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1月27日の続きです。

「アナタハン島の七年間」の手記や「警察予備隊」のルポ記事(階級章の話、暴動鎮圧演習の話、隊員の一日、等々)はたいへん興味深いのですが、本日は岡本清造氏の「評伝 世界の科学者・南方熊楠」と中谷宇吉郎氏自身の手になる「私の中学時代」を少しばかり。

まずは、南方熊楠ですが、執筆者の岡本清造氏は熊楠の娘婿、長女文枝さんのご主人にあたる方です。熊楠についての本はたくさん出されていますし、さまざまなエピソードもよく知られていますので、ここでは熊楠の子供の頃からの読書歴とでも言う様なことを「中学時代」より一部抜き書きします。
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熊楠の博覧強記は夙に知られているところですが、すでに6・7歳の頃からしばしば周囲を驚かしていたそうで、この頃より始めた読書によって培われたといいます。

どのような本を読んでいたかというと『八歳のころに「太平記」を本屋の店頭で立読みして家に帰り、記憶のままにそれを筆写し、九歳のころからは、近所の家の蔵書の中から「諸国名所図会」「節用集」「和漢三才図会」「本草綱目」「大和本草」などを読破して暗記し、急ぎ帰宅の後、毛筆の細字で写し取り、十三歳のころにはそれらを全部手写し尽した。』ということだそうです。

さらに14、5歳のころまでに書き写したおもなものは「今日鈔」「列仙全伝」「経済録」「北越奇談」「古今妖魅考」「山海経」「徒然草」等々でのちに熊楠が書いた邦文・英文の論文のなかにこれらの書物から得た知識が大いに活用された、そうです。

このあと「評伝 世界の科学者・南方熊楠」には、「米国における研究生活」や「英国における業績」が詳細にかつ手際よく書かれているのですが、あとは割合して次に中谷宇吉郎「私の中学時代」。
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中谷は冒頭に「中学の五年間は、完全に寄宿舎生活をした。その寄宿生活で、今頭に一番残っていることは、食事がまずかったことである。」と記し、月に一度の「洋食」の日、つまりオムレツかライスカレーが出る日がとても待ち遠しかった、とか、外出のときくらいうどんかそばを食べたいが、うどん屋に入ると停学になるので入るのは冒険だった、とか、そのころ初めて売り出されたキャラメルについて頑固な生徒監の先生がどうした、とかの食べ物話しをひとしきり語り、中学時代は勉強も含めて非常にスパルタ式の寄宿舎生活だったと述懐しています。

そんな中にあって、中谷の友人の一人北村喜八が文芸に凝って歌集を出版したことが口火となって、学校内で文芸熱が大いに流行したことが書かれていますのでその部分を転記します。北村喜八(1898-1960)は、のちに「芸術小劇場」を妻の村瀬幸子とともに結成・主宰した演出家・劇作家です。

「(中谷の)弟は私や喜八君とは二級下であったが、四年生ころには、本式に印刷した立派な同人雑誌を出していた。(中略)この同人雑誌の中に、弟は「独創者のよろこび」という王朝ものの短篇を書いた。それを菊池寛のところへ送ったら、丁寧な返事が来たといって、弟は大いに得意になっていた。何でも芥川龍之介に見せたら、非常に感心して、こういう才能のある青年を、いなかにうずもらせておくのは惜しいといっていたというのである。(後略)」

中谷の弟とはのちの考古学者・中谷治宇二郎(1902-1936)のことで、宇吉郎は「芥川がひどく褒めたというのも、どの程度だったかわからなかった。しかしずっと後になって、十年以上経ってから、芥川が「或る一人の無名作家」という随筆を書いている。

これは弟のことを書いたものであって、もう一人前の考古学者になっているとは夢にも知らず、『ああいう才能のある男を、北陸の片田舎に埋らせてしまったのは惜しい』という意味の随筆であった。(後略)」と書いていいます。

このあと文章は、水沢の緯度観測所長木村博士が来校したときの話しに移り、博士が講演する内容を筆記せよと命じられて難解なZ項に四苦八苦し、「ずいぶんひどい目にあったが何とかやり遂げた。スパルタ式は、食い物だけでないのだから、全くおそれ入った。」と結ばれています。

