<   2011年 06月 ( 10 )   > この月の画像一覧

台風5号と梅雨前線の影響で九州各地は局地的に大雨となっていましたが、どうやら峠を越えたようで本日(27日)の午後現在、当地では薄日が射しています。

韓国のウェザーニュースをウェブで見ると台風5号は済州島の南海上を経て、黄海を北上後、北朝鮮の鴨緑江あたりに上陸したようです。

・・・で、この台風5号、日本での報道はほとんど「台風5号」ですが、韓国では「台風5号MEARI」と表記しています。因みに中国の天気予報を見ると「米雷」と書かれています。
d0163575_16333757.jpg

「メアリー」は一見女性の名のようですが、「やまびこ(こだま)」の意味だそうです。

日本を含む東南アジア14カ国・地域で組織する「台風委員会」は、平成12年から北西太平洋または南シナ海で発生する台風に固有の名前をつけることを決定しました。

そして加盟各国からそれぞれ10個の名前の提案を受けて合計140個の名前をあらかじめ用意し、台風の発生順に1番から140番まで名前を当てはめて固有名とすることにしました。

平成12年の台風第1号はカンボジアが提案した「Damrey ダムレイ(象)」と名付けられています。第2号は中国が提案した「Haikui ハイクイ(いそぎんちゃく)」です。

今回の「Meari メアリー(やまびこ)」は北朝鮮が提案した名前で、平成12年の台風第1号から数えて第115番目(2順目)の台風にあたります。最後の140番は、ベトナムが提案した「Saola サオラー (ベトナムレイヨウ)」で、その次に発生した台風は最初の1番「ダムレイ」に戻ります。

この固有名、日本ではほとんど用いられていませんが、他の加盟国では結構使われているようです。

因みにわが国は、星座の名前を提案しています。5番目の台風に名付けられた「Tembin (てんびん座)」や19番目の「Yagi(やぎ座)」、33番目の「Usagi(うさぎ座)」などです。

6月21日に香港の南南東400キロメートル海上で発生した台風4号は、わが国では「台風4号」と報道していましたが、これは114番「Haima ハイマー(タツノオトシゴ)」でした。

次に発生する台風(6号)は、116番で「Ma-on マーゴン 山の名前(馬の鞍)」、その次は日本提案の「Tokage (とかげ座)」です。しかし、やはり日本では「台風7号」と呼ぶでしょうね。
「台風 とかげ座」なんて報道するとワケわかんなくなるでしょう。
d0163575_16342585.jpg


さて、「気象観測と天気図」のこと。
全30巻の入門百科シリーズの最終巻で、読者対象は小学上学年から中学生です。
しかし、入門百科と銘打っていても結構内容は充実していますので、高校から一般社会人まで充分に読書に耐えうると思います。

この入門百科シリーズのラインナップは、「①人形の作り方」「②新しい手芸」「③折り紙と切り紙」などの女子向けと思われるものから、「⑥木の工作」「⑦模型の作り方」「⑨ぼくらの電気学」など男子向け(女子・男子に分ける必要はありませんが)のもの、あるいは「手紙の書き方」「詩の作り方」「じょうずな話し方」などというのもあって、守備範囲はかなり広いようです。なかには「統計図表の見方と作り方」とか「製図の見方とかき方」というのもあります。

理科系はシリーズ後半に集中していて、「昆虫採集」「植物採集」「岩石鉱物採集」の仕方とそれぞれの標本の作り方、「顕微鏡を使った観察」「化学実験」「物理実験」、そして本日の「気象観測と天気図」へと続いています。

「気象観測と天気図」は、「簡単な気象観測」「天気図の書き方」「天気図の見方」の三つの章に分かれていて、それぞれが6~11の小項目に細分され、それらを通読することによってひととおりの知識が得られるようになっています。文章に添えられた図は適確に選ばれた必要最低限の図の感があり、好感が持てます。

