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生駒山天文協会の母体である生駒山天文台の竣工は昭和16年7月9日で、翌年の昭和17年4月5日に天文台々長の上田穣を会長として「生駒山天文協会」の創立総会を迎えています。
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創刊号の第1ページ目はこの時の「会長挨拶」掲載から始まっています。

『本日生駒山天文協会の発会式を挙行するに当たりまして御挨拶を申述べますことは誠に本懐といたすところであります。生駒山天文協会が今日この大東亜戦争の戦時下に於きまして新たなる発足をいたしますことは大いに意義をもっていると私は考へるのであります。第一には科学精神の涵養といふ点であります。(以下略)』

挨拶はこのあと縷々「技術報国の必需性」を述べて基礎科学を綜合した天文学発展の必要を説いています。戦争遂行と科学兵器の関係や陸軍の技術将校制度にも話しが及んでいますが、戦時下の公的な挨拶であることを思えば、「報国」の強調は必然だったのでしょう。

生駒山天文協会々誌の第1巻第4号に「出版部会覚書」として、『印刷物は発行日より三日以上前に内務省検閲課(2冊)及び生駒町警察署特高課(3冊)に提出、届出づる事』とあるほどですから。

誌面は上田会長の挨拶に続いて協会顧問の京都帝国大学理学部長の郡場寛の挨拶掲載、次に創立記念講演(第一回学術講演)の「太陽の話(上田穣)」を掲載、以下、目次より掲載記事の一部を転記すると、

「生駒山天文協会発会に際して」京星会同人/「生駒山天文協会への期待」宇野良雄/「素人天文学者の偉大なる貢献」高田蒔/「生駒山天文協会誌・誌名に就て」小林久治/等々です。
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生駒山天文台全景と昭和16年9月6日に於ける部分月食(創刊号より 「朝日・藤波式三型」反射望遠鏡カメラにて撮影/撮影者:藤波重次)
三角屋根のドームの塔屋は、高さ16mの太陽望遠鏡。塔頂にシーロスタット鏡を設置し、直下の分光観測室に太陽光を導く。

掲載記事は他に行事予定表や天文協会会則などがあり、終わりのほうは4ページを使って役員・会員名簿が掲載されています。

役員欄は会長を初め顧問5名、理事4名、幹事7名、嘱託1名の氏名・住所・所属が載り、会員欄には、推薦会員・団体会員・普通会員の氏名・住所が載っています。

このうち理事2名と幹事2名が「関西急行鉄道株式会社」関係者であることは、生駒山天文台設置費用が関西急行鉄道(現・近畿日本鉄道)の寄付金によるものだったことと関連があるものと思います。

推薦会員は京大宇宙物理学教室の三浦澄三・奥村六一郎・他2名、団体会員は帝塚山中学校・境川女子商業学校・県立御所工業学校・八尾高等女学校・京星会など併せて15団体、普通会員は69名で神田一雄・西村繁次郎・三谷哲康氏らほとんど関西在住の方々で占められています。
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カセグレン・ニュートン式60cm反射望遠鏡と発会式場に於ける会長の挨拶/望遠鏡はドームが完成していないため、天文台の玄関ホールに置いている、とのこと。

創刊号の発行日は昭和17年5月となっていますが、創刊号には編集者名や発行所名などは書かれていませんので、これらは「第1巻第2号」の奥付から転載します。

昭和17年7月31日印刷/昭和17年8月5日発行(似印刷替謄写)
編輯兼発行者:藤波重次/京都市左京区東竹屋町75
発行所:京大生駒山天文台内/奈良県生駒郡生駒山上/電 生駒340番

なお、創刊号は18.5×25.5cmで口絵写真2ページ、本文20ページです。
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『父はその頃、その両親を亡くして、故郷、福岡県京都郡豊津町に帰っていた。そこから、毎日、父が校長である大里の鉄道教習所に汽車通勤をしていた。

田川線豊津駅までは徒歩約三十分、一番列車に乗って次の行橋駅で乗換え大里へ向かうのであるが、教習所に着くのはおそらく八時頃だったと思われるから、家を出るのは六時頃だっただろう。』
(鶴田知也著/等閑記より)

「等閑記」は鶴田知也主幹の雑誌「農業・農民」に1972年から1977年にかけて連載された自伝。

文中の「父」とは、鶴田の実父の高橋虎太郎のことで、「その頃」というのは、1923年(大正12年)頃のこと、当時、鶴田は半年ほど滞在した北海道から徴兵検査のために豊津に帰郷していた。
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時折、粉雪の舞う豊津駅に進入する「炭都物語号」 右の車両は駅に停車中の行橋発・崎山行きの「なのはな404号」画面奥が行橋方面(平成24年2月17日撮影)

徴兵検査を終え、ほどなくして鶴田は名古屋に住む葉山嘉樹を訪ねている。

葉山夫妻の世話で名古屋に滞在したのは五ヶ月ほどだったが、この間は鶴田にとって大きな意味合いをもつ期間であって、次第に労働運動に身を投じていったのもこの頃からでした。鶴田知也、21歳の頃のことです。
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豊津駅を離れ、崎山に向かう404号
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豊津駅ですれ違う「なのはな号」 左の車両、行橋行き402号 右側、金田行き407号(平成24年2月18日撮影)

