<   2011年 07月 ( 11 )   > この月の画像一覧

(7月29日の続き、のようなものです)
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行橋駅を出て以来、「今川」につかず離れず進行していた「なのはな号」は、徐々に川からはずれて広々とした田園地帯を通り、やがて「東犀川三四郎駅」に到着。
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田んぼの真ん中の無人駅舎。遠くに彦山(英彦山)を含む大分・福岡の県境の山々を望みます。
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駅舎内に駅名由来の説明板が掲げられています。江戸期以前は、この地方の東側を「東郷」と呼んだのに対し、こちら側一帯を「西郷」と呼んだそうです。

ところで、「漱石全集 月報4」に河野與一の「『三四郎』で思出す事ども」に載っていた文章。

英文学者藤島昌平の語ったこととして、

「夏目さんの早稲田南町のお宅の二三軒先に、一頃 物理学者の田中三四郎といふ、後で山形高等学校の教頭を永くお勤めになった方がゐて、夏目さんは出入りにその標札を眺めてゐた挙句、御本人の諒解を得て主人公の名に使った」そうで、このことをご存じの方は大勢いらっしゃるでしょうが、架空の名前と思っていた私は妙に感心しました。

漱石はよくよく物理に縁があるなあ、とも思ったものです。いったいに漱石の作品に物理を語る場面がよく出て来るのはご存じのとおり。

例えば三四郎の友人与次郎の勧めで精養軒の会へ出席し、光の圧力の実験を行っている野々宮の話しに耳を傾ける、その場面。

光の圧力にどうして気がついたのか、と質問された野々宮は、「理論上はマクスエル以来予想されていたのですが、それをレベデフという人が始めて実験で証明したのです。

近頃あの彗星の尾が、太陽の方へ引き付けられべき筈であるのに、出るたびに何時でも反対の方角になびくのは光の圧力で吹き飛ばされるんじゃなかろうかと思い付いた人もある位です」と答えています。

このような文章にあちこちで出会うのですが、その都度さまざまな「知りたいこと」が湧いてきます。この短い文章のなかでもふたつばかり。

ひとつは、「吹き飛ばされるんじゃなかろうかと思い付いた人」は誰なんだろう、ということと「近頃あの彗星」とはどの彗星なんだろう、ということ。

「三四郎」が朝日新聞に連載されたのは、1908年9月から12月までのことですから、1910年出現のハレー彗星ではないですね。

となると、漱石15才の9月に現れた「1882年の大彗星」のことなのか、あるいは漱石が生まれる9年前の大彗星「ドナティ彗星(C/1858 L1)」やその3年後の「テバット彗星」を指しているのか、または全く創作上のことなのか。「近頃」というのは彗星出現のことを言ってるのではなく、「近頃思いついた人」がいる、と言ってるのか。

そのうち気が向いたら調べてみようと思うものの、「そのうち」がやって来たことが無いのが今までの例です。
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三四郎
新潮文庫/昭和23年10月25日発行/昭和62年5月25日100刷
カバー画:安野光雅

(追記)
『吹き飛ばされるんじゃなかろうかと思い付いた人」は誰なんだろう、ということ』については、2011年8月22日の拙ブログに「ケプラー」ということで書きました。
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暑中お見舞い申し上げます。
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平成筑豊鉄道 新豊津駅付近にて撮影/終点の行橋駅を折り返し、田川伊田方面へ向かう400形気動車「なのはな号」。

平成筑豊鉄道は新潟トランシス製400形気動車を12両保有しており、そのうち401~407号が同じデザインの「なのはな号」、408号と411号は平成筑豊鉄道のマスコットキャラクター「ちくまる」が描かれた「ちくまる号」、409号は行橋市内にある大型商業施設の広告ラッピング車両、410号は筑豊の風景を描いた「炭都物語号」、412号は以前使用していた富士重工業製の100形と同じデザインとなっています。

画面左側は、「今川」の水が流れ行く先、行橋市街地。 新豊津駅を発した「なのはな号」はこの「今川」を遡るように次の駅「東犀川三四郎駅」へと進みます。

風変わりな名前の駅名は、夏目漱石の小説「三四郎」に因んだもの。三四郎のモデルとなった小宮豊隆はこの地の生まれであるためです。

・・・・で、下の画像は、岩波書店の漱石全集第十三巻の「日記及断片」(明治四十一年)347ページに掲げられた行橋市周辺の地図というか位置概念図。
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ほぼ中央に「行橋」、その右に小宮豊隆が学んだ豊津中学校(旧制)がある「豊津」、右端の黒く塗りつぶしたところに「彦山」と記入され、上の黒い部分には「中津」と書かれています。中津から彦山へ続く線上に「耶馬溪 十里」とあり、彦山に近づいたあたりに「山国川」の文字が見えます。