実際に観測を行う学校の気象班はもとより、観測はしないが天気図の見方をマスターしたいと思う個人にとって、大いに頼りがいのある本と思います。

気象観測と天気図 ポプラ社の入門百科30
著者:有賀淳(あるがあつし)
発行日:昭和四十年六月十五日 初版
発行所:ポプラ社
16×22cm/158ページ/函入り
定価:三百九十円
[PR]
昨日(6/24日)、関東地方では驚異的な暑さを記録したようですね。当地でも35.3度まで気温が上がり、6月としては観測史上最高温度に達っしたそうです。

関東の場合、前日に蓄えられた地上付近の熱が夜になっても雲にさえぎられて上空に抜け出すことが出来なかったうえに、当日、フェーン現象が重なったためとのこと。

本日の「気象の話」の「フェーン」の項目を見ると、

「昭和八年七月二十五日 山形市では午前中は軟風で風向も定まっていなかったが、午後風向が南西となると気温が急昇して十五時に四〇.六度、湿度二六%となり、最高四〇.八度を観測した。これはわが国の最高気温である。これはいわゆるフェーンのために気温が上昇したのである。」と書かれています。文章はこのあと、図と数式を使ってフェーン現象発生のメカニズムを説いています。
d0163575_1274820.jpg

著者の山田国親氏は、昭和4年に東京大学理学部地震学科を卒業ののち、旧陸軍気象部に籍を置き、気象観測所長・教官を勤めています。この本が出された当時(昭和24年)の肩書きは「中央気象台附属気象技術官養成所 講師」で昭和20年9月からのことです。

中央気象台附属気象技術官養成所の前身「中央気象台附属測候技術官養成所」の設置は大正11年で、「気象技術官養成所」に改称されるのは昭和14年、昭和26年に「中央気象台研修所」と名を変え、さらに昭和31年に「気象庁研修所」に変更、現在の「気象大学校」となったのは昭和37年のことです。

さて、「気象の話」は「うち中で読む科学の本」シリーズの1冊で、この時点(昭和24年)での既刊は「気象の話」を入れて9冊あります。ラインナップは「ニュートンのりんご/ビタミンの話/電波の話/魚の話/原子物語/ワットの鉄びん/細菌の話/天気予報の話」で、「以下、寄生虫の話、地震の話など続々刊行の予定」となっています。

内容は「やさしい文章と解説でうち中揃って楽しく読める科学の本」の惹起文のとおりなんですが、けっして子供向きではなく、むしろ、学生~大人向けの一般教養書よりちょっと上という感じです。

数式がところどころ出てきますが、これを無視しても文意は充分に伝わってきます。また、文章に添えられた全部で75もの図と多くの数値表でさらに理解度は高まることと思います。

全体が11の章に分けられ、それぞれの章に例えば「大気の底の圧力はどのくらいか」とか「気圧の測り方」とか「火災と湿度」とかの小項目がたくさん掲げられています。

・・・で、その小項目にはそれぞれの項目に即したエピソードが加えられていて、これがすこぶる面白い。本日はそのなかから一つだけ転記します。文章は非常に短いので、全文を書き写します。

読み終わったあと「なあ~んだ。それがどーした!。」と突っ込みを入れたくなるかもわかりませんが、まあ、読んで見てください。

「ニュートンの少年時代」/「外は非常に風が強く吹いていた。この中を一人の少年が風を背に受けては飛び、風に向っては飛び、何回も幅跳びをやっていた。少年に聞くと幅跳びの距離で風の速さを測っているのだとのこと、これはニュートンの少年時代のある日の出来事であった。」

以上が全文ですが、子供のころ、台風シーズンにこんなことやってませんでした?。
ポンッと飛び上がると風のチカラでいつもより遠くまで飛べるんじゃないか、と思ったりして。

このニュートン少年のエピソードは「風」の章に載っています。章立ては「地球と空気」「気温」「大気中の水蒸気」「雲」「雨」「気団と前線」「温帯低気圧」「高層の気象」「季節の気象」「気象学の発達史と気象事業」等々です。

