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「傳記 第十一巻第一・二号」に「長久保赤水の水戸移居顛末」という文章が載っています。
冒頭部分を少し転記します。

「長久保赤水は、寛政三年八月朔致仕、水戸候より七人扶持 宍戸候より三人扶持を受けた。爾来「江戸定勤の隠居のやうに」小石川の藩邸に滞留し、地理志の編修に努力したことは、杉田雨人氏の「長久保赤水」に委しく記されてゐる。雨人は、同書「その九十九」に「赤水はいつ水戸迄引揚げたか審かでない」と書かれてゐる。私は江水往復書案より赤水の水戸移居顛末に関する書簡を抜抄して赤水研究家の御参考に供することにする」

文中、杉田雨人氏の「長久保赤水」とあるのは、昭和9年(1934年)に川又書店から出された書籍を指しています。また、「私は」とはこの文章の執筆者「岡澤稲里」のことで、「江水往復書案」とは江戸と水戸との往復書簡をいいます。因みに上記の文章が書かれたのは昭和19年2月1日のことです。
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現代の赤水の年表では、死去する4年前の1797年(寛政9年)に水戸へ帰郷、となっていますが、杉田雨人の「長久保赤水」の当時ではさだかではなかったのでしょう。

帰郷時の赤水は81歳で1801年(享和元年)に故郷の赤浜村(茨城県高萩市)にて死去しています。85歳でした。

長久保赤水(1717-1801年)は、常陸国多賀郡赤浜村(茨城県高萩市)出身。9歳で母を、11歳で父を失い、父の後妻(継母)に養育され、16歳のときに医師で儒学者の鈴木玄淳の私塾で漢詩などを学び、25歳の頃に水戸藩の儒学者名越南渓の門下生となり勉学に励む日々を送っています。

結果、30歳を過ぎた頃には「論語古訓」「春秋左氏伝」などを自ら講義するまでの身となり、37歳で学問の功で水戸藩から賜金を給せられています。

44歳のとき、東北地方を旅し旅行記『東奥紀行』を著していますが、この旅は磁石を携帯しての測量旅だったようで、地図作成の関心を抱いての旅だったと推測します。

そして、1768年(明和5年)、赤水52歳、「改正日本扶桑分見図」を作成。1774年(安永3年)、58歳で「日本輿地路程全図」を作成。この地図は、その後も改定されて「新刻日本輿地路程全図」や「改正日本輿地路程全図」として幕末まで100年近く広く一般に使用され続けました。

赤水の作成した地図は実際の測量に基づくものではなかった為、のちに作られた伊能忠敬の実測地図より精度は劣るものでした。しかし、伊能の地図が幕府の機密事項で一般に公開されていなかったことにより、赤水の作成した地図の需要は高く、のちのちまで多くの版を重ねることになります。

さて、1777年(安永6年)、61歳のときに水戸藩主徳川治保の侍講となり、江戸小石川の水戸藩邸に住むようになった赤水は、1797年(寛政9年)に水戸へ帰郷するまでの20年間、侍講のかたわら「改正地球万国全図」や「地球万国山海輿地全図説」「唐土州郡沿革図」「古今歴代沿革地図」などを精力的に発表するわけですが、帰郷する直前の1795年(寛政7年)の書簡を見ると水戸彰考館文庫より地理志編纂のための資料を借り受けていることが記されていて、高齢にもかかわらず、なおも意欲的に編纂に取組んでいたことが推察されます。

・・・、にもかかわらず、何故に帰郷を思い立ったか。

著者の岡澤稲里は多くの書簡を引用してその真相に迫ろうとしています。赤水は妻の健康が優れないため、先年、郷里の次男四郎次の宅に帰していて独身で生活していたこと、赤水の世子(跡継ぎ)多左衛門の病死や多左衛門の嫡男権三郎の出仕の件、あるいは次男四郎次が赤水へ宛てた帰郷を乞う書簡(寛政9年(1797年)5月、この時の手紙では赤水は帰郷を断っている)などを示して、老いによる望郷の念以外にもさまざまな理由があったであろうことを推察しています。

