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(2015年12月24日の続きです)

天孫ニニギノミコトが日向の高千穂に天降る場面は「釈日本紀」が引用する「日向風土記」に次のようにあります。

『日向の国の風土記に曰く、臼杵の郡の内、知鋪の郷。天津彦々火瓊瓊杵尊、天の磐座を離れ、天の八重雲をおしわけて、稜威(いつ)の道別きて、日向の高千穂の二上の峯に天降りましき。』

また、「日本書紀」では『皇孫、すなわち天磐座を離ち、また天八重雲を押し分けて、稜威の道別に道別きて、日向の襲の高千穂峯に天降ります。すでにして皇孫の遊行すかたちは、槵日(くしひ)の二上の天浮橋より、浮渚(うきじま)り平らに立たして、・・・』、とあります。「稜威(いつ)」とは神聖なこと、神(天皇・天子)の威光のことです。

ここに出てくる「二上の峯」について挟間翁は『この山は二峯並立して大小高低形状共に相ひとしきを以ってその特徴を取りて二上峯と名づけ、且つこの山脈、槵生峯(くしおみね→高城山(高千穂峯)のこと)より分岐したるを持って槵日二上峯と称せしなるべし。そして天孫行宮の跡は二上峯の下にあり。今これを「天ケ谷」と称す。』と記しています。

高千穂峯(高城山)の別名「槵生峯」とは、頂上に「天の逆鉾」に擬せられた巨岩があり、この巨岩があたかも地中より生えているかのように見えることから来ています。
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苅田町小波瀬より見た高城山(高千穂峰)の南東に位置する二つのピークを持った山。 ↑ 左方は高城山・大久保山です。

挟間翁はこの山を「二上山」に比定したものと思われます。下の画像は「二上山」付近の地形図です。画面上部に標高419と書かれた高城山、その右下に標高406の諌山、中央の十字の印あたりは大久保山です。画面の苅田町と書かれた文字の上に316と数字が入ったあたりが、「二上山」です。 ↓
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さて、ニニギノミコトは「天ケ谷」を仮の宮としたのち、領地巡遊を開始します。

最初にニニギノミコトの叔母であり「天ケ谷」の行宮の守護神でもある宗像三女神の宮処の「浮渚(うきじま)」を訪れます。浮渚は「宇佐島」とも云い、挟間翁は苅田町の東部沖合いに位置する「神ノ島」をその地に比定しています。比定理由は「増補訂正 神代帝都考」に縷々述べられていますが、ここでは割合します。

次にミコトは「膂宍空国(そししのむなくに)」に向います。「膂」は「背」のことで、背中まわりの肉は薄く、しかも背骨に沿って長い。したがって挟間翁は「背肉」のように細く長く続く地形を持つ地域「小倉南区曽根、吉田、門司区吉志、猿喰、柄杓田、白野江」などの北九州東部海岸地域を「膂宍空国(そししのむなくに)」に比定しています。

この地域は足立山、戸ノ上山、風師山などが西から迫り、東側は周防灘の海岸線が間近く細長い地形です。

ミコトが「天ケ谷」の行宮を発幸したのちの道順は、日本書紀に『膂宍の空国を、頓丘(ひたお)から国まぎとおりて、吾田の長屋の笠沙の岬に到ります』とあります。

挟間翁は、この「頓丘(ひたお)」を筑前国鞍手郡頓野村としています。ミコトの最終到着地は「吾田の長屋の笠沙の岬」で、ここでオオヤマツミノカミの娘・カムアタツヒメ、別名コノハナノサクヤビメに出会います。

日本書紀の順路は、膂宍の空国→頓丘→笠沙の岬、と一直線ですが、「増補訂正 神代帝都考」では各地の地名、地形、神社所在地、祭神、古文献、口碑などから詳細に巡見行路を記しています。

北九州東部の「膂宍空国」に入ったのち、城野村蜷田→三萩野字道原→中谷村山本→鏡ケ池→西谷村大字道原→頓丘(頓野村)→頓野村感田→雲取山→頓野村通り谷→高取山→田川郡上野村→添田村井原→安真木村安宅と続きます。