うち中で読む科学の本⑨ 気象の話
著者:山田国親
印刷:昭和二十四年五月二十日
発行:昭和二十四年五月二十五日
発行所:主婦之友社
13×18.5cm/299ページ
定価:百十円
[PR]
詳細不明の・・・、天文同好会の会誌と言ってよいのやら...。
よくわかりませんが、日付の前の「Note Observation」が誌名で、その第22号ということでしょうか。

執筆者は東山天文台(名古屋市)の「H.Yamada」氏です。二つ折りの4ページ会誌?(あるいは講習会などのテキスト?)で、画像はその表紙です。

描かれているのはオリオン星雲で、「V.G.Fessenkovに依って描かれたオリオン星雲の姿」の添え書きがあります。「山田 写」とも書かれています。
d0163575_15202638.jpg

2ページ目は、「不定形ガス状星雲の一般論」と題し、オリオン大星雲などの不定形ガス状星雲が光る原因とされた従来の説(星雲中に含まれるネブリウム(Nebulium)と仮に名付けられた未知の元素の作用とする説/1864年~)を退け、自らの観測によりプレアデス星団を包むガス状星雲の光る原因を究明したスライファーの功績(星団の中の恒星が発する光を反射して光っているとする説/1912年)を紹介しています。

3ページ目は、ハッブルが1922年に発見した「星雲の明るさと、星雲を光らせている恒星の間には逆2乗の法則が成り立つ」ことを「エネルギー源恒星の光度と星雲の拡がりとの関係」のタイトルで解説しています。

4ページ目(最終ページ)は、オリオン大星雲についての解説と表紙に描かれたオリオン大星雲の図についての説明です。一部を転記します。

「最近ソビエット連邦のV.G.Fessenkovはオリオン星雲の見とり図を発表した(1ページ参照)。彼の作品は恐らく多くの議論をまきおこし、又非難を受けるかも知れない。見取り図は過去の如何なるそれとも似ていない。

・・・彼はこの図の中に、星々をつなぐ繊糸状の「星鎖」をいくつも描いている。彼はオリオン星雲内に行われつゝある原始恒星の誕生を暗示するのである。・・・比較的無意識に美しさを味はっていたオリオン星雲も、今この新しいロシヤの科学者に依る発表と同時に、一度注意の眼を向けたいと思う。」


Note Observation - 22 Feb.6.1954
Higasiyama Astronomical Observation by H.Yamada
「ORION NEBULA」
25.5×35.5cm用紙を二つ折り/4ページ

ところで、謎の元素ネブリウムはその後どうなったのか。

ウェストン・スライファーによって星雲が発光する理由が解明されても、依然として星雲スペクトル中に現れる輝線の由来(ウィリアム・ニコルソンによって元素ネブリウムの存在が指摘された)は謎のままでした。

・・・が、やがて、ヘンリー・ノリス・ラッセルが発表した「恒星から輻射される強烈な紫外線または電子の流れは、たとえ低温で低密度のガスであっても当たれば輝線を放ち得る」という説を手がかりに、1927年に至ってアメリカの天文学者アイラ・ボーエンにより、正体不明のスペクトル線はイオン化した酸素であることを突き止められ、ネブリウム問題は解決されたのでした、とのことです。
[PR]
今年もビワが店頭に並ぶ季節になりました。

我が庭先のビワの木もたくさんの実をつけ、次々に食べ頃を迎えています。
この時期、田舎道を行けばあちらこちらの庭先や屋敷の隅などに大量の実をつけたビワの木に出会います。ビワの木は剪定をせずに放って置くとかなりの大きさになるので、遠目には黄色の丸い花がいっせいに咲いているように見えます。

