<   2012年 07月 ( 6 )   > この月の画像一覧

画像は内側の「電気館陳列品案内」で、左側端より、原理館(5階)、照明館(4階)、電力電熱館(3階)、弱電無電館(2階)のそれぞれの展示品の名称を列記しています。
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陳列品目の選定は昭和8年5月に発足した「電気科学館陳列実務委員会」があたったわけですが、どのような観点から決めたかというと、

『委員会は電気科学館が敷地面積が少なく充分なスペースがとれないことと、躍進都市大阪の工業産業界を直接指導しなければならない使命を重視して、過去を語る歴史的陳列を捨てて、現在から将来へ向かっての示唆を与え、あるいは直接市民が利用できるような陳列品の選択、その配列に苦心努力を払ったのである。』(大阪市立電気科学館50年のあゆみ/1987年発行)、とのこと。

陳列点数は各階とも時により多少増減しているようですが、この「案内」の場合、5階原理館61点、4階照明館60点、3階電力電熱館57点、2階弱電無電館37点、となっています。
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陳列品は、機械・器具などの現品、模型、説明図、写真、映画等で構成されていますが、なかには名称の記載だけではよくわからないものもあります。

「一寸法師」「回転玉子」「幻の花」「図案構成器」「魔法の部屋」等々、勝手な想像ですが、「一寸法師」は電気仕掛けの人形、「回転玉子」は電磁石応用、「図案構成器」は名称通り、図案を構成する機械なのでしょうが具体的イメージがわいてきません。原理館展示品の多くは、仕組み(原理)を説明するための装置です。
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各階展示品を数点ずつ転記します。

原理館/発電実験装置、電力と電力量説明装置、渦状電流の説明装置、超音波発生装置、真空管の作用を示す装置、等々

照明館/スペクトルの観察装置、高速度運動体撮影装置、自動交通整理機、モデルルームの照明変化説明、医療用レントゲン線装置、等々で「望遠鏡の構造説明」もここにあります。

電力電熱館/手動発電機、変圧器各種、ガソリン自動車、電気自動車模型、電気浄水機、エスカレーター模型、スポット電気溶接機、等々

弱電無電館/簡易伝送写真装置、心臓電気記録装置、テレビジョン電話、光線電話、射撃練習装置、盗難予防装置、火災報知機、等々、「魔法の部屋」はここにあります。

思うに「魔法の部屋」は、アトラクション的陳列品だったのでしょう、・・・か?
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画像は三つ折になった「大阪市立電気科学館案内」を開いた状態です。大きさは35.5×19.5センチ、畳むと横辺12センチになります。

折り畳んだ場合、右側の建物写真がおもて面となり、中央の「大阪市営路面電車図」が裏面となります。左端の各階案内図は内側に折り込むようになってます。
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各階は地下1階が食堂と機械室、1階が市電の店・電気相談所・試験場、2階から5階までが「電気館」となっていて、それぞれ「2階弱電無電館・来賓室・事務室」、「3階電力電熱館」、「4階照明館」、「5階原理館・図書室・研究室」という構成です。

6階から8階までが「天象館」で、投影機を設置したドームと売店・休憩室、それに8階に事務室を有しています。
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電気科学館の建設着工は昭和9年6月ですが、それに先立って昭和7年7月に電気科学館建設委員会が組織され、昭和8年11月に建築認可申請がなされています。

このときの計画では、地階は食堂、1階市電の店、2階貸室、3階美容室・調理室等衛生施設、4階大衆浴場、5階大食堂、6階スケートリンク(夏季はビアホール)、7階スケートリンク観覧席、8階(屋上)遊歩道・眺望場、となっていて、科学館というよりは娯楽を中心とした施設計画だったようです。

これが昭和10年2月に計画変更されて、2階から5階までが電気関係の器械展示、6階から8階までは変わらずにそのままで、この時点ではまだプラネタリウム設置は決まっていませんでした。昭和10年2月の各階計画は次のとおり。