小倉と門司は地図の下方にあり、豊津と小倉が結ばれて「六里」とあります。

漱石は明治29年に結婚したその年の9月に夫人同伴で一週間ばかり北九州に遊んだことがあり、また、明治32年漱石33歳のときには耶馬溪を訪れています。

それから10年近くの歳月を経て明治41年、「三四郎」が発表されます。
漱石は幾ばくかの感慨を伴なってこの地図を描いたことだろう、と推測します。
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「新しい望遠鏡の部」67点

全67点をメーカー別出品数でみると、

東亜光学 7×25コメット双眼鏡等、2点
明治精光 8×20メナン双眼鏡等、3点
富士写真 3×30フジメイボースポーツ双眼鏡等、6点
興和 TR4Kライフルスコープ4×、BH10×50双眼鏡等、10点
瑞宝光学 8×40ZWCF双眼鏡 1点
日本光学 ニコンスポーツグラス3×双眼鏡等、13点
旭光学 ペンタックス6×15MIF Jupiter双眼鏡等、8点
五藤光学 2.5インチ赤道儀等、3点
東京光学 トプコン7×35双眼鏡等、4点
泰成光学 6×25双眼鏡等、6点
板橋光学 BCFシリウス7×15×35双眼鏡等、3点
服部時計商 7×50CF双眼鏡等、8点  以上、計67点。
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ほとんど双眼鏡で、ライフルスコープとスポッティングスコープが数点、望遠鏡は五藤光学が2.5インチ普及型と7-5観光望遠鏡、旭光学が60mmを出品しています。

「浮世絵、写真、文献類の部」78点

一恵斎芳幾の萬国男女人物図絵、広重の阿蘭陀亜墨利加英吉利国人図、義隣の異国人望遠鏡をのぞく図、上田市立博物館蔵の天球図他天体の図、等々ですが、眼を引くのは、国友梅子、岩橋弥造、羽間平三郎の出品した天体写生図や史料の数々。

例えば国友が天体写生図午2月18日月、6月24日満月の図、テレスコッフ遠鏡月木星試、テレスコッ
フ遠目鏡製作覚など20点、岩橋が中右衛門弟子入誓約書、平天儀図解など9点、羽間が中高鏡一面中高一面平鏡写真之図、阿蘭陀人献上之星見鏡など4点を出品しています。
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ほかには、早大図書館蔵の司天台諸器図、上田市立博物館蔵の和蘭天説、秋岡武次郎蔵の訓蒙天地弁、木村幸吉出品の双眼鏡商新年宴会の写真、石田清一出品の国産双眼鏡の性能について、などです。出品78点のうち25点ほどが浮世絵で、その多くが異人と異人館を描いたものです。写真はリストの品名を見る限り「双眼鏡商新年宴会の写真」の1点のみのようです。

「書籍、カタログ類の部」63点

穂積善太郎出品の望遠鏡の作り方/広田栄三・長沼恭一著、小森幸正出品の反射望遠鏡の作り方/中村要著、同じく小森幸正出品の天体望遠鏡の作り方/山崎正光著、国立科学博物館出品の望遠鏡と顕微鏡の作り方/田辺敏郎著、などの書籍類と、日本光学、東京光学、西村製作所、小糸製作所、Zeiss、KRAUSS、Buschなどのカタログが掲載されています。
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カタログ類では他に服部時計店の双眼鏡のカタログが6点(昭和2年~昭和7年)、アース光学の双眼鏡・その他のカタログ1点、安西俊治商店の双眼鏡・その他のカタログ1点、W.Watson & Sonsの双眼鏡カタログ1点などが載っています。

このうち、W.Watson & Sonsはイギリスの古いカメラメーカー、安西俊治商店は詳細不明というかメーカー名か販売店名かさえ全く知らないところ、アース光学はもしかして戦前に超小型カメラを作っていたところ?

