<   2011年 11月 ( 8 )   > この月の画像一覧

1924(大正13)年8月9日「昨日立秋に入った。思ふからに涼しくある。木星は蠍座近くに輝き、火星は火の玉のやうに刻々と地球に近づきつゝあり、金星は暁の空を賑(にぎ)はす。而(しか)して朝顔は朝な朝なの喜びである。」(内村鑑三全集34/日記二 より)
d0163575_8461611.jpg

平成23年11月24日17時50分撮影/夕闇の金星

1921年6月27日/「地質学と動物学と植物学とを読む、ライエルとガイキーとを復習する、アーレニウスに依りて宇宙の起源に就て学ぶ」

10月10日/「夕暮頃空天久振りにて晴れ、夕陽に富士山を望み、夜に入て半月と頂天の白鳥座を仰いだ」

10月22日/「昨夜晴れ暁天の空美しく、金星は土星と併び、木星其下に懸る、言語に絶したる美観である、恰も宜し此日午後東京天文台の平山清次博士、井上四郎君と共に訪問せられ、天文学上最近の学説を以てする聖書の終末観の解釈に就て語られ」

1922年3月15日/「夜に入り南天水平線に近く南半球の一等星カノーパス(寿老人星)を眺め得て嬉しかった」

1924年5月15日/「久振りにて天文慾が復興し、昨日はロバート・S・ボールの「新星の起原」を、今日はE・ウオルター・マウンダーの「地球以外の遊星に於ける人類棲息の条件」を読み、非常に面白かった」

12月12日/「引続き読書の好時節である。空は星を覗くに好く、天文熱の復興を促し、一昨日来大分に天文書を復読した」

1927年3月25日/「家に在りては星学が唯一の天然研究である。そして望遠鏡がなくても、肉眼で大分に天をのぞく事が出来るから愉快である」

4月6日/「エペソ書と天文学を読んだ。時には天文学の方が聖書よりも霊魂の力となる。ハーシェル父子、アラゴ等いずれも勇敢なる真理の探求者である。面白く天文学を人に教へ得る者は大なる伝道師であると思ふ。自分も其一人に成りたかった。」

10月4日/「瑞典(スェーデン)国物理学者スワ゛ンテー・アーレニウス氏逝去の報を新聞紙に読んで悲んだ。氏は六十八歳であって自分より二年の長老である。氏の大胆なる宇宙創造説はかつて自分の血を湧かしたものである」

以上です。転記に当たっては星空観望の記録はほとんど省きましたので、結果として天文書を読んだということや星之友会のことなどが中心になりました。

観望記は1919年の晩秋から1920年の一年間に集中しています。数行で終わっているときもありますし、かなりの長文のときもあります。いずれの場合も単に星空を眺めたというにとどまらず、精確に対象物を見定めていることに強い興味を覚えます。

日記は1930年3月22日で終わり、その6日後の3月28日に内村は死去するわけですが、最後の星空観望記は前年の8月4日で、

「朝早く起きて曙の星を見た。高原特種の壮観である。昴宿、ハイヤデス等の冬の星が既に出揃ふてゐる」とあって、浅間山麓での星景を書きとめています。

天文書を読んだと記しているところに時々「復習した」という表現がありますが、これは札幌農学校時代に天文学を履修したことを意識したような書きぶりです。

あるいは卒業後にも天文の本を読む機会はあり、それ以来の読書という意味合いも含まれているのかもわかりません。

ちなみに内村鑑三は札幌農学校在校時、数学・土木工学教師セシル・H・ピーボディと化学・地質学教師工藤精一に天文学を学んでいます。

ピーポディ(1855-1934)は米国マサチューセッツ工科大学卒業後札幌農学校へ赴任、1878年12月27日~81年7月31日までの雇用期間に数学、測量術、物理学、天文学、簿記法などを教え、工藤精一は米国ラトガース大学を卒業後、札幌農学校にて地質学、化学、歴史、英語、天文学、重学(Mechanics)などを教えています。

