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(2015年12月19日の続きです)

折り込み附図の「天孫降臨以後神蹟図」 ↓ 図の中央に「襲高千穂」が描かれています。その右側に「二上」「天ケ谷」「五十鈴川」があり、さらに右に「内野」「御空」「鉢ケ窪」の地名が記入され、
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「襲高千穂」の左上には、「二塚」「長来」「胞衣置」「火室」「黒田村」「小長田」などの字・小字名が記入されています。

図の左端から伸びている半島状の先端に、「沓尾」「住吉大神」「龍女岬」「乳母懐」の地名が見えます。そのすぐ右の島は「簑島」です。ここには、「蛇巻」「本宗落シ」「小糸ノ浦」が記載されています。これらの地名は「ウガヤフキアエズノミコト」と母「トヨタマヒメ」の神蹟地とされています。

「ウガヤフキアエズノミコト」の父は「ヒコホホデミノミコト(山幸彦)」ですが、山幸彦が兄の「ホデリノミコト(海幸彦)」から借りた釣り針をなくした場所「釣磯」も図の左隅の岩礁が描かれたところに記載されています。「神代帝都考」の本文ではここは「豊前国京都郡中津村大字稲童字釣磯」となっています。

図の左下の線で囲まれた山は右側が「槵触峯 正面図」、左が「二上峯 正面図」で、ふたつの山は「京峠」と「天ケ谷」に挟まれています。

ニニギノミコトの降臨の地は日本書紀の本文では「日向の襲の高千穂峯」となっていますが、日本書紀の第一の一書に「筑紫の日向の高千穂の槵触峯(くじふるのたけ)」とあり、第四の一書には「高千穂の槵日の二上峯(くしひのふたかみのたけ)」となっていますので、「神代帝都考」ではこれを別々に同定し併記したようです。

ちなみに、古事記では「竺紫の日向の高千穂の久士布流多気(くじふるたけ)」となっており、釈日本紀が引用する日向国風土記では「日向の高千穂の二上の峯」となっています。
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「簑島」を中心とした拡大図 ↑ 「みのしま」は古名を「生みの島」と言い、ウガヤフキアエズノミコトの生誕地とされています。フキアエズノミコトの母「トヨタマヒメ」は海神「ワタツミノカミ」の娘です。兄から借りた釣り針を失くした「ヒコホホデミノミコト(山幸彦)」は、「シオツチノカミ」の助言で龍宮に向かい、そこで「トヨタマヒメ」に出会い、二人は結ばれます。
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「神代帝都考 全」の「彦火々出見命ノ皇居」の章 ↑ 皇居は「京都郡小波瀬村大字下片島字浄土院小字龍智」 としています。その理由を本文にて縷々述べています。

トヨタマヒメはやがて「生みの島」でウガヤフキアエズノミコトを生むことになるのですが、この時、本来の姿である龍に戻っています。生むところを見ないでください、とトヨタマヒメに乞われたにもかかわらず、ヒコホホデミノミコトは妃の出産が急であったため、心配のあまり覗き見します。

簑島の図の右端に「蛇巻(じゃまく)」という地名が書かれています。「神代帝都考」の著者狭間翁は、これは龍が蛇に転じているもののトヨタマヒメの龍の姿を示すものでフキアエズノミコトの出生の地と説いています。

さらに日本書紀の一書では龍ではなく「八尋の大鰐」となっていることに触れ、豊前地方の方言「ワニハタカル(股を開き蹲踞する姿勢)」との関連を指摘しています。

また、「ウガヤフキアエズノミコト(鵜葺草葺不合命)」の神名は、「鵜」の字があるために、あたかも「鵜の羽」で産殿の屋根を葺くにも間に合わないほどの急な出産であったことを表している、と解釈されているようだが、「鵜羽」ではなく、苅田町沿岸に多く生えている「海萱(うみかや)」のことで苅田の地名も「海萱」を刈ったことに因むものであり、「ウガヤフキアエズノミコト」を祭る苅田町の「宇原神社」の名も神社前の海岸に特に多産したことによるもの、としています。

