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昭和15年9月1日発行の第31号で、9月の話題は「月世界の探検」です。
冒頭の「色々な月の顔」で西洋では月面の模様に蟹のかたちや婦人の横顔をを描き、中国では牧夫が薪を背にした姿に見立てていると説明し、はじめて望遠鏡を使って月を観察したガリレオのことや江戸時代に自作の望遠鏡で月を観察した国友藤兵衛のことなどが書かれています。
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下段の右のほうは「観測帳」と題されて9月の惑星の位置が示されています。「火星は見え難い」「木星と土星は相変わらず接近したまま午後八時頃に昇る、正に壮観!」とあります。下段の左には「九月の暦」があり、左端には「十月のプラネタリウムは秋の星座神話(附 変光星)」とありますので、アルゴルやミラの話しをしたんでしょうね。きっと。
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この年、昭和15年は東京でオリンピックが開催される予定でした。しかし昭和12年に盧溝橋事件が勃発し日中戦争へと拡大したことにより、国内外から開催中止を求める声が噴出。政府としてはやむなく翌13年に開催中止を決定しています。続いて昭和14年、ドイツ軍によるポーランド侵攻で第二次世界大戦が始まり、翌15年にはドイツ軍はさらにフランスへと侵攻するというような騒然とした世の中でしたが、天上界では二つの明るい出来事が記録されています。

一つはハーバード大学天文台のカニンガムによる新彗星発見(昭和15年9月5日)であり、もう一つは倉敷天文台の岡林滋樹氏と広島県瀬戸村の黄道光観測所に勤務していた本田実氏の二人による新彗星(岡林・本田彗星 昭和15年10月1日)発見でした。

カニンガムが発見した彗星は当初13等級で暗いものでしたが、12月に入って少しずつ明るさを増し、翌年の1月には1等級の明るさまで達っしています。

岡林・本田彗星は発見時8等級で比較的明るいものでしたが、その後特に明るくなるということはありませんでした。しかし、この彗星はその後たくさんの彗星を発見することになる本田氏の最初の記念すべき彗星となっています。実際、翌年の1月21日に早くも二つ目の彗星(フレンド・リース・本田彗星)を発見しています。
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「この集の題名「北落師門」は星の名です。十代のころ、本を頼りに一人で星を見ることをはじめましたが、それは私にふかいなぐさめとなり、夏の夜はむろんのこと、霜夜にさえ屋根に出て星をながめておりました。」

この歌集の「あとがき」の著者自身の言葉ですが、これはそっくりそのまま私自身のことでもあります。「あとがき」は続いて「秋の星座の一つ、「みなみのうお座」のひとつ星はことに好きで、「私の星」ときめていたほどです。若い時はそのぽつりと孤独なさまにひかれましたし、今はその寂しくもしずかな印象を好もしく思います。」とあります。これもまたそのまま、私の想いに大きく重なるところです。
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「北落師門」は、みなみのうお座の一等星フォーマルハウトの中国名で長安城の北方の門「北落門」はこのフォーマルハウトにちなんでいます。南の空の低いところに位置する「みなみのうお座」は秋が最も見やすく、秋の星座は「北方」に属するとの考えによるものです。「師門」は軍隊の門の意味です。

楠田枝里子さんに「北落師門」と題されたちょっとミステリアスで愁いを帯びたエッセイがあります。少女の頃、フォーマルハウトを教えてくれた従姉妹の思い出を縦軸にその後に出会った人々とフォーマルハウトを絡めたお話しで、「みなみのひとつ星」にふさわしく静かな筆運びのエッセイです。

フォーマルハウトの存在はそのやさしく響く言葉とともに少女のやわらかな心に何かを残してくれたようで、「歌集 北落師門」の著者もまた同様にフォーマルハウトに何かを得たように感じられます。「何か」は人それぞれに違いがあるでしょうが、それを得るきっかけに出会えたことは、羨ましくもあり、それが星であったことが嬉しくもあります。