当時の札幌農学校の天文学カリキュラムは、3年級の第1期に週3時間受講(1876 年~ 1882 年)、1884年改正の本科カリキュラムでは3年級前期で星学大意を週2時間受講、さらに1886年改正で2年級後期に星学を週3時間受講となっていました。
[PR]
昨晩から続いた雨は昼過ぎに上がったものの日差しは弱く、寒い一日となりました。実家の近くにあるイチョウの大木もここ数日で色づき始めたようです。

画面の左側が南ですが、イチョウの木も左側のほうが黄葉が進んでいます。これから急速に黄色味を帯びてゆくことでしょう。撮影日は昨日(11月22日)です。
d0163575_19592052.jpg

さて、内村日記。書き写していると切りがありませんが、せっかくここまで転記してきたので最後まで続けます。

1920年4月23日/「会員多数の故を以て星之友会を男女二組に分ち、昨夜は男子部の、今夜は女子部の講演会を開いた」/講師は井上四郎と内村鑑三の二名。講演後、一同屋外で星空観望。

4月30日/「夜の星之友会に於て余は牧夫座のアルクツラス星(大角)に就て語った」

5月5日/「五月号雑誌の校正を終った、一安心である、天文書を引出して十数頁を読み、頭脳の洗濯を為した」

5月14日/「夜の星之友会に於て余は処女座の主星スパイカ(穂星)に就て話した、アラビア人は之をAl Zimachと呼んだ、「枝」の意である」

6月9日/「在加洲(カリフォルニア)バークレー(加洲大学所在地)山崎正光君より左の如き興味ある通信があった」/このあと、手紙の全文を転記している。内容は山崎氏が天文の研究を始めるきっかけとなったできごとや、リック天文台での研究、反射望遠鏡を自作したことなど。

6月25日/「夜星之友会に於て余は天琴座の主星に就て語った」

7月2日/「夜星之友会の懇親会を開いた、会する者三十人、信仰と天文とに就て語った、之にて先づ天然研究の有益なる三箇月を終った」

8月24日/「白鳥座の西北部、琴座とケフェウス座との間に新星が現はれた、立派なる二等星である」

8月327日/「東京天文台井上四郎氏の訪問を受けた、氏の談話に照らして見て這回(このたび)白鳥座に現はれし新星発見者の名誉は僅少の注意で余に落ちたのであった事が判明って残念であった」

10月4日/「丸善にて冬帽子一箇と天文書一冊を買求め」

10月9日/「昨夜今井館に於て今秋第一回の星之友会の会合を開いた、来会者老若男女七十人あまり、盛会であった」

11月26日/「此日より星之友会に於て毎会三十分位ゐづゝ「聖書の天文学」に就て講ずる事にした」

12月2日/「過る一年間余り熱心に天を覗きし事が今回の疲労を来たせし一の原因である事が判明して甚だ済まなく感ずる」

12月10日/「夜星之友会に於て松隈理学士の宇宙二大星流説に関する講義があった、和蘭天文学者カプタイン氏の唱へし所であって実に壮大を極むる者である」

1921年1月3日/年賀客を数名記しているが、そのなかに「天文学者の井上四郎君」とある。

2月18日/「夜の星之友会に於て螺旋形星雲の説明を聞いた、此等は多分宇宙以外の宇宙ならんとの事である」

6月11日/星之友会会員と思われる女性からの手紙を転記。インド洋上にて見た南十字星やさそり座の星々について書かれている。

続きます。
[PR]
四日間降り続いた雨もようやく上がり、今までにない冷たい風が吹いているものの、まずまずの天気具合。

裏の畑に出てみるとこの時期いつも現れるキノコに遭遇。・・・が、これはキノコというよりこちらで呼ぶところの「ナバ」といったほうがよいようなモノ。
d0163575_1557415.jpg

