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「そこにも史跡指定の標識が立っているかね?」
「いや、それは見たことがありませんな」

「浄土院とか等覚寺とかいうのはどっちの方角かね?」
浜村は『神代帝都考』をのぞきながら訊いた。

「浄土院はこっちの高城山の麓で、等覚寺は左側の平尾台の山つづきの向こう側です」
運転手は車を停めて説明した。(鴎外の婢/松本清張より)

小説「鴎外の婢」のなかで『神代帝都考』は大きな役割を演じている。小説の前半はこの『神代帝都考』の考証に費やされているといっても良いほどで、登場人物の言葉をかりて著者清張の歴史観を述べていると思われるような場面もある。

『神代帝都考』の著者、狭間畏三は天保13年6月15日に豊前国京都郡岡崎で生を受けている。「鴎外の婢」から引用した上記の文中「高城山」は、畏三の生地岡崎からはすぐ眼前、その三角形に整った頂上が大きく覆いかぶさるくらいの近さである。そして小説「鴎外の婢」のクライマックスはこの高城山で迎えることになるのです。

狭間翁が「神代帝都考」で述べていることをごく大雑把に言うと「天孫降臨の地は日向の高千穂ではなく京都郡苅田町近くの高城山であり、神代の帝都は豊前国京都郡である」に尽きるのですが、ここのところを『神代帝都考』より転記すると、

「高千穂槵触峯(タカチホクシフリダケ)は神代に天津彦火邇々杵命(アマツヒコホノニニギノミコト)の天降給ひし峯にして伊弉山の東部に位し京都郡苅田村大字南原と同郡白川村大字山口との境にあり

今之を高城山と称す 高千穂とは高津秀(タカツホ)の義にて高く秀てたる尊称の義なるへし(中略) 今高城山と称するは古代高千穂を訛りて高チョウと唱へ居たるものか然るを天正の頃長野三郎左衛門となるもの此山に城塞を築き居たりとて遂に濁りて高城山と称するに至りしなるへし(後略)」タカチホがタカチョウとなりついに高城の字を当てた、ということのようだ。

上記の文中「伊弉山」は伊弉諾尊(イザナギノミコト)と同じ字を当てていますが、現在「諌山」(いさやま)の地名で残っています。

『神代帝都考』についてはまたいつの日にか拙ブログで紹介させて頂くこともあるだろうと思いますので、引用はこれくらいにして、高城山の秀麗と翁の顕彰碑をご覧ください。
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碑の大きさは台座を除いて縦152センチ、横213センチ、厚さ45センチの花崗岩製です。
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高城山の頂上に「天の逆鉾」があると云われています。友石孝之氏の「神代帝都考解説」によると頂上は15坪ほどの台地になっていて、大小二つの奇岩が直立している、とのこと。大は高さ7メートルくらい、小は高さ3メートルくらいで岩の先は尖っていて並立しているそうです。

中央のピークが高城山で右側は大平山です。撮影位置の関係で大平山のほうが高く見えますが、大平山の標高は332メートル、高城山は419メートルです。

左の山の白い部分は石灰岩の採掘場です。

続きます。
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座談会は9ページほどの記事で、その前半は村山氏がインタビュアになって佐久間、関、藪の三氏に星を見るようになったきっかけや観測目標、具体的な観測方法などを問いかけています。佐久間氏のきっかけは小学4年生のころ大阪でプラネタリウムを見てからで、変光星の観測は中学1年のときに始めた、とのこと。

本格的に変光星に取組むようになったのは終戦の年の11月、12月ごろでちょうど鯨座のミラが極大を迎えていたそうです。

関氏は終戦直前、中等学校3年生のころ。毎日空襲が激しく、灯火管制で真っ暗になった夜空を見上げて「いまではとても想像ができないような美しい星空がありましたね。それを見たとき、ほんとに星というものは、この世の中で一番美しいものじゃないかと感じました。」とインタビューに答えています。