中谷は中学時代は非常にスパルタ式で鍛えられた、とこの文章の随所で書いていますが、「しかし私は悪い教育を受けたとは思っていない。何よりも感謝していることは、教育法は間違っていたかもしれないが、当時の先生たちは、皆誠心をもって教育にあたられたという点である。」とも書いています。

中学時代 九月号
昭和二十六年九月一日発行
発行所:旺文社
発行人:赤尾好夫
編集人:根本峰好
印刷人:六橋芳雄
15cm×21cm/207ページ
定価 別冊附録共 八十円

因みに今号の別冊附録は「学習必携 理科宝典」で「中学時代新聞 第6号」付きです。
新聞記事は「歓声あがる八つの島 講和後は二十九度までのびる南方」「いよいよ実現する民間放送」などです。
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本日はじめて「幻日」を撮影。幻日は以前にもを見たことがあるんですが、カメラを持っていなかったので、撮影は今回初めてです。
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2011年1月28日 午前8時23分撮影 15分間ほど現れていた。虹色がわかるでしょうか。幻日環やその他の現象は見られなかった。
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どうですか。この爽やかな笑顔。暑いんでしょうが、実に楽しそう!
毎日の寒さを暫し忘れそうな表紙絵です。作者は、山内秀一画伯。ポプラ社の少年探偵江戸川乱歩シリーズのカバー絵なども手掛けてますので、懐かしく感じられるかたもいらっしゃるでしょう。
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さて、「中学時代」、誌名のとおり中学生向けの学習雑誌ですから「能率的な社会科の勉強法」とか「高校入学準備講座」とか「英文のこなし方」、あるいは「昭和26年度高校入学 学力検査問題の新しい傾向」などの記事に多くのページを割いているのは当然として、ちょっと意外だったのは、これらと同じくらいのページ数を取って、学校の勉強とは直接関係のない記事が多く掲載されていることです。

一般教養的な内容とでも言ったらいいんでしょうか、少し例を挙げると次のようなものです。

「評伝 世界の科学者・南方熊楠」「私の中学時代-中谷宇吉郎」「伝記小説 ネルソン」などは、まあ、中学生向きで妥当なところですが(ただし、文章は大人向け)、「国家の独立とは-講和後の日本」「人と生物に与えた原爆の影響」「優性と遺伝」「アナタハン島の七年間」「近づく対日講和と朝鮮の停戦」「警察予備隊」。

さらには、「(米国野球の)二大リーグ後半戦の展望」「映画紹介」「趣味と実益を兼ねた園芸(果樹の芽つぎ)等々は大人向けの総合雑誌といった趣きです。

特に「アナタハン島の七年間」には意表を突かれた。
中学学習雑誌で「アナタハン島」に出会うとは!

でもさすがに「アナタハン島事件」には触れられてなかった。手記執筆者は、事件当時、最年少だった石渡穂積さんで、島から生還できた20名のなかのひとり。

アナタハン島は、マリアナ諸島にある火山島で東西約10km、南北4kmほどの小さな孤島です。日本がマリアナ諸島を統治していた時代には日本人入植者もいて、島民を使って椰子の栽培を行っていました。

手記執筆者の石渡さんは、昭和19年5月に日本軍に徴用され、兵助丸(ひょうすけまる)という35トンの小舟に乗ってサイパン島に向います。しかし航行中に米軍機の襲来を受けて死者2名、負傷者2名を出し、急遽目的地のサイパンではなく、近くのアナタハン島に上陸して負傷者の治療にあたります。

島には70名ほどの島民のほか、椰子園の日本人農業技師1名とその部下の奥さんである比嘉和子さんの二人の日本人が暮らしていました。

島に上陸した翌日にも米軍機の攻撃を受けて乗ってきた舟は沈没させられてしまいます。翌年には終戦となり米軍兵が投降を呼びかけますが、これを米軍の謀略と見た兵士・軍属たちは投降を拒否。以来、救出されるまでの7年間を彼ら32名と女性1名はこの島で自給自足の生活を送ることになります。

この間、農業技師と比嘉さんが夫婦でないことがわかったあたりから、女性一人(比嘉和子さん)を巡って猟奇的事件が次々と発生するわけですが、このときの出来事はのちに映画化されて、主人公の女性の役は当事者の比嘉和子さん自身が演じています。

