号、例えば「豊瑞穂国」「豊葦原瑞穂国」「豊葦原中津国」「豊葦原千五百秋瑞穂国」「筑紫国」「浦安国」「磯輪上秀真国(しわかみほつまのくに)」「細戈千足国(くはしほこちたりのくに)」などがいずれも「豊の国」を指していることを「豊前古城記」に載る「祝詞」や「神代秘要抄」の中の「豊前風土記」の文章、あるいは「神別本紀」の一節を挙げて詳細に記しています。

また、記紀に云う「筑紫日向」が九州(筑紫)のなかの日向国(宮崎県)ではなく、「筑紫」とは「豊の国」そのものであることを、日本書紀景行紀、安閑紀、仲哀紀、雄略紀、継体紀、旧事紀本紀、古事記神武東征の条の記事などを挙げて論証し、「筑紫」が九州全体を示すようになるのは後の世のこととしています。

さらに、「日向国(宮崎県~鹿児島県)」の名は景行天皇の治世に名づけられたものであり、神代にあるはずはなく、「日向」とは「日向国」のことではなく文字通り「向陽」の義で皇居の近傍の地をいう美称としています。

「神代帝都考」は苅田町高城山(高千穂峯)からカルスト台地平尾台一帯をイザナギ・イザナミ二神に因む「イサヤマ」としていますが、そのイサヤマの南端(平尾台の最南端)に「竜ケ鼻」と呼ばれる山塊があります。

下の画像の左最奥の「へ」の字の形の山です。この「竜ケ鼻」の麓にイサヤマの名を遺す「諌山村」、現みやこ町勝山諌山(いさやま)があります。また、諌山地区には「宮原」の地名を始めとして神跡地を示す地名がいくつか残されている、としています。 ↓
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苅田町上片島より撮影 中央を流れる川は小波瀬川です。

「竜ケ鼻」の「竜」もそうですが、豊前地方には「ヒコホホデミノミコト(山幸彦)」の妃「トヨタマヒメ」の神話に仏教説話が入り込んだ結果と思われる「竜」の字がつく地名が散在しています。

「竜ケ鼻」から続く画面右側の大きな山塊のピーク付近は「桶の辻」と呼ばれています。 ↑ この山の中腹あたりに「トヨタマヒメ伝説」が仏教説話化されたと見られる名称の鍾乳洞「青竜窟」があります。

「桶の辻」の地名は天照大神の岩戸隠れの際、アメノウズメノミコトが岩戸の前で伏せた桶を踏み鳴らしたという神話に因むもの、としています。「神代帝都考 全」では平尾台は古名の「広野(ひろの)」で出てきますが(現在でも古老は平尾台を広野と呼ぶ)、広野はカルスト台地ゆえ、鍾乳洞やドリーネなどの特有の地形を持っています。

狭間翁はこの鍾乳洞を黄泉の国への入り口と考え、鍾乳洞の奥の坂道を古事記に云う「黄泉比良坂(よもつひらさか)」に比定しています。「神代帝都考 全」に鍾乳洞の形状を詳しく述べていて、これはどうやら平尾台はもとより、日本国内では非常に珍しい竪穴の鍾乳洞「牡鹿洞」を指しているようです。

入口から洞底まで垂直に約30m、洞底から奥へ奥へと緩やかな坂道が続いていて、いかにも「黄泉比良坂」のイメージがあり、千仏鍾乳洞や羊群原と並んで平尾台観光の人気スポットとなっています。

「神代帝都考 全」を刊行した明治32年の翌年、翁は当時、陸軍第12師団の軍医部長として小倉に赴任していた森鴎外を訪ねています。

このことは、鴎外の「小倉日記」の明治33年4月22日に『挟間畏三来り訪ふ。隆準(りゅうせつ)秀眉の美丈夫にして、年四十五六なるべし。 かつて神代帝都考を著したるものなり。』と書かれています。しかし、翁が携えたであろう「神代帝都考 全」の内容なり感想については一切触れていません。

これは挟間翁の鴎外宅訪問に先立つ明治33年2月4日に翁と私塾「水哉園」で同門だった杉山貞の来訪を受けた際の日記に、杉山貞の言葉として『昔日同門の士にして、その少しく漢籍を読みしを知るのみ。はからざりき、にわかに神代帝都考を著すことあらんとは』と記して「神代帝都考」に批判的な杉山に同意したとも思われる記述を残していることに通ずるものがあります。

ここのところは、松本清張が「鴎外の婢」のなかで『著者は豊前国京都郡のひとである。郷土愛から歴史を歪め、わが住む地方に牽強付会する例は珍しくないから、この著者もそうした郷土史家の一人であろう』と「鴎外の婢」の主人公・浜村に語らせている場面や『郷土の中に天孫降臨の地や皇孫四代の皇居跡をおさめるために無理な解釈や語呂合わせが行われている。』と語る場面に見られるように(主人公・浜村の考えは著者・松本清張の考えでもある)、鴎外も同様の気持ちだったのではないでしょうか。

・・・、とは言え清張は、『ある意味の郷土愛から出たものだが、当時のことで、方法的に稚拙であったのはまぬがれない。今では考古学や比較神話学などの近接学問がよほど進み、また、発掘によって遺物の蒐集が豊富になっているので、古代の京都郡に新しい照射ができるようになった。先覚者挟間畏三翁が今日であれば、大きな感慨にふけられることであろう。』と小説中の架空の書「北九州古代国家論」に書きとめています。

「北九州古代国家論」の著者藤田良祐は、清張の分身ともいえる立場で、藤田の考えは清張の考えでもあって、清張は「神代帝都考」を全面否定するのではなく、地名考証の方法に問題があったものの、旧来の天孫降臨神話に一石を投じた「神代帝都考」の上梓を評価し、先覚者としての挟間畏三に敬意を表しつつ、「鴎外の婢」のストーリー展開に重要な役目を負わせて登場させています。
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平尾台から高城山塊へ/右端の山は大平山で、高城山・諌山はこの山に隠れて写っていません。

画面中央の山間に「神御子(こみこ)」という名の地があります。挟間翁は、ここは黄泉の国から逃げ帰ったイザナギノミコトが禊払いした時に生まれた「アマテラスオオミカミ」「ツクヨミノミコト」「スサノオノミコト」の三貴子の成長の地としています。

続きます。
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