こののちは、嘉穂郡・夜須郡・朝倉郡を巡遊しますが、すべて転記するとかなり煩雑になるので省略し、再び田川郡に入ったところから転記します。

田川郡方城村伊方→福知山→西谷村頂吉→来歴(きべ)峠→採銅所村→西谷村道原→京都郡諌山村矢山→諌山村宮原(宮原と黒田村箕田にまたがって「吾田津原」という地名があり、挟間翁はこの地をニニギノミコトの妃カムアタツヒメの父オオヤマツミノカミの居処としています)

諌山村から黒田村を通り、延永村長木(現・行橋市長木)に至ったときミコトは『朝日の直刺す国、夕日の日照る国ぞ。かれ、ここはいと吉き地(古事記)』として、この地に宮居を定めた、と挟間翁は説きます。

長木(おさぎ)は「長が来た」であり、隣接地の行橋市吉国の地名も「いと吉き地」にちなみ、同じく隣接の「延永(ひたふる/現在地名は「のぶなが」)、「二塚」も宮居にちなんでいる、としています。

記紀では「笠沙の岬」に至ったとありますが、翁は「笠沙の岬が見える所に至った」とし、「笠沙の岬」を豊前京都郡苅田村大字尾倉字加世田に比定しています。
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行橋市長木より高城山塊を見る ↑ 右側が高城山塊、左側の山並みはカルスト台地平尾台です。「神代帝都考」では高城山塊から平尾台一帯を「イサヤマ」としています。

画面中央やや左側のピークが ↓ 高城山419メートル、その右の緩やかなピークは諌山405.9メートル、続くなだらかな山並みは大久保山389.6メートル、右端は大平山332メートル。
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高城山の左側の谷間付近に「京都峠」があります。挟間翁によると諌山(いさやま)はイザナギ・イザナミの二神にちなむもの、大久保山の「くぼ」は神跡地に多い地名、とのこと。(苅田町白川より撮影)

つづきます。
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明けましておめでとうございます。
 本年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。
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J.G.WOOD著/THE ILLUSTRATED NATURAL HISTORY (MAMMALIA)、1880年刊行より ↑

今年は申年なので「猿」を取り上げたという単純な発想で平成28年最初のブログをお届け致します。
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著者のジョン・ジョージ・ウッドは、外科医の父ジョン・フリーマン・ウッドの長男として1827年にロンドンに生まれています。

1838年にダービーシャーのアシュボーン文法学校に入学、その後1845年マートンカレッジに入学し解剖学博物館でヘンリー・アクランド卿に師事、1848年に卒業後、1851年にジョージ・ウッド最初の著書「ILLUSTRATED NATURAL HISTORY(自然史)」を出版しています。 ↓ 画像はGeorge Routledge & Sons社/1880年版です。
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「イラスト自然史」の後、彼は1855年に「Sketches and Anecdotes of Animal Life(動物生態の逸話)」を刊行、1857年に「Common Objects of the Sea Shore(海岸の一般的な目的物(海岸生物))」、1860年に「Bees:their Habits, and Management(ミツバチの習慣と管理)」と「Animal Traits and Characteristics (動物の形質と特徴)」などを立て続けに発刊。

1889年にイングランドのウェスト・ミッドランズ州にあるコベントリーで死去するまでに前記の動物学・博物学の本に加えて体操、水泳、スケート、アーチェリー、フェンシングなどのスポーツの本や旧約聖書・新約聖書の歴史に関する本など数多くの著作を上梓しています。

また、彼は聖職者でもありオックスフォード教区の司祭を務めたほか、他の教区の運営にもさまざまな形で影響を与えた人物でもありました。

「THE ILLUSTRATED NATURAL HISTORY (MAMMALIA)」のイラストは、兄ジョージ・デュエル(1815-1902)と弟エドワード・デュエル(1817-1905)のデュエル兄弟が1839年に設立した木版画工房「デュエル兄弟社」によるものです。デュエル兄弟社は、ヴィクトリア朝の木版彫刻界を牽引した重要な工房でした。

ところで、2012年の元旦の拙ブログではこの年は「辰年」ということで、ヘベリウス星図の「りゅう座」を取り上げ、2014年の「午年」ではグロティウスの星座図帳から「ペガスス座」を載せ、2015年はヘベリウス星図の「牡羊座」でした。

そこで、今年の申年は猿の星座を取り上げたかったのですが「サル座」は無いんですね。いや、無いことはないのですが、 ↓ この星座の姿は「猨田彦神」であって『猿』ではないので、神と猿を同列に取り上げてよいものか、どうか。
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星座で読み解く日本神話/勝俣隆著/大修館書店/2000年刊 より ↑

