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福岡県京築地域と大分県北地域の県境を越えた町づくりに取り組む「とよのくに連携会議」の主催で「広域連携のろしリレー」が実施されました。

「とよのくに連携会議」は苅田町の西日本工業大学と関係治自体でつくる地域活性化研究会で、福岡・大分県境を超えた官・学・民の連携による地域発展をめざすものです。

その最初の連携事業として宇佐市の大蔵山から苅田町の松山城跡まで約65キロを「のろし(狼煙)」でつなぐ「のろしリレー」が企画され、江戸時代の高速通信手段「のろし」が再現されました。

大蔵山から松山城跡まで計9ヶ所に設けられた「のろし台」は以下のとおりで、江戸末期に使用された「のろし台跡」や戦国期の城跡などです。

宇佐市・大蔵山のろし台→ 宇佐市赤尾・光岡城跡→ 中津市・野依のろし台→ 上毛町・吉岡のろし台→豊前市・角田のろし台→ 築上町・浜宮干拓堤防→ みやこ町・馬ケ岳城跡→ 行橋市・沓尾のろし台→ 苅田町・松山城跡

起点の宇佐市大蔵山の点火は14時00分、当地の「馬ケ岳城跡」は起点より7ヶ所目で「狼煙」を目にしたのは14時25分過ぎ頃です。

曇天で「狼煙」が雲に溶け込んでちょっと写りづらいようだったので狼煙を強調して撮影。そのため、馬ケ岳は黒くなってしまった。
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二つの峰のうち右側は馬ケ岳城の本丸があった西峯、左の東峯の「二の丸跡」から狼煙が上がった。14時39分撮影 行橋市大谷付近にて。
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時折り強まる風のため、狼煙は横に流れて見づらくなることもあった。・・が、それにしても最初の点火から25分ほどの速さで狼煙が届くとはかなり意外なことでした。
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東日天文館の当時のパンフレットには子供料金と大人料金のほかに「団体割引料」というのが載っています。

団体割引料は「軍人・学生生徒児童」と「其他」の二つに分かれていて、たとえば200人以上の場合「軍人・学生生徒児童」は4割引きで「其他」は3割引き、150人以上では「軍人・学生生徒児童/3割5分引き」「其他/2割引き」等、一般の大人と比べて軍人が随分優遇されていたことがわかります。

軍人優遇は当時の趨勢だったのでしょうが、実際に南方あるいは北方の戦地に赴くまえに「プラネタリウム」である程度の星の知識(方角や高度など)を得ていた軍人は多かったようです。このことは、「天象儀の魔術」のなかの「実生活に役立つプラネタリウム」の章でも取り上げられていて、少し抜き書きすると次のとおりです。

『今や大東亜戦争勃発以来、南に北に皇軍が赫々たる戦果を挙げています。従って今まで北の空ばかり馴染んでいたのが、急に南の未知の星に接する機会が多くなって参りました。いつでも真北を教えてくれる北極星も赤道を一歩でも踏み出すと、もう地平線下に没して使えません。』

そしてこのような時、南十字星や真東からのぼるオリオン座などの知識があると不慣れな土地でも行軍することができると記して『近頃は南に行かれる兵隊さんなどは必ず一度はプラネタリウムで南の空を勉強してから出掛けます』と書かれています。

また、『先年ニッポン号が世界一周の行程に上がったとき、壮挙に先立ち中尾機長以下が揃ってプラネタリウム参観、特に最難関と目された北太平洋アリューシャン付近の空を、しっかと乗員の網膜に焼きつけてから出発したのが非常に役立ったといいます』とも書かれています。
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下図は恒星投影器の内部構造です。
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本文はまず全体図によってプラネタリウムの三つの主要運動(緯度変化・日周運動・歳差運動)を説明し、次に恒星投影器の仕組みを詳しく述べたのち、太陽と月の投影器・天の川投影機、惑星や彗星の投影器・その他の仕組みを詳述しています。さらに機械の精度と誤差の話しに移って最後は前述の「実生活に役立つプラネタリウム」で終わっています。

本号には天文関係の記事がもうひとつあって「僕らの天体観測-銀河の観測」というタイトルで小森幸正氏による4ページものが載っています。

世界各地の銀河の神話・伝説を紹介した後、暗黒星雲や銀河の構造などをわかりやすく説明しています。

そのほかの主要記事は、「僕らの海洋学-海水の流動」「水素の発見」「植物の葉の形態」「エドコマチグモの産室」「電池式二球受信機の作り方」等々で理系分野をほぼ網羅しています。

全く意味はないのですが各分野のページ割り当てを数えてみました。一番多いのは表紙裏なども合わせて全100ページに対して21ページの「広告」です。全面に広告を使わず記事の下端に広告を入れている場合もありますので実際はもっと多くなります。以下、次のとおりです。

軍事関連13ページ、生活科学11ページ、一般科学解説11ページ、工作機械8ページ、天文9ページ、読者発明・工作6ページ、理科実験5ページ、植物4ページ、地理・地誌3ページ、鳥3ページ、クモ(蜘蛛)2ページ、読者便り等その他4ページ 以上ですが、広告ページが圧倒的に多いことがわかります。しかし、古い雑誌の面白さのひとつにこの広告がある、ということを以前に拙ブログで書きましたが全くそのとおりで、今回も「広告が面白い!」と書きます。

