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2010年7月29日の拙ブログにプラネタリウム遊園地の絵葉書を載せていますので、本日は(その2)としました。

絵葉書の通信面の下端に
『プラネタリウム(岐阜) 展望もよく遊園地もあり遊歩道も完備されて絶好の行楽地である』

と書かれていますが、ちょっと捕捉すると、中央にドームを持つプラネタリウムの建て物、遊園地敷地の右端に「飛行塔」、プラネタリウム館と飛行塔のあいだの石垣の縁上に「こども列車」、プラネタリウム館のすぐ左に「観覧車」を見ることができます。
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この観覧車は、2010年7月29日掲載の絵葉書(その1)には写っていないので、プラネタリウム遊園地開園直後に発行されたと思われる「その1」よりは幾分新しい絵葉書のようです。

岐阜市の水道山にプラネタリウムが開設されたのは、昭和33年(1958年)4月25日のことで、恐らくこの年に発行されたと思われるプラネタリウム案内リーフレットの【星の劇場】の遊園地イラストには観覧車らしきものは描かれていません。プラネタリウム遊園地開設当初は、観覧車は設置されていなかったということでしょうね。

また、昭和34年の【星の劇場No.5】でもロマンスリフトの写真は掲載されているものの観覧車についての言及はありません。ロマンスリフトの開業はプラネタリウム開館の翌年昭和34年ですので、この時点で観覧車が設置されていれば当然観覧車についても案内されていたと思います。

ロマンスリフトや飛行塔やこども列車などとともに観覧車はプラネタリウム遊園地の呼び物のひとつだったことでしょう。子どもたちは、そして大人たちもプラネタリウムの星々に感動の声をあげ、観覧車や飛行塔に歓声をあげ、思い出深い一日を過ごしたことと思います。

ところで、「ロマンスリフト」ですが、乗降場は「飛行塔」の裏側あたりにあった、ということで良いでしょうか。
それとも観覧車の前の階段左側?
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行橋市長木の八雷神社のすぐ近く、長木下崎区公民館前に「獣魂碑」と刻まれた石碑があります。
台座を含めて2.5メートル以上はあると思われる大きな石碑です。
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正面の「獣魂碑」の文字ははっきり読み取れるのですが、裏面は劣化が激しく、建立者の名や建立年らしき文字が彫られているものの全く判読不能です。
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わずかに最後の二文字「建之」がかすかに読み取れる程度。
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「行橋市史 一町八村合併時」の509ページに『京都郡内の家畜市場は、椿市村鳥居原に開設されていたが』とあるので「獣魂碑」はこの家畜市場に関係したものと推測します。

鳥井原(鳥居原)のどこに市場が開設されていたかはわかりませんが、長木下崎区公民館前に碑が建てられたのは恐らくここが区有地だったからではないでしょうか。

石碑建立の年月日や建立の経緯はわかりませんが、「行橋町勢要覧(大正14年)」に「大正13年2月 行橋家畜市場創設」とあります。
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同じ町勢要覧に常設家畜市場(行橋家畜市場)の取扱い高が載っていて、次のとおり。

市場出場頭数/牛1256頭・馬288頭
販売頭数/  牛997頭・馬214頭
売上高/   牛149.727円・馬33.652円
牛馬出場合計/1544頭 販売頭数合計1211頭 売上高合計/183.379円、とのこと。大正14年版の町勢要覧ですから多分前年の取扱い高と思います。

ちなみに同じ町勢要覧に掲載の町内飼育家畜頭数は、牛118頭・馬63頭・豚12頭・山羊52頭・乳牛6頭ということで、仮に町内飼育家畜を全頭市場へ出場したとしても上記の取扱い高には到底及ばず、これはいかに近隣の町村からの出場が多かったかということを示し、行橋町とその近隣地域の畜産業の盛んなることをうかがわせる数字となっています。

実際、福岡県内務部農林課の「福岡県の農林業」には、『(大正期には)田川・嘉穂・京都の三郡ニアリテハ県下屈指ノ産牛地タリ 年々子牛ノ他府県ニ移出セラルルモノ各郡約一千頭ニ達セムトスルノ盛況ニシテ(以下略)』とあり、田川郡・嘉穂郡・京都郡の三郡で育成された仔牛は近畿地方などへ移出されて高い評価を得ていたといいます。

行橋町を含む三郡の畜産は昭和に入ってさらに盛んになったようで、行橋町内飼育牛馬頭数も若干ながら増えています。

「行橋町勢要覧(昭和4年)」によると昭和3年の飼育数は次のとおり。

牛・134頭/乳牛・10頭/馬・74頭/その他72頭(年内に産まれた家畜として牛16頭・馬0頭・その他 頭と書き添えられていますが、左記の頭数に含まれるか否かはわかりません。文脈からして多分、含まれているでしょう。)
 
行橋家畜市場創設時の大正13年と比較して、牛16頭増、乳牛4頭増、馬11頭増、その他8頭増の状況で、飼育の手間を考えると畜産従事者も相応に増えたのではないかと推測します。

それでは当時の福岡県の家畜飼育数は全国的にみてどうだったかというと、「福岡県史・通史編 近代産業経済(二)」所収の「農林大臣官房統計課 第六次農林省統計表(昭和4年)」によると、

