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「星はそれぞれの速度で、それぞれの方向に動いている。私たちの地球も太陽に伴って、この一年の間に織女の方向へ六億キロ以上も近づいている。

しかも、この除夜にこうして仰いで見ても、また何十年前の除夜にも、更に孫たちが私の年に達した除夜に仰いで見ても、すばるは、オリオンは、シリウスは、全天の星は今夜私が見ているのと寸分も変りのない景観を見せているだろう。(後略)」
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「星三百六十五夜」より12月31日「除夜」の終わり近くの6行です。
一年間、慌ただしく駆け巡ってきて、さて今年は昨年より少しでも「織女」の方向へ近づいただろうか、と思うとき、昨年の私と「寸分も変わりのない」立ち位置にいる自分に気付きます。来年こそ少しでも「織女」に近づきたいものです。

一年間拙い文章にお付き合い頂きまして有難うございました。どうぞ良いお年をお迎えください。
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本号の「太陽分光活動写真観測所 マクマスハルバート星見台」より「塔及び地下筒」の部分を転記します。執筆者は、柴田淑次氏です。

「塔は地上50呎の高さを有し、頂上にドームを具へ、底部に八角形コンクリート造りの観測室がある(第一図参照)。ドームの直径は、17呎6吋あり、其の廻転は観測室より電気ボタンによって調節される。塔は二重になって居て、外部の筒は直径16呎6吋、内側の方は6呎の直径がある。

此れは外界より来る太陽熱が内部の筒の中を通る太陽光線に影響を与えるのを防ぐためであって、従って筒が熱せられるために筒内に悪気流が生じない様になって居る。又ドーム内のシーロスタット及び第二面鏡は此の内側の筒の上に装置されて居るので、たとへ外界の風力によって、塔そのものが振動しても、内側の筒-従ってドーム内の鏡には影響しない様になって居る。

地下筒の深さは31呎許りあり、廻折格子等の光学器械を蔵して居る。Michigan州の夏期は暑さ烈しく又湿気も多いので、此等の影響を防ぐため筒壁は特に防水と温度の変化に注意して作られて居る。尚観測室等は絶えずヴェンチレータによって換気されて居るが、此れによって太陽像は甚だ良好になったと云ふ事である。」
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本号の206ページより「マクマス ハルバート星見台」

「天文」の発行所は「天文読書会」で、これは京都大学の関係者によって創られた天文同好会の名称でもあります。しかしちょっと変わった会名が表しているように同好会というよりは天文勉強会とか研究会、あるいは論評の場と言い直したほうが良いかもわかりません。

記事内容も内外の論文の紹介や海外出版物の抄訳、評論などで構成されています。このことは最終ページに掲げられた「本誌の編輯」にも示されているように思いますので、一部を書き出します。

◎学問討究のため革新を目指す。
◎記事の厳撰。内容の検討。場所埋めの考を持たず、又発行回数や期日には捉はれません。
◎必ず執筆者以外の者の再閲或は三閲によって改訂を実行。書き流しを許さず。(後略)
◎典拠、考証の厳密を期すると共に、数字、数式ある場合は其照合に努む。孫引、即ち出所を示さずして他人の説を恰も自分のものの如く見せかけて採用したり、勝手な焼直しをすることは避け度いと存じます。(後略)

当然のことながら、しかしこれはなかなか手厳しい・・・。
本文記事に続いて4ページばかり掲載記事の要旨が英文で書かれています。これは海外読者のためということもあるでしょうが、英語学習を意識したということの表れではないでしょうか。

天文 第一巻第五号
発行日:昭和十三年十月一日
編輯並ニ発行者:玉木光栄 大阪市住吉区松崎町二丁目二十二番地
発行所:天文読書会 大阪市住吉区松崎町二丁目二十二番地
印刷所:児玉欧文活版所 神戸市神戸区元町一丁目二百二十九番地
15.5×22.5cm/197~245ページ(49ページ)