書簡は当然のことながら候文ですので読みにくいことは確かですが、最晩年の赤水とその周囲の動向が事細かに書かれていて、読み進むうちに赤水の胸のうちまでもが、生き生きと現代に甦ってくるようです。

傳記 第十一巻 第一・二号(通巻第百六号)
昭和19年2月12日印刷納本
昭和19年2月15日発行
編輯兼発行人:桑門貫一
印刷人:黒須澳治
印刷所:壹誠社印刷所
発行所:傳記学会
発売所:北海出版社
15cm×21cm/63ページ/価80銭
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名古屋天文同好会の会報の第1号で発行日は「Feb 6 1954」となっています。

これは同会の会誌「星団」とは別のもので、編集人の川村孝一氏の「新しいきずなとして」に「以前観測会のあった時に、何か会員自身の手で、会員間の連絡とか交歓のために面白い会報をつくりたい云う話がされました。

私もこれに大いに賛同したしたわけですが、何れ誰か責任を持って運営せねばならないと思い浅学を顧り見ず名のり出たわけです。(後略)」とあり、「お知らせ」の「投稿を願う」に体験、随想、ニュース紹介、会員への連絡、天文文芸等、ふるって投稿してください、とあるように会誌「星団」とは編集方針を異にした会報のように思われます。
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B4サイズを二つ折りした4ページ謄写版印刷です。大見出しのみ転記します。

NASチェイン発刊の喜び-山田博/新しいきずなとして-川村孝一/NEWS-火星に関する国内委員会発足、他/黄道光を観測しよう-石本浩康/同好会だより/会員のプロフィル/天文文化(エッセイ・短歌)
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岸本夏子氏の「東山天文台」と題された短歌10首のうちふたつ。

「スリットより 皓々と月さし入りて 大望遠鏡の冷く光る」

「ガリレオの 見たるはこれか 木星を 巡りて月の二つ三つ四つ」

カットは当然、東山天文台でしょうね。同天文台は1951年、名古屋市東山動物園の隣接地にて開台、日本光学製15cm屈折望遠鏡を設置。のちにこの望遠鏡は名古屋市科学館へと移され、市民へ開放されていましたが、昭和60年(1985年)に同科学館屋上ドームに三鷹光器製GN-65型反射望遠鏡が設置されたことを機に翌年引退しています。
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大宰府天満宮の境内で開催の「大宰府天神おもしろ市」へ行ってきました。年6回開かれる骨董市の今年最初の回です。・・といっても今回でこの骨董市は終了。

最初の開催は平成2年11月で、その翌年から足を運んでいたわが身にとってかなり残念なことですが、まあいろいろ事情があるのでしょう。致し方ありません。

最後となる今回(3月26日/27日)で114回目とのこと。

以前は琺瑯看板やガラス瓶などをよく見かけたものですが、最近はあまりみませんねえ。(買ったことありませんが。)しかし相変わらず古布やキモノのところは大人気。出店の数もかなりのものです。明治印判手の皿も最初のころは1枚50円から100円程度(4寸くらいの小皿)だったのですが、さすがに今はそんな値では難しいですね。
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左下の函のなかは、アラスカ産ガーネット母岩(アルマンディ)1個1800円也。ウミユリの化石(40cm×30cmくらい)も並べられていた。値段は見てない。
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右の手前は江戸時代の穴あき銭。5枚100円だった。上の写真の岩石鉱物や化石のお店、そしてアンティーク玩具のお店、昭和初期のガラス障子のお店、染付、色絵のお店、等々、20年余り充分楽しませて頂きました。みなさんどうも有難う。
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手元にある「東星会回報」は第1号から第12号までと「第Ⅱ巻第2・3・4号」の合併号、それに「第Ⅱ巻第5号」「第Ⅱ巻第10号」です。それとは別に「東星会報 第一号」と「第二号」というのがあるのですが、「回報」と「会報」の違いが紛らわしく、発行順に整理していて途中で混乱したほどです。