当地は「茂木ビワ」の一大産地長崎に近いこともあって、それぞれの庭先のビワの品種はほとんど「茂木」のようです。
d0163575_13531728.jpg

庭先のビワ。
長径4~5センチです。やや小ぶりですが、甘さは店頭ものと比べて引けを取りません。

ビワの原産地は中国の江南地方だそうで、日本列島には非常に古い時代に渡来し、列島西南部の石灰岩地帯などに着生した、とのこと。しかし、この野生種の実は小さく酸味も強いため、ほとんど利用されることはなかったそうです。

果樹として栽培されるようになるのは8世紀ごろからで「正倉院文書」や平安時代の「延喜式」などに記述が見られるものの、依然として利用価値は低く、食用としてはさほど重要視されていなかったように思えます。

・・・が、同じく平安時代の「三代実録」の元慶7(西暦883)年5月3日の条に陽成天皇が宴を催すにあたり、「枇子杷一銀椀を賜う」た、とあるので、饗応に呈するほどのビワもあったのではないでしょうか。あるいは、単なる珍味としてのビワ饗応だったのでしょうか。

現在、店頭に出回っているビワは在来種を改良したものではなく、江戸時代末期(天保~弘化の頃)に中国南部から長崎に伝来した種を茂木村の三浦シオという女性がもらい受け、栽培したことが始まりだそうです。関東南部から中国・四国地方で多く見られる「田中ビワ」はこの茂木ビワの実生から発見されたもので、明治中期から栽培されています。
d0163575_1355370.jpg

花が咲いたようにも見えるビワの木ですが、問題は大きくなりすぎること。我が家では毎年5~6本、枝を落としています。

「枇杷黄なり 空はあやめの花曇り」 素堂
[PR]
かなりインパクトのあるタイトルですが、この地名は実在します。
ただし、湖の名前ではなく、Kintamaniは高原の名前です。

この高原のふもとにバトゥール湖というのがありますので、著者はこの湖を仮にキンタマニー湖と呼んだのでしょう。あるいはこのような別名があるのかもわかりません。

いづれにしてもKintamaniはバリ島の有名な観光地のひとつだそうですので、行かれたことのある方は、大勢いらっしゃることと思います。

著者はこの湖があるバリ島に旧海軍民政部の技師(医官)として2年あまり滞在しています。そのときの体験を綴った表題作のほか、ヤップ島・サイパン島での体験談、日本軍占領直後のアンボン島(モルッカ諸島の一部)白人婦女収容所でのできごと、マーシャル諸島の病院で目にした「アンナ」と書かれた女性の頭蓋骨に纏わる秘話、ジャワ島のボイテンゾルグ植物園(現ボゴール植物園)見学の話などで構成されています。
d0163575_0582938.jpg

著者は医大卒業後、国内の病院で勤務医として働いていましたが、やがて先輩医師に誘われて南洋庁所属の医官としてヤップ島へ渡ります。渡航した年代は本書のなかには書かれていませんが、著述の前後の文章から昭和10年頃のことと思われます。

当時、南洋群島は日本の委任統治下にあり、サイパン・ヤップ・パラオ・トラック・ポナペ・ヤルート・アンガウルの各官営病院へ医師を派遣していました。

著者はヤップとサイパンに5年ほど滞在し、このとき出会った数々の椿事・珍事件を現地の風習を交えて軽妙洒脱な筆運びで書きとめています。サイパン滞在の時期は書かれていませんが、アメリア・イヤハートの話題が出てきますので、昭和12年頃のことだろうと思います。

盧溝橋事件は昭和12年の7月に起きていますので、著者のサイパン滞在時にはすでに日中戦争に入っていたと思われます。それなのにこの本の内容の脱力的なこと!!。 

一ヶ所のみ、機雷処理失敗による悲惨な出来事が書かれていますが、あとは戦闘場面など一切出てきません。

ひとつには、南洋群島まで戦火が拡大していなかったこと、もうひとつは著者が海軍・陸軍の軍医ではなく、南洋庁所属の医官であったことが挙げられると思います。さらには、意識的に悲惨な話題には触れないようにした、のかも知れません。