全く意味はないのですが、個人出品の分でそれぞれの出品数を数えてみました。以下のとおり。
石黒敬七・・・69点
木村幸吉・・・30点
渡辺紳一郎・・28点
国友梅子・・・21点
河原栄一・・・20点
小森幸正・・・17点
岩橋弥造・・・12点
五藤斎三・・・12点
羽間平三・・・9点
木辺成麿・・・6点
茅原元一郎・・6点
後藤定吉・・・5点
以下略、石黒氏がいかに多いことか。

ちょっと残念で不思議なことは、「新しい望遠鏡の部」67点のほとんどが双眼鏡であること。

この「わが国の望遠鏡の歩み」が開かれた昭和39年にはすでに西村製作所の15cm反射赤道儀やアストロ光学の各種望遠鏡も発売されていたし他にも光学メーカーはあったはず。

五藤光学の20cm赤道儀は大きすぎて無理だったかもわかりませんが、6cm学習型や7.5cm標準赤道儀などは搬入可能にもかかわらず展示されていなかったのはなぜか。出品の基準があったのでしょうね、多分。販促につながるようなものはダメとか、日本望遠鏡工業会に属していないところは無理とか。

しかし、「天体望遠鏡(明治以降)の部」で「ウラノス号」を展示したのであれば「アポロン号」や「コメット号」「エロス号」なども出してほしかった。


ガリレオ・ガリレイ生誕四百年記念特別展
わが国の望遠鏡の歩み 出品目録

主催:国立科学博物館/日本望遠鏡工業会
期間:昭和39年8月23日から昭和39年9月23日まで
会場:国立科学博物館一号館 特別陳列場

出品目録:B4用紙片面孔版印刷で22ページ
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天界14号/通第312号(昭和24年)より
エロス号屈折望遠鏡広告/天体望遠鏡備付計画に際しては、文部省より緊急度(A)に指定せられた五藤式屈折望遠鏡を研究せられよ。・・と書かれています。

定価四万円/口径63粍・倍率天体用23×36×72×150×、地上用30×・天頂ブリズム・太陽投影機及サングラス・ファインダー付
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「金属製携帯用望遠鏡(維新前後以降)の部」32点

長さ10cm~58cmまでで、1段~7段式の携帯用望遠鏡のリストです。
掲載の望遠鏡の多くは16cm~30cm前後で、1段~4段式です。長府博物館所蔵の金属製皮張・80cm・3段式の望遠鏡(日露戦争当時バ艦隊に備え対馬五山の監視哨で使用)というのもこの部門に1点載っています。また、「ステッキ型」というのも2点掲載されています。見た事ありませんのでよく解かりませんが、ステッキの形なんでしょうかね。

ここでも石黒コレクションから多数出品されていて全部で20点あります。一閑張の場合、鏡筒は赤塗りと黒塗りがほぼ同じくらいで茶塗が若干という具合でしたが、金属製携帯用望遠鏡部門はほとんど黒塗(茶塗が1点)です。金属製としか書いていないものも半数あります。徳川美術館出品の24.7cm遠眼鏡は「象皮覆」と書かれています。

「天体望遠鏡(明治以降)の部」29点

小森幸正出品、「野尻抱影使用・日本光学製No.101三脚付・屈折望遠鏡」というのがこの部門に載っていますが、口径などは不明です。画像はこの部門に掲載の一部です。
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リストの一番上の国立科学博物館所蔵の「屈折望遠鏡2.5cm」は、五藤光学初期のもので鉄製三脚付。木辺成麿出品の「15cm木辺鏡(無銀)」は1927年作、「15cm中村鏡(無銀)」は、1926年頃のものです。五藤の「ウラノス号」の下の「モギー社4インチ屈折望遠鏡」は山崎正光使用で赤道儀架台付きです。出品者は五藤斎三。
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五味一明出品の天体望遠鏡は英オットウエイ社製、その下の日本天文研究会出品の「人工衛星観測用望遠鏡」は日本光学製です。

画像リストの下から2番目の法明院所蔵の「金属製望遠鏡」は、フェノローサ使用、と説明されていますので、あのフェノロサでしょうね。(どのフェノロサ?)