「日本アマチュア天文史改訂版」では「東星会回報」は昭和18年6月15日発行の第Ⅱ巻第6号までとなっています。しかし手元に「東星会回報 第Ⅱ巻第10号」があって、その発行日は確かに昭和18年Ⅹ月1日となっていますので、少なくとも第Ⅱ巻第10号まで発行されたと思うのですが、何号まで続いたかはよくわかりません。
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・・で、「東星会報」ですが、これは昭和18年9月20日発行の第一号と「東星」の第7・8合併号の表紙裏に印刷された第二号のふたつで終了しています。
発行日とページ数は次のようになります。

「東星会回報」第1号 昭和17年1月5日 8頁   第7号 昭和17年7月5日 4頁
       第2号 昭和17年2月5日 6頁   第8号 昭和17年8月5日 4頁
       第3号 昭和17年3月5日 6頁   第9号 昭和17年10月5日 4頁
       第4号 昭和17年4月5日 4頁   第10号 昭和17年10月5日 6頁
       第5号 昭和17年5月5日 6頁   第11号 昭和17年11月8日 8頁
       第6号 昭和17年6月5日 4頁   第12号 昭和17年12月5日 4頁
                        第Ⅱ巻第2・3・4号 昭和18年4月1日 6頁
                        第Ⅱ巻第5号    昭和18年5月1日 6頁
                        第Ⅱ巻第10号   昭和18年10月1日 4頁 

第4号はA4用紙4枚に片面印刷、第Ⅱ巻第10号は21cm×29.5cmの用紙1枚を二つ折りして4ページに印刷、他は二つ折りして袋綴じ状にしたA5サイズに印刷されています。9号と10号の発行日は同じですが、あるいはミスプリントかもわかりません。編集後記の日付を見ると9号は9月6日で10号は9月4日となっています。

「東星会報」は下記のとおりです。

「東星会報」第1号 昭和18年9月20日 21cm×29.5cmの用紙1枚を二つ折りして4ページに印刷
「東星会報」第2号 昭和18年12月31日 「東星 第7・8号」の表紙裏に印刷

「回報」の内容は毎号ほぼ同じようですので、第1号の大見出しのみ記します。
会告(回報創刊について/組織について/等)
雑報(彗星観測位置/彗星位置予報/等)
閲覧室(天文月報、天界、南の空、星、等の雑誌の近刊号目次)
観測欄(太陽黒点/黄道光/変光星/等の観測報告)
誌上マーケット(求む:野尻抱影著・星を語る・星座めぐり・星と東西文学・等)

「東星会報」第1号は、本会顧問に就いて/会誌発行に就いて/観測回報に就いて/会員の消息/誌上マーケット/等

第2号は、会誌・会報・観測回報の発行予定や会費のお知らせ等です。なお、会報第1号の編集は中野繁氏で第2号は東星会となっているのみです。

関東支部は東星会と名称を変更したのち、2年間くらい回報や会報、会誌を発行し続けたようですが、昭和19年に入るとそれらの発行は休止になっています。
会としての活動は終戦まで続いていたのでしょうか。
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関東支部会報第七号の「急告」において、来年度(昭和17年度)より支部の機構を変更するにあたってこの際、関東支部の呼称のほかに固有名を付けたい、旨の提案がなされています。ついては、会員諸氏より広く名称を募集します、とあり、新会名と新会誌名の審査には野尻抱影氏があたります、と書かれています。

そして回報第八号で「会告 東亜天文協会関東支部改組に就いて」として以下のとおり記されています。

本支部も発足以来既に半歳を超え、幸会員諸兄の熱心なる御支援に依り 日一日と発展して行きつゝあり 誠に御同慶の至りである。来年度よりは尚一層の活動をなす為 先月号「急告」の通り改組致す事になり、新会名、及 来年度より新に発刊する会誌名の募集を行った所 多くの方々よりの御投票を得、野尻抱影先生の御審査の結果

   新会名    東星会
   会誌名    東 星

と決定、それに従って規約も下記の如く決定した次第です。(後略)

規約は第6条まであって最後に委員8名の氏名が書かれています。さらに新年度より新しい事業として年4回会誌を発行する旨が書かれています。これは毎月発行の回報とは別のものです。(東星会会誌については当ブログの2010年11月22日と23日をご参照ください)
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写真の左側は「東亜天文協会関東支部回報 第八号」、右側は「東星会回報 第一号」(発行は昭和17年1月5日)