左側の一番大きなものでカサの直径3センチ、高さ9センチ。見るからに不食で、したがって名前も知らない。仲良く三兄弟で記念撮影。

さて、内村日記のこと。
日記の天文関係記述は以下のとおり。ただし、星空探訪の記録は大幅に省いています。

1918年10月22日/「此日少しく天文学を復習した」
10月25日/「秋冷快くして詩篇と天文書を読んでいる」
12月26日/「S・アーレニウス、A・ホルムス等の著書に依り宇宙創成論の復習を始む」
d0163575_15573944.jpg

第2巻の「月報1」より、1918年撮影

1919年11月4日/「米国地理学雑誌今年第八月号所載「蒼穹 栄光の探検」の一篇を大なる興味を以て読んだ」

11月15日/「天文学の復習が重なる仕事であった」の記述のあと、初めて星空探訪の様子を書き留めている。

11月19日/「ポケツトの中に星体理化学大家ウイリヤム・ハッギンスの小伝を運び、之を読みながら往復した」

11月21日/「重なる仕事は星学の復習であった、神学又は宗教哲学の研究よりは遥かに興味多く且つ有益である」

11月24日/「終日家に在り天文書を読んで楽み且休んだ、最上の快楽である」

12月1日/「市中に行き天文書二冊と双眼鏡一個を買求めた」

12月9日/「引続き利未(レビ)記と星学の研究的復習に興味津々たる者があった」

12月15日/「聖書と星の事に就て学び且つ考へ、平和の一日を過した」

12月16日/「黄道十二宮の歴史的研究に多大の興味を感じた、夜空晴れ、小熊七星の位置を定むることが出来て嬉しかった」

12月22日/「天文書を読み少しく星を覗きし外に何も為さなかった」

1920年2月2日/「アーレニウスの「宇宙生命論」を取出し其「近世天文学大発見」の一章を読んで楽んだ」

2月3日/「今欲(ほ)しい者は星を覗くための善き望遠鏡である、今日之を索(たづ)ねしも得ず」

2月8日/「田中工学博士と夕飯を共にし原子と宇宙の構造に就て語った」

2月11日/柏木聖書講堂にて学術講演会開催、内村鑑三は「天文学上より見たる夜の無き世界」について講演

2月21日/南洋航路の船長山枡からの通信を転記、南天の星々について記している

3月3日/山枡船長、来訪。「赤道以南の空に輝く星の荘美を語って得意であった」と日記に書いている。同日、「星友会」の設立計画も記す。

3月8日/「米国よりガレット・P・サーヴイス著「双眼鏡を以てする天文学」達し、大なる感嘆を以って其数頁を読んだ」

3月16日/「民間天文学者井上四郎氏の訪問を受けた、我等同志は天体研究につき今より大に君に教へられんと欲する」

3月17日/「午後芝飯倉に東京天文台を訪ふた、数箇の望遠鏡並に精巧なる新式の分光器を見せて貰ひ非常に有益であった」/このあと、事務室にて平山清次博士・井上四郎氏の二人と談話したことが書かれている。

3月25日/「第三回三村会」で内村は「素人天文学の宏益に就て」を述べている。

4月2日/「夜今井館に於て星之友会第一回講演会を開いた、集り会する者百二三十人」。講師は井上四郎で、内村は入会申込者に「余は宿題として金星並に獅子座諸星の肉眼的観測を提出した」/会は毎週金曜日に開く予定とのこと。

4月9日/第二回星之友会、開催。「来会者百名余、空天晴れたれば屋外観測を為した」

4月11日/東京天文台を訪問。「台員の好意に由り望遠鏡を以て天体を覗かして貰ひ荘観言語に絶したりであった」

続きます。
[PR]
双眼鏡を手にして以来、内村鑑三は晴れていれば深夜であれ、早朝であれ寸暇を惜しんで星空観望を楽しんだようで、日記の各所にそのときの様子を書き留めています。

