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(2015年5月26日の続きです)

貝原益軒が著わした「筑前國続風土記」(宝永6年/1709年成立)に鮭神社についての記事が見られます。

この中で益軒は「鱖大明神、大隈村の産霊なり。霜月十三日祭あり、鱖魚を神に崇むと云、是古にいはゆる鮑君神の類にや、いぶかし。」と記して鮭神社の祭神は「鮑君神」という怪神ではないかと疑問を呈しています。益軒は続いて境内に石碑があることに触れてその碑文を書き写しています。

「社地に石碑あり 高五尺巾八寸 説曰為海神使毎年鮭来此處 童子殺之爰大隈駅福澤氏當社 獻之産人欲残末世建験矣  明和元年甲申天仲冬吉日」

この碑文を刻んだ石碑が平成2年に再建されて「鮭塚」となっています。

鮭神社境内の「鮭塚」、毎年12月13日に遠賀川流域を遡上してきた鮭を奉納する献鮭祭(けんけいさい)が行われています。
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平成2年に再建された鮭塚の碑 ↑ 正面に「説曰為海神使毎年鮭来此處」とあり側面に「童子殺之爰大隈駅福澤氏當」、裏面 ↓ に「社獻之産人欲残末世建験矣」と刻まれています。
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同じく境内の「古い昔の鱖塔(鮭を埋めた印)の跡」の碑 ↓ 碑の高さは80センチくらいです。
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平成2年建立の石碑の横に昭和54年建立の木製柱があって、 ↓ 
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上部に「明和元年甲申天仲冬吉日」と書かれ、下部に註として「明和元年は西暦一七六四年 昭和五十四年は西暦一九七九年 215年 大切ナシャケノ塔・・・スルタメニカキ写・・・昭和五四年九月吉日 大・」と書かれています。最下部は泥の付着で読めませんでした。

「215年」は貝原益軒が見た石碑の年紀の明和元年から木製の説明柱建立の昭和54年まで215年の間、ということです。

遠賀川は大正の頃までは川底の砂が良く見える清流で、魚も豊富だったといいます。しかし、流域の石炭採掘が盛んになるにつれて川が汚濁されていったそうです。

遠賀川流域は筑豊炭田の呼称でよく知られているように豊かな石炭埋蔵量を誇り、旧藩時代から石炭採掘が行われていました。当初は個人消費として小規模に採掘されていましたが、徐々に販売目的で採掘されるようになり、明治に入り石炭の利用価値がさらに高まるとともに採掘は大規模化・機械化されて行きます。

石炭採掘にはボタと呼ばれる捨石が伴うものですが、このボタと石炭を選り分ける選炭作業も機械化され、効率よく選別する方法に切り替わられて行くようになります。

小規模採掘であった頃は手作業でボタと石炭を選り分けていましたが、やがてボタと石炭の比重差を利用した水洗選別へと替わっていったのです。

水洗選別は重いボタは沈み軽い石炭は水槽の上部に集まるという性質を利用するものです。この水洗選別で汚れた水の行き先は遠賀川で、結果として川は石炭の微粉で黒く汚染され、魚の住めない川に変貌して行くことになります。

この水洗選別の導入は大正初期で、当初はさほど深刻な汚染状況ではなかったものの徐々に水洗選別が普及するにつけて汚染は進み、さらに昭和に入り戦争による石炭増産で河川環境は悪化の程度を増し、魚類棲息はおろか鮭の遡上も絶望視されるに至ります。

戦後、石炭産業の衰退とともに炭塵による川の汚染は減少しましたが、あらたに生活環境の変化による汚染、たとえば洗剤などを含む家庭排水の流入や農薬散布による被害、工場進出に伴う工場排水の増大、コンクリート護岸による影響、等々で鮭遡上など考えられない状況が続きました。

そのような折、昭和53年(1978年)12月13日に遠賀川河口に近い水巻町伊佐座堰下流で1匹の鮭が捕獲されました。戦前最後の遠賀川流域での鮭遡上確認は大正15年(1926年)11月3日の支流穂波川の1匹でしたので、50年振りの遡上確認ということになります。