なお、関東支部回報の1号から8号までの発行日とページ数は次の通りです。大きさはいずれも15cm×21cmのA5サイズでその倍の大きさの用紙を二つ折りにして袋綴じの状態で印刷されています。発行年月日は印刷どおりに記します。

第一号  16.Ⅴ.5 12頁
第二号  16.Ⅵ.5 16頁
第三号  16.Ⅶ.5 16頁+2頁(関東支部特報 第一号が付随している)
第四号  16.Ⅷ.5 5頁
第五号  16.Ⅸ.5 22頁
第六号  16.Ⅹ.5 12頁
第七号  16.Ⅺ.5 8頁
第八号  16.Ⅻ.5 14頁

また、第八号の編集後記の最後に発行部数が書かれていますのでついでに記しますと「85部」です。第一号発行時は会員19名で第四号では会員39名を数えることが出来、その後も増え続けていますし、会員以外の著名な天文家の方々や各天文団体・天文台などへも送付されているようですのでこのような数字になるのでしょう。

付記:関東支部特報 第一号の内容は、「ファン・ゲント彗星の位置予報(東京天文台回報 第141号を転記)」と「水野千里先生の逝去」です。

続きます。
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東亜天文学会に関する事柄が続きますが、本日は「東亜天文協会関東支部回報 第一号」のご紹介です。

東亜天文学会は大正9年(1920年)の設立時では「天文同好会」の名称でしたが、昭和7年(1932年)の10月に「東亜天文協会」に改称されています。ちなみに現在の名称は昭和18年(1943年)からです。
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例によって全く読めないでしょうから少し転記します。

東亜天文協会関東支部の結成に就いて
私共の属して居る東亜天文協会に就いては、会員稠密の地方には早くより支部或はグループの組織が在り、会員相互間の連絡及親睦上大いなる役割を果して居りますが、我が関東地方に於いては、残念ながら、今迄は此の様な組織の在った事を聞きません。

小生等先日来種々考究の結果 先づ埼玉、千葉、茨城、栃木、群馬5県下に在住する会員相互の連絡機関を設置致し度く、之に東亜天文協会関東班なる仮称を付し、種々準備中の所、それと前後して、東亜天文協会観測部小槇流星課長の命に依り、千葉県の江川義氏を中心として東亜天文協会流星課関東班が設立され、すでに本年度上半期の観測プログラムを発表し、去る4月10日に回報第1号を発行される等、実質的な活動を開始されたのであります。(以下略)

このあとまだ6行ほど続くのですが、概略を記すとこの流星課関東班と前記の東亜天文協会関東班を合併して新たに「関東支部」として出発することになった、ということのようです。文末は「発起人一同」となっているだけで執筆者名を書いていませんので断定は出来ませんが、多分、発起人のひとりだった内藤一男氏による文章と思います。(根拠薄弱) なお、関東支部の事務所は前橋市の内藤一男氏宅です。

1ページ目の下のほうに関東支部規約が第3条まで書かれていて、次ページに第7条までと「流星課関東班」の規約が第4条まで書かれています。合併しても流星課関東班の呼称は残ったのでしょうね。また、会員名簿も載っていて、東京府7名、埼玉県2名、茨城県2名、群馬県4名、千葉県1名、栃木県1名、神奈川県1名、山梨県1名 合計19名となっています。

続きます。
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印刷面は用紙の中央からちょっとズレていて、右側余白4cm、左側余白1cmになっています。用紙全体の大きさは18cm×25.5cmで文意から片面印刷であることがわかるのですが、実は裏面にもガリ版切りのインクで薄く「東亜天文学会第23総会」の案内が印刷されています。
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しかし、これは総会案内記事を「会告」の裏に印刷したというよりも「ためし刷り」をしたというような体裁です。文章全体が用紙に対して大きく傾き、インクのかすれで判読不能も多々あります。