「双眼鏡、単眼鏡の部」50点

東郷元帥使用のCarl Zeiss D.R.P双眼鏡(三笠保存会出品)、乃木将軍使用のGoerz単眼鏡(乃木神社出品)、鈴木淑康出品のColmont Paris双眼鏡(大正10年頃シベリヤで露軍将校から購入)、伏見宮使用のKRAUSS Paris双眼鏡(三笠保存会出品)、長岡正男出品のルスカー6×20双眼鏡、河原栄一出品のJOICOミクロン6×双眼鏡、等々々。
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日本光学製ノバー7×双眼鏡は航海用目盛入、九三式双眼鏡4×は陸軍歩騎兵分隊長用、東京光学の双眼鏡は高橋三吉大将使用。

「軍事用光学兵器(含大型双眼鏡)の部」13点

清国艦隊鎮遠で使用した六分儀(三笠保存会)、大日本帝国望遠鏡第2号の銘が入った木製大型望遠鏡(靖国神社)、日本光学製10×45No.8077の砲隊鏡(木村幸吉)、12cm対空双眼鏡(五藤斎三)、97式車載重機関銃眼鏡(五藤斎三)、五藤はこのほかにも2m潜望鏡、94式1m対空測遠機など計6点を出品。ここにも石黒敬七が登場し、潜望鏡を出品。

つづきます。
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昭和39年8月23日から一ヶ月間、国立科学博物館にて「ガリレオ・ガリレイ生誕四百年記念特別展 わが国の望遠鏡の歩み」が開催されました。

本日はそのときの出品リストで、江戸時代の遠眼鏡や明治以降の望遠鏡、双眼鏡、望遠鏡に関する資料等、全462点が掲載されています。

その内訳は、
「遠眼鏡(江戸時代 主に一閑張)の部」    118点
「反射望遠鏡 金属製望遠鏡(江戸時代)の部」 10点
「金属製携帯用望遠鏡(維新前後以降)の部」  32点
「天体望遠鏡(明治以降)の部」        29点
「双眼鏡、単眼鏡の部」           50点
「軍事用光学兵器(含大型双眼鏡)の部」    13点
「模型の部」ガリレオの望遠鏡模型とニュートンの反射望遠鏡模型の2点(五島プラネタリウム出品)
「新しい望遠鏡の部」            67点
「浮世絵、写真、文献類の部」        78点
「書籍、カタログ類の部」          63点 の合計462点。


各部門を具体的に少しずつ見ていきますと、「遠眼鏡(江戸時代 主に一閑張)の部」では一閑張(一貫張)のほかに、岩橋善兵衛作の長筒望遠鏡の布張(井伊家史料保存会出品)や麻田剛立の設計と推測される木製、渡辺紳一郎出品の金属枠皮張、石黒敬七出品の竹製、骨製の遠眼鏡などが数点入っています。

出品者は前記の渡辺紳一郎・石黒敬七の他、水野良治、広瀬長治、茅原元一郎、後藤定吉、内田六郎、五藤斎三、羽間平三郎ら個人16名ばかりと大垣市教育委員会、山口博物館、大阪市立博物館、高津商会、武田薬品研究所、日本光学などの団体・企業10数ヶ所です。

特に渡辺紳一郎の27点出品と石黒敬七の31点出品は数の多さで眼を引きます。石黒は他の部門にもさまざまなものを出品していて、コレクター石黒敬七には改めて驚かされます。武田薬品の出品は、宇田川榕庵使用の38cm4段式の茶塗遠眼鏡1点です。
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「反射望遠鏡 金属製望遠鏡(江戸時代)の部」のリスト。

品名の右側は出品者名、画像には写っていませんが、出品者の右に説明がありますので、上から順に書き写します。

望遠鏡名は省いて、

鍋島直泰   「R&d Beck Cornhillの銘あり」
上田市立博物館「箱入台付 付属2点 天保5年甲午歳初夏始而造之江州国友眼龍能当の銘あり」
大友佐一     説明なし
河原栄一   「木箱及黒漆箱入 天保7年国友一貫斎作 顕彰会記念文鎮付」
羽間平三郎  「間重冨使用グレゴリー式反射望遠鏡 二重木箱入」
 〃     「ドンガラス付 間重新使用 文政6年献上 T M Kleman Amsteldamの銘あり」
国友梅子   「国友一貫斎作 箱入 部品1 研磨皿?1 反射鏡1 砥石2ケ」
井伊家史料保存会   「国友一貫斎作 塗り箱入 ゾンガラス フード2ケ付」
徳川美術館      「Made by Gilbert & Co. 木箱入」
勝 芳孝       「箱付 付属アイピース1ケ」


