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今、修理に出しているパソコン、最初のトラブルはウイルス対策ソフトを入れた直後だったので、これが原因のような気がするんです。・・・で、仮に修理完了で戻ってきて再使用となると、やはりウイルス対策ソフトは入れなければならないし、と言ってまた同じようなトラブルに陥る可能性があるような気もしますし・・。

どうしたもんでしょう?
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いつもご覧頂き、たいへんありがとうございます。
突然ですがしばらくの間、拙ブログの更新をお休みいたします。
じつは数日前、パソコンが壊れてしまいました。なんとかせねば・・・、といろいろいじっているうちにさらに悪化、ついにダウンしてしまいました。

プログの更新はできないことはないんですが、消えたデータの回復に全能力(わずかですが)を投入しなければならないので、ちょっと余裕がありません。

頂いたコメントは今までどおりお返しできますので、どんどん頂ければ嬉しいです。
なお、本館のHP「いるか書房」は平常どおり営業していますのでメール・FAX・電話で何卒宜しくお願い申し上げます。ただし、メールの「返信」は機能的というか技術的にできない場合もあります。恐縮ですがどうぞお許しください。

カタチあるものは必ず壊れる、とは言え、また、なんで? なんで?、を繰り返すばかりです。ああああ・・・。
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4月3日の続きですが、その前に「吉田学軒顕彰会」からのお知らせを。

来る4月29日(祝)、顕彰会総会並びに「第3回昭和まつり」が開催されます。今回は諸般の事情により、昭和レトロ骨董市、模擬店、ステージイベントは中止とのこと。下記のとおり総会行事と記念講演のみだそうです。

日時:4月29日(祝)、10:00~10:40総会/10:40~11:40記念講演「みやこの先人たち」
講師は「みやこ町歴史民俗博物館」学芸員の川本英紀氏。
場所:京都郡みやこ町勝山(福岡県) サン・グレートみやこ1階研修室/展示コーナー(ロビー)「目で見る昭和」「顕彰会の活動記録」

以上です。

さて、「鴎外の婢」ですが、もう少し綾塚古墳について記します。この古墳は、直径約40m、高さ約7mの円墳で、すぐ近くの「橘塚古墳」とともに北部九州を代表する横穴式巨大古墳です。横穴式古墳は石室構造の違いで「単室」構造と「複室」構造に分けられますが、綾塚古墳は複室構造を持ち、石室全長は19メートル余りとなる複室構造横穴式古墳としては、全国的に見てもかなり大規模な古墳です。

明治5年に来日したイギリスの造幣技師ウィリアム・ゴーランドは大阪造幣寮で造幣技術を指導する傍ら、日本各地の古墳を調査し、「複室構造の横穴式石室」の古墳代表として綾塚古墳を取り上げて非常に精度の高い実測図を残しています。

ゴーランドは帰国後、「日本のドルメンと埋葬墳」1897年(明治30年)を著し、そのなかで綾塚古墳について次のように書き残しています。

「・・・・伝承によると、これは景行天皇の時代の皇女、速媛の墓だそうで、皇女の宮殿跡は、隣接した峡谷との境となっている高地上にある、といわれている。(中略)ドルメンは徹底的に盗掘され副葬品については何一つ分かっていないので残念ながらドルメンからは年代を知る証拠は何も得られなかった。」(日本古墳文化論-ゴーランド考古論集/創元社1981年より)
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石室入り口の天井大石を支えている円柱は鳥居の脚部だったもの。側面に「延宝八庚申年(1680)三月吉祥日・・」と刻まれています。

ところで「鴎外の婢」のこと、ずいぶん横道にそれましたが主人公浜村は女帝窟を見た後、稗田地区で「ハツさん」の消息を訊ねるのですが要領を得ないまま小倉の宿に帰ります。

その夜、浜村は「ハツ」の行方を知る手がかりとなる人物に出会い、翌日意外な方向へと進んで一気に小説はクライマックスへ向います。

・・・「鴎外の婢」に出てくる行橋とその周辺の地名をいくつか取り上げましたが、これ以外に非常に多くの実在の地名が登場します。小説のストーリー上、遺跡関係の地名が多いのですが、出てくる地名をすべて取り上げれば、ひと通りこの地方の旧跡めぐりができると思われるほどです。