・・で、「会告」ですが、ちょっと読みづらいと思いますので東亜天文学会の機関誌「天文学雑誌」の合併号のリストのところのみ、転記いたします。

第278号 昭和19年十一月、十二月合併号(水野氏号) 20頁 価40銭
第279号 昭和20年一月、二月合併号        20   40
第280号  〃  三月、四月 〃         20   40
第281号  〃  五月、六月、七月、八月、九月、十月合併号 8 40
第282号  〃  十一月、十二月合併号      16   40
第283号 昭和21年一月、二月 〃         24   2.00
第284号  〃  三月、四月、五月、六月合併号  24   2.00
第285号  〃  七月、八月、九月合併号     24   4.00
第286号  〃  十月号(海王星号)        40   5.00
第287号  〃  十一月、十二月合併号      40   10.00

・・・という具合です。特に終戦前後の「第281号」は半年分合併で、しかもわずか8ページ。この当時、用紙の調達なども含めていかに同人誌の発行が困難だったか、というようなことが容易に想像できます。
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3月2日の拙ブログにて東亜天文学会東海支部の会報「星と共に」を紹介させて頂きましたが、本日はその東海支部が解散して新たに「名古屋支部」として昭和30年に再発足した、という話題。

名古屋支部会報第1号(1955年9月10日発行)に解散の経緯が書かれていますが、ごく簡単にこのことについて触れますと、代表世話人である金子功氏ご自身の諸事情により、氏の尽力によって維持されて来た名古屋に於ける例会と名古屋テレビ塔に於ける天文普及事業の継続が困難になった、ということが解散再発足の要因のようです。
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O.A.A.名古屋支部会報第1号 編集・発行はOAA名古屋支部事務局 金子信夫 名古屋市瑞穂区前田町2の33

第1号はB4サイズの裏表1枚で縦向き印刷。見出しのみ転記しますと、「東海支部はどうなったか-経過報告」「強力に新発足を-幹事会で打ち合わせ」「たった三人の八月例会」「五月の総会について-金子功氏に心からの感謝」「今後の金子功氏について」「アンケートについて」以上、表面の見出しです。

このうち「五月の総会について-金子功氏に心からの感謝」というのは、東亜天文学会の昭和30年度総会が名古屋で開催されるにあたり、何ヶ月も前から準備をされてきた金子功氏に感謝する、というものです。(5月29日、名古屋テレビ塔と東桜小学校講堂にて開催)

裏面は、「会員相互の連絡を-今後の機関誌について」「テレビ塔に天文台」「もっと会員の利用を 十二センチ反射赤道儀」等々です。

12cm反射鏡というのは、名古屋テレビ塔の3階屋上に金子功氏が設置した「口径12cm/F10/焦点距離1200mm/木辺鏡」のことで、一回10円で一般に公開されているが東亜天文学会会員は無料ですのでもっと利用して下さい、というもの。

なお、会報の1号から4号まではB4サイズにガリ版縦向き印刷、5号以降はB4を二つ折りしてガリ版横向き印刷となっています。

簡単に記すと次のとおりです。

第1号1955年9月10日発行、B4サイズの裏表1枚で縦向き印刷
第2号1955年10月1日発行、B4サイズ2枚裏表で4ページ縦向き印刷
第3号1955年11月1日発行、B4サイズ3枚裏表で6ページ縦向き印刷
第4号1955年12月1日発行、B4サイズ2枚裏表で3ページ(片面白紙)縦向き印刷
第5号(第2巻第1号)1956年1月1日発行、10ページ横向き印刷
以下、略

会報は月1回発行で会員相互の交流や動向、例会の様子を主とした編集となっています。
また、第5号に例会時の座談会写真が貼付され、1956年7.8月号(第11号)に会員名簿(30名)が載っていることを付記します。
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会報は初期の頃はB5サイズのガリ版片面印刷や裏表印刷の1枚だったのですが、のちにB4サイズの二つ折り、都合4ページの謄写版印刷で発行されています。

しかし、葉書による会報もあって例えば「会報(4)1947年5月22日発行」は観望会と講演会の緊急お知らせ、「会報(12)1947年10月17日発行」も葉書で第2回目の講演会と観望の夕べのお知らせ、「会報(14)1948年1月1日発行」は日没後に肉眼的彗星が見える、という葉書での緊急お知らせ。