この稿続きます。
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先日(2011年1月19日)紹介の天文台がドングリ天文台ならば、本日の天文台はキノコ天文台ですね。さしずめ、エリンギ天文台というところでしょうか。

この天文台は昨年12月21日紹介の「マクマス・ハルバート天文台」なのですが、このときに添えた写真と比べて、ひとつ太陽塔が増えています。後方の一番高い建物は1941年完成の75フィート太陽塔で、これが新たに加わりました。手前の太陽塔の高さは50フィートですから、新太陽塔は、メートル換算で7.6メートルほど高いわけです。
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「太陽物理と取組む最新装置を誇るミシガン大学附属マクマス・ハルバート天文台」

「天界」の表紙写真は、75フィート太陽塔完成直後に撮られたものと思います。
本日の「天界」の「新知識」の欄には「太陽の閃光」のタイトルで同天文台の太陽観測の一端が紹介されています。

また、もうひとつ興味深い記事が載っていて、和歌山県立桐蔭高等学校の山本達郎氏による「桐蔭式プラネタリウムNo.2」作製の報告記事です。最初の「プラネタリウムNo.1」(昭和24年完成)に改良を加えたものということで、その改良点の中間発表ということだそうです。

改良点は、①全体が小型でポータブルになったこと。
     ②恒星映写装置の形を球形から図のような形に変えたこと。
     ③太陽映写装置を付けたこと。
     ④昼光、朝焼、夕焼、薄明の明るさを太陽高度に応じて自動的に加減できるようにしたこと。
     ⑤惑星が運動するようにしたこと。
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ということで、「これで名実ともにプラネタリウムになったと云えよう」と書かれています。その他の機能としては、月映写装置、銀河、黄道光映写装置、赤経赤緯映写装置、時刻映写装置、流星群映写装置等々で、本格的なんですね。写真は、このプラネタリウムを設計製作した天文部員の皆さん方。

今号には、もうひとつプラネタリウム記事があって、姫路市立高等学校の桑原昭二先生と同校天文部員製作による3メートルドームプラネタリウム完成の報告が掲載されています。(完成は昭和24年)円筒形の恒星投影機によって6等星まであらわすことができるようです。こちらも本格的なもののようでさまざまな機能を紹介しています。天文部が熱い時代があったんですね。今はどうなのでしょう?

天界 4月号 第316号
昭和25年4月10日発行
編集兼発行人:東亜天文学会 代表者 山本一清 大阪市阿倍野区北田邊町306
印刷所:岩岡書籍印刷所 大阪市住吉区濱口町
発売所:日本出版社 大阪市阿倍野区北田邊町306
定価:35円 送料3円
15cm×21cm/128ページ

ところで、本号の裏表紙の裏にもうひとつ学校天文部関連の記事があり、「三浦学苑天文気象部の集い」の集合写真が載っています。山本一清氏を囲んで総勢33名のうち制服制帽姿が約11名、あとは学校の先生方でしょうか。それにしてもやっぱり天文・気象部は熱かったんだ。
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「東京都下三鷹にある東京天文台は、すぐそばに飛行場があって、天文台の仕事に支障をきたすと問題になっているところです。小高い雑木山に抱かれて、あちこちにチョンマゲを乗せたような形の、大小さまざまのドーム(円屋根)があり、芝生には異様な形をした観測機が並べられて、まことに奇妙な風景です。

歩いているうちに、いつとはなしにオトギの国へでも来たような気持になってしまいます。夢のようです。私はここが楽しくて、四季を通じて、よく写生に出かけます。この絵は、かずかずのドームの中で一番大きい二十六インチ塔の望遠鏡台です。くもりがちの午後、芽ぶきに間もない木立にかこまれて、眠ったような天文台の静けさを描きたいと思いました。」
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週刊朝日5月16日号の「今週の表紙」より、作者自身の言葉を転記しました。牛島憲之(1900-1997年)は、熊本県生れの洋画家で、柔らかな線と色彩に特徴があり、幻想的、メルヘンタッチな画風で知られています。本日の「天文台」でもそれがよく現れていると思います。しかし、「作者の言葉」を読むまでは、実際の天文台をモデルにしているとは思いませんでした。