さらに紹介するとなると、「鴎外の婢」から遠ざかっていくばかりなのでここでやめます。

「鴎外の婢」
著者:松本清張
発行所:新潮社(新潮文庫)
昭和49年4月5日発行
「書道教授」を併録
解説:権田萬治
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白鳥座付近の銀河
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「まあ、たくさん! きれいだこと! こんなに見たの初めてだわ・・ あなたあの名まえを知ってる?」

「ええ、そりゃ・・ いいですか、私たちのまっすぐ上にあるのが、あれが「聖ヤコブの道」(銀河)。あれはフランスからまっすぐにイスパニアへ行っています。勇ましいチャールス大帝がサラセンを討った時、ガリスの聖ヤコブがあれをこしらえて、王様に道を教えたんです。」(ドーデー作/桜田佐訳、風車小屋だより より)

大熊座
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「もっと遠くにあるのは、「魂の車」(大くま)で四つの車軸が光っています。その先を行く三つの星が「三匹の獣」で、その三番目の向こうの小さいのが「車ひき」です。(同、風車小屋だより より)

羊座
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「皆の中で一番きれいなのは私たちの星、「羊飼いの星」です。明けがたに私たちが羊を連れ出す時にも光れば、夕方入れる時にも光ります。私たちはこれを「マグロンヌ」ともいっています。美しい「マグロンヌ」は「ピエール・ド・プロヴァンス」(土星)の後を追って、七年目ごとに「ピエール」へお嫁に行くんです。(同、風車小屋だより より)


フラムスチード天球図譜
昭和18年7月5日印刷
昭和18年7月8日発行
昭和21年10月15日再発行
編者 土居客郎
発行者 株式会社恒星社厚生閣
印刷所 仲外印刷株式会社
15cm×21cm/221ページ
1~3ページ 刊行ノ辞 恒星社識
6~12ページ 緒言
13ページ 1776年4月30日及ビ5月5日ノ帝室理学協会 覚書ヨリ抜粋
14・15ページ 図面ノ順序ト番号表
図面 30図
137・138ページ 恒星表ニ就テ
139~147ページ 恒星表
148ページ 南中表(春分点子午線経過表)ノ使用法
149~154ページ 時刻表/赤道上ノ度数ヲ時間ニ改算シ、又時間ヲ赤道上ノ度数ニ改算スル法ニ就テ
155~202ページ 星座トソノ諸星ヲ見知ル法
202ページ 終 千七百七十六年王室印行役 エリッサン未亡人印行
203~221ページ 解説 薮内清/野尻抱影
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「本書ノ原本ハ京大名誉教授小川琢治博士ノ御所蔵ニナルモノデアル。初版後約80年ヲ経テ改訂サレタ第二版デハアルガ、ソレ自身既ニ200年近クヲ経タ稀観書デアル。図版原形ガ異状ナク保タレテキタノハ全ク天運ト称スベキデアラウ。(以下略)」(恒星社編フラムスチード天球図譜 刊行ノ辞より)
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「グルウンランド 東ハ欧羅巴ノ北海ニムカヒ 西ハ「ダニヤのーハ」ナリ 此ヲ洲ノ極北トス 西北「ダヒス峡」アリ 南北ハ其ノ極ル所ヲ知ラス 此地「ウンコール」ヲ産ス モトヨリ氷国之」(喎蘭新訳地球全図 北亜墨利加の冒頭より)
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早春の南天高く輝く一対の星を、神の宿る熊の耳とみて、アシルペノカノチウ(熊耳星)という。
現行星座の双子座のα星とρ星を結んで熊の左耳(ハラキシ)、β星とσ星を結んでシモノシ(右耳)とよび、ハラキシとシモノシの対を熊の両耳とみて、アシルペノカノチウという。(末岡外美夫著 アイヌの星より)

フラムスチード天球図譜について当ブログでくどくどと述べることはありません。
星座絵をどうぞお楽しみください。

続きます。
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各大洲の説明に入る前に南北両極や赤道や熱帯・寒帯の区別、緯度経度などについて書かれています。
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下の掲載画像は原図でいうと右側の半球のすぐ上、小さな三重の丸が認められると思いますが、その部分を転写したものです。見たところ、どうも天動説の立場で説明しているようです。このページ以降、2ページに亘って南北両極地方の昼夜の区別、北極星の高度などが記載されています。
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地誌は「亜細亜」から始まり、「亜弗利加」「欧邏巴」「北亜墨利加」「南亜墨利加」と続き、「墨瓦臘泥加」「智里国」で終っています。「亜弗利加」では「一曰利未亜ト古称ナルベシ」と添え書きがあり、「利未亜」にリミヤと読みがふられています。

