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明治5年11月9日、従来の太陰太陽暦(天保壬寅暦)を廃し、新たに太陽暦を採用する旨の「太政官 達 第三百三十七号」が公布されました。

「來ル十二月三日ヲ以テ明治六年一月一日ト被定候事」というもので、明治5年は12月2日で終了し、翌3日を明治6年1月1日とするものでした。

下の画像は、太陽暦に改暦後最初の暦本「神武天皇即位紀元二千五百三十三年 明治六年太陽暦」の表紙です。
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画像では非常に見難いと思いますが、中央の黒い枠線の右下端に縦2.8センチ・横0.8センチの小さな黒枠があります。

文字は薄れて読めませんが、最初の文字は「定」で、次は「價」の一部のようですので、『定價貳匁』(ていかにもんめ)と印字されていたのではないかと推測します。墨の色やかすれ具合を見るとあとから付け加えたもののようです。

この太陽暦の出版者は明治新政府の御用書林(書店)のひとつ「村上勘兵衛」です。明治政府より太陽暦暦本の出版権を与えられた書林は「村上勘兵衛」のほか、「山中市兵衛」「須原屋茂兵衛」などがいました。

いずれも『太政官日誌』等の政府刊行物の印刷販売業務を請け負う御用書林です。編暦は明治3年に大学星学局へ招聘された内田五観、小林六蔵、渋川敬典、福田理軒らが当たっています。
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明治六年太陽暦の第1ページ目、表紙と同じく「神武天皇即位紀元二千五百三十三年 明治六年太
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陽暦」と印刷され、その下に「東京時刻」とあります。
東京時刻の基準子午線は内務省の観象台があった江戸城の天守台跡だそうで、東経139度とのこと。

二行目に「一月大三十一日」とあり、三行目に「一日 水 日赤緯南二三度〇〇分五二秒 一時差一二秒四減 視半径十六分十八秒」とあります。その下に「壬申十二月大」と印刷され、「三日 みずのとうし」と書かれています。
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「壬申十二月」は、明治5年12月のことです。つまり、明治6年1月1日は太陰暦(旧暦)では明治5年12月3日に当たることをあらわしています。(一時差は一時間あたりの日赤緯の増減を示しています。)

四行目の「二日」は木曜日で、「日最卑午前五時五分」とあり、この日は旧暦では12月4日で干支は「きのえとら」であることがわかります。

「最卑(さいひ)」は、最も近いところ、の意味です。旧暦では、この干支の下に「なる(成)・おさん(納)・ひらく(開)・たつ(建)・のぞく(除)」などの12種の暦注が書かれていました。この12種の暦注を「十二直」といいます。「直」は、当たる、の意味で、よく当たる暦注だったのでしょう。(・・・旧暦時代は。)

改暦の布告に「・・・殊ニ、中・下段ニ掲ル如キハ、率ネ妄誕無稽ニ属シ、人知ノ開達ヲ妨ルモノ少シトセズ」とあるように暦注の排除も目的のひとつだったようです。

布告の文章中「中・下段ニ掲ル如キハ」とは、「十二直」が旧暦のページ中頃に掲載されていたためで、十二直は「中段の暦注」と呼ばれていました。

「下段」の暦注はさらに数を増して、きこ日(帰忌日)・ちいみ(血忌)・ふく日(復日)・くゑ日(凶会日)・月とく(月徳)など30数種に及びます。これに歳徳(恵方)や金神(悪い方角)などを加えると旧暦時代には無数の「率ネ妄誕無稽ニ属シ」があったと言ってよいようです。


つづきます。
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