つづきます。
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八ヶ岳中信高原国定公園の高原地帯を縫うように走る観光道路「ビーナスライン」は、蓼科有料道路と霧ヶ峰有料道路を併せた呼称。(現在は全線無料開放)

このうち、霧ヶ峰有料道路は霧ケ峰線・八島線・美ケ原線に分けられ、最初に完成した霧ケ峰線の使用開始は昭和43年7月のこと。

霧ケ峰線の建設と併行してその延長線の八島線建設が長野県議会にかけられ、昭和43年2月に県議会議決、建設が決定された。
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「霧の子孫たち」は、その八島線建設のための測量場面から始まる。霧ヶ峰高原の強清水から和田峠・美ケ原へ抜ける八島線には途中、旧御射山(もとみさやま)遺跡や天然記念物に指定された八島ケ原高層湿原が広がっている。ここに道路を通そうと言うのだ。

遺跡の記録保存を委託された考古学者宮森栄之助は、観光道路建設に憤りを感じつつもどうしようもない無力感に襲われていた。

しかしこのまま見過ごすこともできず、自然と文化を守る会のメンバー十人ばかり、宮森の書斎に集まり議論を戦わせているところへ宮森の親友青山銀河が現れる。

「青山銀河は諏訪市内で産科婦人科の病院長をしていた。彼は医師としてより、アマチュア天文学者として名が知られていた。彼の病院の三階の屋上には二十五センチ反射望遠鏡が置いてあった。」(霧の子孫たち 文春文庫より)

文春文庫版の「あとがき」で著者は、「有料道路反対運動に立ち上がった藤森栄一氏は考古学者であり、青木産科婦人科病院の院長青木正博氏はアマチュア天文学者であり、牛山正雄氏は諏訪清陵高校の理科の先生である。三人とも私の古くからの友人であった。」と記し、実在のモデルを明かしている。

他にも小説内では多くの実在人物がモデルとなって活躍している。それほど自然破壊を伴なった道路建設に地元をはじめ、大勢の人々が関心を示していたということであろう。「霧の子孫たち」は、自然保護の住民運動を題材とした作品のひとつとして現在でも広く読み継がれているようです。
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日本の天文台/天文ガイド別冊47ページより 「青木天文台」と青木正博氏 3メートルドームに西村製25センチ反射望遠鏡を設置。

左の写真はふたつとも、氏が建設に尽力された塚原学園天文台のドーム遠景とドーム内望遠鏡。


霧の子孫たち
著者:新田次郎
発行:978年3月25日 第1刷
発行所:文藝春秋
文春文庫/238ページ/解説:巌谷大四

ところで、小説中、「菊谷一雄が立ち上った。諏訪天文気象学会の代表者で(中略)菊谷は十六歳のときに新星を発見して以来、アマチュア天文学者として、世界的に名の通った男であった。」とあり、「あとがき」で取材協力者のひとりに五味一明氏の名を挙げているので、多分、菊谷のモデルは五味氏なのだろうが、他の作中人物の名が実際の名前に似せているのに比べ、ちょっと違いすぎるような・・・。菊谷一雄のモデルは他の人物なのだろうか。
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明治40年9月に第1版が発行された星座早見盤です。
画像は昭和14年6月発行の第59版ですが、基本的デザインは当初からほとんど変わってないようです。
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現在の星座早見盤は星座盤と窓をくり抜いた円盤の2枚からなるものが主流ですが、この早見盤は星座盤とこれを挟む2枚の盤(台紙)から成る三重構造になっています。

台紙は中空になっていてこの間に星座盤を挟むわけですが、表側は四つの突起を残して円形にかたどられ、裏面は四角形の台紙をそのまま残したデザインです。

四隅の突起のうち三つに窓があってそれぞれ夕方6時、夜12時、朝6時と印刷され、残りのひとつに「南」と印刷されています。星座盤の周囲には月日が印刷されていますので、この窓に任意の月日を合わせてその日の星空を知る仕掛けです。

