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「直方むかしばなし」に掲載の直方隕石関連の話しは二つあって、ひとつは第八十五話の「須賀神社の飛石」、もうひとつは昭和55年2月号掲載の第九十五話「直方イン石」です。

第九十五話「直方イン石」は、「須賀神社の飛石」掲載後、「飛石が隕石であれば記録が伴なっている隕石として世界最古ではないか」と学界の注目を集めることになり、飛石が鑑定されることになった経緯と過去の調査記録を紹介しています。

最初の調査は大正11年12月に筑豊鉱山学校初代校長の工学博士山田邦彦が行ったもので、「宝鉱・量百二十八匁、高二寸四分、周六寸」(重さ480g、高さ7.3cm、周囲18cm)と記録されています。また、大正13年3月には「宝鉱(隕石)図」の題で鑑定書を書き残しています。鑑定書の副題は「下境村須賀神社所蔵隕石之記」で、「其形状及ビ表面ノ性質ニ徴シ一個ノ隕石ナルコト誰カ疑ヲ挟ム者アランヤ」とあります。
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第九十五話「直方イン石」より 挿絵:赤星月人

二番目の記録は、昭和2年刊の「旧下境村誌」で古事伝説の項に隕石が取り上げられています。「直方むかしばなし」の「須賀神社の飛石」は三番目の記録となります。

そして昭和54年9月、「直方むかしばなし」の記事を元にしてRKBラジオが飛石伝説を紹介、その放送を聞いた北九州市のアマチュア天文家馬込武志氏は「星の広場」の加茂昭氏を通じて東京国立博物館の村山定男氏へ連絡。

調査の結果、「飛石」は隕石に間違いないと判断され「直方隕石」と命名、国内発見35番目の隕石として登録されました。

隕石が収められた桐箱には、「貞観三年四月七日ニ収ム」と書かれていますので、この年月が間違いなければ世界最古の記録を伴なう隕石となります。貞観三年は西暦861年で平安時代の初期、清和天皇の時代にあたります。

「直方隕石」が世界最古の記録付き隕石となるまでは、1492年にフランスのアルサス地方に落下した「エンシスハイム隕石」が最古の落下記録付き隕石でしたので、貞観三年四月七日が落下日とすると「エンシスハイム隕石」よりさらに631年も遡ることになります。


直方むかしばなし
発行:昭和55年12月初版/昭和56年2月再版
筆文:上刎忠・舌間信夫
さし絵・装丁:赤星月人
発行者:福岡県直方市
企画・編集:市長室・企画財政課
印刷:未来社印刷 直方市大字赤池
15×21.5cm/201ページ

10月28日掲載の「直方むかしばなし」の表紙絵は第六十八話「芝居小屋騒動」に付けられた挿絵で、作者は他の挿絵同様、赤星月人氏です。

赤星月人氏については「市報のおがた平成19年12月1日号」に「赤星月人挿絵展公開討論会(平成19年7月1日開催)」が掲載されています。

(上記の文中、「直方むかしばなし」の「須賀神社の飛石」は三番目の記録となります、と書きましたが、それ以前に地元発行の理科関係雑誌に隕石についての記事があったと思うのですが、今その資料を見つけ出すことができません。出てきましたらまた掲載します。)
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「直方むかしばなし」は福岡県直方市の広報誌「市報のおがた」に連載された「直方むかしばなし」が掲載100回を迎えたことを記念して発刊されたものです。
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第一話の「じねんじょと川えび」の掲載は昭和47年4月号で、第百話は昭和55年7月号の「規時会(きじかい)」となっています。毎号欠かさず掲載されていて第百話に達するまでに八年四カ月を要しています。

この間、直方市の伝説や民話、歴史秘話、昔の暮らしぶりなどを幅広く紹介していて、どの話題を取り上げても非常に面白く、興味が尽きません。

第百話の「規時会(きじかい)」というのは、明治40年刊の「福岡県鞍手郡福地村是」に載っていることとして、当時は時間を守るという観念が極めて薄く、集会などの場合、通達通りに人々が集まることが稀でありさまざまなことに支障をきたした、ということで、福地村(畑、永満寺、上境、中泉)に「規時会」という名称の時間を守ることを旨とする団体を創ったというお話し。

時(とき)の話題は第六十三話にもあって、時刻はお寺の鐘をついて知らせていたが、農繁期に入ると日の出の「明け六つ」では間に合わず、夜が明けるまえから庄屋や村役人が太鼓を叩いて村中を廻り、村人を起こして仕事にかり立てていた、という話し。