例えば双眼鏡入手の翌日の日記

1919年12月2日「朝四時に床を出て星を覗いた、春の星なる獅子座のレギュラス、牧夫座のアークチュラス、処女座のスパイカと思わるゝ者が見えて楽しかった、」

12月9日「引続き利未(レビ)記と星学の研究的復習に興味津々たる者があった、学んで而して時に之を習ふ亦楽しからずやである。夜に至り雲晴れ、冬天の星覗き荘厳言語に絶せりであった。」

12月15日は曇り空だったので「聖書と星の事に就て学び且つ考へ、平和の一日を過ごした。」と記し、16日は「黄道十二宮の歴史的研究に多大の興味を感じた、夜空晴れ、小熊七星の位置を定むることが出来て嬉しかった、」と記している。

12月はこれらの日以外にも天文書を読み、そして星空を仰いだ日があったようですが、年が明けて1月に入るとさらに星を見る機会が増え、数日置きに星座名と星名の記述が現われます。

1月18日「先づ朝早く起て弦月と金星とが暁天に輝くを見た、実に瑠璃の板に金剛石二箇を鏤(ちりば)めたやうであった、(以下略)」

1月19日「朝五時に起き東天を望みしに月は未だ昇らざりしも金星は蠍座の諸星の一連に絡(から)まれて美しかった、此座の主星アンタレスの黄玉(トパズ)に対して金星の金剛石(ダイヤモンド)は冬天の双玉と称すべきであろう(以下略)」

翌20日にも双眼鏡でさそり座、てんびん座、蛇使い座の諸星を見、22日には「星界の王(キング)なる天狼星(シリヤス)」を見たと記し、23日は「オライオン星は頭上に来り、其星雲すらハッキリと見留める事が出来た、山羊座の鬼質(プレセペ)も亦其星団を現はし、」そのあと獅子座のレグルスを見て云々、と連日の星覗き(内村鑑三の表現)です。

「山羊座のプレセペ」というのも変ですが、日記をそのまま書き写したまでで、このように日記に書き留められた星たちの様子をそのまま転記していると切りがありません。

内村鑑三はやがて東京天文台を訪れて木星の衛星や土星の環、火星などを見せてもらったり、「星之友会」を組織して井上四郎(東京天文台)を講師に講演会を催したり、さらには白鳥座に現われた新星をそれとは知らずに見ていて、発見者の名誉を逃がしたこと、等々は別の機会にするとして、本日は3月8日(1920年)の日記の一部を転記して終わります。

「大犬座が丁度書斎の窓の前にやって来た、双眼鏡を取出した、天狼星の右の下の方を見た、其所にヌン号の三重星を捉へた、遥か下の方を見た、デルタ号を見届け、其右に黄色のエプシロン号を見留め、二者の間に五等星位の第二十二号星の柘榴石(ガーネット)の如くに赤く輝くを見た、更に又デルタ号を見た、驚くべし、此の星を上と下と左とを取巻くに十七八粒の真珠より成る首飾(ネックレース)を以ってするとは、大犬座のデルタ号は星界の女王である、(以下略)」

星界の王(キング)、そして女王が出てきたところで本日は終わります。

下の画像、デルタ星をその一部とした円環はまさに首飾(ネックレース)で、「十七八粒の真珠」と具体的に星を数えているところなどは、札幌農学校を卒業後、農商務省御用掛、農務局水産課に勤務した経歴を持つ水産学・魚類学に長けた理学者内村の宗教者とは違う一面を見る思いです。

d0163575_1653445.gif


d0163575_1661719.jpg

画像の中央、δ星 デルタ星を一部として星々が円を描いている。あるいは、デルタ星を取り囲むようにCの文字のかたちに星々が連なっている。

d0163575_167848.jpg

内村鑑三全集 第1巻より 内村の論文
[PR]
10月初旬から3日に一度くらいの割合で干し柿用の柿を採り続けて本日ようやく終了。まだかなり残っているのですが、もう手の届かない枝の先のものばかり。