広告をいろいろ紹介すると切りがありませんので最も多い「書籍の広告」をひとつだけ。
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学生の科学 第二十八巻 第十号 (毎月一日一回発行)
昭和十七年九月二十八日印刷納本
昭和十七年十月一 発行
編集人 近藤傳之助
発行人 小川菊松
印刷人 小坂孟
印刷所 大日本印刷株式会社
発行所 誠文堂新光社
配給元 日本出版配給株式会社
18×26cm 本文(写真頁を除く、記事頁のみ) 88ページ
定価五十銭 送料三銭 (一年分 五円八十銭)
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来襲機の位置を捉える電波探知機/木村重光 画(本誌口絵より)
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ところで、本号が「第二十八巻」ということは単純に計算すると創刊は大正4年となって、原田三夫が発行した最初の科学雑誌「子供と科学」(子供と科学社/大正6年3月創刊)より早く、一戸直蔵の「現代之科学」(大正2年)のわずか2年後ということになります。当時は科学雑誌を受け入れる素地が一般社会に希薄だったため、両誌とも発行継続には非常に苦労したようです。

「学生の科学」の創刊号は未見ですのでよくわかりませんが、もし創刊時より誌名が変わらず編集内容も科学中心であったのであれば、昭和17年の「第二十八巻」までよくぞ続いたものと驚嘆します。発行元は転々としたのではないかと想像しますが・・・、よくわからんです!!   半年刻みで1巻、2巻と表示した雑誌もありますので。

学生の科学 10月号をいるか書房本館にUPしました。(現在ウリキレです)
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10月号の特集記事は二つあって、ひとつは「最新式潜望鏡」、もうひとつは「天象儀の魔術」です。
特集といっても潜望鏡が4ページで天象儀が5ページ記事ですので、「小特集」というところでしょうか。
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まずは「最新式潜望鏡」から。

執筆者は本内達三氏で海軍大佐とのこと。記事の最後に(海軍省検閲済第1000号)とありますので文章にして発表しても良い内容、つまり機密めいたことは書かれていないということでしょう。当たり前のことですが・・・。
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『接眼レンズも割れよとばかり太平洋に索敵するわが無敵潜水艦の勇士』と説明が添えられています。大げさな文章ですが、当時の読者は「そのとおり!!」とうなづいたことと思います。

内容は初期の潜水艦には潜望鏡がなかった、というところから始まって、潜望鏡使用の目的、潜望鏡の視野、潜望鏡の構造、写真撮影もできる潜望鏡、となっています。読み進めてわかるのですが、タイトルの「最新式」というのは「初期の潜望鏡と比較して」という意味のようです。

記事のタイトルからするともう少し詳しく述べてもらいたいところですが、本誌の読者層と当時の時代背景を考えるとこれが限度でしょうか。

この記事とは別に「潜水艦対潜水艦の戦闘」という4ページ記事もありますので二つを合わせての特集ということかもわかりません。こちらは多くの写真・イラストを使っていてけっこう興味深い内容となっています。
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「潜水艦対潜水艦の戦闘」より「大西洋から基地に帰還したドイツ潜水艦」

当時(昭和17年)の戦況をごく大雑把にいうと、この年1月2日に日本軍がマニラを占領し、2月15日にシンガポールを陥落させ、5月7日にフィリピン・コレヒドール島の米軍を降伏させて日本軍が東南アジア全域を制覇しましたが、一方では4月18日に米国のジミー・ドーリットル中佐率いるB-25爆撃機16機による日本本土初空襲、6月5~7日のミッドウェー海戦の大敗、8月9日以降のソロモン沖海戦の最終的敗北、ソロモン諸島の一連の地上戦による壊滅的敗退などによって日本軍は大きく衰退していく過程にありました。

読者はこれらの事実を知るよしもなかったと思いますので、本誌に限らず当時発行されていた他の少国民向け科学雑誌に必ずといって良いほど掲載されていた兵器・兵装関連記事を目にするたび、雄々しい惹句と写真・イラストに胸が高まったことと思います。

ちなみに昭和17年当時に刊行されていた少国民及び一般向け科学雑誌は、誠文堂新光社の「科学画報/子供の科学」を始めとして「科学朝日(朝日新聞社)」「科学日本(大日本出版)」「科学と模型(科学と模型社)」「図解科学(中央公論社)」等、さまざまでしたが何れも戦争関連記事が豊富だったことは軍部の指導があったかどうかは別として、そのようなニーズがあって編集内容を決定していたということでしょう。
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上の目次に見える「慈悲心鳥(じひしんちょう)」とはカッコウ科の「ジュウイチ」の別名で、名前の
由来は「ジヒシン ジヒシン」と鳴くからとのこと。ジュウイチも鳴き声からの命名ですが。

・・・で、その謎とは「慈悲心鳥」の托卵の様子を撮影することができたというお話。

さて次は東日天文館研究部の井田桂一氏執筆の「天象儀の魔術」です。

東日天文館の開館は昭和13年(1938年)10月30日で大阪市立電気科学館に次いで公開された我が国2番目のプラネタリウムです。

本誌表紙はこの東日天文館に設置されたカールツァイスⅡ型で『プラネタリウムと十月の夜空』と題されていますが、背景の黄色の星々は適当に散りばめられていて、特定の星座を描いているようには見えません。

表紙構成は戦前戦後を通じて活躍された当時の代表的グラフィックデザイナーの一人、高橋錦吉氏です。

つづきます
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