ちなみに星座盤の一番外側円周に一等星、二等星、三等星以下、変光星、星雲を表す星丸が描かれ、次の内側円周に1月から十二月が等分印刷され、さらに内側が二日置きの日にちの区分帯となっています。
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「子供の科学」昭和13年9月号に掲載された「星座早見」の広告。
「直径八寸五分 回転式堅牢」と書かれています。広告をよくよく見ると全体のデザインは一緒ですが、「星座早見」の文字を囲む模様が流星か彗星をイメージしたような絵柄で、本日の画像の早見盤の絵柄と異なっています。よくわからんのですが、上製と並製の違いでしょうか。それともデザイン変更なのか。
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7月13日夜9時の星空に合わせた早見盤。
金色の型押し文字とグレーかかった青、それに漆黒の星空に黄色の星々の組み合わせが秀逸。

「星座早見」の文字の右側、2匹の蛇と翼のついたケーリュケイオンと呼ばれる杖を持つ伝令の神ヘルメスが水星を表わし、左側の盾を持つ神は軍神マルスで火星を表わしているのか。しかし、女性のようでもあるので、あらゆる邪悪・災厄を払う盾(イージス)を持つ女神アテナなのだろうか。


星座早見 上製
平山信監修
日本天文学会編
発行者:三省堂
印刷者:三省堂蒲田工場 代表者 喜多見 昇
明治四十年九月五日 印刷
明治四十年九月十日 発行
大正五年四月二十九日 十版発行
大正九年八月一日   十五版発行
大正十五年(不明)日  二十五版発行
昭和二年八月一日   三十版発行
昭和四年五月五日   三十九版発行
昭和七年十二月十五日 四十一版発行
昭和十年五月二十日  五十版発行
昭和十二年六月二十日 五十七版発行
昭和十三年六月二十五日 五十八版発行
昭和十四年六月二十五日 五十九版発行
定価:金一円弐拾銭/径26cm/裏面は、目的、構造、使用法の説明と所載の星座名一覧表

ご覧のように何度も版を重ねたロングセラーです。

早見盤の裏側
台紙の中を星座盤が通っているのがわかるでしょうか。
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裏面には丸で囲まれたなかに「新撰恒星図」平山信監修/日本天文学会編/三省堂 の広告が印刷されている。この星図は「掛け軸」になったものです。


(いるか書房本館・宇宙・天文、追加しました。)
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「標題の言葉は故山本一清先生が、昭和29年(1954)に、宿舎富山荘のサインブック(画帖)に書かれたものである。これと並んでかかれてある近衛秀麿さんのサインと対照したとき、何か味のあることを感じます。

1954年には富山市で県市合同主催の産業大博覧会が4月11日から6月初頃まで開催された。この博覧会の閉会式に参列されるために来富された時に宿舎で山本先生が書かれたものである。」(「天界」1960年1月号/富山県天文同好会 津田雅之氏の文章より引用)
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富山市で産業大博覧会が開催される2年前の1952年のこと、博覧会を機会に天文台を建設して会場で一般公開することを目的に、富山県天文同好会と東亜天文学会会長山本一清は連名で県市教育委員会、その他関係機関へ陳情書を提出。

建設が決定されたのは翌年1953年の末、博覧会開会のわずか半年前。鏡面研磨の木辺成麿氏や架台製作の西村製作所らの全面的協力を得て、望遠鏡が会場に運び込まれたのは開会日の前日だった、とのこと。

山本一清の来富はこの縁でのこと。一方、音楽家・近衛秀麿は、博覧会行事として公会堂で催された演奏会の指揮者としての来富。

当時、国会では警察法案の成立を巡って議決妨害などで大混乱。警察官まで出動する乱闘騒ぎがあった。近衛の言葉はこれを受けてのことだろう。

ふたりは同じ旅館に宿をとり、記念のサイン帖にたまたま隣り合わせで署名したまでのこと。  それから50年あまり時が経つ。

・・・にもかかわらず、昨日今日書いたような、この不思議。
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冒頭、「第一版緒言」がありますので、初めの部分を転記します。

「本書は尋常中学初二学年の教科書として編纂したるものにして理科初歩の中、物理学及び化学に属する事柄を記述せり 説明は専ら帰納的にして生徒が日常見聞する所の事物と教室に於て示し得べき簡単なる実験とを基礎として近易なる諸現象に就きて明瞭なる観念を與へんとを目的とせり(以下略)」

内容は「第一課」から「第十五課」に分かれていて、例えば第一課では「理化学の要用/観察、推理、実験/空気、水、硝子の比較/空気/固体/流動体/液体/気体」を解き、

第五課で「熱の作用/空気と熱と金属に於ける作用/可燃物/燃焼の果成物/酸素の製方及び実験/空気は何より成れるか/(以下略)」を掲げ、

第九課で元素、金属、硫酸、珪酸、珪酸化合物などを扱い、第十一課で音響を、以後の課で、磁石、電流、雷電、重力、宇宙間の引力、水圧、大気の圧力、エネルギーの不滅、エネルギーの種類、等々を論じています。