マーシャル諸島の病院での「アンナ」の物語は悲惨と言えば悲惨なことに違いありませんが、哀切極まる出来事を情を込めて綴っていますので、読了後、何かしら暖かいものが心に残ります。

後半の「白人婦女収容所」「マダム・マタハリ」「バリ島夜話」「慰安所の生態」等々は、二度目の渡航時のことで今度は海軍民政部の医官の肩書きでした。

このときはすでに太平洋戦争にはいっていたようで、大洋丸撃沈事件に触れた個所があるので昭和17年以降のことを書いたものと思います。

内容は前半のヤップ・サイパン勤務時同様、ちょっと信じがたいほど浮世離れというか、戦時中離れしたものになっています。特に表題作「キンタマニー湖の魔女」は、スリリングな物語展開のなかにユーモアを散りばめて絶妙なバランスで魔女を語っています。


キンタマニー湖の魔女 元海軍民政部技師の記録から
著者:吉田昇平
発行日:昭和38年1月10日 初版
発行所:同盟通信社
装丁:布施信太郎
17.5×11cm/311ページ
[PR]
アルデバラン食の観測を呼びかける回報で、発行は大阪の電気科学館内に本部を置いた「天文研究会」の観測部です。

よく似た名称に神田茂氏の「日本天文研究会」がありますが、本日の「天文研究会」は、伊達英太郎氏が主宰した「少年天文研究会」がその始まりとなっています。
d0163575_2431191.jpg

1929年、「天文同好会(のちの東亜天文協会・東亜天文学会)」の大阪南支部長・伊達英太郎氏は、大阪地方を中心に全国より同好者を募って「少年天文研究会」を組織。

約70名の参加を得て会誌「Milky Way」を発行するなど活発な動きを示していましたが、会結成の2年後に解散、あらためて1931年に「天文研究会」と名称を変えて再発足させています。

同研究会は、1937年に電気科学館が開設されたのち、同館内を本部として活動しているのですが、本日の「観測回報」、発行年が書かれていませんので昭和何年のアルデバラン食かわかりません。

しかし、旧字体で書かれていますので少なくとも戦前であろう、とは推測します。(・・・戦後しばらくは旧字体を用いていたという事例もありますが。)

アルデバラン食は珍しい現象ではないと思いますので、それ自体はさほど気になりませんが、食が起きた年を知ることでこの回報の発行年がわかります。・・・が、発行年を調べるにしても食の回数が多いことですから、ちょっとそこまではその気が起きません。

本日は、こんなこともありました、という程度の単なる紹介です。
[PR]
全31ページの小冊子ながら、アインシュタイン塔建設に至るまでの経緯や設計者メンデルゾーン(1887-1953)の人となり、建築中の様子、完成後のさまざまな出来事などが要領よく纏められています。・・・、と言ってもドイツ語ですので読めるわけではなく、ページごとに添えられた豊富な写真を見ながら、書かれていることを想像するという超読書法による感想です。
d0163575_14235673.jpg

この塔は1921年から24年にかけて建てられ、ドイツ表現主義建築の代表とされています。アールヌーボー様式の流れを汲んだデザインは少し奇抜すぎる感もしますが、映画芸術などではなく、建築に表現主義を取り入れるとこのような形になるのだなあ、となんとなく納得です。

当時としては新しい建築材料だったコンクリートを多用しています。
しかし、コンクリートだけでは技術的に無理なところもあり、一部にレンガを使っているそうです。
d0163575_14243942.jpg

建設中のアインシュタイン塔。正面玄関側より撮影。(1921)
d0163575_14251844.jpg

玄関前のポーチに立つアルベルト・アインシュタイン(1921)
d0163575_14261195.jpg

連合軍の爆撃により破壊されたアインシュタイン塔と復興後の姿。(1945/1950)
d0163575_14264642.jpg

光路図/塔の最頂部のドームには望遠鏡ではなく、シーロスタットと呼ばれる2枚の平面鏡が設置されている。このシーロスタットによって塔内に導入された太陽光は、塔の最下部で直角に折り曲げられて分光観測される。