1階市電の店、2階弱電無電館、3階電力電熱館、4階照明館、5階電気原理館、6階スケートリンク(夏季はビアホール)、7階スケートリンク観覧席、8階(屋上)遊歩道・眺望場

プラネタリウム導入の議はすでに昭和9年12月にあがっていましたが、このときは費用などさまざまな問題で決定に至らず、翌昭和10年5月、市議会内にプラネタリウム購入特別調査委員会が置かれ、6月に同委員会を通過後、最終的に6月29日の市議会本会議で決定、という経緯が残されています。

この案内図には発行年が書かれていませんので詳しくはわかりませんが、「路面電車図」をよくみると御堂筋線が難波から天王寺まで延伸されたときに設置された動物駅(動物園前駅)や大国町駅などが記載されていますので、少なくとも昭和13年4月以降に発行されたものであることがわかります。(電気科学館 開館は昭和12年3月)

つづきます。
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イケヤ・セキ彗星、写真特集より

左ページ、左上/ウィルソン山天文台より見た池谷・関彗星、街の明かりはロサンジェルス。1965年10月29日。彗星頭部付近の星は、からす座δ星。尾の長さ約15度。

左ページ、左下/1965年11月2日、撮影地アリゾナ州ツーソン。彗星頭部は、からす座γ星とε星の間にあり、尾はコップ座δ星とα星の間まで達している。
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左ページ中、小写真/近日点通過後の彗星 1965年10月27日撮影。 黒々とした山影はキットピーク天文台近くのサンタ・リタ山脈。彗星は太陽から5000万km、地球から1億6000万kmの距離にいる。

右ページ上/1965年10月26日 写真画面の左側、明るい星は下から、おとめ座γ、η、β星。彗星頭部はからす座にある。撮影者はデニス・ミロン氏。撮影地アリゾナ州ツーソン。
ミロン氏撮影の池谷・関彗星は「天文ガイド イケヤ・セキ彗星写真集」の23ページにも載っている。写真集掲載の撮影日は10月30日。写真画面の左側がやや明るいのは「黄道光」のため。

右ページ下/1965年10月28日、ニューメキシコ州にて撮影 中央の地平線付近の明るい星は、からす座γ星。

左ページ、左上/1965年11月2日、香港にて撮影。頭部は、からす座γ星近くにある。

左ページ、上の中央写真/1965年11月2日、ハーバード大学ボイデン天文台(南アフリカ)撮影。
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左ページ、左下/1965年10月31日 撮影地オーストラリア 尾の長さ4300万km以上。

左ページ、右端/10月31日 撮影地オーストラリア・ブリスベーン 「イケヤ・セキ彗星写真集」ではこの日(10月31日)は、『全国的な悪天候で10月31日の写真はまったくない』となっています。

右ページ、左上/1965年11月2日 ボリビア、ラ・パスにて撮影 頭部付近の星は、からす座γ星、尾の端はコップ座δ星・ψ星の先まで達している。

右ページ、右上/1965年11月7日 プエルト・リコ、アレシボにて撮影 近日点通過ごろから彗星核の分裂の兆候が見られていたが、7日には2個に分離された核がはっきり観測された。

右ページ、左下/1965年10月28日 アルゼンチン、コルドバにて撮影 撮影者のZ.M .Pereyraは「1963Ⅴ彗星」の発見者。1963Ⅴは、池谷・関彗星と同じくクロイツ群。

右ページ、右下/1965年10月27日 アルゼンチン、ブエノス・アイレスにて撮影 10月21日の近日点通過後、彗星は軌道の関係で南半球の方が観測に都合よく、10月24日には肉眼で5度、写真では20度に達するの尾が見とめられた。

下図は、「天界」1965年11月号の表紙写真(木辺成麿氏撮影の池谷・関彗星)をもとに作図した11月6日の彗星位置/作図者:佐伯恒夫氏(同号308ページより)
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なお、同号の表紙裏に関勉氏撮影の10月28日と11月4日の池谷・関彗星が掲載され、裏表紙には岡本幾夫氏撮影(11月4日)と片岡隆三氏撮影(11月4日)の同彗星が掲載されています。