「歌集 北落師門」は、昭和35年から39年に詠われた「春はやち」と題された一連の歌を始めとして、昭和40年から48年までの「北落師門」、昭和49年から52年までの「印度木綿」の三部から成っています。
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「北落師門」より、獅子座流星群
「起き出でし 朝の四時を雨降れり 獅子座流星群は過ぎつつあらむ」
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「北落師門」より、北落師門
「春浅き 夜の心に浮び来て 北落師門といへる星の名」

歌集 北落師門 コスモス叢書第126篇
著者:千村ユミ子
発行所:伊麻書房
発行日:昭和五十三年五月十五日
13.5×19.5cm/215ページ
函題せん及び選: 宮 柊二

最後にもう二首
「春はやち」より、道
「わが窓辺 鋭き二日の月出でて 射手座の星にかこまれてをり」

「春はやち」より、八海山
「さまざまに背きし我は帰り来て八海山に照る雪を見つ」
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引き続き、岡山の初日カバーです。
発行元は昨日(24日)の91cm光電反射望遠鏡のカバーと同じ浪静堂で、説明書きも全く同じものなので転記はやめます。
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全体に淡い色調で背景の瀬戸内海の波もおだやかな感じです。旅情感が出ていていい雰囲気ですね。「春の天文台と瀬戸内海」というところでしょうか。開所式は秋ですが・・・。

説明書きを転記しないのでなんだか中途半端になってしまった。・・なので、「地図案内社」から出ている「東洋一天文台と遙照山ラヂューム温泉」の絵葉書を載せます。昭和37年頃の発行で7枚組みですが、天文台はその中の1枚のみです。他は、遙照山両面薬師如来堂とか遙照山メガネ展望台、ラヂューム温泉郷などです。
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絵葉書が入っている封筒の表です。ドームの下の絵は「遙照山両面薬師如来堂」です。こういう色使いはいかにもお土産品の雰囲気が出ていて、これまたいいですね。
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「遙照山無線電話中継所」というのもありますので、これも載せます。左が国鉄の中継所で右が中国配電KKです。
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そして天文台です。手前が91cm望遠鏡のドーム、左が188cm望遠鏡のドームです。
別世界への入り口にはやはり階段がふさわしい!
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昨日(23日)の明け方近く、我が家周辺は激しい雷雨に見舞われた。
午前中に雨は止んだものの雲が多く、そのまま気温は上がらず終日25度前後。風が少しあったため肌寒ささえ感じた一日だった。

一昨日(22日)の日中気温は31.1度、その前日は33度で本日(24日)の朝は23度。連日やかましいほどのツクツクホウシの声も昨日は全く聞くことがなかった。今日は少しばかり鳴いている。これから日ごとに秋めいて行くことだろう。

さて、本日も岡山の初日カバーですが、描かれているのは開所式(昭和三十五年十月十九日)の前年に完成した小ドームのほうです。収められている望遠鏡は日本光学工業(現:株式会社ニコン)製の91cm反射式望遠鏡で大口径望遠鏡としては国産第一号にあたります。
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小ドーム建物は山の斜面を切り開いたところにありますので、このドームより少し高い位置にある大ドームの上あたりから見るとこんな感じになると思います。

例によって初日カバー内の説明書きを転記しますが、簡単に書かれているだけですので形式などを若干書き添えます。

36インチ(91cm)光電赤道儀/型式:カセグレン式反射望遠鏡/架台:フォーク式/合成焦点距離:12m、F/13

焦点はカセグレン焦点のみで光電観測専用の単機能望遠鏡です。大口径望遠鏡の国産第一号で光電観測専用でありながら肝心の光電子増倍管は輸入に頼らざるを得なかったことは当時としては仕方なかったのでしょうね。この望遠鏡は、2003年10月に運用を停止し、現在、超広視野赤外線カメラへの改造が行われているそうです。(もう終ったのかな?)

