<   2010年 10月 ( 12 )   > この月の画像一覧

庭の隅のソテツに実がつき始めました。まだ葉の隙間から数個ちらちら見える程度です。大きさは4cmほどで、形はビワの実によく似ています。
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色といい、形といい、ちょっと美味しそうに見えますがこれは有毒。配糖体のサイカシンを含み、体内に入ると消化管微生物の酵素によって非配糖体のメチルアゾキシメタノールに変化、さらにホルムアルデヒドとなって中毒を引き起こすそうです。

しかし、沖縄・奄美地方ではソテツの実を使った郷土料理があるそうで、実に含まれている澱粉を取り出して利用しているとのこと。

実を2~3ヶ月間水に晒したあといくつかの工程を経ることで無毒化させるそうです。これは、サイカシンが水溶性であるために出来ること。・・・が、熟練者でなければ少々危険、だそうです。実際、食糧難のときソテツの実をたべて中毒をおこした人は大勢いて、死亡例も多数あるそうですので、美味しそうな実だからといって、チャレンジ精神などは発揮しないほうが賢明かと・・・。
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新芽の先端が見え初めて4日目、長さ20cmくらい。(10月4日撮影)一週間後には、葉の長さ50cmに伸びていた。ベージュ色の球状部分は直径40cm程度。柔らかそうに見えるが実際は硬く、棘も鋭い。樹齢約30年、幹高60cm。

「有用野生植物図説」(養賢堂・昭和23年)に掲載のソテツの図
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ソテツの自生地や特徴を記述したあとに「鑑賞及び故事」という項目がありますので、少々長くなりますが転記します。

「東京以西の暖地にて古来庭園樹として重んぜられた。殊に有名であるのは堺市妙國寺のソテツで、今は枯れた古株の根廻りは2.4米ある。織田信長が一旦安土城に移し植えたが故あって再び元に戻したものと伝えられている。その外、清水市龍華寺・大分県日出町松屋寺・香川県小豆郡二生村哲願寺・福井県島津町個人有等は有名で何れも天然記念物となっている。
庭樹とするの外、鉢植としても鑑賞され、以前には琉球から根も葉も切り去った幹を送り之を植付けて培養した。本邦では余り使わないがアメリカ合衆国では乾燥した葉に銀粉を塗って花環に使用することが多く、それには本邦から乾燥葉を輸出したのである」

ソテツの葉はかなり長く緑の状態を保つことが出来るのでよく生け花に使われていますし、金や銀のスプレーで塗られて活けられた葉もけっこう目にします。しかし、葉先の棘はかなり硬く鋭いのでくれぐれもご注意を。

(いるか書房本館・植物)
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副題に「おかあさんの教育相談」とあります。
本書の項目は大きく分けて「一般的なこと」「低学年の理科」「物理」「化学」「生物」「地学」で、地学は地学・気象・天文の三つに細分されています。

お母さんの問いに教師が答えるという形式で執筆されていますので、その状態を保って一部を書き抜きます。最初が問い、次が答えです。答えは非常に丁寧でそれだけに文章が長いので適当に割合します。
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「理科をやると、よい作文や絵がかけなくなるという人がいますが、ほんとうでしょうか」

「それはたいへんなまちがいだということができます。・・・子どもの作文を見てみますと、子どもが実際にその目で見て、確かめたいことが、すなおに書かれてあります。・・・どんな細かなものも見のがさない観察こそ、理科のいのちであり、そこには必然的に感動が生まれてくるのです。理科の勉強で学んだ事実から得られた感動は、そのまま詩となり作文となるのです。・・・」

「花は虫をよぶために蜜を出す、といういい方は、まちがいだということですが、それは、どういう意味ですか」

「それは生物の形態や生態を、人間流に解釈してはいけないという意味からです。・・・花が蜜を出すのは、花の中で複雑な化学変化がおこる結果です。・・・それでも、花の蜜はじっさいに虫をよんで花粉を媒介させるのに役だっているのだから「花は虫をよぶために蜜を出している」といってもよいではないか、という考えもあるでしょう。・・・しかし、こうした目的論につながりやすい、いい方をすると、もうそれで問題が解決してしまったように考え・・・花の蜜がどのような機構でつくり出されるかは研究されなくなるおそれがあるわけです。・・・」