この「海萱(うみかや)」は、苅田の地元では「クグ」と呼ばれていることから、狭間翁は、出雲風土記にいう「茅莎(チクグ)」とはこの萱ではないか、とも記しています。

さて、龍の姿を見られたトヨタマヒメは怒りと哀しさで我が子を簑島の対岸の岩場洞窟に隠し、龍宮へ帰って行きます。

その洞窟は「乳母が懐」の地名で残っており、図にも洞窟の場所が示されています。その後、フキアエズノミコトはトヨタマヒメの妹「タマヨリヒメ」に育てられ、やがて二人は結ばれて4人の皇子を得ます。

「イツセノミコト」「イナヒノミコト」「ミケヌノミコト」、そして末子の「カムヤマトイワレヒコノミコト」です。イワレヒコノミコトはのちの「神武天皇」です。
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沓尾海岸の「乳母が懐」 ↑ 2016年1月1日撮影 「官幣英彦山神社禊場」の碑が建っています。
沓尾海岸から見た簑島 ↓
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挟間翁は、四皇子の誕生地を苅田町の「宇土」としています。産殿(うみどの)の転化というわけです。「神代帝都考 解説」に豊前地方の方言に暗所を示して「宇土暗し」と言うが、これは産殿を設けていた古代の習慣によるものと思う、とあって、「うみどの」が「うど」に変化する可能性を示しているように思われる記述があります。

また、「宇土」の近くに「小帝(こみかど)」という地名があり、この地をイワレヒコノミコトの成長後の宮居としています。(「増補訂正」では、小御門(こみかど)、大御門、としています。) 

さらに、「御門」の隣接地「御空」をイツセノミコトを始めとして三皇子の宮居としています。(「増補訂正」では、イワレヒコノミコトと妃「アヒラツヒメノミコト(吾平津姫命)」の皇子、タギシミミノミコトとキスミミノミコトの宮居に訂正されています。

「神代帝都考」には目次に当たる部分がありませんが、章立ては次のとおりです。

○ 国号考 豊国/豊葦原中津国/豊葦原水穂国/豊葦原千秋長五百秋瑞穂国/浦安国/磯輪上秀真国/細戈千足国
○ 郡名考 京都郡/仲津郡/企救郡/上毛郡/下毛郡/宇佐郡/長門国豊浦郡