また、池谷薫氏執筆の「新彗星の発見について」が同号巻頭に掲げられています。
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香時計の取材先は水沢市黒石の千葉武男氏宅、取材者は歴史小説作家の小野寺公二氏。

千葉家は北上川の川べりで、代々「船肝入(ふなぎもいり)」をつとめてきた旧家とのことで、屋敷は川岸から50メートルほど離れた高台にあり、北上川を何キロかにわたって一望のうちに収めることが出来るそうです。

川岸は、現在、この屋敷の西50メートルほどのところにあるが、昔は流れがずっと東に寄っていて、屋敷の棟門の真下が船着場であったという。

千葉家はこの北上川を往来する物資運搬の平田船を監督したり、川漁業の管理などをする役目を負っていた、とのこと。

香時計は千葉氏が子供のころは一日も絶やさず焚いていたが、今は、盆と正月に焚くだけになった、と書かれているところをみると、千葉氏の年齢がわからないものの、大正の中頃、あるいは昭和の初め頃まで実際に使われていたのではないかと想像します。香時計として使っていたか、どうかは別として。
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画像の右上、香時計の全体/その左、①櫛形の「掻きならし」で灰を突き、こごりをなくす/①の下、②「ならし板」で灰を押しつける

①の左、③「ならし板」をしずかにはずすと、灰の面は平らになっている(写真の香の跡はまだ「ならしていない」部分)/③の下、④型枠を香炉のへりに嵌め込んで固定する。嵌め込み場所は一定で、ずれることはない。

③の左、⑤型枠の上に香をすくってのせる。香は合歓(ねむ)の木の葉を乾燥させ、石臼でついて粉(抹香)にしたもの、自家製。/⑤の下、⑥香を溝の中に入れる。この溝に入った量が常に一定であるように、凸凹のないようにする。
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右上、⑦「埋め込み板」を型枠の溝の中に押し込むと、溝の中の香は灰の中に埋め込まれる。/右下、⑧型枠は香炉の四分の一の大きさなので⑤⑥⑦を四回、場所を変えてやると全面に連なる。

左上、⑨抹香の線の端に点火すると、1時間にだいたい6センチの速さで香が燃えていく。一昼夜(36時間)ほど燃えている、とのこと。30分も誤差がないということですが、香時計は何時何分と時刻を知るというよりも、ある一定の時間の経過を知るためのもの。30分内の誤差でこと足りたのでしょう。

誤差は抹香の乾燥具合や埋め込む量などで生じてくるのでしょうね。多分・・・。

左下、⑩点火は、火のついた線香を埋めた香の末端に寝かせて置く。この写真の場合、中央の末端に置いているようです。


ところで、取材と執筆の小野寺公二氏、

青森県生まれで本籍地は岩手県とのことで、このことと関係あるのかデビュー作「奥羽のキリスト/昭和29年」をはじめとして「南部一揆の旗」「平泉落日」など東北地方を舞台にした歴史小説が多いようですが、「算学武士道」や「幕末算法伝」「出世の算法」等々、和算に題をとった小説も多く手がけています。

ネットをうろついていると「和算系小説」という言葉にも出会いました。ひとつのジャンルとして成り立っているようです。知らなかった!!
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「昭和レトロ」と言う言葉を聴くようになって久しい。

いつごろから言われるようになったのか詳しくは知らないが、テレビ東京系列の「開運!なんでも鑑定団」が始まった平成6年時点では「レトロブーム」という言い方はあっても「昭和レトロ」とは言ってなかったように思います。

昭和30年代以前の古い商店や住宅が数多く残っていた大分県豊後高田市内の商店街を「昭和の町」としてアピールし、現在見られるようなカタチに開発着手したのが平成13年のことで、このときすでに「昭和レトロ」という言葉があったように思われますので、多分、「昭和の町」の少し前、平成11年頃から言われだし現在に続いている言い方ではないかと想像します。(真偽は各自で検証願います)