「うちの子どもは理科がすきですが、ものしりを鼻にかけてこまります。理科にこるのをやめさせたほうが、よくはないでしょうか。」

「・・・なまいきな子どもだなと考えずに温かい目でみてやってほしいと思うのです。・・・それでも、やはり心配だというのでしたら、科学者のすぐれた伝記などを読ませるようにしてみたらどうでしょう。すぐれた伝記でしたら、科学者をたんなる天才にしたり、偶然に偉大な発明や発見をしたようにはかいてないはずです。・・・こうした努力を知れば、自分のもっている知識がいかにわずかなものであるかをさとり、少しぐらいの知識を鼻にかけるようなことを反省し、誠実な気もちになるのではないでしょうか・・・」

このような問答が延々と続いて切りがないのでもうやめますが、心配で心配で堪らないお母さんに対して丁寧に丁寧に答えている先生は本当に忍耐強いというか、理科教育に込める熱情がこちら側にも伝わってくるようです

以下、質問だけ二、三、書き写します。
「子どもは泥いじり、砂いじりが大すきのようです。泥んこ遊びは意味があるでしょうか。」

「うちの子どもは、月にウサギがいるとか、月はいくつもあると考えていますが、それでよいのでしょうか。」

「子どもに「なぜ」と問いつめられて困ることがありますが、どう答えたらよいのですか。」

本当に心配のタネはつきませんね。

どうしたら理科ができるようになるか おかあさんの教育相談
編著者:田中実/真船和夫
発行日:昭和36年4月28日第1版第1刷発行
発行所:日本評論新社
発行者:岩田元彦
装丁:初山 滋
13.5×19cm/199ページ
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(10月25日の続きです)

創刊号発刊を目前にして編集長交代という尋常ならざる出来事の裏には、編集長枝元と設立企画者石原の確執があった、と原田三夫は「思い出の七十年」のなかで語っています。確執のひとつとして「科学知識」の発行は科学知識普及会で行うべきとした石原に対し、枝元は自身と関係の深い東京社(出版社名)で行うと主張したことを挙げています。

急遽編集を引き受けることになった原田三夫は「直ちに企画を立て執筆者を駆け回ったが、締切に間に合わぬものが多かったので、それらは口述をとって自分で執筆し、わずか一週間で口絵写真に至るまで編集を終えた。(思い出の七十年)」と記している。

結局、枝元は科学知識普及会を脱会するに至るが二人の確執は尾を引き、やがて設立企画者の石原も自身が創設した会から追放されるようなかたちで脱会を余儀なくされています。このとき原田三夫も石原と行動をともにした、と前掲の著書のなかで語っています。
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内容は多岐にわたっており、動植物・花卉園芸・人体・機械・航空機・食品・気象・鉱物などさまざまです。天文に関する話題が少ないのは残念ですが、他の記事とのバランスの関係と思います。この11月号では、「我国古代の暦」(春山天涯)の記事のみです。他には連載物で「十一月の惑星」という記事があり、毎月の星空(星座)と惑星の位置を解説しています。執筆者は東京天文台の井上四郎氏です。

古い雑誌、特に戦前の雑誌を見る楽しみのひとつに「広告」があります。当時の商品の写真や図、広告文の言い回しというか表現法など興味は尽きません。

画像は「光学普及社」の広告ページで上の望遠鏡は「天体地上用ライムス望遠鏡」鏡筒全長680ミリ・鏡筒直径60ミリ・倍率65倍強、とあります。売価は「色消対物38ミリと直角プリズム接眼」のセットで「特価 金弐拾参円五拾銭」だそうです。
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その下は「ダウエル望遠鏡」鏡筒全長600ミリ・鏡筒直径53ミリ・倍率50倍・価格は天体地上両用のアクロマート色消で12円です。

左の「オリオン望遠鏡」は鏡筒全長405ミリ・鏡筒直径40ミリ・倍率50倍・「伸縮自在」、価格はアクロマート完全色消で5円50銭。いずれも「原田三夫先生責任証明付」です。
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「天文小話」は井上四郎著、「本書によって清浄なる天界の消息を知れ!」と惹起しています。
左ページの顕微鏡は東洋光学工業所の「エリザー顕微鏡」定価弐百円也

