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平成26年5月25日、所用にて久しぶりに国東半島へ出かけました。
お昼過ぎ、食事処を求めて大分空港へ。空港ビル2階の出発ロビーとおみやげ屋さんは日曜日のためなのか大混雑。

お土産買い物は後回しで3階展望レストランへ直行、窓際の席に着席と同時に眼下のANA機がプッシュバック開始。
 ↓ ANA196便羽田行き、13:00出発、14:35羽田着  Airbus A320-200(JA8396)
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誘導路へ出て、まもなく離陸。左旋回して伊予灘沖へと飛び去り、空港内は他に飛行機はなく、もとの静かさに。
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 ↓ 次の発着まで暫し休息。 海を見つめるANAのリフトローダーたち。
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 ↑ 2013年11月24日 17時00分 行橋市にて

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 ↑ 2014年1月6日 15時18分 みやこ町にて

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 ↑ 2014年1月6日 17時25分 行橋市にて

気温、湿度、風、時間帯、さまざまな条件で違った姿を見せてくれる飛行機雲たち。
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筆者の実家(みやこ町)は北に北九州空港、西に福岡空港、東に航空自衛隊築城基地という位置にあり、そのため昼夜を違わず上空を通過する旅客機・貨物機・自衛隊機・民間小型機などを頻繁に目にします。

実家上空を通る旅客・貨物機の航空路は地上から見た場合、行橋市の北部海上から上陸後、市の西部を通り香春町・田川市を経て福岡空港方面へ向かうルートと行橋市の南東海上からみやこ町の北西部を通って福岡空港方面へ向かうルートのふたつがあるようです。

↓ 画像の右側の飛行機雲は関西方面から瀬戸内海を通り周防灘から行橋市北方へ上陸、北九州空港付近の上空を通過後、みやこ町の西方を通って福岡方面に向かう飛行機のものです。
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周防灘沖から上陸後ほぼ一直線に西に飛行したのち、「タガワ・トランジション(経路遷移点)」で左旋回して海の中道にある「福岡VORTAC(ボルタック/無線標識施設)」の南方約40㎞の通過点「YAMEK/ヤメック」へと向かいます。「YAMEK」付近で再度左旋回し、さらに右旋回を繰り返して福岡空港滑走路へアプローチします。あるいは「YAMEK」を通り過ぎて佐賀・長崎方面へと進みます。
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左の飛行機雲は、関西方面から瀬戸内海を縦断して行橋市南東の周防灘から上陸後、「YAMEK」の北方を通って佐賀・長崎五島列島へと向う「Y60」と呼ばれる航空路のものです。
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右側の飛行機雲、「タガワ・トランジション」で左旋回です。

航空路の名称は国内航空路の場合、「V(victor)」または「W(whisky)」のどちらかに数字(番号)を付けて名称としています。「V」または「W」のルートを通る航空機は全国各地に設けられた無線標識を頼りに飛行しますが、「Y」のついたルートは無線標識施設を利用せずに直線的な経路を取ることができる航空路に与えられたもので「RNAV航空路」と呼ばれるものです。(無線標識と無関係に飛ぶという意味ではありません) 最近ではこのYルートの「RNAV航空路」が主流になっているそうです。

「Y60」は「YAMEK」を素通りしてほぼ一直線に西へ西へと向かうルートに設定されていますので、実家の上空(みやこ町)を通るときも同様に一直線に南の空高くを南西(実家から見て)へと飛行機雲を残して進んで行きます。
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↑九州北部の航空路(エンルート) 左上の空路が集まっているところが「福岡VORTAC」、その下にY60のルートがあり、さらに下に「YAMEK」があります。画面右側は瀬戸内海で右上が山口県です。
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航空路は9~15㎞ほどの幅を持っているそうですが、気象状況やルート上の混み具合などの理由なのか多少変化するようです。
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「タガワ・トランジション」へ向かう夕焼け空の飛行機雲 2013年8月28日撮影
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みやこ町勝山の産直販売所「 採れたて市場 美夜古かつ山」の正面入口の裏手(山側)に「勝山神社」があります。

この神社の鳥居は道沿いにありますのですぐ目に付くと思いますが、この鳥居から南(香春・田川方面)へ200メートルほど進むと孟宗竹の密生した小山を背にする数軒の民家が見えてきます。
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人家の脇を抜けて緩やかな山道に入り、辛うじて道の形を保っている竹林の中の小道を辿ること数分、やがて右手斜面上にひと塊の岩が見えてきます。↓
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この岩を見つつさらに竹林道を20メートルほど進み、道と林床の区別が付かなくなったあたりの斜面を数メートル登ると東西に細長い舌状のやや平坦な場所に着きます。