○ 太元祭の古蹟 七森神社/本山/入覚寺
○ 伊弉諾尊 伊弉冉尊の古蹟 不知山/諌山/膽狭山/去来山/尾輿

○ 黄泉平坂 法度穴/神三子/シライタタニノ墓
○ 築紫日向之橘小門阿波岐原 大門/岬/伊弉来

○ 祭地 白山神社
○ 宇佐島 海北道中

○ 高千穂槵触峯 槵日二上峰/天逆鉾/串ケ鼻/天ケ谷/日向襲之高千穂峯/龍串/日子山
○ 天之八井 大橋/後小橋

○ 浮渚 宇佐島/生島/取石神社/簑島/戸取神社/平地
○ 膂肉空国 頓丘/上野/道原/福智山/山本/岡/鏡ケ池

○ 祭神天照大御神
○ 笠狭之碕 吾田/長屋/吉国/長来/皇居/延永

○ 彦田神ノ古蹟 狭長田/五十鈴川/阿邪訶/平夫貝
○ 白髭神社

○ 阿多都姫之古蹟 波穂上八尋殿/無戸室/火室
○ 皇孫瓊瓊杵命ノ御陵 木花佐久夜姫ノ御陵/二塚

○ 天津日髙日子穂々手見命ノ神蹟 山幸/海幸/矢山/釣磯/門司/箕田/赤間関/射場隅
○ 塩槌神ニ逢ノ地 住吉大神/沓尾/海津見三神

○ 塩盈球塩乾球 日ノ迫/天ケ窪/隼人社/大窪/天窪/鉢ケ窪/日ノ山
○ 彦火々出見命ノ皇居 襲高千穂/高彌之嶺宇奈保宮/龍智/浄土院/高屋

○ 彦火々出見命ノ御陵
○ 福神之弁

○ 鵜葺草葺不合命ノ神蹟 蛇巻/生島/乳母ノ懐/乳含石/海芽/小糸ノ浦/姫隅/青龍窟
○ 鵜葺草葺不合命ノ皇居 内野

○ 鵜葺草葺不合命ノ御陵 鉢ケ窪/提山
○ 玉依姫命御陵 南原大塚/綾塚橘塚/空来塚/岩屋/丸山/二塚/御所山/祖父ケ墓/十王堂

○ 鵜葺草葺不合命ノ祭地 宇原神社/龍燈松
○ 神日本磐余彦命ノ皇居 高千穂峯/雨窪/小帝/御空

○ 吾平津姫ノ古蹟 後小椅君/吾平津
○ 神日本磐余彦命ノ東征 足一騰宮/岡田宮/曲浦

非常に多くの地名が取り上げられていますが、これらは古事記、日本書紀、風土記、神社縁起、その他古典の神代記の条に出てくる地名で実在地です。

狭間翁は文献資料に加えて口碑・伝承、地形、古蹟と古蹟の距離・方角などを現地で求め、それぞれの神蹟地を地図上に同定しています。

苅田町を中心に一定の狭い地域にこれほど多くの記紀に登場する地名が残されているということは何を意味しているのでしょうか。神話をもとにして後世に付けられた地名もあるかもわかりません。挟間翁の牽強付会もあることでしょう。

明治32年に刊行した「神代帝都考 全」に続く明治44年脱稿の「増補訂正 神代帝都考」ではさらに多くの地名が取り上げられています。

続きます。
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「神代帝都考」は現在、4種の刊本及び稿本が知られています。

(1) 明治32年、東京堂より刊行 「神代帝都考 全」 刊本1冊
(2) 明治44年脱稿、「増補訂正 神代帝都考」 稿本6冊
(3) 昭和39年 挟間章雄氏刊行 「神代帝都考」 (1)と(2)を合わせて1冊とし、刊行 函入り1冊
(4) (2)の異本 挟間畏三の次女の嫁ぎ先、岡枝家に伝わる稿本6冊 / (2)を収録した(3)の「増補訂正 神代帝都考」と内容が多少異なる。差異については、「増訂再版 神代帝都考解説/友石孝之著」に詳しく書かれています。

著者挟間畏三は、天保13年6月15日、豊前国京都郡岡崎に生誕、嘉永6年2月、京都郡上稗田の村上仏山の私塾「水哉園」に入門、その後さらに安政年間に豊後日田の広瀬淡窓の私塾「咸宜園」に入門しています。天保13年は1842年で、嘉永6年は1853年です。「水哉園」入門は12才のときでした。「咸宜園」から帰郷後は処士として過ごしていたようです。

「神代帝都考」の執筆開始は明治28年で挟間畏三53才の春のことです。

執筆の動機については「緒言」に書かれていて、今これを要約すると「神代の帝都の遺跡はもちろんのこと、皇祖の山陵を始めとして神代の皇室遺蹟はすべて当地にあるにもかかわらず、いつの頃よりか日向が天孫降臨の地であり、その地方一帯が帝都とされている。

そこで、『浅学ヲ顧ミズ 古典ニ徴シ 地名ニ照シ 詳細ニ記載シテ』、この書を公にし、『天下ノ識者ニ訴ヘ 輿論ノ判定ヲ乞ハント欲スル』」という具合です。

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明治32年刊 「神代帝都考 全」 ↑
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折り込み附図の「神代帝都全図」 ↑

上のほうに「筑前国遠賀郡」とあり、左側の鞍手郡の文字下に「頓丘」、左回りに「上野」「夏吉」「香春」「採銅所」「鏡山」の田川郡の地名、続いて「矢山」「岩熊」「宮原」「長川」等のみやこ町勝山地区の地名、「長木」「二塚」「延永」の行橋市地区名、「上片島」「浄土院」に続いて苅田町の地名が細かく書き込まれています。