無理して採るほどのことでもないので、採り残しはカメラで収穫です。柿の木4本で多分800個ほど採れたんじゃないかと思います。
d0163575_21361666.jpg


さて本日は柿とは全く関係なく、キリスト教伝道者内村鑑三のこと。

内村鑑三は自身の主宰する雑誌「聖書之研究」の219号(1918年10月10日)から357号(1930年4月25日)まで「日々の生涯」または「一日一生」の題で日記を公開しています。

日記の実際の日付でいうと1918年8月26日から1930年3月22日までです。この日記中、随所に星空観望の記録が出てくることをご存じの方も多いと思います。

星々の観望に関心を示すようになったのは1919年(大正8年)の秋頃からのようで、11月4日の日記に

「・・・米国地理学雑誌今年第八月号所載『蒼穹 栄光の探検』の一篇を大なる興味を以て読んだ、近世天文学の進歩に実に驚くべき者がある、天文学者の望遠鏡に映ずる星の数実に八百万、而して其各(おのおの)が太陽であると伝ひ、而して又宇宙は之を以て尽(つき)ずと伝ふ、(中略)羨むべきは実に普通人の見えざる所に宇宙の深遠を探る天文学者である。」と記しています。

具体的に星座名が出てくる最初は、11月15日の「数日来の陰雨午後に至て漸く晴れた、天文学の復讐が重なる仕事であった、夜に入り晩秋の空晴れ渡りオライオン星の一座の森然として東天より昇るを見る、「荘なる哉」の嘆声を禁じ得なかった、(後略)」で、このあと雨の日は「重なる仕事は星学の復習であった(11月21日)」「終日家に在り天文書を読んで楽み且休んだ、最上の快楽である(11月24日)」という過ごし方をし、晴れていれば星空を見上げるという生活ぶりでした。

そして12月に入ってついに双眼鏡を購入するようになります。

12月1日の日記に「友人より思掛なき寄附ありたれば市中に行き天文書二冊と双眼鏡一個を買求めた、日暮れるゝや否や直に天を覗き、先づ第一にライラ(天琴)星座のヴィガを覗きしに其側(かたわら)に五等星位の連星(バイナリー)あるを認め非常に嬉しかった、

是れ有名なるライラエプシロン号にして連星の各自が復(ま)た連星であるが故に実は複連星であるとの事である、是れ余自身に取りては連星の初めての発見であって言尽されぬ歓喜であった、今より後にシグナス座のベータ号ペルシウス座のアルゴールと順を逐ふて覗くつもりである、冬の夜の好き楽しみである。」と記し、肉眼で見たときとはまた違った姿を見せる星たちに感激しきりの書きようです。

つづきます。
[PR]
最後に登壇の楜沢健氏は冒頭、今年文化勲章を受賞した丸谷才一氏の受賞後の言葉を引用しつつ、葉山の言葉「馬鹿にはされるが 真実を語るものが もっと多くなるといい」を紹介。

次いで先ごろ話題となった「蟹工船」ブームに言及、平成20年の一年間だけで80万部も売れるに至った背景を「蟹工船」発表当時と現在の社会状況とで比較論説。

続いて「セメント樽の中の手紙」をテキストに「偶然」をキーワードとして嘉樹の小説の成り立ちを解説。

セメント樽の中に入れられた宛名のない手紙を「偶然」に松戸与三が手にする。そこから始まる物語の展開。樽に入れられていたのは「ビラ」ではなく、なぜ「手紙」だったのか。書き手はセメントを入れる袋を縫う女工。

女工は自身の住所と名前を記し、返事を乞う。松戸与三は返事を出したのか。・・・、「セメント樽の中の手紙」の解説の後、「移動する村落」の小説構成に移ったのですが、ここでも「偶然」がキーワード。