ドングリを思い浮かべるようなこの天文台は、異形の木々に囲まれてひっそりと佇んでいます。童話的でありながらちょつとミステリアスな雰囲気も漂っているようでもあります。黒々とした入り口に少し恐れを感じながらも、お菓子の家に惹かれていくヘンゼルとグレーテルのように一歩一歩階段を昇っていく人影を想像してしまいます。

週刊朝日5月16日号
発行日:昭和二十九年五月十六日
編集人:扇谷正造
発行・発売所:朝日新聞社

ところで、本日の「5月16日号」には、「彼女は何を見た?」のタイトルで「ジョセフィン・ベーカー来日公演うらばなし」が載っています。

ジョセフィン・ベーカー(1906-1975年)は、アメリカ・セントルイス出身の女優・ダンサーで、のちにジャズ歌手としてもデビューを果たすなど卓越した才能で世界中に多くの熱狂的ファンを獲得し「黒いヴィーナス」とか「琥珀の女王」と呼ばれていました。また、人種差別撤廃運動や孤児たちの支援にも熱心に取り組んだことでも知られています。

で、その「うらばなし」ですが、異国の地で勝手が違ったのか珍事続出の模様が書かれています。(記事は彼女の来日時にお世話をしたというか関係者の一人だったエリザベス・サンダース・ホームの沢田美喜さんの談話を纏めたもの)

さまざまな興味深いことが書かれていますが、ここでは来日時の出来事とは関係なく彼女の帰国時のお土産の品々をちょっと。

まずは、「神棚」。そして「日本猿2匹」と「インコ」「ジュウシマツ」「文鳥」をそれぞれ2羽ずつ。さらに「真珠」「絹張りの絵日傘」「蛇の目傘」「浴衣」「草履」「下駄」等々。

どうやら、公演の合い間に訪れた平安神宮や三十三間堂や京都の都おどり見物に感激し、すっかり日本ファンになったようです。

そして日本に残したお土産は「エリザベス・サンダース・ホームの構内の丘に建つ、混血の通学児童を容れる寄宿で、これには、ベーカーにちなんだ名前がつくことになっている」(掲載記事をそのまま転記)とのこと。
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本日(1月16日)の朝刊を開いてセンター試験第1日目の世界史Bの問題に思わず反応した。

問いは「中国では、天体観測を行い民に正しい時を授ける「観象授時」は歴代王朝の責務であり、天から皇帝にのみ与えられた特権であるとされた。暦は、社会生活を支配するための権力の道具であったのである。(以下略)」
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「暦は、」のところにアンダーラインが引かれていて、次のaとbは正しいか誤りか答えよ、というもの。

a 李時珍が「崇禎暦書」を編纂した。
b 授時暦はイスラーム天文学の影響を受けてつくられた。

さて正解は・・・。

問題の下の写真は「南京紫金山天文台の簡儀(天文観測器)」とあります。
私が問題を作る側であれば「この写真は何か。名称と使用法を述べよ。」としたいところですが、これではマニアックすぎるか・・・。それにこれでは世界史の問題にならない・・・。
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念じていれば願いは叶うようで、2010年7月29日の当ブログで「岐阜市プラネタリウム遊園地」を取り上げたのち、ご覧頂いた方々からいろいろご教示頂いたのですが、やはり現物資料を見てみたいもの、と思っていたところに先日偶然にも「岐阜プラネタリウム」のリーフレットを入手した、という次第です。

リーフレットは二つ折りで、開いた内側の左にプラネタリウムについての一般的な説明と当館設置のプラネタリウムの概要が記され、右側に「北の空」と「南の空」の春から初夏にかけて見ることができる主な星たちの捜し方が記されています。内側の上部には北と南のそれぞれの星座が描かれ、実際の星空のもとで星座を捜す時の注意点がごく簡単に書かれています。
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このリーフレットの発行年は不明ですが、昭和32年打ち上げのスプートニク1号らしき人工衛星が描かれていることから、プラネタリウム開館(昭和33年)の直後か2~3年以内に発行というところでしょうか。「星の劇場 宇宙への観光旅行」の言葉にワクワクしますね。投影機は「カール・ツァイス・イエナZKP-1型」です。
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裏側の「岐阜プラネタリウム遊園地」イラストです。

絵葉書では気づかなかったのですが、敷地周囲に「こども汽車」が走っていたことがわかります。敷地内中央付近にジャングルジムが描かれ、その前にシーソーとブランコがそれぞれ2台。「飛行塔」の右側の一段低くなったところにもブランコがあります。