また、「墨瓦臘泥加」と「智里国」は、それぞれ「メガラニカ」「ギリ」と振り仮名付きです。「メガラニカ」は南極近くに今だ知られていない大きな大陸があるのではないかという推測のもとに名付けられた架空の大陸で、当時、南極大陸の一部と思われたフエゴ島を発見したフェルディナンド・マゼラン (Magallanes)にちなんでいます。

ギリ国についてはよくわかりませんがニュージーランドのことでしょうか。(全くの思いつきです。)原図の地図を見るとオーストラリアの一部が南極地方の巨大大陸と繋がっていてさらに南極に近いところに「南極夜国」「墨瓦臘泥加」と記入され、その巨大大陸の海岸線をたどって行ったところに「智里国」の記入があります。「智里国」の文字の近くには「テルラデスエタツト称ス」と書き込まれています。

智里国の説明文は三行で終っていますので全文を書き写します。

「未詳地 西北ニサシ出タルヲ新人謁蘭垤亜ト云「テルラデスエタツ」トモ云 東ノ一島ヲ「ダラカ」ト云人初テ見ル 凡ソ此際ノ諸島 西洋人タマタマ見ル所ヲ記ス」

新人謁蘭垤亜は、「のーハセーランデヤ」と振り仮名が付いています。「のーハ」は、「ノヴァ(新)」で「諾髪(のーハ)」と表記された地名も南北アメリカの説明部分で数ヶ所散見されます。

橋本伯敏は大槻玄沢に蘭学を学んでいますが、世界地図を作るにあたってはオランダ語を解することができない朱子学者たちによって作製されたマテオ・リッチ系世界地図を参考にしたため、新知見の取り入れが少なく、ニューギニアとオーストラリアが一体となっていたり、カルフォルニア半島が独立した大島として描かれたりしていて、その後に次々と刊行されるようになる新知識をもとにした蘭学者たちの世界図と比べていささか見劣りが感じられるようです。

実際の地勢により近い世界地図刊行は、橋本伯敏の地図から2~30年あとの1800年代初頭からであることを考えると伯敏の地図は、マテオ・リッチ系の古い形態から蘭学系の新しい形態への過渡期に作られた地図と言えるのではないかと思います。



和本/17cm×23.5cm/19丁/題せん欠(当初からの有無は不明)
筆写の年代は書かれていません。筆者名は「小西義忠」とあるのみです。
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イエズス会士マテオ・リッチ(1552-1610)が中国での普及活動の一助として「坤興万国全図」を出版したのは、1602年のこと。それから50年後の1652年、この「坤興万国全図」をもとにしたと思われる「万国総図」が、わが国で出されています。

「万国総図」は作者不詳ですが、これが西洋知識に基づいて作られたわが国最初の世界地図で、マテオ・リッチ系地図と呼ばれるものです。この地図は仏教的世界観に基づいて作られたそれまでの地図「仏教系世界図」とは大いに異なるものでした。

そして1708年、この「万国総図」をもとにして当時の地図製作の第一人者である石川流宣が「万国総界図」を発表し、さらに1788年(天明8年)に至り、石川流宣の流れを継いだ長久保赤水が「地球万国山海興地全図説」を発表しました。赤水は原目貞清の「興地図」(1720年)とこのマテオ・リッチ系世界地図を参考にしたといわれています。

本日の「喎蘭新訳地球全図」、1796年(寛政8年)の発表で製作者は大阪の医師橋本伯敏(橋本宗吉)、校閲は長久保赤水。

赤水は1788年(天明8年)発表の「地球万国山海興地全図説」の前に「改正地球万国全図」(1785年・天明5年) も刊行しており、橋本伯敏が世界地図を発表したときにはすでに世界地図製作の権威の一人になっていました。

その赤水の校閲を得るということは、いわば「喎蘭新訳地球全図」は、当代第一人者のお墨付きを得た「最新の地図」ということになると思うのですが、実はこの世界地図、発表の4年前の1792年(寛政4年)に出された司馬江漢の「地球図」より内容的に劣っており、どうやら古い時期に刊行された世界地図をもとにして作成されたことが窺えます。(1600年代前半に活躍したオランダの地図製作者ブラウらの地図を参考にしたと考えられています。)