彗星に魅かれるようになったのは終戦直後に現れたマックガン彗星を見てからで、自分で彗星を発見したいと思うようになったのはこのマックガン彗星のあとに現れた、倉敷の本田実氏が発見した本田彗星から、とのことです。藪氏は最初に天文に興味を持ったのが旧制中学4年生の頃で、このときに読んだ星の本をきっかけに自分で望遠鏡を作ったそうです。

また、学校を卒業したあと、不景気のどん底で就職先がみつからずにいたとき「ぼくも受ける会社はみな振られて、どうしようかと思っていたところ、雑誌の「天界」に山本一清先生が志願助手を募集するという記事が出た。行くところがないので、親にたのんで、1年間、山本先生のところで話を聞きながら、遊んで暮らしたわけです。」と冗談めかして答えています。この後、藪氏は教員の道へ進むようになります。

座談会の後半からは編集部の方も交え、それぞれ三氏の専門分野についてさまざまな質問をし、その答えが飛び交うという楽しい座談会になっていますが、ここの部分は割合して、次に野尻抱影氏の「オリオンとともに70年」に移ります。
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野尻翁は1885年(明治18年)の生まれ。このとき85歳。翁の星との出会いは1899年のしし座流星群だったという。この年、大出現が期待されていたものの現れることはなく、夜明けまで空をにらんでいたが大いに失望した、とある。旧制中学2年生のときのことだったそうだ。

その後中学4年のときに風邪をこじらせて入院した病室の窓から初めてオリオンの三ツ星を確認し、さらに大学の英文科へと進んでから学校の図書館でみつけたゲイリーの古代神話の本にオリオンやスバルの名を見出して英文学のなかから星の名や星の伝説、星を詠んだ詩歌をあさるようになった、と記しています。「あさる」は翁自身がこの文章で書いた言葉です。

その後の野尻翁の活躍はご存知のとおりで、最初の本「星座巡礼」以来、幾多の名著を世に出しています。なかでも「日本の星」は野尻抱影のライフワークである星の和名収集の集大成といえるものです。

翁自身もこの一文のなかで「日本の星」について「私の好奇心たっぷりの雑著の中で遺産として恥ずかしくないのは、まずこの一冊だろう。」と書き残しています。
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これも星の特集には違いありませんが、科学雑誌はいつものことですのでこれまで入れてしまうと切りがなくなってしまう・・・。と、いうことで番外編。
表紙は「雪の中の飛騨天文台」でカラーページにもドーム景観や研究棟内の様子が掲載されています。これに続くページでは「東大・岡山観測所の10年」の題で石田五郎氏の文章が豊富な写真とともに載っています。
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特集記事は、「パルサーという名の星」「惑星は衝突するか」「10億光年かなたの世界」「座談会 星こそわが生きがい」「オリオンとともに70年」などです。特集記事とは少し離れたところに編集されていますが、「子午線にそびえるドーム 明石天文科学館」と「宇宙の古文書-隕石を解読する 地球型生物存在の可能性」の記事もあります。

どれも面白いテーマですが、なかでも興味深く読んだのは「座談会」と「オリオンとともに70年」のふたつの記事。座談会の出席者は、村山定男氏、佐久間精一氏、関勉氏、藪保男氏の方々で、「オリオンとともに70年」は野尻抱影氏の執筆です。

ちょっと中途半端ですが本日はここでやめます。
今晩ごく小規模の「星を見る会」がありますので、その準備を・・・。

続きます。
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以前(2010年8月22日)、拙ブログで「星の特集の雑誌」を3点取り上げたのですが、通常は星とか宇宙とは直接関係ない雑誌で「特集」として天文関係の記事を載せている雑誌はほかにもたくさんあります。

本日は前回の続きのようなかたちでさらに3点ほど紹介させて頂きます。ただし、前回は中途半端でなんとなく終ってしまいましたので、今回もそのようになる可能性大です。とりあえず本日は表紙と目次のごく一部を載せます。
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現代宗教-5 特集:宇宙論/春秋社/昭和57年
これは「現代宗教 全5巻」のなかの一冊ですので純粋な意味での雑誌ではないかもわかりませんが、まあそれは無視して目次の一部は下記のとおり。
なお、全5巻(第2期)の特集は次のとおりです。第1巻特集:カリスマ/第2巻特集:山岳宗教/第3巻特集:聖地/第4巻特集:修行/第5巻特集:宇宙論