これを機に「遠賀川に鮭を呼び戻す会」が結成され、河川環境の改善に取り組み、さらに1986年からは流域各地で鮭の稚魚放流も行われるようになりました。
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銅鳥居のすぐ前を通る国道211号線越しに屏山・馬見山から続く山塊を見る。 ↑ この山の麓を遠賀川の支流の屏川が流れ、その手前を遠賀川(嘉麻川)が流れている。

銅鳥居から向いの遠賀川までおよそ600メートルほどの距離。画面左側へおよそ10キロメートル遡行、嘉麻峠あたりが遠賀川の源流です。

「国土交通省遠賀川河川事務所」のサケの遡上記録(平成21年10月21日)というHPがありますのでそれを参考にすると、鮭の遡上記録は以下のとおりとなります。

1926年(大正15年)11月3日 支流穂波川で1匹確認

1978年(昭和53年)12月13日 遠賀川河口付近 水巻町伊佐座堰下流にて捕獲

1982年(昭和57年)11月2日 遠賀町西川で確認

1983年(昭和58年)11月 遠賀町西川で確認

1989年(平成1年)11月4日 鞍手町西川で確認/11月19日 鞍手町西川で確認/11月末日 金田町彦山川で確認

1991年(平成3年)11月4日 鞍手町西川にて1匹捕獲/11月11日 中間市西川の支流水路にて確認/この年はこの他に彦山川・遠賀川で7匹確認

1992年(平成4年)11月6日 遠賀川河口付近の芦屋町にて2匹捕獲/この年はこの他に芦屋町で5匹確認

以下、確認の数のみ記しますと、

1993年 7匹確認
1994年 4匹確認
1995年 2匹確認、うち1匹捕獲
1996年 4匹確認、うち3匹捕獲
1997年 確認なし
1998年 2匹確認
1999年 1匹確認
2000年~2004年まで各年1匹確認
2005年 確認なし
2006年 2匹確認
2007年 確認なし
2008年 4匹確認、うち1匹捕獲
2009年 3匹確認
2010年 1匹確認
2011年 確認なし
2012年 確認なし
2013年 2匹確認
2014年 4匹確認
   ・・・となっています。2014年の確認は遠賀川河口付近です。今後、支流の奥深いところまでの遡上を期待したいものです。
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東北・北陸地方の各地に鮭を祀った神社、あるいは鮭にかかわる由緒を持つ神社が多数見受けられます。

青森県十和田市の奥入瀬神社や山形県中山町岩谷の十八夜観音堂、山形県尾花沢市の御所神社、同じく山形県真室川町の大日堂、岩手県宮古市津軽石の月山神社、黒崎神社など。

北陸地方では、新潟県長岡市の金峯神社、石川県珠洲市の辛鮭の宮、北陸地方ではないがやはり日本海側の京都府舞鶴市の大川神社、少し内陸側の京都府福知山市の大原神社、鳥取県の乾鮭大明神、

太平洋側では千葉県香取市の山倉大神、神奈川県座間市の諏訪明神社内の鮭明神、等々です。いずれも鮭が遡上する、または過去に遡上した大きな河川とその支流の近くに建立されています。

福岡県嘉麻市大隈の「鮭神社」は遠賀川の河口から約50㎞上流に位置し、全国の鮭を祀った神社のなかでも「鮭神社」の社名を持つ神社は嘉麻市の「鮭神社」とその分社の北海道広尾町の「鮭神社」(1983年分社)、島根県雲南市大東町阿用の「鮭神社」の3ヶ所のみという特異で稀な存在です。
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昭和54年12月建立の銅鳥居、国道211号線のすぐ脇にあります。 ↑
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銅鳥居の神額 ↑
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社殿前の鳥居 ↑ 寛政元龍次巳酉十二月吉祥日(1789年)と刻まれています。鳥居の右脇に「海神使鮭毎年遡河耒此社辺」の石碑があり、 ↓
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左側に鳥居の笠木が置かれていました。 ↑ 社殿へ続く石段のそばに「村社鮭神社」の碑があり、その奥に「猿田彦大神」の碑、猿田彦碑の横にかつては鳥居に掛かっていたであろう「鮭大明神」と刻まれた神額が置かれていました。 ↓
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鮭神社拝殿 ↑ 画面の奥は境内社の「愛宕神社」、左右の石灯籠の奥は、右側が口に玉を含んだ阿形の狛犬、左は玉を踏みつけた吽形の狛犬、阿の狛犬の背には仔狛が乗っています。 拝殿と本殿、そして吽形の狛犬 ↓
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「鮭大明神」の扁額と鮭の奉納額、天井絵 ↓
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本殿にも奉納の鮭が掛けられています。 ↑
天井絵と奉納額の数々
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黒田二十四騎図も掲げられています。 ↑ 江戸時代初期、鮭神社の鎮座する嘉麻市大隈一帯は、二十四騎のなかでも特に重用された母里太兵衛友信の知行地でした。ちなみに母里太兵衛の墓所は嘉麻市大隈の麟翁寺にあります。