このほかにも明治5年の「新暦の採用」のときの騒動や筑豊ならではの「石炭採掘」に纏わる話しや山伏の話し、「みこしをかつぐさる(猿)」「にせ幽霊」「人力車物語」「異人さんの見た筑豊」などなど、紹介したいものはたくさんあるのですが、先日「直方隕石」を見てきたばかりですので、「直方むかしばなし」のなかからこの隕石に関するお話をふたつばかり。

第八十五話「須賀神社の飛石」/昭和五十四年四月号掲載
「天平七年の夏、九州で天然痘が流行し、多くの死者が出ました。当時、九州の政治の中心であった大宰府は、各地の神社やお寺に令を出し、疫病退散の祈願をさせました。

筑前国鞍手郡境郷の武徳神社(現、須賀神社)でも祈願が行われ、疫病をつかさどる牛頭天王が祭られました。そのためか、猛威をふるった天然痘の流行も次第に下火となり、ついに消えていきました。

その後約百年たった承和五年四月、再び九州に疫病が発生しましたが、牛頭天王に祈願をささげた下境地区では死者の数が極めて少なかったので、村人は牛頭天王の霊験を語りあい、一時は、新たに社殿を建てようという話まで出たほどでした。

再び村に平和がおとずれ、人々が疫病のことも社殿建立のことも忘れかけた貞観三年の四月七日の夜のこと、境郷一帯の空が急に明るくなったと思うと、武徳神社の境内で大きな爆発音がおこりました。

驚いた村人が次々に集まってきました。社殿の一部が焼けてこわれ、土が深くえぐられていました。夜が明けて恐る恐るのぞいた穴の底から黒色の、大人のこぶしほどの重い石が発見されました。
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「須賀神社の飛石」より 挿絵:赤星月人

村人はこの飛石を見て、これは、牛頭天王の警告にちがいないと信じました。そして、再び疫病が発生しないように、今度こそ牛頭天王を祭る社殿を建てようということになりました。」(以下略、引用文も途中少し省略しています。)

続きます。
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本日、福岡県直方市の須賀神社へ神宝「直方隕石」を見に行きました。
直方隕石は須賀神社の秋季神幸大祭に合わせて5年に一度公開されるもので今回で4回目の一般公開です。
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午前9時過ぎ、神事を終えて社殿前に姿を現した「直方隕石」

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上から見た隕石

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側面から 朱が混じった濃い茶色

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正面から 隕石の表面は粒立ったザラザラ感のところと溶融皮膜じみたところがある
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20分ほど社殿前で公開されたのち、鳳輩(ほおれん)に安置され、お旅所(稲荷神社)へと向かいました。

FBS福岡放送のスタッフも取材に訪れていました。ビデオを撮りながら盛んに質問していたのはアナウンサー古賀ゆきひと氏。

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取材するスタッフの後ろは「直方隕石碑」

古賀アナウンサーはアマチュア天文家としても知られ、多くの天文関連の番組を手がけています。因みに北海道北見で箭内政之氏と渡辺和郎氏が発見した小惑星17516 は「Kogayukihito」と命名されています。
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碑の詳細は「いるか書房本館」でご覧いただけます。

明日(10月23日)は、お旅所の神庭で公開後、下境地区を巡幸して須賀神社へ向かう予定です。

なお、次回の公開は → 2016年10月22・23日です。
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誌名「文化建設」だけではどのような内容かわからないが、小さく印刷された「科学季刊」の文字に気づき、表紙の人物が数学者ガウスであることが分かればおよその見当は付いてくる。
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奥付を見ると発行日は「中華民国三十五年」とあって、これは「昭和21年」に当たる。発行所は「経緯学会」で住所は「京都市左京区銀閣寺町」となっている。

誌面は「創刊詞」を始めとして全ページ中国語で書かれていて、記事内容は大体の見当はつくものの日本人向けの雑誌ではないことは確か。記事タイトルは下記のとおりで、このうち独自の記事の著者3名と翻訳者は全員日本人ではないようですが詳細不明。

終戦の翌年に日本に於いて中国語で発刊された科学雑誌があるとは思いもよらず、「経緯学会」についても全く不明。

「初等複素函数論」高橋進一著・陳来峰訳/「近世数学史譚」高木貞治著・崇正訳/「太陽内部構造論 与 現代原子物理学」房頴泰/「物理学的世界」湯川秀樹著・冽水訳

「電話伝達工学的基礎知識」道田貞治著・本堅訳/「家畜飼養的基本知識(上)」呉維中/「日本産業概況」受天/「慎獨」徳永清行著・元放訳/「新星之出現」藪内清著・凌雲訳