喎蘭新訳地球全図は本来、下図のように50×90cmくらいの一枚図で、東西両半球図のまわりにヨーロッパ・北アメリカなどの地誌が細かく書き込まれたものです。
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(画像は神戸大学附属図書館のHPより拝借しました。)

本日、拙ブログ紹介の和綴じ本は、東西両半球図なしの地誌のみが書き写された「写本」で、「浪華 佛斉居士」による序文の次から本文が始まります。
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喎蘭新訳地球全図 水戸赤水長先生 閲
          浪華 橋本直政伯敏氏 製
          平安銭 希明子遠甫  校

「古ヨリ謂 天ハ円ク地ハ方ナリト 之陰陽ノ理ヲ以テ謂フノミ實ハシカラス 地ハ球ノ如ク円ニシテ天ノ中央ニカカルカ如シ 地ヲ離ルルノ外 四方上下皆悉ク天ナリ 其球の如キモノ凹ナル所ハ湖海ヒタタリツキ 凸ナル所ハ山岳ノ峙ツナリ 平ナル所ニ 人居ス 菓瓜ニ虫ノ生タルカ如キモノナリ 一地球ノ中ニ山六海一平地ト俗間ニイヒナラハセリ 凡ソ其如クナリ(以下略)」

冒頭部分5行のみ書き写しましたが、この写本は原図からの直接転記ではないようで、例えば文中の「地ハ球ノ如ク円ニシテ」という箇所は原図では「地ハ球ノ如ク毬ノ如ク円ニシテ」となっていますし、「一地球ノ中ニ山六海一平地ト俗間ニ」は「一地球ノ中 三山六海一平地ト俗間ニイヒナラハセリ」となっています。

続きます。
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「THE ILLUSTRATED LONDON NEWS. JAN.23.1875.」の73ページに掲載された「金星日面経過観測所」で、マダガスカル島の東約900kmに位置するモーリシャス諸島に置かれた観測所とハワイのホノルルに置かれた観測所が描かれています。
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画面の中央あたり、5人が並んでいるところから下半分がサンドウィッチ諸島(ハワイ諸島)ホノルルの観測地風景です。上半分は、ジェームズ・リンゼー卿のモーリシャス観測所風景。

この号が発行された前年、1874年12月9日に金星が太陽の前面を横切るというかなり珍しい現象が見られました。

当時、地域的に観測条件が不利であった欧米各国は、より条件の良い土地を求めて世界各地70ヶ所あまりに観測隊を派遣し、わが国にもアメリカ・フランス・メキシコの観測隊が来日して長崎・横浜・神戸で観測を行っています。

金星日面経過はおよそ130年に一度見ることができ、そのあと8年を置いてもう一度見ることができます。過去の現象年度を記すと次のようなにります。

1631年とその8年後1639年、1761年とその8年後1769年、1874年と8年後の1882年。そして一番近いところでは、2004年に金星日面経過が見られています。その8年後にも見ることができますので、次回は2012年です。その次となると2117年と2125年です。

さて、イギリスではこの130年に一度の天文現象観測に際し、世界5ヶ所に観測隊を派遣しました。サンドウィッチ諸島(ハワイ諸島)・エジプト・インド洋ロドリゲス諸島・南インド洋ケルゲルン諸島・ニュージーランドの五地点です。このうち、サンドウィッチ諸島にはジョージ・リヨン・タップマンを隊長としてF.E.ラムスデン、E.J.W.ノーベル、J.W.ニコルら7名が渡航、ホノルル・カイルア・ワイノメの三地点で観測を行いました。

ちなみにエジプトではチャールズ・オード・ブラウンを長としてカイロ近郊、アレキサンドリア、スエズの三地点で観測。ロドリゲス諸島では、チャールズ・バーナビー・ニートが長となり、ロバート・ホーガンら数名が観測。ケルゲルン諸島にはスティーブン・ジョセフ・ペリーら数名。ニュージーランドではクライストチャーチにて数名が観測をしています。

イギリスが公式に派遣したこれらの観測隊とは別に個人の資格で観測に臨んだ天文家もいました。イギリス貴族のジェームズ・リンゼー伯爵がその人で、天文家デービッド・ギルとともにモーリシャスで観測を行っています。