科学知識 第十三巻 第十一号
昭和八年十月十八日印刷納本
昭和八年十一月一日発行
編輯兼発行者 高松 道
印刷者 倉橋喜八郎
印刷所 株式会社秀英舎
発行所 財団法人 科学知識普及会
定価  金五拾銭
送料 内地二銭 外国十銭
19×26cm/100ページ(広告ページ含む)
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この表紙の絵、私は長い間、花火を図案化したものと思ってました。しかし、よくよく見るとこれは菊の花。葉も二枚描きこまれています。

バックが黒であるためなんとなく夜空に浮かぶ大きな花火を連想し、そのまま花火として認識していたのでしょう。何度も見ていたはずですが、気がつきませんでした。絵の右上に「SUGIURA ひすゐ」とサインがあります。
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杉浦非水(1876-1965)は、明治・大正・昭和に活躍した図案家で、近代日本のグラフィックデザイナーの先駆け的存在です。

当初日本画家を志していましたが、東京美術学校在学中に洋画家の黒田清輝の指導を受けて図案家へ転向し、多くの雑誌にアールヌーボー様式を取り入れた表紙画や挿絵を発表しました。また、ポスターや煙草のパッケージデザインなどの商業美術の分野でも目覚しい活躍を示し、わが国のグラフィックデザインの黎明期を牽引した重要な人物の一人として現代に記憶されています。

さて、「科学知識」ですが、この雑誌は「財団法人 科学知識普及会」の機関誌で創刊号は大正10年(1921年)に出されています。科学知識普及会は、その名のとおり科学知識の普及により国利民福を図ることを目的に設立されたもので、設立企画者は当時、化学工業新聞社の社長であった石原俊明(のちに出版社の国際情報社の社長)でした。

編集長には東京日日新聞の学芸記者枝元長夫が就任し創刊の準備をしていましたが、内容見本を作ったあたりで急遽編集長の任を解かれ、代わりに原田三夫が編集人となり創刊号を出しています。(この稿続きます)
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絵葉書の説明書きに「大彗星 西暦一八四三年二月二十八日 北欧の空に現れて当時の人心を恐怖せしめたもの 尾の長さ六十度 周期五百年」とあります。

この彗星は通常「1843年の大彗星」と呼ばれていますが、近日点通過(1843年2月27日)の前後は日中でも見ることができるほどの明るさであったため、「1843年のDaylight Comet」とか、3月中ずっと目立った存在であったため「Great March Comet」などとも呼ばれています。
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発見はこの年の2月上旬で、近日点通過のわずか3週間ばかり前のことです。彗星の尾は近日点通過前は長さ2~3度程度でしたが、通過後、明け方の東空に現れたときには、尾の長さ50度以上もある大彗星へと変貌していたそうです。実際の尾の長さは少なくとも1億5000万km以上、最大で3億3000万kmに達していたと計算されています。明るさはマイナス6等以上であった、ということです。

・・・で、この絵葉書の作者、「1843年の大彗星」以外にも有名な大彗星はいろいろ出現しているにもかかわらず、なぜこの彗星を題材に選んだのかちょっと気になるところです。それで思うに、この絵の元となる当時のスケッチ、またはその後に描かれた「1843年の大彗星」の絵を作者は実際に見たことがあるのではないでしょうか。

尾の形状などは明らかに参考資料があったとしか思えません。と言うか、この絵葉書のために描かれ彗星の絵ではなく、もしかして元絵があってそれをそのまま絵葉書にしたのではないでしょうか。
作者名が書かれていませんのでこれは全くの想像です。絵の感じが昨日(10月20日)の絵葉書(作者は飯塚羚児氏と勝手に思っている)と似てなくもないようですが。

(細かいこといいますが、船と橋の大きさの比率が違うのでは・・・。)
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東日天文館絵葉書の5枚組みの一枚です。
タイトルは「月世界より見た日食、黒円は地球です」とあります。
添え書きがありますのでそのまま転記します。
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「画面に見える月世界の噴火口の多くは直径五、六十哩もあり中には一〇〇哩を超えるものもあります。(地球の噴火口は最大なものでも直径六、七l哩を超えません)」