このアインシュタイン塔、最初は奇異に感じるのですが、見慣れてくるとなかなかいいなあ、と思えてくるのが不思議です。

金属の輝きとコンクリートの質感に違和感はありません。
それに曲線を描きながらも安定感を持った玄関廻りと、その上にスックと立ち上がる塔部分に、恐竜の脚を思わせる力強さを感じます。

設計者エーリッヒ・メンデルゾーン34才のときの作品であり、彼が世に出るきっかけとなった建築作品です。



Der Einsteinturm in Potsdam
11.5×17.5cm/31ページ
DKV-KUNSTFUHRER NR.588/1
Erste Auflage
Deutscher Kunstverlag GmbH Munchen Berlin
[PR]
6月2日の「東京天文台絵葉書 第六集」について少し補足します。

下の画像は「第六集」が入っていた封筒の内側に印刷された天文台構内図です。
d0163575_13435672.jpg

構内の中央よりやや下に逆T字型に区切られた箇所があり、「9」と番号が振られているのがわかると思います。ここが天文台本館部分で、これを起点にして左上に目をやると「6」があります。

「6」が東京天文台で最大の望遠鏡を収めた「65cm赤道儀室」です。さらに「6」の左側に移ると「3」があります。「3」は「塔望遠鏡室」です。「3」の上に小さく「4」があります。これは「第一子午線標室」です。

次に6月2日の絵葉書をご覧頂きたいのですが、まず、上の1枚から説明いたしますと、絵葉書の左端のドームが「6」の「65cm赤道儀室」で、右端近くの縦長の建物が「3」の「塔望遠鏡室」で「アインシュタイン塔」と愛称されるものです。

「65cm赤道儀室」と「アインシュタイン塔」のあいだに屋根の部分が白く写っている建物があります。構内図では「2」にあたります。ここは「太陽写真儀室」でスペクトロヘリオスコープとカルシウムK線分光器が置かれていたそうです。

さらにその右側にアメリカのブラッシャー社製天体写真儀が収められた「天体写真儀室」が小さく写っています。「アインシュタイン塔」の左下に見える台形の建物は「第一子午線標室」です。

2枚の絵葉書のうち下の絵葉書にはさらに多くの建物が写っていて、それぞれの建物が東西南北にきちんと並んでいる様子がわかります。本館は絵葉書中央やや左よりのところに写っていますが、その前の道路は精確に南北に走っています。道路の手前が北で奥が南です。

非常に広い敷地であることがよく解かりますが、これが全てではなく、画面手前にはアンテナ群や官舎などが立ち並んでいたようですので、構内全域の2/3くらいしか写ってないのではないでしょうか。
[PR]
昨日(6月5日)、山口県を含む九州北部が梅雨入りしたようです。
昨年より7日早いが、例年並みとのこと。九州北部の梅雨明けの平均日は7月18日ですので、ひと月半程度のあいだ、まあ、仕方がないことです。

しかし嫌な事ばかりではありません。蒸し暑い時や梅雨末期の集中豪雨は閉口ものですが、梅雨には梅雨の楽しみがあります。
d0163575_1225516.jpg

激しく雨が降った後、せわしなく去来する雲と雲のあいだに思いがけず清浄な星々を見とめたとき。あるいは、仄暗い庭の片隅に白いドクダミの花を見つけたときなどは、梅雨であってこその美しさを感じます。もっとも、白い部分は花びらではないそうですが・・・。

ドクダミは「毒を矯める」や「毒痛み」が変化したものだそうですが、我々は子供の頃は「にゅうどう草」と呼んでいました。今でも一定の年代以上の人たちは「にゅうどう草」とか漢方名で「ジュウヤク(十薬)」と呼んでいます。

藤原道綱母の「蜻蛉日記」の石山寺詣の段で次のように書かれている箇所があります。

『かくのみ心尽くせば、ものなども食はれず。「しりへのかたなる池に蕺(しぶき)といふもの生ひたる」といへば、「取りて持て来」といへば、持て来たり。笥(け)にあへしらひて、柚おし切りてうちかざしたるぞ、いとをかしうおぼえたる。』