あたり一面は山道入口からつづく孟宗竹の密生地ですが、ここが「勝山池南遺跡」と呼ばれる室町期の祭祀場跡(磐座いわくら)です。↓
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いくつかの岩塊が散在していますが、このうち一際大きな岩が祭祀の中心となったと思われる磐座で、高さ約1.5メートル、長さ約2.1メートルです。

大岩は二つの小岩に支えられていて、左側の岩は高さ約50センチ、長さ約80センチ、右の支え岩は高さ約30センチ、長さ約1メートルで奥行は約60センチです。(地上露出部のみ計測)
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画像は東側からの撮影で、南側(画面左側)は緩やかな斜面となり、北側は少しばかり急な斜面になっています。
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↑北側より撮影 岩の上には朽ちた竹や長い年月のうちに降り積もった分厚い竹葉で覆われ岩肌は全く見えません。

大岩から東に約5メートル離れたところにも三つの岩があり、南北にほぼ等間隔で並んでいます。↓右端(北側)のいちばん大きな岩は高さ約50センチ、長さ約1.3メートル、幅約90センチです。
画面最奥に最も大きな岩(磐座)がありますが、画像が暗くて見難いかもわかりません。
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この磐座についての文献はあまり目にすることが有りませんが、みやこ町教育委員会発刊「みやこ町内遺跡等分布地図」には「巨石の下に川原石が集積され、土師器が混在する」と記載されています。

祭祀場跡を歩いただけの見学で土師器の発見は兎も角として、「巨石」というほどの大きさではないにしても「磐座」の大体のイメージは掴んで頂けるのではないでしょうか。

この祭祀場跡は140基の古墳が集中して存在する「勝山池西古墳群」の一隅に位置し、磐座のすぐ近くにも円墳らしき小丘がいくつか見られます。↓
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画面奥に向って緩やかながらも丸みを帯びた小丘が見とめられます。

みやこ町勝山地区には無数ともいえるほど数多くの古墳・土器散在地などの遺跡がありますが、祭祀場跡は上記の「みやこ町内遺跡等分布地図」に記載されている限りでは「胸ノ観音遺跡」「勝山池南遺跡」「宮原遺跡」「下田遺跡」「宮原経塚」「下田経塚」のみです。

いずれの遺跡も現在ではほとんど忘れ去られ、訪れる人は皆無と言っても過言ではないと思います。
それだけにこれら祭祀場跡は現代版パワースポットとして独り占めできる場所でもあります。
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ニューヨークの高層ビル街を往くY1B-17♯80 左側のビルはアメリカン・インターナショナル・ビル、写真の下端にイースト川に架かるブルックリン橋の橋脚上部が見え、写真左端上部にマンハッタン橋が見えています。撮影は1938年2月15日、米陸軍の公式写真をもとに制作した絵葉書です。
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Y1B-17の原型のボーイング「モデル299」の初飛行は1935年7月28日、各種テスト飛行ののち陸軍に引き渡すとき、ボーイング社のシアトル飛行場からオハイオ州デイトンのライト飛行基地まで3300㎞を無着陸で飛行し、しかもその間、平均時速400㎞以上を記録、当時の北米大陸横断の記録を塗り替える優秀さを示した。

しかし、陸軍でのテスト飛行中、人為的ミスで墜落、炎上大破。採用機種として最終評価を得ることが出来なかったが、機体の優秀さを認め、陸軍はボーイング社に対して機体強度確認用の破壊試験機1機を含む全14機を発注、モデル299搭載のエンジンをより強力なものに換装後、Y1B-17と命名。初飛行は1936年12月2日でした。(破壊試験機はのちにターボチャージャー搭載機として改造され、Y1B-17Aとなった/初飛行は1938年4月29日)

Y1B-17はさまざまな条件下で優れた性能をあらわしたが、米軍上層部は長距離爆撃機の必要性を認めず、米議会は機体購入費の高額に難色を示し正式に採用されるかは先行き不透明だった。第2爆撃大隊指揮官ロバート·オールズと隊員たちはY1B-17を広く国民に認知してもらうことが必要と感じ、その一環として「南米親善飛行」を計画した。

1938年2月15日、バージニア州ラングレー基地を離陸した6機のY1B-17は最初の経由地マイアミに向う途中、ニューヨーク市上空を通過。絵葉書はその時のもので、編隊を組む6機のうち、第2爆撃大隊・第49飛行隊の♯80機が写されています。

