<   2011年 08月 ( 11 )   > この月の画像一覧

B4用紙2枚を二つ折りにして両面印刷した全8ページの「天文台だより」です。

この号では五つの記事が掲載されていますが、いずれも執筆者名がありません。しかし、文章内容からみると金子氏一人で書かれているようです。記事のタイトルを列記します。

火星の運河説・・・・・・・1ページ
近着の資料から-近代天文学の曙を知る本・・・・2~3ページ
天体写真の先駆者 清水真一氏を偲ぶ・・・・・・4~6ページ
観測所だより・・・・・・・7ページ
欅の木の根かたから・・・・8ページ
d0163575_2161952.jpg

最終ページの「欅の木の根かたから」は、随筆風の記事で軽い筆運びながら「御園高原自然学習村」のめざすところを書いていて、金子氏の理念とか心構えのようなものが伝わってくる文章です。

金子氏は学習村を訪れる高校生以下には「君づけ」で呼ぶが、大学生以上には「さんづけ」で呼び、『・・・お互いに『さん』と呼び合うような、大人が中心の場所にしたいのです。お互いに教えられたり、教えたりする中で、文部省の喜びそうな言葉でいいますと、人間形成の場所としての金子塾をめざしているのです。』と書いています。

また、天文をレジャーと考えて遊びにくる人達を面白おかしく遊ばせるだけでなく、『・・・口に入れた時にはおいしいと感じるが、後に何も残らない菓子より、スルメ(乾いか)のようにかめばかむ程味の出るようなところになりたい』、とも書いています。

最初のページの「火星の運河説」は、ローウェルが運河説を信奉するに至った経緯を簡略に述べています。2~3ページの「近着の資料から-近代天文学の曙を知る本」は、新しく学習村の蔵書となったGUILIELMI BLAEU著「INSTITUTIO ASTRONOMICA」の紹介と解説、それに以前から所蔵していたヨハン・ケイル著「自然科学及び天文学」とラランデの「天文学 上・下」の原本の解説記事です。

ブラウの「天文学」は、コペルニクスの「天体の回転について」を解説したもので1690年にオランダのアムステルダムで発行されています。

この本を長崎通詞の本木良永が翻訳して安永3年(1774年)に出した「天地二球用法記」がわが国最初の地動説を紹介した本であり、前述の「自然科学及び天文学」のオランダ語訳(ルロフス訳)を志筑忠雄が訳して刊行した「暦象新書」がニュートンの万有引力について書かれたわが国最初の本。

さらに、ラランデの「天文学」の上下2巻のオランダ語訳を高橋至時が参考にして著した「ラランデの暦書管見」がわが国最初の西洋天文学紹介の本となっています。
d0163575_217677.jpg

4~6ページの「清水真一氏を偲ぶ」は、金子氏と交流のあった静岡県島田市の清水真一氏の業績紹介と思い出を語ったものです。

ダニエル周期彗星の再発見を始めとして幾つかの興味深いエピソードを記していますが、ここでは島田氏が天文趣味に至ったきっかけを綴った箇所を一部転記します。

『・・・清水さんたちが中心になって島田(当時は町)で文化講演会を開催したことがありました。その2回目だかの時に、当時京都帝国大学から天文学の新城新蔵教授を呼んだことがありました。この時に講演会だけでは面白くないから、天体観測会をやろうということになって、(中略)五藤斉三氏に頼んで、何台かの望遠鏡を持ってきて貰いました。』

講演会が終わってから義理堅い清水さんは、五藤斉三氏が持参した望遠鏡のうちで、8cmの望遠鏡を自分用に1台購入し、やがて新城教授の紹介で同じ京大の山本一清博士の指導を受けるようになり、天体写真の魅力を知った、そうです。清水氏は家業の「知新薬局」のほか当時としては珍しい写真のDP屋さんも営んでいましたので、『清水さんは常日頃から、天体写真は天文の知識が10%、写真の技術が90%だといっていましたが、その頃の暗いレンズと感度の低い乾板で、よくも見事な写真を写されたものです。』、と金子氏は記し、『写真の腕前は立派なものでした』と回想しています。
d0163575_2175471.jpg