宇宙論 目次
日本神話の宇宙観と山岳仏教の心理世界-湯浅泰雄/日本古代の宇宙観-岡田重精/御嶽行者の宇宙観-菅原寿清/イスラムの宇宙観-矢島文夫/(以下略)
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現代思想7月号 特集:宇宙 コスモロジーの現在/青土社/昭和54年
今号は一冊すべて特集が組まれているわけではありませんので、まず特集以外の目次を記しますと、イスラエルのエジプト学-酒井傳六/メルロ=ポンティの言語論(三)-木田元/神話・固有名詞・文化-ロートマン、ウスペンスキー/「アマワカヒコ神話」と穀物盗み型農耕起源神話-猪野史子/(以下略)等々です。

で、特集:宇宙 コスモロジーの現在の目次は
宇宙と宇宙論-澁澤龍彦/宇宙論=秩序論の新生-村上陽一郎/天動説と文学-磯田光一/数学と宇宙観-一松信/宇宙論の存在様式-中山茂/宇宙論と生命論-八杉龍一/(以下略)
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ユリイカ 詩と批評6月号 特集:占星術 照応と象徴のコスモロジー/青土社/平成5年
ユリイカは毎号興味深い特集が組まれていて眼が離せません。今号は「占星術」ですが、これは天文宇宙とは不可分ですので星の特集ということで・・・。

特集:占星術 目次
古代占星術の意味論-矢島文夫/占星術の伝播と変容 インドの場合-矢野道雄/占星学の近代 アラン・レオから心理占星学へ-鏡リュウジ/二匹の魚 ユングと占星術-入江良平/オカルティストの星の知識-フレッド・ゲティングス/白羊宮のもとに生まれて イタリア・ルネサンスの宮廷と占星術-伊藤博明/ミトラ教の宇宙論-幻斎坊/(以下略)

いずれも絶版ですのでご興味のある方、古本屋さんで見かけたら迷わず「買い」ですね。
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『旧椿市村の福丸は、豊前平野の北部が西に尽きた山の麓に当っている。「あの山が平尾台ですばい。山の上は石灰岩のゴツゴツ出ておって、山口県の秋吉台のごとあります。よかドライブウエーのできちょりますけん、車で上がってみますか?」運転手は座席の浜村をちょっと返り見た。』(鴎外の婢/松本清張より)

平尾台は北九州市、行橋市、京都郡苅田町・みやこ町(旧勝山町)、田川郡香春町に跨る国内有数のカルスト台地。行橋市を含む京都平野(みやこへいや、または豊前平野とも呼ばれる)の北西端に位置し、標高400~700メートルの山々から成っています。最高峰は小倉南区の貫山で標高712メートル。小倉側にはほかに標高587メートルの大平山や標高582メートル塔ヶ峯などがあります。

一方、行橋側からは湿原が広がる広谷台をはじめとして桶ケ辻、周防台、水晶山、鬼の唐手岩などを見ることができます。特に「桶ケ辻」は我家から車で数分程度山のほうに近づいただけで大きく眼前に立ちはだかるほどの山塊で、行橋市内はもとより近隣の地区からでも目にすることができます。