年六回不定期発行
定価一部郵税共四十銭
一ケ年(六部)郵税共弐円
外国一ケ年郵税共一弗又ハ四志

ところで今日は皆既月食。しかし案の定というか、またもやというか、天空は厚い雲に覆われている! 大事なときはいつもこうなんですよね。皆さんのとこは晴れてます?
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表紙の見返しに「謹んで本号を若くして逝きし太陽物理学者 上島昇氏の霊に捧ぐ」とあります。また、最終ページの編集後記にあたる部分の冒頭に「本号は元京都帝国大学理学部講師てあった故上島昇氏に捧げられました。(後略)」と記されています。

表紙の見返しに上島氏の略歴が掲載されていますので、転記します。執筆者名は「T.W.」となっています。これは、渡邊敏夫氏のことと思います。
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上島昇(1905-1936)
「明治三十八年一月十七日 三重県一志郡稲葉村に生る。富田中学校を経て大正十一年第八高等学校へ入学、在学中常に特待生で過した。

次で、京都帝国大学理学部に入り宇宙物理学を修めたが、主として分光学的方面に興味を持ち、卒業論文は「太陽大気の研究」であった。

昭和三年卒業、大学院に入り太陽の研究を続け昭和四年三月京都帝大理学部講師となり、天体観測部を担当し、後又天体物理学、太陽物理学をも担任した。(後略)」

本号の記事は、太陽物理学者の追悼号に相応しく、「恒星大気の構造」「太陽分光活動写真観測所 マクマスハルバート星見台」「太陽コロナのスペクトル観測」「太陽黒点」などの太陽関連記事で占められています。

マクマスハルバート星見台とは、1927年に米国ミシガン州レイクアンジェラスにフランシスC.マクマスと彼の息子ロバートR.マクマスによって建てられた4インチ赤道儀を備えた観測所を前身とし、1929年にヘンリーSハルバートとR.H.カーティスの協力のもとに新たに10.5インチ赤道儀を持つドームが加わった「マクマス・ハルバート天文台」のことを指しています。(その後1931年にミシガン大学の所属となる)

本号では、そのマクマス・ハルバート天文台内に1936年7月1日に竣工した太陽観測専門の「塔望遠鏡」についての詳細が掲載されています。

また、「太陽コロナのスペクトル観測」は、1936年の日食観測についてパリ・ムードン天文台のベルナール・リヨーが「L'Astronomie誌1938年5月号」に載せたものを訳出した記事です。

この稿つづきます。

(いるか書房本館・宇宙・天文 12月17日更新しました。)
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この「緊急増刊」では打上げに使用されたロケットは多分こんなんだろうなぁ、という想像図が載っているだけですが、実際は、R7型大陸間弾道弾を元にセルゲイ・コロリョフらによって開発されたスプートニクPSロケットが使用されました。
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同号76ページより「月へ向うロケット」小松崎 茂・画

スプートニクロケットはスプートニクPS(8K71PS)とスプートニク(8K91)の2種類が開発され、8K71PSによってスプートニク1号(10月4日)と2号(同年11月3日)が打上げられ、翌1958年5月に8K91によりスプートニク3号が打ち上げられています。(8K91による打上げは1958年4月にも試みられていますが、このときは失敗しています。)
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人工衛星を観測する「角田妙子さん(23)」
「宇治の農家のこの娘さんは、昼は食品会社の事務員だが、夜は人工衛星の観測員として天文台で空を眺める。高校、女子大と続いた天文ファンだ。」とのこと。

「四時四十七分 光度二等の星が、高度十七・二度、北斗七星のイーター星とゼーター星の間を、北々西から西から東南に飛んだ。観測成功!」とあります。

光度2等だったということは、衛星本体ではなく、一緒に回っていたロケット最終段が見えたということでしょうね。因みに打上げ時に衛星を覆っていたキャップも周回軌道に乗っていて、こちらは光度5等、衛星本体は光度7等だったそうです。
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レンズを磨く住職「木辺成麿さん(45)」
「(前略)こんど京大花山天文台に取りつけられ、十月五日から人工衛星の観測に活躍しているわが国唯一の大型シュミット・カメラ(口径四十センチ×六十センチF一・五)をみがいたのが今までの最大のもので、ゆくゆくは少なくとも百、百五十センチのものまで作りたいという。(後略)」