ダニエル周期彗星の再発見を報じる当時の新聞記事

7ページの「観測所だより」は、学習村の金子天文台の25cmライトシュミットの分解手入れが始まったことと16cmライトシュミットと14cmエアロニッコールが改良されたことを伝えています。


星のたより No.74
1986年7月10日発行
御園高原自然学習村 金子功
B4判用紙二つ折り/全8ページ
[PR]
何の変哲もない写真ですが、我が家の庭先から見た築城基地上空でのブルーインパルスの訓練の一齣。
d0163575_16251414.jpg

東日本大震災以後、福岡県芦屋町の芦屋基地を拠点に訓練を続けていたブルーインパルスですが、芦屋基地上空での訓練は民間機の飛行経路との兼ね合いで制限が多いため、昨日(8/26日)より築城基地周辺で訓練を実施。

本日(27日)はその二日目で、芦屋から飛来したブルーインパルスは11時過ぎより築城基地上空で訓練開始、ナイフエッジ・パスや360°ターンなど3~4種の課目を実施したようですが、我が家のすぐ横に数棟のアパートがあって、基地上空付近はそのアパートの屋根に遮られていて詳細不明。

訓練は20分足らずで終了、そのまま芦屋基地へ帰投した模様。築城基地渉外室によると築城での訓練は週3~5回で、当分の間実施、とのこと。

一週間ばかり続いた激しい雨もようやくあがり、久しぶりの青空のもと、昨年の築城基地航空祭以来となるプルーインパルスとの再会でした。
[PR]
豊橋向山天文台発行の「星のたより」No.5です。

発行年は記載されていませんが、「星のたより」のNo.1が1962年12月に出されているようですので、本日掲載のNo.5は1963年(昭和38年)に発行されたものと推測します。
d0163575_14113130.jpg

二つ折りのリーフレットで、上の画像はその表側です。開いた大きさは、18cm×25.5cmで、内側2ページに豊橋向山天文台長金子功氏の執筆による「月食写真の写し方」が掲載されています。

望遠鏡を使った場合の撮影法とカメラのみでの撮影の方法が示されていて、カメラのみの場合の撮影法の一部を転記すると、

「月を写真に撮ると、月の大きさがレンズの焦点距離の100分の1位の大きさに写る。それで小型カメラでは、いかにも小さな光の斑点にしか写らないから引伸しでもしないとよくわからないし、セミ判だと欠けていることがわかり、6×6判ならば月面の模様がどうやらわかるようになる。」

とあって、もし入手可能ならば旧式の二眼レフか6×6判のスプリングカメラかキャビネ判の原版が使えるカメラで連続写真を撮ればが最も効果的な月食写真が得られるだろう、とあります。

さらに、「カメラはなくても広角で長距離のレンズがあれば暗箱を木製で自作してもよい」、とも書かれていて、さすがにここの部分は私には具体的イメージが浮かばない。

しかし、月食撮影のために暗箱を自作している姿をうまくイメージできないものの、その意気込みは伝わってくる気がします。撮影法はこのあと、シャッタースピードの説明に入り、雲がある時はどうすれば良いかなどが書かれ、次に望遠鏡撮影の説明に入っています。
d0163575_14121519.jpg

「星のたより」No.5の裏面の星図。

星図の下に書かれている文章は、「プラネタリウム研究会の案内 天体投影機を実際の教育に活用する為の研究会です。 加盟校に対しては毎月此の冊子を配布する他時々参考資料を御届け致します。詳細は下記へ御問合せ下さい。豊橋市向山東町44 豊橋向山天文台内 プラネタリウム研究会」、です。

下の画像は、1986年7月10日発行の「星のたより」No.74で、発行元は「御園高原自然学習村 金子功」となっています。
d0163575_1413053.jpg


続きます。
[PR]
7月31日に漱石の「三四郎」に出てくる光の圧力について書いたのち、「科学と実験」の1983年2月号を拾い読みしていて、物理学者の小山慶太氏が寄稿した「『三四郎』の光線の圧力測定」に出くわした。拙ブログを書くまえにこちらの文章を読んでいたら・・・、と汗顔の至り。
d0163575_20291492.jpg