冒頭の引用文は主人公の文筆家浜村が行橋市を訪れ、取材のため平尾台の麓の「福丸」まで来た場面です。タクシーの運転手さんから平尾台に行くことを勧められますが、浜村は小倉の古書店で入手した「神代帝都考」(狭間畏三著/明治32年)に出てくる「長峡県(ながおのあがた)」のことが気になり、運転手さんの勧めを断ります。「神代帝都考」では長峡(ながお)は旧椿市村字長尾(現・行橋市大字長尾)と出ていて、「福丸」に来る途中に眼にした標識に「史跡・長峡県(ながおのあがた)」とあったからです。
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雪の平尾台
左側の大きな山のピークは「桶ケ辻」で標高568メートル、ピークのすぐ右、肩越しにわずかに突起が見えるのは「周防台」で標高606メートル、写真中央付近は「貫山」で手前は、「四方台」「広谷台」あたり。湿原や「鬼の唐手岩」はこの付近です。「広谷台」から「偽水晶山」「水晶山」「高城山」と続きます。引用文中の「福丸」は「桶ケ辻」の麓の写真左隅あたり。写真は2月13日に行橋市長木地区から撮影。薄く雪景色。九州人はこの程度の雪でもカメラを向ける習性がある!

さて、松本清張著「鴎外の婢」は、昭和44年に「週刊朝日」に連載された「黒の図説」の第3話にあたる推理小説です。
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陸軍軍医監森鴎外は小倉赴任時代に10人あまりの女中さんをやとっていますがいずれも長続きせず、さまざまな理由で辞め、あるいは辞めさせられています。そのなかにあって2番目の女中さん「木村モト」は違っていたようで鴎外は「モト」を信頼し何かと眼をかけていました。

このことは、「モト」が鴎外邸の女中を辞してから10年ほどのちの明治42年に数えの30才で亡くなったとき、これを知った鴎外は東京の自宅からわざわざ香典を九州まで届けている事実からも察することができます。

その「木村モト」は、明治13年に今元村今井(行橋市)で生まれています。小説「鴎外の婢」は、モトが鴎外邸を去ったあとの消息を主人公浜村が訪ね歩くうちに思わぬ事件に遭遇するというストーリーで、事実と清張が作り上げた虚構とがないまぜになった短篇推理小説です。

続きます。
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1月28日に偶然にも「幻日」を見て以来、何だか太陽が気になりだして昨日(2月13日)も何気なく見あげると「暈」がかかっている。

暈はしょっちゅう現れているので別に珍しくもナンとも無い。で、無意識にさらに高みを見上げるとうっすら赤く弧を描いている何かが見える。

下がそのときの写真ですが、太陽の位置は下端ぎりぎりで写っていません。電柱の上の弧は「内暈」で、その上に薄く色づいている部分がわかるでしょうか。
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これは「外暈」と思うのですか「外暈」であればかなり珍しいのでは・・・。ただ、色々な現象があって上部ラテラルアークというのもあるそうで、それらとの区別がつきません。このときの外側の弧の位置はほぼ天頂付近でした。(平成23年2月13日 8時55分撮影)
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豊橋向山天文台々長金子功氏の設計によるピンホール式プラネタリウムです。
南天用・北天用に分かれていて、それぞれの半球の直径は80センチ。両半球の中間に赤道投映器と黄道投映器を挟んで本体とし、各種スイッチ・テープレコーダー・アンプ・レコードプレイヤーなどを納めた操作台に取り付けられるようになっています。大きさは次のとおり。

全高(床上からの高さ)2.70メートル
全幅(操作台の幅)1.60メートル
奥行(操作台の奥行)0.75メートル

機能は、月・惑星・太陽投影のほか、恒星5等星まで約5000個を投影、主な星雲星団の投影、赤道・黄道・子午線の座標を色別に投影、緯度・経度表示・銀河投影などです。
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この写真工業6月号の記事では両天用を「ダイヤ型」、画像の左側の小さなプラネタリウムを「ベビー型」と呼んでいます。因みに、この「ベビー型」と思われる写真が「天文と気象」の昭和55年5月号の(PLANETARIUM図鑑29/山田卓)に載っています。それによると、ベビー型試作第1号の完成は昭和25年はじめ頃で、4メートルドームを想定して設計。ドームの骨組みは竹製で紙を張ってドームとしていた、とのこと。各地で開かれる学校祭に出品して公開実演していたそうです。