・・・というようなことはちょっと措いといて、なぜ牡牛座のヒアデス星団が「猨田彦神」の姿(顔)を表す星座になるのか、を「星座で読み解く日本神話」をもとにごく簡単に述べてみます。(詳しくは同書をご覧いただければ幸いです)

まず、著者は古代日本人の宇宙観を示すものとして、「播磨国風土記」の託賀郡(たかのこおり)の記述、「延喜式祝詞の祈年祭」の記事、「古事記の序文」、「万葉集」の柿本人麿や丹生王の歌、「丹後国風土記」の浦島子の条、さらには古代中国の「列子 湯門篇」、晋の張華の「博物誌」などの記述を挙げ、「地上世界と天上世界のあいだには一定の厚さと硬さを持ったドーム状の壁がある」と考えられており、星はその壁にあいた穴から天上界の光りが漏れ見えているもの、と考えられていたとしています。

(ドーム状の壁は一定の厚さと硬さを持っているので空いた穴は「筒状」になっている。そこで、古代の星の呼称「ツツ」は筒状の穴に由来するものではないか、とも記しています)

そして天上界と地上界の往来はその「ツツ→星」を通して行われる、としています。次に著者は記紀神話の天孫降臨の場に注目します。天上界の最高神アマテラスオオミカミの孫ホノニニギノミコトが日向の高千穂峯に天降るとき、通り道である「天の八衢(あめのやちまた)」に立ちはだかる男神がいた、という場面です。

男神は光を放って上は天上界の高天原を照らし、下は葦原中国を照らしている。そこで御伴の神々のひとりであるアメノウズメノミコトが男神に名を尋ねます。

男神は答えて曰く「私は国つ神で、名はサルタビコノカミです。ここに出てきた理由は、天つ神の御子が天降ると聞きましたので、道案内をするためにやってきました」

サルタビコノカミの居る「天の八衢」の「八」は実数の八を表すと同時に「たくさん、多く、多数」も表します。「衢(ちまた)」は分かれ道のことです。

したがって「天の八衢」は「天にある多くの分かれ道」の意になります。道がたくさんあるので案内にやってきたということです。それでは「天の八衢」はどこにあるのか、ということになります。

星が天と地の通り道である以上、実際の星空でたくさんの星が一カ所に集まっている場所を捜すと「昴、プレアデス星団」がいちばん顕著な集まりとして浮上してきます。

しかも「すばる」は、古代より農業・漁業・航海の指標であり、丹後国風土記の浦島伝説を始めとして多くの物語・詩歌・里謡に登場し、日本各地に「すばる」に関する俚諺が伝わっていることでもわかるように良く知られた存在です。

さらに「すばる」は二十八宿のひとつであり、太陽の通り道である「黄道」に位置していますので、太陽神アマテラスオオミカミの孫であるニニギノミコトの通り道に最も相応しい、として「星座で読み解く日本神話」の著者は「すばる」を「天の八衢」に決定付けています。

次に著者は「日本書紀」に記述された「猨田彦大神」の容貌に注目します。

鼻の長さは七咫(ななあた、105~158cm)、身長七尺(ななさか、131~198cm)、口の両端が明るく輝き、眼は鏡のようにまるくてホウズキのように赤く光っている、という姿を星の並びとして実際の星空で捜す、しかも「天の八衢→すばる」の近くに、です。

・・・となると、赤く輝く右目をヒアデス星団(畢星)のアルデバラン(牡牛座α星)としたサルタビコノカミが「すばる」のすぐそばに浮かび上がってきます。

畢星も昴星と同様に二十八宿のひとつで、太陽の通り道(黄道)上にあります。東から昇り西へ西へと移動して行く畢星→サルタビコノカミは、太陽神の系譜を持つニニギノミコトの案内役に最適だ、といことです。

ちなみにアメノウズメノミコトはオリオン座に同定しています。その理由も記紀神話をもとに詳細に解説していますので、ご興味をお持ちの方はぜひ『星座で読み解く日本神話/勝俣隆著/大修館書店発行』をご一読ください。
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星座で読み解く日本神話/勝俣隆著/大修館書店/2000年刊
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