小山氏は専門の物理学の著作は勿論のこと、「漱石が見た物理学(中公新書)」や「漱石とあたたかな科学(文藝春秋/講談社学術文庫)」などの漱石文学と物理学について述べた著書、あるいは「道楽科学者列伝(中公新書)」「異貌の科学者(丸善ライブラリー)」等の科学史の著書多数。

漱石に光線の圧力の実験を教えたのは寺田寅彦ですが、その元になる論文はドイツのアナーレン・デル・フィジーク誌1903年8月号に掲載されたニコルスとハル(E.F.Nichols/G.F.Hull)の論文とのこと。
d0163575_2030597.jpg

・・・で、その論文の序文に「1619年にケプラーが、すでに彗星の尾が太陽と反対の方向を向くのは光の圧力によるものと考えた」と書かれているそうで、これは、彗星の本を読めばすぐ分かるような感じでここでも汗顔。

(蛇足ながら、彗星の尾が太陽と反対を向くのは光の圧力のためではなく、太陽風(プラズマの流れ)を受けるから。)

光線の圧力の問題は、その後18世紀になってオイラーがケプラーの考えを取り入れて波動論で示そうとし、1825年にはフレネルによって実験が試みられている。

「三四郎」の文中の「理論上はマクスエル以来予想されていたのですが、それをレベデフという人が始めて実験で証明したのです。」のマクスエルの理論は1873年のことで、レベデフの実験は1900年のこと。そして1903年のニコルスとハルの論文に至ります。

彗星の尾についても「断片」(明治四十一年)に、「物小ナレバ小ナル程LightノPressureガ強クナル、引力ガ負ケル、カラLightニ吹キ飛バサレル。Cometノtail、sunノopposite directionニアル訳」とあるそうで、ここのくだりは読んでいたはずだか、全く記憶にない!  読書はいつも寝っころがって、半分眠りながら、だからに違いない(ということにして置く)。

科学と実験 1983年2月号/Vol.34/No.2/通巻426号/共立出版株式会社
18cm×26cm/82ページ

この号の主な記事は、

パキスタンの科学技術事情-森末道忠/漱石と物理実験「三四郎」の光線の圧力測定-小山慶太/謎に包まれた半導体表面-宮沢久雄/惑星の観測-佐藤健/人工血液-戸嶋直樹/物理学実験(1)-楢原良正・山内幹雄/等々等
d0163575_20314075.jpg

広島市こども文化科学館-さとうたけし氏/天体観測ガイド2・惑星の観測

ところで、表紙の写真は自然科学写真協会の吉田博氏撮影の「氷柱」。
長良川上流の川沿いで1月上旬に撮ったものだそうで、流れ落ちる水が霧状の飛沫になって、枯れ枝に付着氷結したもの。この写真で少し涼しくなったような気が・・・・。
[PR]
昭和20年8月15日を区切りとして金子功氏のいうところの暗黒時代が終わりを告げ、名古屋に米陸軍第25歩兵師団が進駐したのは、同年10月25日頃のこと。

やがて米兵ともかかわりを持つことになる金子氏は、世話になった米兵の帰国に当たって、富士山などが描かれた日本情緒豊かな風呂敷を贈っていました。

しかし、そのうちに彼らは軍刀(日本刀)を欲しがっていることが分かり、岐阜県の関の刃物組合から日本刀を一抱えほど調達してきて、贈り物とするに至ります。

・・・が、ときには金子氏自身の軍刀を所望されることがあり、親しくなった日系2世の軍曹の申し入れにも頑なにこれを断ったといいます。

氏の軍刀は、「私が将校になるための、幹部教育に東京の陸軍自動車学校に派遣された時に、両親が当時にしては大金を投じて買っておいてくれたもので、拵(こしらえ)は地味だが、中身は銘刀とはいえないが立派なものだった。」(本文より引用)とのこと。

金子氏は、「暗黒時代の幕引きの儀式」にこの軍刀を叩き折ることで「戦い敗れて夜が明けた」喜びをひとり静かに祝いたかった、と記しています。

「走馬灯のように蘇ってくる暗い思い出を打ち払うように、力を込めてハンマーを振り下ろすと、軍刀は三つに折れて鉄屑となった。その上に持ってきたお神酒を注ぐと、長い苦労が終わった喜びと、これからの希望を考えて涙が流れた。」(軍刀を叩き折って幕引 より一部転記)