「懐古趣味」はいつの時代でもあったのですが、昭和が終わる頃から数年間にわたって起きた「レトロブーム」は、その対象を大正10年代から昭和30年代前半としていたことに対し、現在の「昭和レトロ」の対象年代は主に昭和30年代から40年代のようです。しかし、人によって、あるいは場合によっては昭和50年代・60年代もその範囲に入れられて語られることも少なくありません。

・・・が、昭和30年代・40年代に少年時代を送り、ワタナベのジュースの素をリアルタイムで飲んだいた身としては、ここらあたりをレトロの対象とされるのは「チョット違うんではないか」という感じがして、個人的には「昭和モダン」と呼ばれる昭和初期、1930年代あたりこそノスタルジーの源始と信じてやみません。(人それぞれでしょうが)

さて、本日の「暮しの手帖」のこと、昭和レトロとして「暮しの手帖」を取り上げるのはいささか不本意ではありますが、ここには間違いなく昭和レトロの宝の山があります。

創刊は昭和23年9月で当初は「季刊 美しい暮しの手帖」が誌名でした。(昭和21年に花森安治と大橋鎮子が設立した「衣装研究所」から発行された『スタイルブック』が前身。)
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『暮しの手帖 1970年第6号 折れ線が気になりますが好きな表紙画のひとつ/花森安治画』

昭和28年12月の第22号から「暮しの手帖」に誌名変更し、昭和43年2月の第93号からは隔月刊に変更。

当時より外部からの広告は一切受けず、掲載広告は自社発行の書籍に限ることにより、同誌の大きな特徴のひとつである家庭電化製品や日用品を中心とした商品テストを商業主義に左右されずに厳格に行うことができ、多くの読者から支持され、また、メーカーにも大きな影響を与えた雑誌でした。
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『1970年第6号掲載記事のひとつ、「無一文で新築の3DKを手に入れる法」より、とりこわす寸前のオンボロ寮(旧・富士航空計器の社員寮、同社はかつて「新司偵」の自動操縦装置などを作っていた)』
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『無一文で新築の3DKを手に入れる法、より「3DKの中はこんなふうになっている/昭和45年撮影」寮を取り壊し、新築なった鉄筋五階建てマンションの一室と左図は間取り。写真はいずれも6帖』

この商品テストに扱われた品々やファッション記事や日常のさまざまな出来事を記した読者投稿欄の存在こそが、当時の世相を知る手掛かりとなり、いつしか昭和レトロと結びついて行くのですが、それはさておき、「暮しの手帖」1970年第6号に掲載された「香時計」についてのお話し。
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『タイトルの右の写真の左上から「香炉」、その下「香」/右上「掻きならし」、その下「ならし板」、「型枠」、「香すくい」、一番下「埋めこみ板」』

続きます。
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折からの豪雨の中、所用先からの帰途、西日本工業大学の正門付近に差し掛かると眼下の「小波瀬西工大前駅」に停車中の懐かしの国鉄色「にちりん」がチラリと見えた。

アレレ!? たしか「にちりん」は平成23年3月で定期運転を終えたはず。

見間違いかななどと思いながら駅前の坂道を下ったさきでチラリチラリと横目で線路側をみるとやはり「にちりん」。いつも持ち歩いているデジカメに手をやったものの車外は撮影どころではないドシャブリ。

躊躇すること数分間、幸いにも小雨にかわったところで数枚撮影。
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小波瀬西工大前駅に停車中の485系Do32編成の「にちりん」 ヘッドマークは「にちりん」ですが実際は「回送中」。

「にちりん」は平成23年3月の定期運転終了後も団体臨時列車として時々運行されている模様。

今回の運行は大分県大分市下郡信号所を7月5日深夜に発ち、同日昼前に小倉着、一旦門司港に回送後、再び下郡信号所へ向けて回送。同信号所着は夕方5時過ぎということだそうです。

他人様の某サイトを見ると7月6日にも485系Do32編成「にちりん」の運行があるそうで、6日の小倉着は10時過ぎとのことです。
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小倉まで出かけるのは無理として、再び「小波瀬西工大前駅」で会えるのか?
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