また、建物のすぐ横に螺旋階段があって直接屋上にあがれるようになっていたことがわかります。屋上では望遠鏡を覗いている人影がチラホラ。

裏面の「御案内」を書き写します。

ところ:岐阜市鶯谷四六九五(水道山)
交通:バス 国鉄岐阜駅より名鉄新岐阜、柳ケ瀬、岐阜公園、ドライブウエーを経てプラネタリウムまで直通。 市電 岐阜公園前下車 徒歩30分 柳ケ瀬下車 徒歩20分
徒歩の方は岐阜公園からはドライブウエー、若宮町柏森神社からは、新しい遊歩道があります。

施設の概要:プラネタリウム館 鉄筋二階建 冷暖房完備
一階 喫茶・食堂・売店
二階 投影室・展示室
屋上 展望台・望遠鏡
人工衛星型飛行塔、天体望遠鏡

料金
プラネタリウム 大人50円 大学高校生40円 中学生30円 小人25円 団体割引 50人以上~100人迄 1割引 101人以上 2割引
こども汽車 1回20円 飛行塔 1回10円

営業時間
午前10時から午後7時まで
夏期は早朝並びに夜間営業いたします。 団体の方には時間外でも特別に投影することがありますから事務所へ御連絡下さい。


岐阜プラネタリウム遊園地 リーフレット
30×21cm(二つ折りを開いた大きさ)1枚

ところで、あと一つ、二つ、長い間念じているものがあります。しかし全くカスリもしない・・・。
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午後遅くにちょっとだけ時間が空いたので、近場の海岸へビーチコーミング(のようなもの)に行ってきました。場所は菅原道真を祀る綱敷天満宮のすぐ目の前の「浜の宮海岸」です。この浜辺の沖は周防灘で元日に訪れた蓑島海岸と同じく瀬戸内海に向って広がっています。

ビーチコーミング向きの海岸とは言い難いのですが、今まで行ったことがなかったので少しばかり期待してました。・・・が、しかし、やっぱり何もありませんでした。漂着物がないということはゴミ類もないということで、気持ちの良い浜辺でした。お正月まえに清掃したのかもわかりませんが。

ナンにもないことを確認に行ったようなものでしたが、砂浜が途切れて岩場になったあたりで大量の貝殻と一緒に波に洗われている1個の土錘(どすい)を見つけました。土錘は土製のおもりで投網や刺し網などの魚網に付けるおもりです。

土錘は弥生時代から使われているもので、球形のものや棒状のもの、ずんぐりした樽形のものなどがあります。古墳時代あたりから細い紡錘状のものが見られるようになり、中世から近世、近代まで基本的形状はほとんど変わらないようです。といっても、私が見つけたものはごく最近のもののようですが、よくわかりません。
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浜の宮海岸にて「土錘」。長さ4cm、最大径2cm、孔の径8mm。紐を通すようになっています。

比較のため、行橋市歴史資料館展示の土錘の写真を載せます。
弥生時代・下稗田遺跡出土の球状と板状の土錘 球状は径4cmくらい。
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古墳時代終末期・稲童野稲迫遺跡出土の土錘、二種類 管状は長さ4.5cmくらい。
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これまで海岸で土錘を見つけても持ち帰ることはなかったが、今回は初めての海岸だったので記念に持って帰った。もちろん、海岸のすぐ向かいの天満宮さんにもお参りしましたよ。それにしても寒かった!
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「ミダス4号」について書くまえに、ご存知の方も多いと思いますが人工衛星の公式名のことをちょっとだけ。

4号の公式名「1961αδ」を例に取ると、1961は打ち上げられた年、その次のギリシャ文字はその年に打ち上げられた順番をあらわします。

つまり、打ち上げられた順番にギリシャ文字のαからωまでの24個を当てて行くわけです。人工衛星が打ち上げられても地球を一周しない限り、ギリシャ文字はつきません。同じ年度に24個以上打ち上げらた場合、25番目の衛星は「αα」とつけられます。次は「αβ」、その次は「αγ」、次「αδ」という具合です。