写真は西村製作所にて。

週刊朝日緊急増刊号 第62巻第45号通巻第1987号
昭和32年10月28日発行
発行/発売:朝日新聞社
26×18cm/82ページ
定価:30円
表紙画:小松崎 茂
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緊急増刊のタイトルは「人工衛星」となっています。これは本来ならば「スプートニク特集」とすべきところとだったと思いますが、当時は東西冷戦のさなかであり、人工衛星の打上げは軍事に直結する事項であるためにソ連側からの情報には限りがあり、いきおい特集号の内容もスプートニクそのものの記事は少なくならざるを得なかったことによるものと思います。
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「緊急増刊 人工衛星」の目次

記事の大半は大陸間弾道弾と各種ミサイルの解説(開発の歴史と現状・技術的解説・日本のミサイル開発について等)、人工衛星と大陸間弾道弾の関係の説明、衛星打上げが外交に及ぼす影響などで占められています。

また、打上げ時のアメリカの慌てぶりやその後の政策的対応、アメリカのバンガード計画の解説、わが国での衛星観測の様子(ムーンウォッチ計画)などで誌面が構成されています。このようなことから、「スプートニク特集」ではなく「人工衛星」のタイトルになったものと想像します。

スプートニクに関する記事は、プラウダ紙・タス通信・モスクワ放送などの発表したものに基づいており、独自の取材によるものはないように思われます。

しかし、これは当時としては仕方がなかったことでしょう。さらには、衛星の打上げはある程度予測されていたものの突然であったことと打上げから緊急増刊号発刊までの間に余裕がなかったこともスプートニク自体の記事が少ない要因のひとつと思われます。

さまざまな制約のなかで発刊されたであろうことは容易に想像できますが、それにもかかわらず「科学朝日編集部」による「二十六億人を驚かした五十八センチの球体」の解説記事と打上げ当日から10月23日までのソ連側の発表を掲載した「スプートニク日誌」は貴重な記録といってよいと思います。
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女性観測員
「ノボシビルスクの「航空写真測量および製図」専門学校では、女性観測員もまじえて、望遠鏡観測をつづけている。」
右は、「リボフ国立大学の無線電信室では、人工衛星が送るピイッ、ピイッという電波をキャッチし、録音する」

この稿もう少し続きます。
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昭和32年は天文界にとって話題の多い年でした。五島プラネタリウムの開館や肉眼的彗星アランド・ローランド彗星の出現、シベリア金環日食、水星の太陽面経過、等々で国際地球観測年(IGY)がスタートしたのもこの年でした。そして最大?の話題がソ連による初の人工衛星スプートニクの打上げでした。
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本日は、その人工衛星特集号のなかから「徳川夢声連載対談 問答有用」の号外です。対談相手は原田三夫氏。タイトル横の原田氏の似顔絵は横山泰三氏によります。

対談の様子は8ページに亘って収録されていますが、最初から最後まで珍問答が続いています。

地球周回の人工衛星の次はロケットを月に打ち込むのではないか、という話題から月世界旅行の話しに移り、さらに無重力の話しに移ったあたりから抜き書きします。
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原田「重さがなくなるというのは、引力がなくなるからじゃないんだ。いいですかエレベーターが下りる時、からだが軽くなるでしょう? エレベーターが急に下りる時、フワーッと浮くでしょう?」

夢声「ぼくはエレベーターは、上がるのも下りるのも一向平気だから、そんなこと知らない(笑)」
原田「こんど乗ったら、「すまんが、急に早く下ろしてくれ」って頼んでごらんなさい。そうすると、からだが浮いちゃう。

たとえば、このタバコの箱、これには重さがある。これをある高さから落とすと、サッと落ちる。ね? それが同じ早さで手にのせたまま落としたらどうなる? 手がタバコの箱と同じ早さで落ちたら、重さ、ありますか。やってごらん。」

夢声「なるほど、重さを感じないな」
原田「それですよ。いっしょに落ちていれば、重さはなくなる。人工衛星は落ちてるんだ。それといっしょに落ちていれば・・・。ね? 人工衛星はなぜ落ちないか、というがね、あれは落ちどうしに落ちてるんだ。落ちてるからまわってるんだよ。落ちなけりゃ飛んでっちゃうよ、どこかへ。