また、同じく「天文と気象」の昭和55年6月号に「金子式8メートルドーム用大型プラネタリウムⅡ型(昭和35年)」(PLANETARIUM図鑑30)の写真が載っています。見た目はこの「コロネット・プラネタリウム試作品」によく似ていますので、多分、この試作品の発展型というか実用化されたものだと思うんですが、よくわかりません。

同記事によりますと、昭和28年に名古屋で博覧会が開かれた折、8メートル用プラネタリウムを出展。好評を博したが不具合箇所もあったので、その後改良を加えて熊本の大洋デパートで一般公開。これも評判を呼んでそののち、北九州の小倉玉屋デパート、福岡玉屋デパート、横浜高島屋デパート、新潟大和デパートなど合計7ヶ所に設置されたそうです。昭和30年代後半のことでしょうね。

(この文章は、「天文と気象」の記事と「写真工業」の記事を参考に書いているのですが、プラネタリウムの型名や製作年代などがはっきり書かれていませんので私もよくわかりません。乞う、ご教示。)

なお、「日本のプラネタリウム一覧/1977年」によると昭和33年5月開館の和歌山天文館(髙城武夫館長)のプラネタリウム機材は「金子式ダイヤ型改造」となってますね。また、郡山市児童文化会館の機材は「金子式」と書かれているだけで型式名は不明なのですが、開館が昭和46年ですから大型プラネタリウムⅡ型の次世代型プラネタリウムだったのでしょうね。・・・と思うがよくわからん!

写真工業 昭和34年6月号
昭和34年6月1日発行
第14巻第6号通巻86号
発行所:光画荘
B5判/585~690ページ
定価:200円
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本書の後半、旅行記「アルプの南北」は、ベルリンに着いて三ヶ月あまりの8月13日から始まっています。前夜から荒木氏の部屋に泊まりこんでいた留学仲間の長谷川萬吉氏とともにベルリン発9時25分の遠行快速列車に乗り込みミュンヘンへ向います。ミュンヘンまで9時間。大まかな目的地だけを決めての気ままな旅だったようで旅行記の冒頭に「旅行計画も日程も作らない、気分に委せて行ってはまた止まると言った気楽な旅」と記しています。

ミュンヘン着は午後6時25分でまだ明るい黄昏時ながら二人はさっそくビヤホールへと向かいます。あこがれのミュンヘンビールだったらしく、店内の様子やミュンヘン独特のビールの肴、食塩を振りかけて圧縮したなまの大根のことなどを詳しく書きとめ、長谷川氏が2リットル、著者が3リットル飲み傾けたと記しています。

このあと二人は行く先々で昼食・夕食時はいつでもビールを飲んでいたようで、旅行記のあちこちにビールが出てきます。さて、翌日はバイエルンの平原を西行してボーデンゼー湖内の島に造られた町リンダウへ。ここに四日ほど滞在して次はチューリッヒへ。

「チューリッヒでは旅行者が誰でも先づ第一に登って見ると云ふユートリベルク、吾々も亦チューリッヒ見物に来たからには登らいではと、登山電車の起点バーンホフ・ゼルナウに至る」ということで、ケーブルカーで頂上へ。ここでも終点駅のレストランでビールを一杯。翌、8月19日はチューリッヒを発って湖水地帯・山岳地帯を抜けてスイスのルガノへ。8月23日、ルガノから北イタリアのコモの街へ。

「コモは北伊太利亜第一の名高い避暑地。ドストイェーフスキの小説のどれかに『コモの夏の夜を馬鹿騒ぎでもするか』と言った会話の文句があった、つまりそれほど有名な市街です」とのこと。コモから再びルガノへ戻り夕食後、「十一時頃バルコンに出づれば、蒼穹は黒水晶のやうに澄み渡って、サン・サルバトーレの山の端に二十日ぐらゐの月が出たばかりのところ。明鏡のやうな月面から、水のやうに流れる光にルガノ湖は白銀の波がたゆたふ。