絵葉書には作者名が書かれていませんが、戦前、多くの雑誌の挿絵画家として活躍し、昭和30年以降は海洋画家へと転身した飯塚羚児氏(1904~2004年)の絵によく似ているように思えます。ご本人なのでしょうか。作者名を知りたいところです。
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10月14日のコメント欄に機能美とか構造美とか書込みをしていて思い出したのですが、この絵葉書、機械美とか機能美とかを通り越してちょっと過激でさえあります。SF小説でいうところのクロックパンクとはこんなものをいうのでしょうか。

もっとスッキリさせればいいのに・・・、などと思ってしまいますが、まああんまりそんなことを考えて設計したのではないでしょうから、こんなのになったのでしょう。
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六十五糎赤道儀の一部
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塔望遠鏡シーロスタット

全高20メートルのアインシュタイン塔頂上のドーム内に設置されたツアイス社製60cmシーロスタット。昭和3年(1928年)にドイツより購入。

このシーロスタットによって導入された太陽光は、日本光学製48cmカセグレン反射で集光されて塔最下部まで導かれ、半地下式の小区域で分光観測される。
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なかなかドラマチックな出来栄えのプラネタリウム絵葉書です。

プラネタリウムドームは単純なフォルムをしていますので、ドームだけで強い印象を持った絵葉書に仕上げることは結構難しいことと思います。
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この絵葉書のようにドームだけでインパクトを与えるためには、撮影ポイントの選定は勿論のこと、画面全体に占めるドームの大きさ、光の当たり具合、その為の撮影時刻の決定、色調の問題、等々たくさんのことをクリアしなければならなかったことでしょう。

何枚も何枚も撮り直した末の一枚ではないかと推測しますが、それにしても情感豊かなプラネタリウム絵葉書です。しかし、もしプラネタリウムドームを見たことがない人がこの絵葉書を見た時、これを何と思うでしょうか。それをちょっと知りたい気がします。

京都市青少年科学センタープラネタリウムの開館は、昭和44年5月で設置機はミノルタカメラの16メートルドーム用MS-15型です。(その後、ミノルタINFINIUM γⅡ-KYOTOに換装)

このMS-15型は輸出もされていて、カリフォルニア州デアンザ大学(ミノルタが寄贈)やアリゾナ大学フランドロープラネタリウム、ボルチモアのニューデイビスプラネタリウム、デンバーのチャールス・ゲイツプラネタリウムなど世界各地に多数納入されています。
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行橋市歴史資料館で開催されています「村上佛山 生誕二百年記念展」に行ってきました。(~11月5日まで)

佛山は、文化7年(1810)に京都郡上稗田村(現 行橋市上稗田)で生まれた漢詩人、儒学者、教育者です。9歳の時、近くの津積村の定村直榮(さだむらなおしげ)に漢学の手ほどきを受けたのを初めとして、15歳で筑前秋月の原古処の「古処山堂」に入門。

しかし2年あまりで古処の急逝に遭い帰郷。その後、佛山が生涯第一の師と敬慕した古処の長子の原白圭や筑前の亀井昭陽、京都の貫名海屋などから漢学の教えを受け、やがて郷里上稗田で私塾「水哉園」を開きます。天保6年(1835)、佛山26歳のときのことです。

以後、全国から集まったその数三千人と言われる塾生たちに儒学や漢詩文を教授し、明治12年(1879)に70歳で没っしています。

水哉園は福岡の亀井塾、日田の咸宜園、豊前の蔵春園などとともに北部九州に於ける優れた私塾のひとつで、大勢の塾生の中からその後の我国の政治・文化・経済などで重要な位置を占める人物を多数輩出しました。

佛山展入り口に掲げられた末松謙澄と伊藤博文の扁額。謙澄は塾生の一人。長じて政界入りし、伊藤内閣の中で法制局長官や逓信大臣などを歴任した。
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右上の扁額 「長仰遺風」末松謙澄書 絹本額装 縦38cm幅145cm
左側の扁額 「渓疑齋」(渓はサンズイがない)伊藤博文書 絹本額装 縦30cm幅90cm
扁額の下の絵は「水哉園旧景図」原画は水哉園門下生 山田季造画 いずれも佛山堂文庫蔵