総じて、物理と化学の融合を図ったような内容になっていて、それを平易な言葉で記述しています。

「化学的変化と物理的変化」の項目では
「酸素と銅とが化合して酸化銅を生ずるに当て酸素と銅との二物質は消失して酸化銅なる新物質と為りたり(中略)斯の如く物質の全く革新する変化を名づけて化学的変化といふ 化合、分解及び置換は其の主なるものなり 化学は化学的変化(及び其の条件)を講明する学なり

之に反して物質は依然として同一なるも其の状態は種々に変化するを得べし 例えば冷水と熱湯、静止せる水と奔流せる水との如し 斯の如く同一の物質として為し得べき萬般の変化を物理的変化といふ 物理学は物理的変化(及び其の条件)を講明する学なり」
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第六課の「炭酸の製法」の項、「第四十図に示すが如く大理石に塩酸を注加すれば盛に泡沸して無色の気体を発出す 之を石灰水中に通ずれば忽ち白濁す(以下略)」
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第九課の「珪酸」の項、「珪酸は単純なる形にて水晶、石英、燧石、瑪瑙等となりて現出し又珪酸化合物となりて存す(以下略)」


中学理化示教 生徒用 全
著者:池田菊苗
印刷:明治二九年十月二五日
発行:明治二九年十月三十日
  明治三十年三月二五日 再版
  明治三十三年一月二十日 八版 
発行兼印刷者:金港堂書籍株式会社
代表者:原 亮三郎
印刷所:帝国印刷株式会社
売捌所:各府県特約販売所
13.5×19.5cm/200ページ
定価:三十五銭
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明治19年6月に布達された「尋常中学校ノ学科及其程度」は、尋常中学での物理と化学の授業を第4学年で化学を週2時間、第5学年で物理を週3時間教授すると定めています。

しかし、4年と5年で別々に教授されるまえに、第2学年で初歩的な物理と化学の授業を週1時間教授することも定められています。週1時間というのは、物理と化学のふたつを合わせて1時間ですが、このふたつを統合した科目を一般的に「理化示教」と呼んでいました。

本日の池田菊苗著「中学理化示教 生徒用 全」の初版は、明治29年10月30日発行ですが、これ以前に同じ著者で「中学理化示教」(明治29年3月30日初版)というのが出されています。こちらは教師用を意識して発行されたものです。(未見ですので推測です。) 
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松井吉之助氏の論文(「理化示教」の研究)によると、明治33年までに発行された「理化示教」と題された書籍(教科書)は22冊あって、最も古いものは明治25年12月15日初版の「理化示教」(敬業社編纂・発行)で、次は明治28年2月25日初版の「理化学示教」(岡島書店発行・澤吹忠平/石川彌太郎)とのこと。

次いで明治28年10月18日初版の「尋常物理示教中学 全」(渡辺書店・神戸要次郎)、明治29年の「中学理化概要」(興文社編纂・発行)などで、池田菊苗の「中学理化示教」は発行順で行くと6番目に当たります。

教科書の検定制度は明治19年に始まりますが、実際に行われるまでには少し間があり、「理化示教」の教科書の最初の検定合格はこの「中学理化示教」の「訂正四版」で明治29年12月16日のことだそうです。

「理化示教」の教科書すべてが検定合格済みではなく、明治33年までに発行された22冊のうち、15冊が文部省検定済教科書になっています。

本日の「中学理化示教 生徒用 全」も文部省検定済教科書で検定合格は明治31年10月13日のことです。明治30年に発行された「三版」がその対象となっています。

以後、短期間に次々と版を重ねていましたが、明治34年の「中学校令施行規則」で「理化示教」の科目が廃止されたことにより、「中等教育理化示教」(明治33年7月/博文館/真島利行・岡田武松)を最後に理化示教用教科書の新たな発行も止まったようです。

なお、最後の理化示教用教科書の検定合格は、明治33年3月6日初版の「理化示教 全」(池田菊苗・桜井寅之助・原田長松共著/金港堂発行)で、明治33年8月22日に合格しています。


つづきます。
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