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『その年、毎晩夜になると、父は星を見に家の前の川岸に出掛けた。母も弟も詰らながってついて来ないので、私一人が毎晩一緒に行った。提灯に灯をつけている父の背中から私は寄っかかるようにして聞いた。

「パッパ、何をしてるの?」「星を見に行くんだ。アンヌコも一緒に来るか」(中略) 私は父の大きい、骨ばったやわらかい白い手につかまって外に出た。父は提灯を川岸の石の段に置いて、地図みたいなものを拡げてしゃがむと、しきりに何か調べていた。』(晩年の父 小堀杏奴著/岩波文庫より)

「晩年の父」から引用した部分は、大正10年、鴎外の次女「杏奴」13歳の夏の思い出、千葉県日在(ひあり)の別荘「鴎荘」で父母弟と過ごしたある夜のひとこまを描いています。杏奴が父鴎外と共に「鴎荘」に滞在した最後の夏のことです。
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鴎外が母峰子の健康を気遣って建てた「鴎荘」については、次女杏奴や三男類、鴎外の弟潤三郎らがさまざまな文章で書き残していますが、ここでは長男森於菟の「父親としての森鴎外/筑摩書房」より「鴎外の母」のなかの一部を転記して、その佇まいをイメージする一助としてみます。

『・・・松林の中の小家はまったく人里離れて、ただ波の音と松風のみを朝夕に伴とする静けさであったが祖母はこの家にいる事をも好んだ。(中略)この別荘は玄関を上がって六畳の間、次に八畳の居間、別に少し川の向う側に張り出した六畳がつづくだけで、そこは父の書斎になって居り二方の壁一面の硝子戸棚で、それは本の間から赤い紙のぶらさがっている帙入りの大蔵経を主とする和漢の書籍で充たされていた。(後略)』

・・という具合に描かれ、夜ともなるとランプの灯りのみ、あたりは闇に包まれ、空には煌めく星々で埋め尽くされていた事だろうと想像し、鴎外が星を見に杏奴を誘った気持ちがこちらにも伝わってくるような文章がつづいています。

「鴎外の母」の文中、「玄関を上がって六畳の間」というのはこの小家の管理人である爺や「吉田八十八」の寝起きする部屋で、鴎外とその家族親戚らが滞在したときに身のまわりの世話をする老僕の吉田翁は鴎外の小説「妄想」に登場してきます。

「妄想」は、鴎外の留学中の心持ちを「鴎荘」とおぼしき小家で回想するというかたちを取った小説で、鴎外の分身である主人公の翁は世間との一切の交通を絶って古い本を読み、本に倦めば砂の山を歩いて松の木立を見、浜に下りて海の波濤を見る。

そして老僕八十八の薦める野菜の膳に向かって飢えを凌ぐ日々を送っている、と書かれたそのあとに、『書物の外で、主人の翁のもてあそんでいるのは、小さいLoupe(ルーペ)である。砂の山から摘んで来た小さい草の花などを見る。

その外Zeiss(ツアイス)の顕微鏡がある。・・・Merz(メルツ)の望遠鏡がある。晴れた夜の空の星を見る。これは翁が自然科学の記憶を呼び返す、折々のすさびである。』とあります。

つづきます。
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森鴎外の晩年の日記「委蛇録」は、鴎外が陸軍省医務局長の職を辞したのち、宮内省帝室博物館総長兼図書寮図書頭に就任した大正6年12月25日の一週間後の大正7年1月1日から始まっています。

日記の終わりは大正11年7月5日で、この日の日記の冒頭に「第二十一日」と書かれています。病いのため家を出ることができず「在宅21日目」という意味で、鴎外はこの4日後に亡くなっています。

日記の最後の6日間は鴎外が篤く信頼をおいた吉田増蔵の代筆によるものですが、最終の前日7月4日に「秋山光夫」の名が見えます。

秋山光夫(あきやまてるお1888-1977)は、東京帝国大学法科大学に入学後、京都帝国大学文科大学哲学科に転じて美学美術史学を専攻し、昭和17年に東京帝室博物館学芸課長に就任した美術史学者ですが、大学卒業後、京都絵画専門学校などで美術史を講じているところを鴎外の推挙によって大正7年に宮内省図書寮に奉職した、という経緯があります。

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「星と鴎外」掲載の「天界 第271号」の表紙

その秋山の文章が「天界 第271号 昭和19年」に「星と鴎外」の題で掲載されています。

それによると鴎外は大正7年ごろ「星」に多大な関心を寄せていて、『千朶山房の玄関の右側の書棚に、江戸時代の先覚の天文書が数を増して行ったのも、その頃であった』と記しています。

そして、大正10年の夏に先生(鴎外)から『支那の古文書に現れる星の名を西洋古代の天文にあて嵌め、之を科学的に理解し得る様な索引書があったら学問上便宜だと思ふから、Gustava Schlegelの名著Uranographie Chinoiseを参考にして作って見たまへ』と云われ、麻布の天文台への紹介状を渡された、とあります。

グスタフ・シュレーゲル(1840-1903)は、オランダの東洋学者でライデン大学中国語中国文学講座の初代教授となり、1875年にUranographie Chinoise(中国星辰考)を著していますが、このことよりもイギリス留学中の南方熊楠との「落斯馬(ロスマ)論争」(ロスマの語源、イッカク/セイウチ論争)のほうがよく知られている、と思います。

・・・で、秋山氏は早速鴎外の指導のもと執筆に取り掛かり、その年の8月半ばに原稿を完成させ、鴎外自ら朱を入れての加筆訂正を受けたのち、謄写版を摺って美濃紙40枚綴りを20部作成、例年のごとく千葉県の日在の別荘に避暑に出掛けている鴎外を訪ねて提出。

『先生も大変な御機嫌で、之を手にし、私の労をねぎらわれた。この20部は先生から各方面に贈られた』、と書き記しています。

この日のことを「委蛇録」で確認すると、(大正10年8月20日)『土。漸而天霽 秋山光夫自東京来訪』と簡潔に書かれているのみです。

鴎外がこの年(大正10年)、千葉県夷隅郡東海村字日在の松林の中の小家「鴎荘」に滞在したのは、8月14日から8月27日までで、例年は数日間滞在のところ、比較的長期間に及んでいます。

この間の日記には、2回『観象』の文字が現れます。『二十三日。火。晴。類復常。観象。』と『二十五日。木。晴。再観象。』です。

23日の『類復常』は、避暑に帯同した鴎外の三男の「類」が数日前から発熱していたことによるもので、この日、常に復した、といものです。この年の夏は次女の「杏奴」も一緒でした。杏奴は後年、この年の夏に父鴎外と「星見」に出掛けたことを「晩年の父」に書き残しています。

続きます。
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