さらに「会報(19)1948年6月6日発行」でも本田実氏発見の彗星観測報告が葉書でなされています。画像はちょっと見難いと思いますが、アンドロメダγ星とペルセウスの間に二ヶ所彗星マークが描かれていて、一つは本田氏の発見位置、もう一つは天王寺山天文台正村氏の観測位置です。
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この彗星は本田実氏が1948年6月4日2時30分(標準時)に発見した本田・ベルナスコニー彗星(1948Ⅳ)で正村氏の天王寺山天文台での観測は6月6日3時2分で光度4等となっています。

濃飛天文同志会の創立は濃飛天文同志会規定(1946年9月27日印刷発行)によると1946年9月23日です。その規定の10に「本会ハ次ノ観測班ヲ設置ス」とあって「1.太陽課 2.月面課 3.遊星面課 4.流星課 5.変星課 6.彗星 黄道光 対日照課 7.天文歴史課」の7つの観測部門を置いています。

また、規定12に於いて「今回選挙ニヨリ決定セル役員ハ下記ノ通リ」とあり、天文同志会の発足時の役員氏名が掲載されています。

会長 廣瀬永治郎
副会長 正村一忠
顧問 山本一清(交渉中) 吉田源治郎
名誉会員 船渡佐輔 森島武男
幹事 坂井譽志男 正木敏夫 伊藤高明 恒岡美和 山田達雄 下田屋靖夫 坂口三一 松原治世

規定の裏側は会員名簿で岐阜県会員10名、名誉会員2名、愛知県会員4名、大阪会員1名の方々の住所氏名が載っています。さらに顧問として次の諸氏の住所も載っています。山本一清/木辺成麿/吉田源治郎/小沢喜一(愛知県知多郡内海町礫ケ浦 小沢天文台)です。

ところで「蟲と星の展覧会」はどうであったかというと会報(5)に概略報告があって「(前略)本会よりは天体写真約400部、4吋反射経緯台、40粍屈折、笠松隕石、アリゾナ隕鉄等を出品 開会当日は雨天であったが600余名の入場者を数へ会期の進行と共に益々好評を博し、閉会当日は3000余名の入場最高記録を印し、会期全日を通じ実に25000余名の入場者があった。(後略)」と記されています。

大成功だったんですね。
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昨日(3月8日)、会報(1)で既報の「天体写真展」のこと、どうやら場所と日時が決まったようで会報(2)(1947 May 12 発行)で見開き2ページを使って開催の案内が掲載されています。

場所は、「岐阜市公園内 名和昆虫博物館階上」、日時は5月18日から6月1日まで。展示品は「天体写真400点」「反射望遠鏡」「其他天文教材多数」「昆虫標本数千点」「蛍光誘蛾灯実験」「昆虫分布、生態解説標本」「図表、其他昆虫研究ニ関スル参考品」で入場無料。展示会のタイトルに「蟲と星の展覧会」とあるように「名和昆蟲博物館」との協同開催だったようです。

そして期間中に三つのイベントが用意されていて、一つは「昆虫採集競技会」、もう一つは「星を見る会」、そして「虫と星の講演と映画会」です。
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まず、「昆虫採集競技会」は5月18日に開催、採集地は金華山山麓、指導者は名和昆虫博物館長で「当日昆虫採集ノ優秀者ニハ科学賞ヲ贈呈シテ表彰ス」とのこと。また、採集品は展覧会会場に陳列される、ともあります。

次に「星を見る会」。場所は、岐阜市美江寺公園広場で日時は5月24日。指導者は濃飛天文同志会員で望遠鏡による実地観測、他に「5月の宵空の星の話」と書かれています。

最後に「虫と星の講演と映画会」は、岐阜市白木町ひかり映画会館にて田上天文台長山本一清博士(予定)と名和昆虫博物館長名和正男氏のお二人。日時は、5月25日となっています。映画は「自然科学映画数巻」だそうです。

最後に主催と後援を記しますと、
主催:岐阜自然科学協会、名和昆虫学会、濃飛天文同志会、岐阜市
後援:岐阜タイムス社、東海夕刊社、大日本土木会社、岐阜市商工会議所、岐阜県農業会、です。


なお、会報(2)と会報(3)は同じ用紙の裏表に印刷され、ページを開いて2ページに亘って「蟲と星の展覧会」の案内が載っています。

続きます。
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