全図の右端には関門海峡を隔てて「彦島」や山口県豊浦郡の地名が書かれています。挟間畏三が示す天孫降臨の地「高千穂」は「浄土院」の下に書かれた「襲髙チホ」です。

この全図は天孫ニニギノミコトとその一族の帝都の一部であって、その支配の範囲はさらに広く、豊前国を中心として宇佐・玖珠・日田を南限とする豊後国一帯、長門国豊浦郡、夜須郡・上座郡・下座郡・嘉麻郡等の筑前国一帯に及んでいました。
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全図の苅田町付近を拡大 ↑ 記入された地名の各地に神蹟がある、としています。

御空、雨窪、与原、蓋崎、小橋などが見えています。中央下の三つに分割された島は「神ノ島」でここも宗像三女神にかかわる神蹟地となっています。

続きます。
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二種類ある南部めくら暦のうち、拙ブログにて→2011年5月28日←
→2011年5月29日←に「盛岡暦」を取り上げましたので、本日は「田山暦」を紹介させて頂きます。

下の画像は、江戸時代後期の医師「橘南渓/1753-1805年」が天明5年(1785)の秋から翌年夏にかけて東北地方を巡遊した折に見聞きした異事を書きとめた「東遊記/寛政7年(1795)」の続篇「東遊記後編/寛政9年」の『蛮語』の章に掲載された「田山暦」で天明3年(1783)のものです。

撮影にあたっては昭和5年発行の有朋堂書店の「有朋堂文庫 東西遊記・北窓琑談」を使用しました。

暦の右端の下のほうにに「うさぎ」が描かれています。↓ その下の丸い餅網のようなものは農具の「とうし」です。「うさぎ」と「とうし」でこの年は「卯年」ということになります。上の四角の枠の最初は「歳徳神(としとくしん)」の在位の方角で「恵方」を示しています。○印が東で鳥居が描かれている方角がこの年の「恵方」です。
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下の四つはそれぞれ「太歳(たいさい)」「大陰(だいおん)」「歳刑(さいぎょう)」「歳殺(さいせつ)」で小さな●印によってそれぞれの神の在位方角を表し、禁忌の向きを示しています。

例えば「太歳」は木の精であることからこの方角に向って樹木を切ることはタブーです。 ただし、建築や木の植え付けなどは吉とされています。

「大陰」は「太歳神」の妃で女神です。そのため、この方位に向って出産などの女性に関することはタブーとされています。ただし、芸事や学問は吉です。

「歳刑」は刑罰を司る神で、武力や破壊的なことは吉ですが、種まきや植樹をこの方角にむかって行ってはいけないとされています。

「歳殺」は、殺気を司る神で、結婚、出産、旅行などは凶とされてます。巷間において神々が満ちていた昔日では、これらの神は凶神としてたいへん恐れられ、その在位方角を知ることは重要なことだったと推測することができます。

次の行に移っていちばん上は毎月朔日の十二支を示しています。その下は結縄で結び目が「大の月」、結び目と結び目の間が「小の月」を示しています。

最初は縦棒1本で「1月・小の月」、次は縦棒2本が結び目に描かれて「2月・大の月」となります。同じように3月は結び目の間で「小の月」です。

4月までは縦棒の数で表し、5月は○印で、6月は○印の中に1本の棒が入っています。7月まで同様ですが、この図では8月と9月は田山暦を書き写した橘南渓の写し間違いとなっています。10月は○印に十字、11月と12月はそれに棒を足しています。

結縄の下から縦1行または縦2行に亘って暦注が描かれています。泣いている鬼で「節分」を示し、お箸一膳で「八専」を示しています。「八専」は農家の厄日のひとつです。

ねずみは「甲子」の日を表しています。大黒天をお祀りする日です。猿は「甲申」の日を表し、この日は神道では猿田彦を祀り、仏家では青面金剛を祀る日です。

2月の白丸5個は団子で「彼岸の入り」、その下のツバメは「社日(しゃにち)」を表しています。春と秋にあり、春分・秋分に最も近い「戊(つちのえ)」の日を「社日」と定め、春は五穀豊穣を祈念し、秋は収獲感謝を神に捧げた日です。丸印の左半分を塗りつぶしている日は春分の日です。日にちの数え方は月の場合と同じです。