さて、第2部の「草薙の剣飛騨に疎開」、のこと。
天皇の皇位継承のシンポル三種の神器、八咫鏡(やたのかがみ)は伊勢神宮の皇大神宮、八尺瓊勾玉(やさにのまがたま)は皇居の御所に、天叢雲剣(草薙の剣)は熱田神宮にご神体として奉斎されていました。

熱田神宮では空襲に備えて神殿の裏に3重の鉄製扉を持った鉄筋コンクリート造りの地下壕を建設し、この中で草薙の剣をお護りしていましたが、昭和20年の3月と5月の空襲で社殿の大半が被災するに至って草薙の剣の疎開が検討されるようになります。

疎開先の候補として犬山の大県神社や岐阜の南宮神社が上げられたが、最終的に飛騨一宮の水無神社に決定され、準備に入ります。・・・が、やがて終戦。

空襲による被害の心配は無くなったものの、今度は占領軍が持ち去ることを恐れて当初の計画通り疎開(隠す)を実行します。

ご神体である剣の移動(御動座)は8月21日に決定され、極秘のうちに進められることになります。

御動座に使用された御料車は金子氏が手配した東海軍司令部派遣の幌付き乗用車2台。運転手は誰でも良いというわけにはいかず、輸送司令部副官である金子功氏が務め、東海軍司令部福原参謀と神宮側から長谷宮司と加藤儀式課長の二名が同乗。

予備の車両は河井公二下士官の運転で、当日の朝に出発。水無神社まではたいへんな山道だったそうで、途中、川辺町あたりで車が故障するなどがあって夕方近くにようやく到着。

無事御動座を完了させ、翌日帰隊したとのこと。任務は極秘であったため、事情を知らない部下たちは数日間姿の見えない金子氏に対し、占領軍がやってくる前に逃げたのではないかと噂をしていたといいます。

そののち、占領軍の天皇及び神社仏閣に対する方針(天皇制は変わらず、米兵の神社仏閣立ち入り禁止)が決まったことを受け、9月17日に大型台風(後の枕崎台風)が接近するなか、再び水無神社へと向かいます。

金子氏たちが難所の中山七里を通る頃には一寸先も見えないほどの豪雨。落石や倒れた大木などに苦心惨憺、難行苦行の末、命からがら任務を全うした、と記されています。

戦い敗れて夜が明けて 敗戦前後300日の記録 (付)草薙の剣を飛騨に疎開
著者:山村文化研究所 金子功
1990年 初版
1990年 再版
2002年 加筆改訂版
18.5cm×26cm/104ページ/ワープロ原稿をコピー印刷して発刊

ところで、下の画像は「天文月報 第47巻第10号(1954年10月号)」に掲載された金子功氏の私設天文台・向山天文台のドーム。200坪の敷地に50坪の天文台を作り、6インチと5インチの二つの赤道儀と9cm・F4のアストロカメラを収め、工作室と小型プラネタリウムの設備をもっていた。
d0163575_13113931.jpg

左側の写真は「泉小学校のプラネタリウム」星座を投影するカゴ形の丸天井は使わない時は上に吊り上げるようになっていた。泉小学校は当時国内では珍しく理科室のなかにプラネタリウムを持っていて、金子氏が所属した豊橋天文同好会の渥美支部はここを拠点に活動していた。


(「戦い敗れて夜が明けて」をいるか書房本館・軍事/戦記/戦後にUPしました。)(現在ウリキレ)
[PR]
金子式プラネタリウムの考案者で元・向山天文台主事や東栄町立御園天文科学センター所長などを歴任し、また、山村文化研究所を主宰した金子功氏の終戦前後の回想録です。

「敗戦前後300日の記録」の副題が示すように、昭和20年3月の東京大空襲前後から軍隊が解散する同年11月末までを記録、特に終戦直前・直後の陸軍内部の混乱振りとその後の残務整理の様子に多くのページを割いています。
d0163575_13395783.jpg