ギリシャ文字の次の数字、「1960ζ1」や「1961αδ1」の「1」とか「1961αη3」の「3」のことですが、衛星以外にも付属体(ロケットケースなど)が一緒に周回している場合に明るい順番に数字をつけて行きます。衛星本体が1であることが多いのですが、本体が一番明るいとは限りませんし、本体の発見が遅れる場合もありますので、この公式名の命名ルールに従ってない衛星も多々あります。

ギリシャ文字を使わない命名法もあります。例えばミダス1号は1960-F03、ミダス2号は1960-006A、ミダス4号は1961-028Aなどです。年号のすぐ後のFは打ち上げ失敗をあらわします。

さて、ミダス4号ですが、アトラス・アジェナBロケットにより1961年10月21日に打ち上げられています。4号について特筆すべきは「ウエスト・フォード計画」の実施です。

この計画は長さ1.77cmの銅の針約3億5000万個を地球を取り巻く帯状の軌道に乗せ、地上からの電波をこの帯に反射させて大陸間通信を試みる、というものでした。

計画を立案したアメリカM.I.T.リンカーン研究所によると長さ1.77cm、重さ0.1mg、直径25ミクロンの銅針35kg分約3億5000万個を人工衛星から放出し、地上からの高さ5000~6000kmの空間に幅8km・厚さ32kmぐらいの地球を取り巻く帯をつくり電波の反射帯とする、というもの。

帯中の銅針相互の距離は平均370m、空間密度は放出後1ヶ月で1km立方あたり21個の予定。

この計画に対して国際天文連合は、電波天文学をはじめとしてさまざまな分野で問題が起きるとして反対表明を決議したが、最終的には実施されたという経緯があります。実施1年後の天文月報(1962年9月号)の記事によると銅針は帯状に散らばらず5~6個のかたまりとなって周回している、ということです。

なお、1987年11月23日朝、10秒間に200~300個の流星出現が日本で観測されていますが、これは橋本就安氏の調査によるとミダス4号放出の銅針の地球再突入だったそうです。(ウエスト・フォード計画については、天文月報1961年7月号の斉藤国治氏の記事を参考にさせて頂きました。)
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日本天文研究会回報 昭和38年(1963)Ⅻ 15の裏面の流星塵報告(1963年9~10月)

日本天文研究会回報 THE JAPAN ASTRONOMICAL STUDY ASSOCIATION CIRCULAR 223
発行所:日本天文研究会 神奈川県湯河原町59
発行日:1963 Ⅻ 20
編集人:神田茂
45ページ(表)と46ページ(裏)
17cm×24.5cm/裏表1枚
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今から50年ほど前に発行されたものです。劣化が進み、端のほうはパラパラと崩れ落ちていく有様で、あと数年経てば持ち上げただけでパリッと砕けてしまうんじゃないかと思えるほどです。そうならないうちに大切な観測記録ということでここに取り上げてみました。

画像は回報の表側の一部です。「日本天文研究会回報」のタイトルの下、最初に「ヘルクレス座新星の観測」報告があって次に「変光星RCrBの観測」の報告が3件、その次に「人工衛星の眼視観測」、表の最後は「流星塵報告」が4行掲載されています。裏側は全面「流星塵報告(1963年9~10月)」で報告者は樋口八重子氏と森久保茂氏です。
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表側の「流星塵報告」を転記します。
「今年の秋も例年通り増加したが、森久保の測定では、ガラス板法では余り顕著な増加が見られなかったのに反し、雨水法では非常に顕著な増加が見られた。このように両方の方法が不一致であったのは今回が初めてである。他の観測者はガラス板法であるが、例年通り増加が示されている。」

「人工衛星の眼視観測」の最初の「1960ζ」は、1960年5月24日にアトラス・アジェナAロケットにより打ち上げられたアメリカの軍事衛星「MIDAS 2」です。

MIDAS(ミダス)は、Missile Defense Alarm Systemの略で弾道ミサイル早期警戒衛星と呼ばれる偵察衛星です。ミダス2号に先立って1号が1960年2月26日に打ち上げられていますがこれは失敗。

したがって、成功したミダス2号がアメリカ最初の軍事衛星とされていましたが、1995年になってアメリカ政府が機密情報を解除したことにより、1959年にコロナシリーズと名付けられた軍事衛星が存在していたことがわかっています。ミダスシリーズは1966年10月5日打上げのミダス12号で終了。

1960ζの観測報告の下の1961αδはミダス4号です。4号については次回に書きます。
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