絶えて久しい天文学者の心が蘇へったものか、Hのツァイス双眼鏡を手に取って月の表面を眺めました(後略)」文中のHとは前述の長谷川博士のこと。文章はこのあと双眼鏡で見た月面の様子と偶然にも眼にした大流星、そして眼下の美しいルガノの夜景を情感を込めて綴っていますがそれは割合して次へ。
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写真左:昭和4年(1929)5月、於Dresden/左より長谷川萬吉博士、藤野清久博士、著者
写真右:昭和4年(1929)4月、於Pincio、Roma(本書より)

旅の後半、8月26日、シムプロントンネルを抜けてスイス・ワリス県へ。ヴィスプの渓谷を通りツェルマットの町へ黄昏時に到着。朝10時ごろロカルノの宿を発ってから7時間あまりの列車旅。「ツェルマットは標高1620メートルの高地で人口750に過ぎない一寒村ではあるが、今日此頃のツェルマットの賑ひはまた格別、外国人の散歩で満ちている。日本アルプスで云へば上高地のやうなところでせう」と記している。

二人はこの小さな町で思いがけない人物に出会います。町中を散策していると「家並みがまばらになり、やや登り坂となって、一町ほど向ふで道が二つに岐れてゐるらしいところ。ふと遠目にも確かにそれと認め得る毛色の変った-と言へば或ひは逆かも知れないが、実に吾々と同じ皮膚の色らしい夫婦連れ。

「日本人だらうか」「いや、妻君を連れてゐるところを見ると中国人かな」が、次の瞬間、「日本人だ」と気が附いたのと、「見たような顔」と思ったのと、そして「東大のHだ」と結論を下したのが全く同時。それは正しく東大天文のHでありました(後略)」

これは全くの奇遇。Hとは、東京天文台の萩原雄祐博士のこと。博士はアメリカから帰途ヨーロッパに廻り、夫人を呼び寄せて旅行中だったのです。二人は驚きながらも立ち話をしたのち再会を約してわかれるのですが、著者はこのあと氷河を登っていてまたもや思いがけない出来事に遭うことになるのでした。

疇山旅画帖
著者:荒木杜司馬
編者:荒木雄豪
序:今 日出海/楠部彌弌
あとがき:荒木雄豪
発行日:昭和55年(1980)7月10日
製作:恒星社厚生閣
印刷:半七写真印刷工業K.K.
26.5×19cm/236ページ/クロス装/函付き/非売品
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書名の「疇山(ちゅうざん)」は荒木杜司馬(俊馬)氏の雅号ですが、天文学者自身を指す言葉でもあるそうで、著者の長男である荒木雄豪氏のあとがきによると「『疇』とは字典によれば、「たはた」、「うね」といった意味から転じて「はかる」、「つたへる」となり、「家業を世襲するもの。今は専ら天文学者をいふ。(史記 暦書)疇人。」(冨山房、詳解漢和大字典)」ということだそうです。

荒木氏は昭和4年から6年にかけてドイツへ留学し、ペルリンのフリードリッヒ・ヴィルヘルム大学とポツダムの天体物理学観測所で天体物理学、相対性理論、量子力学などを学んでいます。本書は、昭和4年1月に神戸を出航し、上海・香港・シンガポール・コロンボ・スエズを経てイタリアに到着するまでの各地の風景とドイツ滞在中にヨーロッパ各地を旅したときのスケッチを収めたものです。

加えて、滞在中に親友の長谷川萬吉博士とともに南ドイツ・北イタリア・アルプス山麓などを巡ったときの旅行記「アルプの南北」の復刻(1948年4月10日発行/発行所:中国文化協会)も収録されています。

旅のスケッチは神戸を出航したその日、昭和4年1月17日から始まっていて、最初は瀬戸内海の島々の風景。次は南シナ海と香港・シンガポール。そしてインド洋を経て紅海から地中海へと旅の順路どおりに描かれています。あとで描かれたのではなく、その時々に眼にしたものを描いたようです。