牛・総頭数10位/馬・総頭数15位/豚・総頭数26位/鶏・総頭数4位

となっていて、ニワトリの飼育数全国4位は群を抜いていますが、牛・馬の飼育も福岡県は全国的にみて盛んだったことがわかります。

大正13年、昭和3年、昭和12年の行橋町内の飼育頭数を整理すると下記のとおり。

牛118頭→134頭→165頭
乳牛6頭→10頭→11頭
馬63頭→74頭→78頭
その他64頭→72頭→24頭 です。

13年間の推移ですが、「年内に産まれた家畜:牛26頭・馬2頭・その他4頭/行橋町勢要覧(昭和13年)」が多いのか少ないのか、市場での販売頭数はどのくらいか、などの詳細がわかりませんので、この頭数の増え具合は早いのか遅いのか判然としません。しかし飼育規模が拡大していることは確かです。

規模拡大のひとつの要因として、昭和4年にニューヨーク証券取引所で株価が大暴落したことをきっかけとして起きた世界恐慌が我が国にも及び、日本経済は危機的状況を呈し、特に農村部の疲弊度は著しく、そのために農家の現金収入増加策として政府は「経済更生運動」を展開した、という事例を挙げることができます。

鳥井原地区を含む当時の椿市村は福岡県から「経済更生運動」の指定農村のひとつとして麦や菜種栽培の裏作奨励とともに「畜産」も奨励されていました。

行橋町内に限らず田川・嘉穂・京都の三郡も同じような事柄で飼育数が増えていったことと思います。しかし、昭和29年に「行橋家畜市場」を廃止し、あらたに行橋市中心部に近い交易の便のよい場所に「中央家畜市場」を開設するまでかなりの年月を擁した事実は、畜産奨励とは裏腹に徐々に深まっていく戦争の兆し、続く戦中・戦後の混乱から、当初の思惑と違って思うほどには飼育頭数が伸び行かなかった結果ではないか、とも想像します。(当否は各自で統計表などで検証願います)

「中央家畜市場」については、前記の「行橋市史 一町八村合併時」に、『・・・北九州、田川方面から購入にくるものは、遠隔地のため、交通の便が悪いという意見が強く、(中略) 行橋町川島の町営屠殺場北隣りの敷地九百二十坪を決めた』とあります。

新しい市場の起工地鎮祭は昭和29年11月5日、落成式は同年12月20日に行われています。建物は本館、せり場、検査所、品評会場、その他附属施設からなり、計200坪の規模。

行橋町はこのときすでに市制へと移行し、行橋市(昭和29年10月10日発足)となっていました。
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「行橋市史 一町八村合併時」(昭和59年発行)の昭和戦前編に「国営気象観測所設置」という項目があります。少し煩雑になりますが、冒頭一部を転記します。

『気象は航空界に緊密なる関係を有し、当地方は航空路として重要の地位に在りて、毎日数回飛行機の航空を見つつありしが、昭和十一年特別議会において全国要地に気象観測所を設置の儀通過し、行橋町にも文部省所管のもとに中央気象台行橋観測所を設置せらるることとなり、福岡支台長始め関係職員度々出張、数ヶ所の候補地物色の末、長峡川河畔行橋区裁判所以東をもって、適格地として指定せられ(以下略)』

適格地の行橋区裁判所以東の当時の住所は「行事区有大字行事御蔵下」で現在の地番では「行橋市行事1丁目9番から12番」あたりになります。この地を昭和13年の地図でみると以下のとおり。
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画面中央付近を左右に流れる川は「長峡川」で、その上の川は「後川(浦川)」です。右端の川は「小波瀬川」で画面右側数キロ先が河口となり海へと続いています。
長峡川と後川(浦川)が交わるあたりが「行事御蔵下」で、その部分の拡大が下図。
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裁判所の右側の三角地に「観測所」と書き込まれています。この部分は現在番地では「行橋市行事1丁目9番」にあたります。

当時、この地は二反六畝四歩の耕地で「五百二十二円六十六銭」で買い上げたとのこと。
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観測所設置場所を対岸の行橋市大橋2丁目の法務局行橋支局付近から撮影 画面中央の右よりが三角地の突端、そのすぐ右が後川(浦川)の河口、手前の川は長峡川
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後川(浦川)に架かる御蔵下橋から下流を望む 橋の位置は上の地図で見た場合、「後川の後と川の間に画かれた橋」です。画面奥が三角地突端、右側の家並みは行事1丁目10番11番あたりです。

行橋の気象観測所の建物竣工は昭和12年3月で翌4月から観測開始、建設当時、福岡県内には二つの別組織の気象観測所がありました。

ひとつは福岡県営の観測所で、もうひとつは文部省管轄の国営観測所です。二つの観測所の歴史は次のとおり。

県営
明治23年(1890)1月1日 福岡県立福岡二等測候所 創立/観測開始(福岡市東中州町)
明治29年(1896)    福岡県立福岡一等測候所となる
明治40年(1907) 2月11日 春吉(福岡県筑紫郡住吉村大字春吉字八ツ溝1452番地)に移転
昭和8年(1933)      福岡県立福岡測候所に改称
昭和14年(1939)     中央気象台福岡支台と合併、国営に移管


国営
昭和5年(1930)8月  福岡飛行場(名島水上飛行場)敷地内に中央気象台福岡支台が開台(文部省管轄)
昭和6年(1931)3月   大濠(旧・福岡市西公園下/東亜勧業博覧会跡地)に移転
昭和12年(1938)4月  中央気象台福岡支台行橋観測所 観測開始
昭和14年(1939)11月 福岡県立福岡測候所と中央気象台福岡支台が合併、福岡管区気象台に改称、全国の気象官署を統一し、国営に移管(文部省管轄)

行橋観測所はいつまで存続したかは調べるに至っていませんので不明です。
またいつの日かこの稿を書き足します。
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