リンゼー卿は、スコットランドのアバディーンシャーに個人天文台を持っていて、当時、最も重要な天文学文献を多数収蔵した「Bibliotheca Lindesiana」を創り上げていました。デービッド・ギルは、この個人天文台の時計を管理保持したことが縁で時計技師から天文家へ転身した人物で、のちに南アフリカの喜望峰の天文台で南天の写真観測を実施し、その成果をヤコブス・カプタインとともに纏めて1882年に「ケープ写真掃天星表」として発表しています。
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右端の人物がサンドウィッチ諸島の観測隊長、ジョージ・リヨン・タップマン。
下の画像はホノルル観測所風景。
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「THE ILLUSTRATED LONDON NEWS. JAN.23.1875.」の73ページ/裏面の74ページは観測所と観測時の様子の記事(英文)
28×41cm/裏表1枚(73ページ・74ページ)/木口木版印刷

(ホノルルでの観測の詳細はここにあります。)
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(2011年2月26日のつづき)

主人公浜村は、木村モトの娘「ミツ」の嫁ぎ先である平尾台の麓の行橋市福丸まで来たのだが、ミツはすでに亡くなっていることを知らされる。しかしその死は不審な点が多く、どうやら悲劇的な最期であったことが窺えた。さらに浜村はミツの遺児「ハツ」の存在を知り、ハツの嫁ぎ先の行橋市上稗田(かみひえだ)へと向う。

福丸から上稗田まで車で20分たらずの距離。途中、勝山町黒田(旧黒田村、現みやこ町勝山黒田)を通る。以下の引用はその黒田地区の場面。

「西の山裾が道路近くに迫っているところに、かなりかたまった人家がみえた。運転手はその村に通じるせまい道の四つ角で車をとめる。「右のほうに行くと、黒田ちゅう村へ行きます。上黒田、中黒田、下黒田とあります。稗田は左の方さ曲ります。」

長崎君は、浜村がこの土地に興味をもっているとみ、説明した。「ああ、そう。じゃ、稗田のほうに行ってもらおうか」と言ったが、浜村はその国道わきに立っている低い木標に気づき、その文字に眼を凝らした。『綾塚。福岡県文化財保護委員会』

行ってみますか、と長崎君が浜村の顔を見て言った。ここまで来たついでである。何もかも眼に入れておこうと思い、車が一台ようやく通れる道に乗り入れさせた。」(鴎外の婢より)

このあと文章は、狭間畏三の「神代帝都考」や吉田東伍、津田左右吉、森貞次郎らの名をあげてこの綾塚古墳の説明についやされ、さらに、著者清張自身の私見らしきものも披瀝されている。

綾塚古墳の築造年代は石室構造から7世紀頃と考えられていますが、玄室内から出土した北宋銭や白磁片などにより、平安時代にはすでに石室入り口は開口されていたとみられています。その為、古くからその存在は広く知られていたものと見え、文人など多くの旅人が訪れ、さまざまな記録を残しています。

そのなかのひとつ、貝原益軒(1630~1714年)の「豊国紀行」の元禄7年(1694年)5月17日の条に

『(前略)黒田村によりて大なる窟を見よと云。けふ黒田村に宿すれば、明日直方迄いたるに便能からんとおもひ、夜中にたどりゆきて、黒田村の弥三右衛門が家を訪ね、(後略)』とあり、翌18日の日記に『宿りをいでゝ、朝黒田村の石窟にいたる。其深さよこに入事十間。おくの間は畳八でう つらぬるばかり。(中略)里人はこゝを女体権現と云。いかゞしたる故やらん いぶかし。(後略)』

益軒はなぜ「女体権現」と呼ぶか不思議に思っているようですが、この地は景行天皇ゆかりの地でありその妃を(古墳の石室に)祀っていたことなどにより「女帝窟」の異名を持つことからきているものと推察します。

(私の実家はこの古墳のすぐ近くであり、子供のころはこの古墳を「にょたいくつ」または「にょていくつ」あるいは「じょていくつ」と呼んでいた。土地の古老は今でも「にょたい窟」「にょてい窟」などと呼ぶ)
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石室の前方に鳥居が建てられ、「女帝神社」と掲げられています。また、玄室にはこの地方で確認できる唯一の家型石棺が安置され、この石棺そのものを御神体としています。
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鳥居の脇に立てられた説明版。


つづきます。
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