落ちどうしに落ちてるから、これ以上落ちようがないんだよ。いくらか払っていいね、教えとくよ。人工衛星漫談のタネだ。」

夢声「それは払うよ。なんだい。」
原田「今いったろう。落ちどおしに落ちてるから、これ以上落っこちない、というんだよ。これいうと、受けるよ。(笑)」

夢声「え?」
原田「わからない?落ちてるんだよ。」

夢声「落ちてるといっても、だね、ふつう落ちてるというのは、地球の中心に向って落ちるのを、落ちてるという言葉で現すんだろう。」

原田「そうだよ。人工衛星も地球の中心に向って落ちてるんだが、同時に横へはね飛ばされてる。そのためにななめに落ちるんだ。(後略)」

このあともう少し落ちる話しが続くんですが、徳川夢声さんはよくわからないまま最後に落語のオチに行き着いて、次の話題に移っています。

この当時、原田三夫さんは「日本宇宙旅行協会」の理事長で、徳川夢声さんは常任理事の一人でした。

この稿続きます。
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西星会の読み方は、会誌「西星」の第2号裏表紙に掲載された「西星会会則」で「サイセイ」と振り仮名が付いていますのでその通りなんでしょうが、会誌「西星」の読み方はわかりません。会名と同じく「サイセイ」だったであろうと思いますが、あるいは「ニシボシ」なのかもわかりません。些細なことのようですが・・・。

第1号の最終ページに理学博士竹内時男の「端書」と題された文章が載っています。

「K君は立志、天文学界に一つの足跡を残されつつあります。人に対して懇切、稀に見る事柄であります。星図や黄道光の研究に精進せられて、又優秀なる写真家でもあります。今、西星観察の同好者を集められ、その培養を楽しんで居られます。天文ファンは斯かる指導者を得て、大いに伸びることでありませう。(後略)」

同じページの下段に編者記として「K氏は西星会生みの親と云ふべきでありまして、同氏は御勤務中の多忙にも拘らず、西星会を指導して下さって居ます。茲に厚く御礼申します。」と有ります。

竹内氏の文章冒頭は「K君は立志、」ですが、最初はK君ではなく、実名が書かれていたようでその部分を印刷後に墨で消して「K」と手書きされています。これはK氏自身の要望と思われますが、さてそれではK氏とはどなたでしょう?。

すでによく知られていることかもわかりませんが、私は知らないので勝手に推測しますと昭和12年に「全天恒星図」を発表した草場修ではないでしょうか。(例によって根拠薄弱です。)

草場氏は、フィルムメーカーの乳剤研究部在職の経験をもとに西星第3号と4号に「写真化学」を執筆しています。
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第2号の表紙に掲げられた目次

四隅の「コロナ」は昭和18年2月5日の皆既日食に因むものと思います。この2号掲載の竹内時男「コロナの光」には「(前略)本年の日食のコロナは極小型であった。私の撮ったコロナ偏光写真では、露出時間の関係から7000Aを中心とした波長の光が感じてゐる筈であるが、殆んど円環的な形を示してゐる。(後略)」と書かれています。

西星会は、観測部・事務部・編輯部を置いていたようでそれぞれの連絡先は下記の通りです。
観測部:京都市下京区 笠井泰雄/事務部:京都市右京区 山下義男/編輯部:京都市中京区 西川憲三の三方です。これは第1号に載っていた分ですが、第2号の奥付には、観測部:京都市東山区 牧野勝、となっています。事務部と編輯部は変わらずです。第3号では、観測部は笠井・牧野両名の連名になっています。

なお、1号から4号までに寄稿された方は「渡辺敏夫、浅野英之助、草場修、山下義男、竹内時男、神田茂、西尾利夫、北丸屋星朗、熊切一男、金田伊三吉、瀧山昌夫、笠井泰雄、椿初子、坂上務、井上秀夫、井本進、村上忠敬、野尻抱影、藤沢信、斎藤馨児、星野奎」の諸氏です。
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第4号の裏表紙の「ミラ観測用星図」

西星 第4号 昭和18年11月
昭和19年2月10日印刷
昭和19年2月15日発行
編輯・発行:西星会事務所 京都市右京区桂上野西町28 山下義男
印刷所:京都市左京区丸太町通熊野神社東 甲文堂
15×21.5cm/46ページ/孔版
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