「セメント樽の中の手紙」「移動する村落」に加えて「淫売婦」「海に生くる人々」の作品解説は下の画像の左側「だからプロレタリア文学」楜沢健著に掲載されていますので、ここで拙ブログが述べるよりもこの本を手に取って実際にご覧頂いたほうが分かりやすいと思います。因みに「淫売婦」を読み解く鍵も「偶然」。
d0163575_21271946.jpg

講演会は13時にはじまり終了は16時丁度。葉山民樹氏は父の姿を淡々と語り、楜沢健氏は1時間30分に亘って熱弁をふるい、示唆に富んだ言葉の数々で葉山嘉樹を再認識させてくれました。

また、民樹氏は嘉樹の愛読書だったニコライ・ゴーゴリの「死せる魂」に添えられたシャガールの挿絵を嘉樹の死後に見る機会があり、「この挿絵を父に見せたかった」と繰り返し語っていたことがとても印象的でした。

なお、今回の講演の講演録は来年(2012年)1月に刊行予定の「プロレタリア作家葉山嘉樹と現代」(花乱社/福岡市)に収録されるそうです。

また、講演会の来賓としてプロレタリア作家・里村欣三の顕彰会の方、同じくプロレタリア作家・徳永直の顕彰会の方、日本社会文学会の理事の方もお見えになっていたことを付記します。


「だからプロレタリア文学」/楜沢健著/勉誠出版
収録作品は、宮本百合子「貧しき人々の群」/宮地嘉六「放浪者富蔵」/小川未明「空中の芸当」/葉山嘉樹「淫売婦」「セメント樽の中の手紙」「海に生くる人々」「移動する村落」

若杉鳥子「棄てる金」/黒島伝治「橇」/中野重治「交番前」/佐多稲子「女店員とストライキ」/林芙美子「放浪記」/小林多喜二「蟹工船」「テガミ」/徳永直「太陽のない街」/伊藤永之介「濁り酒」/鶴彬・プロレタリア川柳

「葉山嘉樹への旅」/原健一著/かもがわ出版
文学碑が取り持つ縁/父が生きた時代/同世代の人々/「海に生くる人々」を訪ねて/葉山嘉樹と「偽満州国」/祖国ノ難関ニ赴キタシ/参考資料/あとがき
[PR]
本日(11月6日)、みやこ町豊津公民館にて「堺利彦・葉山嘉樹・鶴田知也の三人の偉業を顕彰する会」の主催で「プロレタリア作家葉山嘉樹と現代」の講演会が開催されました。

折からの強い雨のなかにも係わらず130ほど用意されたイスはほぼ満席の盛況ぶりでした。

実は昨年のこの時期、同じ場所で同じ顕彰会主催の「堺利彦先生生誕140年/大逆事件・売文社創設100年記念講演会」というのがありましたので、このまま行けば来年は「鶴田知也」かなと想像しますが、この三人に豊津ゆかりの作家ということで「水野葉舟」も加えてほしいな、と思っているところです。

明治27年に葉山嘉樹が豊津に生まれ、明治33年に葉舟が豊津を去るまでの数年間、同じ地に過ごしたわけでもありますし・・・。

・・・で、個人的想いは別として本日の講演のこと、講師の方々と演目は次のとおり。

川本英紀(みやこ町歴史民俗博物館学芸員)/「葉山嘉樹と故郷豊津」
葉山民樹(葉山嘉樹長男)/「父の思い出」
楜沢健(文芸評論家・早稲田大学講師)/「だから、葉山嘉樹」
d0163575_2153529.jpg