イタリアでは2月23日にナポリに上陸して以来4月30日まで滞在していますのでその間、あちこちを巡ったようでたくさんのスケッチを残しています。下の絵はそのうちのひとつ「カポディモンテ天文台」(昭和4年3月2日)。ナポリ郊外にある天文台です。
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下は、昭和4年3月12日に描いた「カポディモンテ天文台よりボメロ山を望む」です。ボメロの丘からはナポリ市街が一望できるそうで、少女時代をナポリで過したソフィアローレンもたびたびこの丘を眼にしたことであろう、と想像した次第です。
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続きます。
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11月号の特集は「1958フォトキナ速報」で、ライカ・ツアイス・ロライフレックス・コダック・アグファの新製品が豊富な写真とともに紹介されています。一部を挙げると、ライカM2、コンタレックス、イコネッテ、ロライフレックス3.5F、レナチⅡS、アムビフレックスなどです。

そのほかの主な記事は、キャノンⅥ型、ミノルタSR-2の各部構造と機能の解説、アイレス35Vのボディと交換レンズの解説、ペトリ2.8の各部機構と実際に撮影しての評価解説、セイコーシャSLVシャッターの機構、等々々です。

また、「天体望遠鏡とプラネタリウム」の小特集も組まれていて、東京光学機械と日本光学工業の望遠鏡、千代田光学精工のノブオカ式プラネタリウムⅡ型が紹介されています。特にノブオカ式Ⅱ型の解説は、眼にする資料が少ない中でかなり詳細に説明されている記事と思います。
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ご覧のようにノブオカ式プラネタリウムⅡ型の外観はツアイスプラネタリウムⅡ型と大体同じようで、機能もツアイスと比べても見劣りはしないようです。基本となる恒星投影・太陽系投影のほか、赤道投影・子午線投影・緯度表示・絵画投影・日月食投影・人工衛星投影・恒星固有運動投影・オーロラ投影などの機能を持っています。

左ページ上の写真は、太陽系投影機。その下は日食月食投影機です。画像には写っていませんが、太陽系投影機の左側には人工衛星投影機のアメリカ型とソ連型の2種類が掲載されています。
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上の画像の左側の望遠鏡は日本光学工業製「掩蔽観測用30cm反射望遠鏡」、合成焦点距離5mのカセグレン式で光電装置付き。その右は、新潟大学理学部の「夜光分光器」で、焦点距離7cmのシュミットカメラが付いています。コリメーターレンズは口径10cmで焦点距離150cmと40cmの交換式。架台は経緯台式です。夜光分光器の右は、東京天文台乗鞍コロナ観測所の12cmコロナ・グラフです。
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1958年7月5日に開台された札幌市天文台の全景。下は収められている東京光学製20cm屈折望遠鏡。焦点距離2400mm、2枚アクロマート構成、F12。このページの左側には、開台当日の5日に写された月面と翌6日に写された太陽面、それと前ページに1958年4月19日の部分日食時の試験撮影の写真が載っていま
す。

なお、下の写真は「ノブオカ式プラネタリウムⅠ型」と開発者の信岡正典氏です。
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街のプラネタリウム製作者 大阪のオートバイ製造店主の信岡正典さんは「街の発明家」として有名で、写真のような高さ2m、重さ400kgのプラネタリウムを5年がかりでつくりました。32個のレンズは二眼レフカメラのを使いました。(画報科学時代第1巻第1号 宇宙の驚異/昭和33年/国際文化情報社発行より)

「ノブオカ式プラネタリウムⅠ型」は、京都大学の高木公三郎、電気科学館の佐伯恒夫両氏の協力を得て昭和33年に信岡正典氏が開発したもので、同年秋に甲子園阪神パークで科学博覧会が開催された際、千代田光学精工(現:コニカミノルタ)によって公開されました。「ノブオカ式プラネタリウムⅠ型」は、「ツアイスⅠ型」とよく似た形状をしています。博覧会終了後は、福岡プラネタリウムに移されて一般公開されたそうです。

写真工業 昭和33年11月号
昭和33年11月1日発行
第13巻第5号通巻79号
発行所:光画荘
B5判/473~578ページ
定価:200円
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