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「昭和の日」の本日、みやこ町勝山公民館にて吉田学軒顕彰碑の除幕式が執り行われました。

午前9時からの顕彰会総会ののち、勝山太鼓の演技披露を経て10時ちょうどに式典開始。
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みやこ町町長、顕彰会会長の挨拶に続き、関係者や来賓の方々の祝辞、ご列席者の紹介などの後、みやこ町歴史民俗博物館の川本学芸員による記念講話を持って40分ばかりの式典は終了しました。

このあと、餅まきがあったようですが私は所用のため帰りましたので詳細不明。

40名ほどの招待者のなかに、学軒の孫の三浦由紀子さん(71)、秀之さん(60)兄弟のお姿も見えました。東京と千葉から来られたとのことで、学軒の長女ふゆ子さんの四男とお姉さんとのことでした。
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高さ120cmほどの碑石は、顕彰碑が建立された地の南西に位置する「障子ケ岳」の山容を模した形で、碑の上部の階段状は戦国期に置かれた山城の跡地の地形をかたどったものです。
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碑の全文
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『父の死後、長い間、母と私は家の中で泣いてばかりいた。はじめて外に出て、私たちは暗いガアドの下を通っていた。母は「あの星がパッパのような気がするよ」といった。
星がほんとにたった一つ光っていた。私はほんとにそんな気がして来て泣きそうになった。』(晩年の父 小堀杏奴著/岩波文庫より)

父鴎外の死後、ある日のこと、杏奴は父と過ごした日在の別荘の星空を思い出すかのように「星の書いてある図」を持ち出して見ていると母がやって来て、「杏奴ちゃん、そんなことをするのはよしておくれ」と言う。

「パッパも星を調べていたら直き死んでしまった。そんなものを見ると、お前も死ぬような気がして来る」と言うので、それ以後星を調べるのは止してしまった、と「晩年の父」に杏奴は書いている。

杏奴が見ていた星図は、「星の書いてある図」としか書かれていないので、星座を幾つかに分けて掲載した冊子(本)だったかも知れないし、あるいは天文書のなかの付図として掲載された星の図だったのかも知れない。

しかし、鴎外が別荘で見ていた星図は「地図みたいなものを拡げて」と杏奴が記しているので、1枚ものの星図だったであろうと推測できる。

秋山光夫が「天界」に寄稿した「星と鴎外」によると、鴎外は大正7年頃から星に興味を抱くようになり、大正10年には西洋の天文書の名を挙げて、これを参考に中国名と西洋名の星名対照表を作成するように秋山に指示しているほどですから、星について相応の知識を持ち、従って星図を所持していても不思議ではありません。

しかもこの星図は留学経験のある鴎外のことですから外国製だった可能性もあります。

鴎外は中国伝来の「星宿図」を見ていた可能性もないではありませんが、実際の星空と照らし合わせる場合、星宿図では少し無理があるように思われます。

やはりここは西洋式の星図、しかも日本で作られた星図を見ていた、と思いたいもの。

鴎外が星を見た大正10年までにわが国で出された星図はいくつかあって、最初は明治24年に海軍水路部が発行した「天図」、次は明治43年に三省堂が発行した日本天文学会編の「新撰恒星図」、水路部は大正8年に「星図」というのも発行しています。

また、大正2年に「現代之科学社/裳華房」から「小倉伸吉著 星の図」が出ていますが、これは解説が33ページ、季節ごとの星座の位置を表した図が24ページ、それに全天の星座を北半球と南半球に分けて表した星図が1枚折り込まれている「本」ですので、鴎外が見ていた「地図みたいなものを拡げて」とは少し違うようですので除外。
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山口県立山口博物館 収蔵資料紹介より/新撰恒星図/1900年分点/5.5等以上
そうして見ると、軍人であった鴎外は海軍にも伝手はあったでしょうから「海軍水路部の星図」を見ていたことも考えられますが、東京天文台に知人がいたことも考え合わせて、最も入手し易い「日本天文学会の新撰恒星図」を持っていたと思うのが妥当なところでしょう。
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国立国会図書館・近代デジタルライブラリーより/新撰恒星図・オリオン座付近拡大

鴎外が持っていた星図が何であったかは、鴎外記念館や東京大学の鴎外文庫を訪れてみればあっさりわかることかも知れませんが、手持ちの資料でアレコレ考えて見るのもまた一興(かな?)。

さて、何だったんだろう・・・。

(ところで)

ここからは、「吉田学軒顕彰会」からのお知らせですが、来る平成24年4月29日(祝日、昭和の日)に顕彰会総会並びに顕彰碑除幕式が下記のように執り行われる予定です。
どうぞ、みやこ町勝山にお出でください。

期日:平成24年4月29日
日程:午前9時 総会/10時 除幕式、祝賀行事
場所:福岡県京都郡みやこ町勝山公民館(福岡みやこ農協勝山支所 裏)