著者の終戦時(金子氏は終戦ではなく「敗戦」を強調している)の所属は、名古屋(東海軍管区)の第11野戦輸送司令部の副官で、作戦逐行に必要な弾薬・物資の補給輸送の責任者の立場でした。

本書の内容は大きく二つに分かれていて、第2部の「草薙の剣を飛騨に疎開」は、著者の前記の任務と大きくかかわりを持っていたようです。

第1部、2部の目次を列記します。

第1章 銃後も戦場/飛行機乗りの養成/東京下町の大空襲
第2章 敗戦直前の陸軍/東海軍の組織/当時の私の役割
第3章 本土決戦を前に/わずかに残る人間性/盟友稲垣中尉/深刻な食料不足
第4章 敗戦の前夜/中央の混乱ぶり/輸送隊の解散/見習士官玄永埴
第5章 帝国陸軍の最後/米軍との交流/軍隊と軍旗の最後
終章 夜が明けて/敗戦と市民の表情

第2部 草薙の剣を疎開
第1章 戦前 天皇は神様
第2章 敗戦前の熱田神宮
第3章 熱田神宮と草薙の剣

「軍隊での気勢の上がらない解散に比べると、市民の表情は明るかった。8月15日の夜になると、廃墟と化した名古屋の町に灯火がよみがえってきた。今夜からは「灯火管制」という嫌な言葉がなくなった。・・・その日を境に、お城端を歩いてみると、ボロを纏ってはいるが、明るい表情の市民が散歩している姿が目についた。

名古屋市内でも熱田神宮をはじめ、各地の神社では参拝者が後を絶たなかったが、これは、いずれも遠く外地にある肉親の無事帰国を祈っているのだろう。」(「敗戦と市民の表情」より、一部転記)

著者はかねてより、「暗黒時代が終わって春がきた時には「暗黒時代の幕引の儀式」をこんな方法で行いたいと一人夢に描いて」いて、すべての残務整理が終わった11月末日、明日からは自分の生活に戻れると決まったその日、いよいよ儀式を実行に移した。

つづきます。
[PR]
昭和20年8月9日、長崎に原爆が投下されたその日、陸海軍混成による特攻部隊「天雷特別攻撃隊白虎隊」が築城飛行場を飛び立っています。

天雷特別攻撃隊は戦争末期に編成された「着陸強襲部隊」で、すでに陥落していたサイパンを奪回するための特攻部隊。

白虎隊が離陸した同日、「天雷特別攻撃隊飛龍隊」が築城へ転進。しかし終戦のため飛龍隊が飛び立つことはありませんでした。

『夏の特別展:戦争』では、日の丸の寄書きや召集令状(赤紙)、軍隊手帳、予科練帽子・帽章などと共に天雷特攻隊隊員の写真や辞世の句、銀河隊隊員の遺書などが多数展示されています。
d0163575_11164491.jpg

海軍士官用軍帽及び帽子箱、旧海軍航空機用羅針盤、海軍短剣(いずれも航空自衛隊築城基地所有)

また、会場の一角に「ビルマの戦い-帰還した兵士の持ち物から」というコーナーも設けられ、92式高射機関砲実包(13mm)/92式重機関銃実包(7.9mm)/脚絆/英軍空挺部隊ゴルカ兵バンド/ビルマ紙幣/ビルマ僧の数珠/飯盒/飯盒炊爨の写真パネル、等々の資料・写真が展示されています。
d0163575_11172938.jpg

「ビルマの戦い」より「38式野砲 94式山砲榴霰弾」と「37粍速射砲徴甲弾(対戦車砲)」
下の画像は築城基地内にある「銀河隊出撃之地」の碑です。
d0163575_11181959.jpg

d0163575_11185869.jpg

[PR]
航空自衛隊築城基地にほど近い築上町船迫の船迫窯跡公園体験学習館で『夏の特別展:戦争』が開かれています。(9月4日まで/入場無料/月曜休館)

築城基地の前身「大日本帝国海軍航空隊築城飛行場」の建設開始は昭和14年12月で昭和17年10月1日に落成しています。当初、艦上戦闘機の補充要員養成を目的としていましたが、やがて練習戦隊に加えて実戦部隊も進出。そして昭和20年2月に特別攻撃隊(特攻隊)が編成されました。