「愛因斯坦論原子炸弾」清川訳/「美術介紹 世界最古的図画」國城/そのほか詩が数編掲載されています。いずれの記事も一般読者を対象としたとは思えないほどの詳述ぶり。

目次の終わりから二つ目の「愛因斯坦」はアインシュタインで、原著者はRaymond Swing、出典は「リーダーズ ダイジェスト1945年12月号」です。

また、「太陽内部構造論」の房頴泰は「創刊詞」の執筆者でもありますので、創刊号の刊行に深くかかわった人物、あるいは執筆者代表とか「経緯学会」関係者とかいろいろ想像します。・・・が、やはり詳細不明。「太陽内部構造論」は一般読者への啓蒙というよりは、研究者、乃至学生向けに書かれているように感じられます。

このことから房頴泰氏は科学ジャーナリストというよりも原子物理学などの専門家なのかも・・・。

「電話伝達工学的基礎知識」「家畜飼養的基本知識(上)」「日本産業概況」にしても到底一般読者を意識して著述しているとは思えない専門的内容も含まれているので、「文化建設」は経緯学会会員や学術団体・研究者などの限られた人々へ配布された雑誌ではないかと推測します。

徳永清行の「慎獨」と藪内清の「新星之出現」は(特約稿)となっていますので、この創刊号のための依頼記事なのでしょう。

徳永清行氏は「支那中央銀行論」や「新中国の金融機構(共著)」などの著作がある経済学者、藪内清氏もまた「支那の天文学」「支那数学史」「中国の天文暦法」など多数の中国科学史関連の著作を持つ天文学者。二人とも京都帝国大学出身は偶然なのか。それとも経緯学会の編集部が京都市内に置かれていることと関連があるのかどうか。

「新星之出現」は、記事冒頭で昭和21年2月の「かんむり座T星」の増光(再発新星の発見)を紹介し、次いで「ティコの新星」「ケプラーの新星」に移り、両新星について解説ののち新星観測の意義などが説かれています。

最後に表紙に書かれた献呈署名について。

左側は謹呈者房頴泰で右上は「堀川辰吉郎先生」となっています。この稿では「詳細不明」とばかり書いていますが、房頴泰と堀川辰吉郎との関係も詳細不明。
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また、堀川辰吉郎の出生も不確かなことが多く、これも詳細不明。・・・が、幼少年期は井上馨や玄洋社の頭山満の庇護のもとに過ごし、10代後半には当時日本に亡命していた孫文の知遇を得て大陸へ渡り、孫文と行動を共にして辛亥革命に参加した大アジア主義を掲げる人物、であるとのこと。

のちに中華民国の道教系の修養・慈善事業団体の「世界紅卍字会(せかいこうまんじかい)」の会長に就任するなど中華民国との関係浅からぬゆえ、学術の面に於いても相応の人脈を維持していたのだろう。


科学季刊 文化建設 第一巻第一期(創刊号)
中華民国三十五年八月十日 印刷
中華民国三十五年九月一日 発行
編輯者 経緯学会「文化建設」編輯部
発行者 呉煥棟
発行所 経緯学会 京都市左京区銀閣寺町十一番地
印刷所 天理時報社 代表者 岡島善次 奈良県丹波市町
18.5×26cm/90ページ


なお、裏表紙には「中華民国三十五年十月一日印刷 中華民国三十五年十月十日発行」と印刷されています。また、経緯学会編輯部と同じ番地で寄稿は「松本方」へとなっています。
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「創刊詞」の前ページに掲げられたドイツの画家オットーウベローデ(Otto Ubbelohde )の版画
自然科学だけでなく、文学・芸術面でも文化建設していた模様。
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神田茂氏主宰の「神田天文学会」総報の第1号です。

青焼きの文字が薄れて非常に読みづらい、と言うか読めないと思いますので、最初の数行を書き写します。カナ交じりで読みにくいでしょうが、改行せずにそのまま転記します。
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         神田天文学会 総報(1) 昭和20 Ⅵ 18
 