以上です。
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先日、崎山駅を見学した際、桜と廃屋に気を取られて「駅舎竣工記念」の石碑のことをすっかり忘れていました。本日は天気も良いことだし再度出かけてきました。
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崎山駅を背にして左側、道路を隔てた山側に建つ「崎山駅竣工記念」の碑
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石碑の左側面 信号場から旅客駅に昇格した際、増築された駅舎を記念するもの。なんの変哲もない石碑ですが、当時の地元民の喜びが伝わってくるようです。

・・・と同時に、同じ時期に開設された信号場でありながら、旅客駅に昇格出来なかった山ひとつ向こう側の「内田信号場」の悔しさ残念さも伝わってきます。


さて、石碑をあとにして近くの有名な撮影ポイントに移動。ここは旧国鉄時代から同好の士には良く知られた撮影名所。神社境内にレールが敷かれているのです。
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八幡神社の「一の鳥居」と「二の鳥居」の間に鉄道が走っています。

画面の左端の鳥居のすぐ脇から急勾配の石段が社殿へと続いているし、右側の鳥居の横には川があるため鳥居を移動させることが出来なかったのでしょう。
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崎山駅を離れて金田方面へ向かう「なのはな407号」 画面の奥、金田方面。山の向こう側にかつて「内田信号場」があった。
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鳥居の間を抜けて崎山駅に向かう「なのはな号」画面右側、崎山・行橋方面
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陽気に浮かれて平成筑豊鉄道崎山駅の駅舎見物を兼ねて、駅の直ぐ近くの桜の名所へお花見に行きました。

行橋市内を流れる今川を市内から10kmほど遡ると川沿いに建つ駅舎崎山に着きます。この崎山駅の手前、数百mに亘って川の両岸に今を盛りの桜の並木が続いています。
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途中、川土手に途切れ途切れに桜の並木を見ることができ、それぞれ素晴らしい景観を呈しているのですが、崎山駅付近はとりわけ見事!
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・・・で、桜と平筑の車両を同時に写し込みたかったのですが、桜を大きく画面に取ると車両が花木に隠れるし、車両をアップすれば桜が入らないし・・・、うまくいかず。
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駅から少し離れた「高木神社」境内から撮影。この方角には桜はないし・・・。結局、同時写し込みはあきらめて、駅舎へと向かいました。
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駅舎横の桜も満開。

崎山駅は昭和29年4月20日に開業した「日本国有鉄道の崎山信号場」が前身。信号場とは簡単に言ってしまうと上り線・下り線の離合場所、従って乗降客は利用できない。

ここに信号場が設けられたのはこの田川線が単線であり、しかも次の駅までが遠いために離合に時間が掛かっていたことによるもの。

旅客駅になって地元民も利用できるようになったのは昭和31年8月11日からで、地元の負担金供出によって信号場から駅へと移行された、とのこと。
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ホームから見た崎山駅、右側が改札口で左側の二階屋になっている部分は信号場時代(?)の建物。
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二階屋部分は今は廃墟化し、内部はご覧のとおり、二階の床は抜け落ち、ツタが蔓延っている。
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信号場の名残りらしきコンクリート土台とその上の朽ちた鉄塊
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信号場建物のすぐ横にある小屋、物置かと思えば入り口の上にちいさな標識、風呂場でした。
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昭和29.3 と書かれた標識が留められたホームの灯柱、もう50年以上この杉の柱は立ち続けているのか?。
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ホームに進入する行橋方面行き「なのはな号404」
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停車中の「なのはな404号」と進入する500型501号「へいちく浪漫号」
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崎山駅を離れる404号、次の駅は犀川駅。画面の奥まで伸びている長いホームに注目!
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「今が見ごろ、桜を見においで」と地元の知人に誘われて、京都郡みやこ町宮原の「千女房桜」を見に行きました。

行橋方面からクルマの場合、201号線を田川の方に向かって進み、みやこ町の農産物直売所「採れたて市場」を過ぎてすぐの交差点「黒田橋」を右折、川沿いの道をカルスト台地平尾台の麓方向へ進むこと6~7分。
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途中、長川地区の川土手の桜と菜の花を見ながら「勝山総合運動場」の駐車場へ到着。201号線からここまでは「千女房桜」の案内板がありますので迷うことはありません。
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駐車場から徒歩で数分、障子ケ岳城址の登り口(宮原口)を左折、コンクリート舗装の坂を300メートルくらい上がると「千女房桜」が見えてきます。
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樹高約19m、幹囲約5m、地上約1.5mのところで三本に分かれていて周囲に大きく枝を伸ばしています。
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福岡県下屈指の巨木でヤマザクラでは恐らく県内随一。樹齢推定約300年。

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ちなみに「千女房」は地名だそうで、地元では子供のころは「セネボ」と発音する人もいたそうです。
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