(このように心労を重ねているので、食欲がない。寺の裏の池に「しぶき」というものが生えています、と言うので、取って持って来て、と言うと持って来た。器に盛り、柚子を切って添えているのでなかなか美味しいと思った)
d0163575_122225.jpg

蕺(しぶき)は、「和名抄」には「之布木」または「之不岐」とあってドクダミの異名とされるが不明、とのこと。これについて江戸時代後期の書誌学・文献学者、狩谷棭斎は「今俗にシブトクサと呼ぶ、当にこれシブキの転なるべし。或はドクダミと呼ぶ」と記し、それに倣うように多くの「蜻蛉日記」の注に「しぶきはドクダミのこと」とされているがそれは間違い、とは岩波の「日本古典文学大系」の「かげろふ日記」の校注者川口久雄氏の弁。

川口氏は「臭酸があって小毒あり、薬用にしか供さないドクダミを、珍重するいわれがない。」とし、「しぶきはシブクサ(いわゆるギシギシ)をさすのだろう」と記している。

このことは小学館の「日本古典文学全集」の「蜻蛉日記(木村正中/伊牟田経久校注・訳)」にも書かれている。

宮澤文吾・田中長三郎共著の「有用野生植物図説/1948年発行」には、「・・・昔は食用としたものらしく蜻蛉日記には明かに食ったことを記す。併し近代は臭気に堪えず食う人は無いようである(以下略)」と書かれている。

そこで、私は庭の隅からドクダミ採ってきて食べてみました。別に意味は無いのですが塩をひと掴み入れて茹でること2分。葉は薄いのですぐ茹で上がります。

独特の臭気は相変らずでしたが、けっこう食べることができました。と言うか「味がなかった!」。
これはかなり意外でした。苦味や渋味があるかな、と思ってましたので。

茹でドクダミは、事前に入れた塩の薄い味がしただけでした。いや、かすかに甘みがあるような無いような・・・。しかし、匂いはやはり気になりますね。中国四川料理には、ドクダミの独特の匂いを利用して作ったソースを使った料理があるそうですが。

藤原道綱の母が食べたのはドクダミではなくギシギシだったのかも知れませんが、乾燥したドクダミを煎じて飲むのはともかく、生葉も食べようと思えば食べられるようです。

ただし、腎機能が低下している人などは要注意とのこと。やはり、よくわからんもんは、食べないことですね・・・。
[PR]
「望遠鏡を見に行かないか?」月曜日の朝、かおを合わすなりオットーは云いました。・・・その前の土曜日の晩、われわれのハーヴァード氏の塔に輝やかな豆電灯が点ったのですが、日曜は余所へ出かけたので、私は彼とは逢わなかったのでした。

「どこなんだ」「A山だ・・・Eっていう人がこんどロンドンから買って帰ったんだ。A山に円屋根を作ったんだよ。」

「へーえ、・・・ハンドルもついているの?」「むろん! ぼく土星を見たよ。これっぱかしだ。」とオットーは、親ゆびと人差指とを曲げて小さい輪をこしらえました。

「どんな色をしていた?」「黄いろと紫がいっしょになったような・・・」「環も見えたかい?」「ああハッキリ・・・輪が一段と薄くなっている部分から、土星の本体がすいて見えるところなんか、きみに見せたら何というか知れないよ」
d0163575_20252143.jpg

「そら!」と彼は晴れやかな声で注意しました。
「あそこなんだよ・・道はうしろの方から登るのだ」

指し示されたこの辻の左向う、銀梨子地の星空の下に、そこを半円形に区切っているポプラらしいものが生えた丘と、そのてっぺんに載っかっている、オットーの服の色と同じ緑色の灯影が洩れた円屋根の影とが透かされました。(稲垣足穂/天体嗜好症 より)
[PR]