さらに付け加えると、鮭神社の一の鳥居(銅鳥居)前の国道を挟んで斜め前には、母里太兵衛の逸話に因む清酒「黒田武士」の蔵元のギャラリー(大里酒造)があります。
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鮭神社由来記 ↑

社殿創建は奈良時代の神護景雲三年(769年)、祭神は海幸彦・山幸彦の神話で知られる山幸彦の彦火々出見尊(ヒコホホデミノミコト)、その妃の海神の娘・豊玉姫尊、子の鸕鷀草葺不合尊(ウガヤフキアエズノミコト)です。

創建時から鮭神社の呼称だったのか、鮭信仰は創建時からのものなのか筆者にはわかりませんが、鮭と神社の結びつきは、秋の実りのときに豊穣を祝うかのように田園地帯を遡上するサケに海神の娘・豊玉姫尊の姿が重なり、いつの世にか信仰として成立したものと想像します。鮭は竜宮からの使いとされています。

鮭信仰の起原はわかりませんが、筑前國続風土記(宝永6年/1709年成立)に「鱖大明神」の神名が出てきますし、鳥居に「寛政元龍次巳酉十二月吉祥日」(1789年)の銘があり、社殿の棟札には「宝暦三末年八月吉日」(1753年)と書かれていることなどから、すくなくとも江戸時代中期には信仰の対象であったことがわかります。(「鱖」は音読みでケイ・ケ・ケツ・カチ、訓読みでサケです。)

続きます
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2015年5月4日の続きです。

渋川春海の多くの業績のうち最もよく知られている事柄は、1684年(貞享元年)の「貞享の改暦」事業の達成ではないでしょうか。

春海はそれまで800年以上に亘って使われ続けてきた「宣明暦」に代わって、中国の元の「授時暦」の採用を幕府に提案します。1673年(延宝元年)のことです。

宣明暦は長く使われる間に誤差が蓄積され、実際の天行に対しズレが生じていたためです。

しかし、授時暦による1675年(延宝3年)5月の日食予報が失敗し、かえって宣明暦の予報が当たるという出来事があり、授時暦の採用には至りませんでした。

そこで春海は、自身で天体の位置観測を行い、授時暦を改良した「大和暦」を作成して1683年(天和3年)に再び改暦の提案をします。 ・・・が、多数が推す「大統暦(明の時代に授時暦を修正したもの)」に阻まれ、二度目の提案も受け入れられませんでした。そのため春海は大統暦と大和暦のどちらが優れているか実際の観測で比較することを提案します。

結果として大和暦の優秀さが認められ、翌年の1684年(貞享元年)に大和暦を「貞享暦」と名称を改めて正式に採用、1685年(貞享2年)から施行されることとなりました。

貞享暦の完成後も星の位置観測を続けた春海は、その観測値を「貞享星座」1巻にまとめ、さらに元禄時代にも位置観測を実施して「天文瓊統(てんもんけいとう)」に記録を収めました。天文瓊統の刊本は1698年(元禄11年)で、ここには中国古来からの星座に加えて春海自身が制定した星座の観測値も記されています。

そして翌1699年(元禄12年)、貞享星座や天文瓊統の記録をもとに嗣子保井昔尹(やすいひさただ)の名で「天文成象」が刊行されます。

天文成象は北極を中心とした円星図と赤道線を中央に引いた長方形の星図から成っています。 ↓
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渋川春海の制定した61の星座(308星)の名称の多くは古代律令制の官職名から命名されています。東宮傅、御息所、中務、刑部、鎮守府、玄蕃、釆女、などです。