左、葉山民樹氏 右は三番目の講演者、楜沢健(くるみざわ たけし)氏

最初の川本学芸員の講演は、演目のサブタイトル「葉山嘉樹を生んだ豊津の精神的風土に迫る」のもと、明治初年の旧豊津藩士の新政府に対する立ち位置の説明と豊津藩士でありのちに豊津を含む仲津郡の郡長となった嘉樹の父・葉山荒太郎の存在(郡長であるという存在)が何らかのかたちで嘉樹の性格形成に係わっているのではないか、という話。

続いて演壇に立った葉山民樹氏は講演に先立って豊津の堺利彦顕彰記念碑を訪れたことに触れ、記念碑の解説を荒畑寒村が書いていることに因んで嘉樹と寒村の交流、ひいては寒村と嘉樹のそれぞれの妻(民樹氏にとっては母だが)に対する振る舞いについての思いを述べて、葉山嘉樹の作品から受ける一般的な印象とは別な思いを語っていました。

続きます。(2011年11月7日に続く)
[PR]
昭和21年1月1日付けの「神田天文学会総報46号」で「本会名称変更ノ提案」がなされています。

理由として、「本会ノ名称ハ決戦下我学界ノ混沌タル時ニ当リ 天文ノ報導普及機関トシテ暫定的ニ決定シタモノ(後略)」であり、現状では名称が不適当であるためとのこと。

そして、来る1月13日の第3回例会で協議したいので出席される方は書面で意見を述べてください、とあり、神田氏個人の考えとして「新日本天文研究会」の名称を挙げています。

第3回例会の記事は昭和21年1月14日付けの「神田天文学会総報48号」に載っていますが、今回は地方会員の提案来信が少なかったので決定に至らず、次回に持ち越しだそうです。

なお、この時の出席者は、小山ひさ子、祖父江久仁子、祖父江久男、鍵山寛子、冨田弘一郎、斎藤馨児、原恵、小田幸子、大谷豊和、赤坂陽、島内剛一、石橋正、瀧山昌夫、前田大作、田中襄二、海老原勇夫、森武夫、太田彬、大崎正次、廣瀬秀雄、下保茂、竹内泰子、三好敏實、大矢眞一、村山定男、栗原正雄、神田茂の諸氏。

因みに昭和20年12月末日の会員数は67名です。また、第3回例会では午前中の研究報告発表の後、食事及び懇談に入り午後1時20分より野尻抱影による「プレアデス星団と自然暦」の講演が行われています。

名称変更のほうはどうなったかと言うと、昭和21年1月25日付けの「総報51号」と「総報56号」に第4回例会報告が載っていて、提出された新名称の案及び得票数が記されています。

次のとおりです。(名称の後の数字は得票数)「日本天文研究会(22)/新日本天文研究会(3)/日本天文研究者連盟(2)/自由天文研究会(1)/天文学研究協会(1)/湯河原天文研究会(1)/日本天文研究者協会(1)/神田天文学会(1)/日本研究者連盟(1)/日本天文観測者協会(1)/日本星究会(0)」

結果、圧倒的に票を得た「日本天文研究会」に決定され、昭和21年2月20日付けの「総報56号」より「日本天文研究会総報」となっています。

したがって、「総報55号」(昭和21年2月15日)までが、「神田天文学会総報」の名称となります。
それにしても「日本星究会」の得票数ゼロとは可哀相。提案した人もほかの名称に投票したんですね。
d0163575_16521822.jpg

総報73号(昭和21年4月30日付け)
4月27日、東京科学博物館にて第6回例会を開催 会務報告・協議等の後、吉田正太郎「望遠鏡の話」、神田茂「近年の天文界概観」の講演が行われた。
d0163575_16525135.jpg

総報82号(昭和21年6月16日付け)
木星大赤斑の復活 「東京本郷ノ村山定男氏ニヨレバ去ルⅥ月7日夜 木星大赤斑ノ復活発見ノ由、コレハ1936年ニ一度復活シテ後 又消失シテヰタモノデ 現在美事ニ見エテヰル」(村山氏写生の模写)
[PR]