昭和20年2月から終戦少し前までの築城飛行場とその周辺の空襲状況と部隊の行動を簡単に記します。

昭和20年2月、築城飛行場に特別攻撃隊(特攻隊)が編成される。

昭和20年3月18日午前6時30分、神風特別攻撃隊菊水部隊銀河隊の「銀河11型」6機が築城飛行場を離陸、九州南東海域のアメリカ軍機動部隊に体当たり攻撃を行う。6機のうち、1機はエンジン不調で途中帰還、残り5機は未帰還。

昭和20年3月18日午前9時頃、米軍グラマン17機が築城飛行場周辺に来襲、格納庫前の練習機、九六式陸攻機等が炎上。

3月下旬 沖縄戦に向け、第二〇三海軍航空隊・第七六二海軍航空隊などの実戦部隊が築城に展開。

昭和20年7月25日正午前、米軍爆撃機B24の編隊襲来 周防灘から築城飛行場上空へ進入、駐機の零式戦闘機数十機及び掩体壕炎上。

昭和20年8月7日、米軍機(B24とグラマンF6Fヘルキャット)が築城飛行場とその周辺民家を襲撃、兵士37名が犠牲となったほか夜間戦闘機「月光」などが炎上。また、近くの上城井国民学校も襲撃され、教師を含む民間人数名と児童が死傷。

昭和20年8月9日、紫電改と米軍機グラマンが築城飛行場周辺で空戦。被弾した紫電改は、築上町小原の山中に墜落。(3月18日から終戦まで8回空襲)

8月9日 長崎へ向かう原爆搭載のB-29に対し零戦10機が緊急発進。同日、天雷特別攻撃隊白虎隊、築城飛行場より出撃。
d0163575_21383946.jpg

『夏の特別展:戦争』では、昭和20年8月9日に墜落した紫電改のプロペラも展示されました。現在、築上町小原公民館に保管されているものです。
d0163575_2139186.jpg

紫電改のプロペラ直径は3.30mだそうですので、1枚のプロペラの長さは1.6mくらいとなるのでしょうか。


つづきます。
[PR]
昨日(8月7日)、みやこ町総合観光案内所(福岡県)で開催中の「子供達の為の昆虫展」に行ってきました。
d0163575_1454215.jpg

入り口正面、金属光沢のモルフォ蝶が出迎えてくれます。
「子供達の為の・・・」とは言え、日曜日ということもあってか家族で来場の方も多く、お父さんお母さんも子供たち同様に熱帯の美麗蝶や巨大甲虫の数々に見入り、説明に当たっていた採集者の松田勝弘さんに熱心に質問を繰り返していました。
d0163575_1481334.jpg

アマゾン産の蝶・甲虫たち。
d0163575_1464136.jpg

西イリアンの蝶たち。

展示昆虫は国内各地で採集した蝶・甲虫を始めとして、アマゾンのモルフォ蝶や西イリアン(ニューギニア島西部)のトリバネアゲハ、カブトムシ、クワガタ等々で、数えたわけではありませんが、1千頭以上が展示されていたのではないでしょうか。
d0163575_1494181.jpg

マダガスカル産の甲虫。左からカミキリムシ科、コガネムシ科、右端の上2列はタマムシ科、その下コメツキムシ科、右下端の楕円形はマダガスカルオオゴキブリ。
d0163575_1505587.jpg

左の標本箱はマダガスカル産の甲虫たち、右はアンテノールジャコウアゲハなど。
d0163575_15220100.jpg

アマゾン産の昆虫たち。

図鑑でしか見たことがない熱帯の昆虫たちに眼が奪われたのは勿論ですが、身近な場所(八景山-展示会場近くの丘陵地)で採集した蝶・カミキリムシ・コガネムシ類・オサムシ類などにも大いに魅せられてしまいました。