東宮傅(とうぐうふ)、御息所(みやすんどころ)の命名者は春海ではなく、子の昔尹です。昔尹が命名した星座は全部で11座(東宮傅、御息所、松竹、萩薄、曾孫、玄孫、箙、鴻雁、天蚕、天俵、天帆)あります。

下図の中央はオリオン座の「参」で小三ツ星の下に「大宰府」があり、その左下に「小弐」があります。ともに春海制定の星座です。「玄蕃」はオリオンの上方、画面の上端付近にあります。オリオンの下方、画面の下端付近には「萩薄」が見え、「萩薄」の右側に「松竹」、左側に「曾孫」「玄孫」が見えています。
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また、下図で春海星座を探すと画面右端に「左衛門」があり、「左衛門」の左斜め上に「湯母」「湯座」「内侍」があります。「湯母(ゆおも)」は乳児にお湯を飲ませる役目の女性、「湯座(ゆざ)」は生まれた児を入浴させるためにお湯を用意する人のこと。湯母、湯座、内侍は、おとめ座・へび座・てんびん座あたりです。
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「内侍」のすぐ左に「天乳」がありますが、これは古代中国の星座で、天から降り注ぐ甘い露のことです。天下が平和であるときに降ってくる甘露だそうです。

ほかには中央上端に「兵部」、その左下に「鎮守府」、左端上部に「右京」、その右側に「軍監」等々が見えます。「宰相」「市正」「天湖」「采女」「腹赤」なども見えます。

「市正(いちのかみ)」は都の東西に置かれた市場を監督する役人(市司/いちのつかさ)の長官、「腹赤(はらか)」は【鱒】(ニベ、ウグイ、タイなどの異説あり)のことで、毎年正月の節会に大宰府から朝廷に献上されていました。

「天文成象」は渋川春海の恒星位置観測の集大成と言えるもので、のちに西洋天文学に基づく精巧な星図が舶載されたにも拘わらず、「天文成象」を元にした星図が幕末まで流布され続けました。

この稿の(1)に掲載した「天文月報 1965年9月号」の目次は以下のとおりです。(2015年4月30日に掲載)

渋川春海没後250年記念特集号
渋川春海没後250年にさいして・・・・・・・・・・・・・・渡辺敏夫・・・192
全国の理科教育センター(地学)の動き ・・・・・・・・・古賀政美・・・198
渋川春海の二至観測と消長法・・・・・・・・・・・・・・中山茂・・・・199
月報アルバム 渋川春海の墓、渋川春海の星図・・・・・・・・・・・・・203
天象欄  10月の天文暦、水星と金星の自転周期・・・・・・・・・・・・206
渋川春海の横顔・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・広瀬秀雄・・・207
「春海」を求めて30年・・・・・・・・・・・・・・・・・安田辰馬・・・209
天文学将来計画・・・・・・・・・日本学術会議天文学研究連絡委員会・・・210
新刊紹介  コペルニクス・・・・・・・・・・・・・・・・薮内清・・・215
特別展  日本の天文暦学の先駆者、渋川春海展・・・・・・・・・・・・215

また、この稿の(2)(3)に掲載した星図は韓国の呉吉淳氏の復刻によるものです。
古代中国星座の解説は「中国の星座の歴史/大崎正次著/雄山閣/昭63年」を参考にしました。

なお、渋川春海展開催に合わせて国立科学博物館より江戸時代の天文暦学についての詳細な解説書が出されています。以下、目次のみ掲載します。
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「日本の天文暦学の先駆者渋川春海と江戸時代の天文学の歩み」
1.まえがき
2.渋川春海頃までの日本の天文暦学
3.渋川春海頃の略伝とその天文学
4.貞享改暦後の天文学
5.天経或問とその影響
6.宝暦の改暦
7.蘭学の勃興
8.麻田派の天文学
9.寛政の改暦
10.観測天文学の発展
11.暦局の活躍と高橋景保
12.測量術と伊能忠敬
13.地動説の導入
14.仏家天文学の興起
15.天保の改暦
16.太陽暦の採用
附.春海年譜
日本天文暦学史略年表
江戸時代天文暦学者略系統