3月の下のほうの伏せたお皿のようなものは種壺で「種蒔きよし」の日です。4月のいちばん上は、矢と重箱で「八十八夜」、その下の蛇は「巳の日」で、弁財天をお祀りする日です。いちばん下の×印は「十方暮(じっぽうぐれ)」で何事も凶の日です。「十方暮」は「途方に暮れる」の語呂合わせとか。

当時の人々はさまざまな迷信でたいへんだったように思えますが、逆に信じることで安心するという面もあったのではないでしょうか。
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結び目の5月の最初は梅の花で「入梅」、その下は苗の束で「田植え吉の日」、6月最初は丸半分で「半夏生」、淫慾・食慾を慎む日です。 ↑

2行目のいちばん下とその上のジャンケンのチョキのようにも見える絵は「鍬」で、「地火」の日です。井戸掘りや柱立て、埋葬などの土地に関することはタブーの日です。

8月の2行目は丸10個と銭200文で「二百十日」、鎌の絵は「稲刈りよし」、11月の長方形の絵は「砥石」で「冬至」を示しています。

1月と3月のいちばん上は「雲間からさかさまに顔を出している龍」ですが、何を表しているのか筆者(ブログ主)にはよくわかりません。「初壬辰」の日で「火伏せの日」なのでしょうか。
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右側が田山暦の注解です。↑ 左側は「心経」の絵文字の注解。
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ついでながら「盲心経」の図も載っていのすのでここに掲載します。 ↓
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左の絵文字は「回向文」です。

拙ブログの→2011年12月20日←に「絵陀羅尼経」の画像を載せていますので、併せてご覧頂ければ幸いです。

絵暦にしろ絵経にしても文字の読めない人は勿論のこと重宝したことでしょうが、文字を理解できた人々にとっても一目瞭然、しかも遊び心があって江戸の趣味人たちには大いに珍重されたことと思います。

田山暦は現在10帖程度が残されているだけの貴重なものですが、絵解きのためのさまざまな書籍が刊行されていますので、これらをたよりに絵解きに挑戦されてみてはいかがでしょうか。
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数日前から古新聞を整理しているのですが、全然はかどりません。というのも掲載記事が面白すぎ、しばしば手が止まってしまうためです。

・・・なのでちょっと記事を転載します。各自、興味の向きが違うでしょうから、なんでコレが面白い、とお思いでしょうが、何かの参考になるかもと思いつつ。

(なんの役にも立たないようにも思うが・・・)

北九州唯一の民間飛行場である直方飛行場(直方町遠賀川河川敷・4万坪)では福岡・佐賀・熊本等九州各地を繋ぐ定期航空路を計画中、使用機はアプロ機及びニューポール28型機(西部毎日/大正15年1月23日)

写真はアプロ機と経営者 岡正美氏 現在、飛行機は組み立てたもの2機、その他を併せて7機ある、とのこと。  ↓ 
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アムンゼン氏の北極探検飛行の航路及び乗員決定 使用する飛行船ノルジェ号はイタリーのノビル大佐の指揮に入り、アムンゼン氏のほか米国人探検家エルスワース氏、ラーセン中尉、オムダル中尉、ミステング大尉(前回の探検飛行のマウド号乗員)、他総員16乃至17名とする(大阪毎日/大正15年1月22日)

丸亀の千里眼長尾いく子夫人、透視に成功 立会人は日下部検事、越智医学士、菊地文学士、十河医師、井上医師、新聞記者等 立会人は八畳の間に座し、いく子夫人は六畳間に対座したり。その距離二間ばかり、越智医学士が別室にて記した文字「博愛」は的中するも、日下部検事が持参した四通の封筒中の文字は透視するを得ざりき。(大阪朝日/明治43年10月22日)