身近にこれだけ多くの種類の昆虫がいたとは!!
d0163575_21113.jpg

会場内に鉢植えの食草と飼育箱が持ち込まれ、葉の裏に生みつけられた卵やさなぎ・成虫を観察することができます。

会場の一角にカキ氷機が置かれていて、出来立てシャリシャリのブルーハワイをごちそうになりました。

数十年ぶりに子供の頃の、あの夏の日に戻ることができた一日でした。(会期は8月12日まで)
[PR]
改訂13版の全173ページのうち50ページが気象編、69ページが宇宙編に当てられ、残りが解説ページと索引です。解説ページにも多くの紙数を割り当てているのは、この学習図鑑シリーズの特徴のように思われます。

天文編が若干多いのは本文ページに入る前に月面着陸や宇宙ステーションの想像図などに6ページを割いているため。

図鑑を開いて最初に眼に入るこの部分は重要なページで、ここの出来栄えで本文ページへ進むか別の本を手に取るか決まる、と言ってもよいくらいのものでしょう。

この図鑑の場合、気象編も天文編も共にインパクトある題材を取り上げていて、それを印象的に描き挙げています。

天文編の月世界や火星探査の図、気象編の「ジェット・ストリーム」の説明図など次々に現れる未知の世界に魅了されて、本文ページへ進んだ読者諸氏は多かったことだろう、と想像します。
d0163575_1650094.jpg

「未来の宇宙ステーション」
昭和30年代40年代の宇宙ステーション想像図はたいていドーナツ型に描かれているという印象が強いのですが、ここでの宇宙ステーションは球形です。

宇宙ステーションを単純な形に描くことにより、手前の画面いっぱいに広がる宇宙往還機が強調され、迫力ある絵に仕上がったように思えます。絵の端にサインがあるのですが、よく読めません。「章作」と書いているように見えますので「中島章作」氏でしょうか。

「気象天文の図鑑」は昭和30年の初版以後、途中の改訂を挟んで十数年に亘って版を重ねたロングセラーです。

この間、さまざまな新知見や学説が現れていますので、それがどのような形で図鑑に取り入れられたかは、「火星」の項を見るのが最も手早く、また興味のあるところです。
d0163575_16504712.jpg

右ページの縦に並んだ4つの火星図は、上から1832年ベーア・メドラーのスケッチ、1858年セッキのスケッチ、1864年ドーズのスケッチ、1873年グリーンのスケッチ。
グリーンの右側は1879年スキアパレリのスケッチ、その横は1892年キャンベルのスケッチ。

「・・・現在わかっていることは、大気はあるけれどもうすく赤茶けたところはさばくで、緑色のところは植物地帯だということです。」と記され、ついで運河に触れて、存在は確認されたが人工物ではない、としています。

このことは、解説ページでも取り上げられ、「(ローウェルらの)説には100%の信用をおけません」として、さすがに火星人運河説は否定されています。

植物については存在を肯定する書き方になっていますが、高等植物説は影をひそめて下等植物存在に変わっています。

解説ページでは、「緑色地帯のスペクトルをしらべてみますと、ある種のコケや地衣類のスペクトルににています。・・・火星は地球よりも寒く、水不足なので、こんな植物なら生きていられます。」としながらも、「おことわりしておきますが、火星にはこんな植物があるというのではありません。緑色部の様子が、こんな植物ににていることをつきとめただけなのです。」と記して断定を避けています。

このように学説の定まらないものについては幾つかの説を併記して読者に問題提起をし、考えてみることを促している箇所がほかにも見られます。

「太陽系のできかた」のページなどにそれらを見ることができますが、「ほうき星といんせき」のところでも彗星の起源や流星の起源に触れて幾つかの説を挙げています。

また、著者自身の考えとして、

「・・・流星を起こす粒子には、岩のかけらと鉄のかけらがあることがわかりますが、私はそのほかに、氷のかたまりもあると考えています。・・・1860年インドのズルムサラに落ちたいんせきは氷につつまれていたことが報告されています。」と記し、読者へさらなる考えを提起しています。




気象天文の図鑑 小学館の学習図鑑シリーズ⑥
著者:鈴木敬信/荒川秀俊/巻島三郎/大滝正介
発行所:小学館
発行日:昭和三十一年六月一日 初版発行
   昭和三十八年三月十五日 十四版発行
   昭和三十九年三月一日 改訂新版発行
   昭和四十四年一月十日 改訂十三版発行
19×26.5cm/173ページ/函付き
定価:350円
[PR]