10.観測天文学の発展 のページ ↓

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15×21.5cm/79ページ/渡辺敏夫著/国立科学博物館発行
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2015年4月30日の続きです。

1670年(寛文10年)、渋川春海(当時は安井算哲)は、李氏朝鮮時代に製作された「天象列次分野之図」をもとに「天象列次之図」を版行し、さらに1677年(延宝5年)に「天文分野之図」を版行した。(この時は保井春海を名乗っていた)

「列次」とは星宿を配列順に図上に並べた、という意味で、「分野」とは、地上に存在する国々・地名と天の星々のある特定の領域が互いに密接な関係を持ち、呼応しているという考えに基づき、天上界の異変がそれに対応した地上界へ異変をもたらす、あるいは天上の星々はそれに呼応する地上世界の諸現象を司どっているとされるものです。

下図は「天象列次分野之図」で、「大角(牛飼い座アークツルス)」を中心にして一部拡大したものです。大角の上の山形の3個の星で作られた星座は「帝席」、その上の一列に結ばれた3個の星の星座は「梗河」です。「大角」は東方を守護する青竜の大きな角で綱紀を粛清することを司っています。「帝席」は古代中国の天子の座席のことです。
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「梗河」は川底が泥土で浅くなり船が通れなくなった河のことで、北方辺境の軍隊を司っています。大角の左下と右下はそれぞれ「左摂堤」「右摂堤」で、牛飼い座ζ・π・ο(左摂堤)、υ・ϊ・η(右摂堤)に当たります。摂堤の意味は諸説あって一定していませんが、「天神としての歳星(木星)の別名」という説があります。季節を定め吉凶を占うことを司っています。

この部分を「全天恒星図2000/誠文堂新光社」で見ると ↓ こうなっていて、「左摂堤」「右摂堤」「梗河(ρ・σ・ε)」「帝席(Boo 11・12・26)」の位置は現代星図とあまり違わないように感じられます。但し、星の明るさは無視して造られています。
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この牛飼い座の部分を渋川春海の「天象列次之図」で見ると ↓ こうなっていて「大角」と「左摂堤」「右摂堤」が「天象列次分野之図」と比べてかなり離れているように感じられますし、赤経線の位置も異なっています。
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同じく、「天文分野之図」ではこのようになっています。 ↑ 星の位置などは「天象列次之図」とほとんど同じですが、「分野」の記入が有るか無いかの大きな違いがあります。

下は「天象列次之図」の【酉】の部分、その下は「天文分野之図」の同じ部分です。
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【酉】を挟んで下から「播磨」「備前中後」「安芸・周防・長門・美作・伯耆」となっていて、これらの国々と各星座の相関が示されています。

「天象列次分野之図」の同じ部分は、「金牛宮(酉)趙之分」とあり、古代中国の戦国時代の趙の国名が書かれています。もちろん他の領域には「魏」「秦」「楚」などのほかの国名が書かれています。

ちなみに「天文分野之図」の星座名は周縁の【酉】に近い部分から、「天園」、天園の文字の左側の楕円形の星座は「九州殊口」、その上の大きな楕円形で下端が繋がってない星座は「天苑」、天苑の文字の左側の同じく下端が繋がってない変形楕円は「天囷」、その下「天陰」、その下は「天節」などとなっています。

「天園」は天子の所有する植物園、「九州殊口」は古代中国の九つの州に置かれた通訳官のこと、「天苑」は天子所有の大きな動物園のことで、ここで多くの鳥獣が飼育され、狩猟や客をもてなす施設となり、軍事訓練の場所ともなったところです。

「天囷(テンキン)」は、円い形の倉、農作物収蔵庫で天子の食糧を司ります。 「天陰」は、曇って薄暗い空、薄明、黄昏の意味で、天子に従って狩猟する臣下を司る星座です。「天節」は、天子の使節(使者)のことで、天子の使者であることを示す割符、旗などを「節」といい、天子の威徳を広げることを司っています。

(つづきます)
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