愛知県豊橋第四旅団の雪中行軍部隊(百六十一騎)は、十三日、予定のごとく信州諏訪湖にて氷上騎馬大演習を挙行したり。第二十六連隊平尾中尉指揮下において氷の爆破試験を行ひたり。また、雪中氷上並びに水中の通信試験あり。当日は氷の厚さ一尺余あり演習の結果三十二珊(センチ)以上ならば充分氷上行軍に耐えるを確かめたり。(九州日報/大正4年2月17日)

我が第二十四連隊の将校下士官諸君は赫々たる勲功と灼たる名誉を伴ひ、光栄比類なき軍旗を奉じて、四日より続々舞鶴城に凱旋しつつあり。福岡の市民、凱旋門を建て、櫻花をかざし、旭旗を掲げ、祝燈を吊るし、狼煙を揚げ、芳樽を毀ちて、諸君の凱旋を歓迎するに熱心なり。(福陵新報/明治28年6月5日) ↓
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新俳優川上音二郎丈 時事に感ずるあり 自朔北に航して日清戦争の実況を視察し還りて之を演劇に上し旧冬以来京地に於いて開演したれば大いに朝野人士の喝采を博せり。今般同志相はかりて一座を我が若松朝日座に招きて、満天下の人士をして実況を目撃せしめん。(福陵新報/明治28年3月6日)

国費を投じて天候を観測し、天気予報をなさしむると、豈一閑事ならんや、しかして今や中央気象台の報ずる天気予報 はなはだ誤まり多く、農家の之を頼みがたきは論なく、東京市人といえども亦その誤り多きを嘆ぜずんばあらず。(中央新聞/明治26年6月7日)

男女とも化粧は身だしなみにて、お洒落とは違ひますが、あまりコテコテ白粉を付けるのは文明的では無きかと思ひます。かの佛国巴里(フランスパリー)ドクトル「ベルガニー」先生の発明したるNatural Beautyt(てんねんのび)てふ美人になる粉は、女役者マダム川上貞奴が佛国漫遊中、探づねいだしたる化粧品にて此の度、其の原料を輸入し、之を調製し、さらにヤッコと命名し売り出しました。(福岡日日新聞/明治38年10月4日)
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サッポロビールの広告 ↑ 福岡日日新聞/明治38年10月4日 現代の新聞もそうなのですが、当時も非常に多くの広告が新聞紙面を割いています。特に薬の広告と化粧品が他の品々より目立ちます。 ↓ 「未だローヤル化粧料を使用せざる人ありや」
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大阪朝日新聞/明治41年3月4日 ↑
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門司新報題字 明治25年4月27日 ↑ 新聞の題字もさまざま ↓ 西筑新報/昭和9年8月1日
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中津久住山間 電車敷設計画 大分県中津町から玖珠郡森町を経て久住山麓温泉地に達する約二十里間の電車を敷設せんと九州水力の梅谷、村上両重役を始め、中津町有力者は期成同盟会を組織し、資本金百五十万円の株式会社を組織すべく計画し、既に実地調査を終わっているが、今回中津町出身和田豊治氏の帰県を幸いに、別府町の和田氏別邸に集合、発起人会を開き和田氏の賛同を得たり。(大阪朝日新聞九州版/大正12年8月30日)

駅弁の改正 鉄道院西部管理局組合各駅弁当請負業者はこれまで二等十五銭、一等二十五銭の二種のみなりしを過日協議の結果来る四月一日より、三等十五銭、二等二十銭、一等二十五銭とし貼用レッテルをも三等は赤、二等は青、一等は白とすべし。(関門日日新聞/明治45年3月27日)

新聞ですから、当然、政治・経済・外交記事があり、当時のこととて戦争関係の記事も多々ありますが、いずれも記事が長く、しかも装飾語を多用した文章ですので、このブログに数行で書き写すことは難しく、他のさまざまな興味深い記事同様、大幅にカットしました。

ここに転載した各記事も非常に短くしています。大意を汲んで頂ければ幸いです。
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