マイアミを離陸した各機は15時間後にリマのパンアメリカン・グレース・エアウェイズの飛行場に到着、リマで歓迎会など各種行事に参加後、サンチャゴを経由して、アルゼンチンの首都ブエノスアイレスに到着。予定通り1938年2月20日にアルゼンチンの新大統領ロベルト・マリア・オルティスの就任式に参列し帰投についた。

帰還時はリマで給油したのち、パナマ運河地帯を行くコースを取り、この地区のフランスの飛行基地で再び給油、2月27日にラングレー基地に着陸し全行程を終えた。

ラングレー基地には陸軍長官や陸軍参謀総長をはじめ大勢の人々が歓迎のために待ち受け、親善飛行の当初の目論みは成功を見た。しかしさらなる有効なデモフライト目標を捜していた飛行隊は1938年5月12日にいわゆる「レックス号仮想索敵飛行」を試みた。

ニューヨークの東海上1167㎞を航行中のイタリア客船「レックス号」を目標として往復飛行を行うというもので、3機のY1B-17を使って密雲のなか、広大な洋上ただ一点の客船を見つけ出す難業に成功し、Y1B-17の高い任務遂行能力をさらに示すこととなった。南米親善飛行に参加した♯80はこのレックス号仮想索敵飛行」にも参加している。

しかし、この飛行に対して海軍から沿岸防衛の管轄権の問題で激しい非難を受けることとなり、陸軍飛行隊と海軍との間にあった従来からの対立がより一層深刻化するという思わぬ事態を招く結果となった。このときの参加機は♯80の他、♯81、♯82の3機だった。

さらに♯80は♯51・♯62とともに1938年8月5日~11日のコロンビア親善飛行にも参加しています。このときの機長はカレブ・V・ヘインズ、♯51は機長ビンセント・J・メロイ、♯62は機長ハロルド・L・ジョージだった。ちなみに♯80には当時中尉だったカーティス・E・ルメイも搭乗していました。

飛行隊はこれらのデモフライトのほかにも例えば1937年にニューヨーク市で開催された米国在郷軍人大会で市の上空を編隊飛行するなどの示威活動を展開し、Y1B-17の存在と優秀さを様々なかたちで政府・議会・国民にアピールし、長距離爆撃機の必要性を盛んに喧伝しています。

飛行隊の示威活動はB-17が制式になったのちも行われており、1939年11月のB-17Bの7機によるブラジル親善飛行(ブラジル共和国建国50年記念式典)などを挙げることが出来ます。

アメリカの航空兵力は第二次大戦の直前までドイツのそれと比較して格段に劣っており、敵国の航空機生産ラインそのものを破壊する戦略が台頭してきたこともあって、何としても高性能の爆撃機B-17を大量に保有すべく、そのためには国民の理解と支持を必要とし、一連のデモフライトを行ったとみることができると思います。

本日のY1B-17♯80の絵葉書もその大衆向けアピールの一環として作られたものと思われます。

Y1B-17♯80
★アメリカ陸軍航空軍番号:36-151
★製造番号:1975
★機体記号:BB80
★ボーイング社番号:モデル299B
★1937年3月11日バージニア州ラングレー基地 第2爆撃大隊 第96飛行隊
★1937年3月28日バージニア州ラングレー基地 第2爆撃大隊 第49飛行隊
★1940年10月カリフォルニア州マーチフィールド基地   第19爆撃大隊
★1942年11月21日にテキサス州アマリロの陸軍航空技術学校へ移籍ののち、1943年1月5日に登録抹消されています。

ところで裏面の通信欄の消印は、1906年9月27日となっています。「1906」が西暦年とすれば、この日付はかなり不思議。消印局はカリフォルニアのサンアンセルモです。
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宛先は、京都市南桑田郡河原林村勝林島で差出人の名前は見当たりません。日本国内で押された思われる消印は全く判読不明。貼られていた切手は剝がしたようです。
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切手を貼るスペースには国内1セント、海外2セントと印刷されています。
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さらに、ところでですが、ネットをさまよっていると「TWO CENTS」には「2セントしか持っていない、つまりつまらない意見ですが・・」の意味を含めて表現する時もある、との記述に出会いました。まさに拙ブログのようでTWO CENTSですが・・・。
(追記:絵葉書の機体のエンジンナセルの上に棒状の何かが見えますが、これは何でしょう? )

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