会場内には佛山が使用した硯や書見台、水哉園で使った教科書、佛山の詩作を集めた漢詩集「佛山堂詩鈔」や古処、白圭、亀井昭陽などから贈られた多くの書が展示されていますが、これらの中でいたく感心を惹いたものがありました。下の画像の石です。展示品の本筋から外れますが、どうもこうゆうのに目が向いてしまうのです。
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これらの石は、佛山が青年時代に訪問した各地の名所歌枕の地から持ち帰ったもので、大井川、三井寺、天龍川、鬼怒川、田子の浦などと書かれています。

古来より石はその中に霊魂を宿していると考えられ、身近に置くことでその霊力を得ることができるとされていたので、各地を遍歴し詩作を重ねていた佛山にとって是非とも傍に置いておきたいものだったのでしょう。歌枕の地で得たものであればなおさらです。

・・・が、しかし、地名を書き込んでいるところをみると、これはまあ単純に記念品、お土産ですね。大きさも2~3cm程度、角がとれてツルツル状態のしかも見た目に綺麗なものばかりで、手のひらで玩ぶにもってこいの石たちです。でも、もしかすると、この小石をギュッと握り締め、天を仰いで詩聖の降臨を願ったかもわかりませんね。

儒学者、漢詩の大家、門弟三千人の教育者などから受ける佛山のイメージがこの石たちでちょっと変わりました。
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村上仏山を巡る人々 幕末豊前の農村社会
古賀武夫 著・発行
1990年4月
(いるか書房本館・郷土史)

なお、展示図録が発行されていますので、その目次を掲載します。
平成二十二年度特別展 「生誕二百年記念 村上佛山」展示図録
村上佛山の生涯
A 村上健平の時代
(一)生家
(二)就学・遊学・遍歴
1.漢詩文の手ほどきを受ける
2.漢詩に打ち込む
3.師を定めず遍歴
B 村上佛山の時代
(一)村上佛山を称す
(二)水哉園
(三)佛山堂詩鈔の刊行
(四)佛山の書幅
(五)佛山の詩名江湖に聞こゆ
(六)水哉園の門人
特別寄稿 「『佛山堂詩鈔』の出版とその後」城戸淳一
C 村上佛山を偲ぶ
(一)佛山先生愛用の遺品
(二)生墓と蔵詩巌
特別寄稿 「佛山生誕二百年に寄せて」村上良春
村上佛山年譜
展示資料目録
関連地図
後記

編集 行橋市歴史資料館
発行 行橋市教育委員会
21×30cm/44ページ
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かつて愛知県蒲郡市にあった三谷弘法山遊園地(みやこうぼうさんゆうえんち)内のプラネタリウムです。

三谷弘法山遊園地は昭和34年(1959年)に開業。プラネタリウムもこのときに設置されたそうで、園内には各種遊具の他、観覧車、バンビセンターなどがあった、とのことです。バンビセンターというのは、鹿を放し飼いにしていて餌をやったり、さわることができたりの施設だったのでしょう、多分。(プラネタリウムの開館は昭和34年7月17日)

愛知県蒲郡市を含む三河湾一帯は昭和33年に三河湾国定公園の指定を受けています。そしてこの年に遊園地のある弘法山と近くの乃木山(乃木大将像があるそうです)との間にロープウェーが架けられていますので、開園当初は昭和29年に発見された同市の三谷温泉との相乗効果で賑わったのではないかと想像しますが、昭和59年(1984年)に廃園となっています。プラネタリウムの閉鎖はその前の昭和45年(1970年)です。

投影機のメーカーやドーム径、観客席数、活動状況等は一切不明です。人物像の大きさからみるとドーム直径は8メートルくらいでしょうか。
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壁面のデザインが障子みたいでしかも下端が「縁側」に見えたり、入り口に掛けられた紅白幕が「暖簾」のようでキッチュな雰囲気が遊園地内のプラネタリウムにふさわしくて、こういうのは案外好きです。

「氷」とか「お汁粉」などの旗などがあればなおよかったのですが、うれしい事に入り口の上に掲げられた横長の赤い看板はよく見ると「不二家ミルキー」とあります。さらに左端のベンチの背もたれには「明治アイスクリーム」と書かれています。

子供じぶんに連れて行ったもらった遊園地にもこんなのがあったような・・・。
日がな一日、ベンチに腰をおろして三河湾を見ていたい気分です。
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