土曜日の午前10時頃、乗降客は誰もいなかった。
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2011年8月16日、当ブログにて金子式プラネタリウムの考案者の金子功著「戦い敗れて夜が明けて」を紹介させて頂きましたが、本日は同じ著者のヨーロッパ旅行見聞記です。

訪問地はイタリア/スイス/オーストリア/ドイツ/ベルギー/デンマーク/フランス/イギリス/ノルウェーの9カ国で、全行程15日間の旅でした。
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出発は1970年の8月上旬、この年は前年のアポロ11号による初の月着陸の興奮もさめやらぬうちに、3月に開幕した日本万国博覧会(大阪万博)の熱気に包まれ、かと思うと日本航空機よど号ハイジャック事件が起きたり、三島由紀夫事件に驚いたりの今でもよく覚えている出来事の連続した年でした。

わが国初の人工衛星「おおすみ」の成功もこの年でしたし、日本航空がジャンボジェット機ボーイング747を初めて就航させたのもこの1970年でした。

当時、日本航空が長距離国際線の主力にしていた機材は、DC-8スーパー62型で最大乗客定員は148人。これに対し新規導入のB747-100型は462人、国内線使用の機体では530人超というもので、ジャンボジェット機の投入は大量輸送時代の到来を告げるに相応しい出来事でした。

ちなみに金子氏が渡欧した1970年の海外旅行者数は66万3千人、翌1971年は96万人、そして1972年は初めて100万人を突破して139万人でした。

業務・留学以外の純粋な観光目的でも海外渡航が可能になったのは1964年4月1日からで、この年の渡航者数が12万7千人だったことを思うと、わずかなあいだに驚異的に海外旅行者が増えたことがわかります。

さて、金子氏の旅行。

この旅行は日本キャンピンク連盟が募集した団体旅行で、主目的はヨーロツパの青少年教育機関の視察でしたが、視察のみならず各地の観光名所もコースに入っていて、行く先々で大いに異国の自然・文化・風習・歴史に触れ、驚き、そして感心した様子が手際よく纏められています。

しかし本書に出てくる観光地はローマのスペイン広場やポンペイの遺跡、ベッキオ宮殿、オスロのビゲランド彫刻公園などごく一部で、著者の関心事はもっぱら各地の道路事情・飲料水事情・夜行列車内での出来事・ホテルのトイレなどの設備事情・シヨッピングで垣間見た経営者の営業意識のわが国との違いなどにあったようで、これらのことに多くの紙面が割かれています。

本書に添えられた著者撮影の写真もローマの街角の本屋さんの外観、ルーブル宮殿の横を流れるセーヌ川の様子、スペイン広場に群れる「ヒッピー」、ウィーンの酒場のメイドさん、チューリッヒで見た国産車トヨタの「コロナ」、ハイデルベルグのバキュームカー、パリの街路樹の根本、等々でどうやら著者は観光地よりも人々の日常の生活に興味を覚えていたように思われます。

旅の主目的の教育施設見学についてはイタリアのペルージアにある「マリア・モンテッソーリ児童館」とスイスの「ペスタロッチ記念館」訪問を比較的詳しく取り上げています。

児童館の名称になっている「マリア・モンテッソーリ」とは、イタリア初の女性の医学博士号取得者で、幼児教育や障害児教育に生涯を尽くし、モンテッソーリ教育と呼ばれる独自の幼児教育法を確立させた人、とのこと。

また、著者はいくつかの博物館も訪れたようでウィーンの自然科学博物館、コペンハーゲンの鉱物博物館、ノルウェーのバイキング博物館、コンチキ博物館などを叙述しています。
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ビゲランド彫刻公園にて

コンチキ博物館の主要展示物は、ノルウェーの民族学者トール・ヘイエルダールが古代アメリカとポリネシアとのあいだに交流があったとする学説を証明するために1947年に南米ペルーから出航したバルサ材で作った筏「コンチキ号」の実物大模型だそうですが、併せてポリネシアのカヌーがならべてあったり、イースター島の巨石文化を示す各種の展示があったりでなかなか楽しく面白いが、「一面、見世物的感じがしないでもない」とも書いて、展示の仕方に工夫を求めているようです。

「欧州かけある記」は、観光地ガイドブックというものではなく、出発前にどのような準備をすれば良いのかとか、現地の人との対応の仕方などを著者の体験を通して教えてもらえるような「実例集」とでも言うべき旅行記です。

・・・が、しかし、天文台やプラネタリウムの記述がないのはどうしたことか。

わずかに鉱物博物館で見たマッチ棒の先くらいの大きさの「月の石」4~5個のことと、ペスタロッチ記念館の中の科学館を見学した折、天文関係の展示がないので「私のところで製作したプラネタリウムをプレゼントする約束をして帰ったが、近いうちに届くことだろう」、と言う記述のみです。

それにしても、金子式プラネタリウムが輸出されていたとは知りませんでした。今はどうなっているのやら・・・。


欧州かけある記
著者:金子功
発行日:1971年1月25日/自家版
13×17cm/111ページ
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