                発会ノ趣旨

筆者ハ二十数年間東京天文台ニテ天文関係ノ仕事ニ従事シテ来マシタガ 同所ニテハ自己ノ所信ヲ実行スルコトガ難シイノデ 二年前天文台ヲ辞シ 其後微力乍ラ回報其他ヲ天文関係者ニ配布シテ来マシタ。 最近日本天文学会其他ノ報導機関ガ殆ンドソノ機能ヲ停止セントスル状態ニアルコトハ東亜天文学界ニトリテ誠ニ遺憾デアリマス。 此時ニ当リ東亜ノ天文同好者ノタメニ神田天文学会ヲ創立シ 回報其他ノ刊行ヲ会ノ仕事ニ移サウト思ヒマス。 現在ニ於ケル逐次刊行物ハ次ノ通リデ コノ総報第1号ヲ以テ会則ニカヘマス。

このあと、「総報」「回報」「東亜天文学史小報」「変光星速報」「天文研究仮報告」の性格付けの説明に入っています。

「総報」は「天文一般ノ報導機関トシテ会員全部ニ配布」し、「回報」は彗星、小惑星、変光星、流星、掩蔽、太陽等の予報・観測資料等を掲載、「一昨年Ⅸ月ヨリ現在マデニ129号ヲ刊行シテヰマス」とのこと。

「東亜天文学史小報」は、「東亜特ニ日本ニ於ケル天文学史研究促進ノ為 天文学史関係ノ資料ヲノセルモノデ昨年八月以降44号ヲ刊行シテヰマス。」 

また、「変光星速報」は、葉書での速報で、「本年Ⅱ月ヨリ最近マデニ11号ヲ刊行」し、「天文研究仮報告」は、天文研究資料を専門家に提供するもので、ごく少部数刊行、「本年Ⅴ月ヨリ現在マデニ10号15頁ヲ刊行シテヰマス。」と書かれています。


つづきます。
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昨日(10月5日)、「アインシュタイン展」のメインは「旧門司三井倶楽部」と書きましたが、各会場はそれぞれテーマを持って纏められていますので、どこから見ても良いようになっています。

「旧門司三井倶楽部」の1Fのテーマは「アインシュタインの見たニッポン」で、来日に至るまでの経緯、乗船した豪華客船「北野丸」での様子、北野丸の晩餐会のメニュー、北野丸乗船中にアインシュタインを治療した九州帝国大学医学部教授・三宅速との親交、滞在中に交流した人々、来日した大正11年の日本の社会、等々。
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大正11年12月24日 「西部毎日」の新聞紙面

「旧門司三井倶楽部」の2Fは常設会場で、アインシュタインは43日間の滞在中最後の講演会開催地となった福岡市へ向かう前夜と講演会終了後、離日するまでの数日間をこの「旧門司三井倶楽部」で過ごしています。当時のベッドルームや浴室を再現し、アインシュタインメモリアルルームとして常時見学できるようになっています。また、作家・林芙美子の資料室も常時併設されています。
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ベッドルームと浴室

「旧門司三井倶楽部」のすぐ近くの「旧大阪商船」1F会場のテーマは、「ありのままのアインシュタイン/世界観を変えた革命児」です。
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旧大阪商船の会場入り口

ドイツ国籍放棄後の21歳のときの「スイス兵役免除」の書類、1914年にドイツに戻ったのち、1922年にノーベル賞を受賞したあとにドイツ政府が発行した「ドイツのパスポート」、「高校の成績証明書」「一般相対性理論の基礎を固めていた時のノート」「光の屈曲を確認した1919年日食」「光の屈曲について意見を求めたジョージ・ヘイルへの手紙」「ノーベル賞メダルと賞状」「論文原稿」その他多くの手紙類、などで構成されています。
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チューリッヒ時代のノート

「関門海峡ミュージアム」の会場のテーマは「平和主義者アインシュタイン/杉元賢治コレクション」です。

マハトマ・ガンジーや心理学者ジークムント・フロイト、思想家タゴール、新渡戸稲造らとの交流、ルースーベルト大統領との往復書簡等を通じてアインシュタインの戦争・原爆・平和への想いに触れることの出来る展示構成です。

また、「杉元賢治コレクション」は、アインシュタインの研究に情熱を傾けた近畿大学教授・杉元賢治(1947-2006年)の膨大な「アインシュタイン関係コレクション」のなかからアインシュタインを描いた切手・コイン・メダルの数々やキャラクター小物などの関連グッズの紹介展示です。
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門司港レトロで開催されています「アインシュタイン展」に行ってきました。
詳細は後日に譲るとして、とりあえず会期が終わる前にご案内します。
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会場はレトロ地区の三ヵ所に分かれていますがメインは「旧門司三井倶楽部」です。入場券は三ヶ所共通です。(旧門司三井倶楽部は一階と二階に分かれていますので、合計四ヵ所)
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会期は9月3日~10月10日です。
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