以下、説明書を書き写します。

岡山天体観測所開所記念
東洋最大を誇る望遠鏡を有する東京天文台岡山天体物理観測所開所を記念して次のような記念切手が発行された。
発行日 昭和三十五年十月十九日
種類 十円 一種
意匠 観測所附近の風景
刷色 紫
版式 凹版一度刷
印面寸法 縦二二.五ミリ 横三三ミリ
シート構成 縦四枚 横五枚 二十面版
原画作者 木村 勝
発行枚数 八00万枚

発行は郵政弘済会です。
そして次にご紹介するのは、この小ドーム内の望遠鏡を描いた初日カバーです。煩雑になりますが、同じように書き写します。
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東京天文台岡山天体物理観測所開所記念郵便切手
山陽本線鴨方駅から北へ約10キロ登った海抜370メートルの竹林寺山頂上に東洋最大の74インチ反射望遠鏡を有する東京天文台岡山天体物理観測所が出来上がったので、その開所を記念して、10円の郵便切手を発行し、全国各郵便局で売りさばく。
発行日:昭和35年10月19日 種類:10円郵便切手 意匠:観測所付近の風景 刷色:紫 用紙:白紙、無透 版式:凹版 印面寸法:縦22.5ミリ、横33ミリ
シート構成:縦4枚、横5枚の20面 図案者:木村勝氏 原版彫刻者:笠野常雄氏 発行枚数:800万枚 カバー図案者:木村勝氏 (Ⅰ)東京天文台岡山天体物理観測所 (Ⅱ)反射望遠鏡 カバー版画家:中村浪静堂

発行元は浪静堂ですが、文中「東洋最大の74インチ反射望遠鏡」と書きながら実際の図柄は「36インチ(91cm)光電反射望遠鏡」なのは何ででしょう。
そう言えば(その1)の初日カバーの説明書きも何か変ですね。91cm望遠鏡と188cm望遠鏡がゴッチャになってるような・・・。

いるか書房本館の「月刊 たくさんのふしぎ」(福音館書店)、追加しました。
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少し濃い目のブルーに白いドームが映えて清々しいデザインです。開所式が秋のさ中とあって秋空のイメージを取り込んだ意匠が秀逸といえるのではないでしょうか。この初日カバーの図案作成者は郵政省の技芸官(切手デザイナー)の久野実氏(1918~1994年)です。
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久野氏は昭和16年に東京高等工芸学校図案科(現千葉大工学部工業意匠学科)を卒業後、昭和21年9月に当時の逓信省に入省、爾来昭和53年に退職されるまでの32年間に数多くの切手原画を描き続けました。(この切手のデザイナーは別のかたです。)

オリンピック東京大会や国民体育大会などたくさんの記念切手を手がけていますが、「テントウムシ」や「テッポウユリ」などの普通切手も多く手がけましたので、原画者の名前は知らなくても久野氏のデザインによる切手を一度や二度はきっと見たことがあるハズです。

初日カバーの中には説明書きが入っていますが、それぞれ文章が違いますので(その1)の時と同じようにそのまま転記します。

山陽線鴨方駅から北へ約八キロの竹林寺山(岡山県浅口郡鴨方町、小田郡矢掛町)に建設中の東京天文台岡山天体物理観測所は十月十九日開所する。
この観測所の反射望遠鏡は一.八八メートルで東洋一である。このドームは標高三七〇メートル山頂に工費九千万円で建てられたもので、昨秋完成した九一センチ光電赤道義ドームと共に外観は白銀に輝いている。

種類 十円切手 一種
発行日 昭和三十五年十月十九日
意匠 観測所付近の風景
刷色 紫
版式 彫刻凹版
印面の寸法 縦二二・五ミリ、横三三ミリ
シートの構成 縦四枚、横五枚の二十面版
原画作者 木村勝氏
原版彫刻者 笠野常雄
発行数 八百万枚
カッシェ A・・・観測所付近の風景 B・・・観測所の大ドーム

カッシェまたはカシェは絵の部分をいいます。なお、この初日カバーの発行元はJAPAN STAMP BUREAU(JSB)です。
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岡山天体物理観測所の初日カバーはさまざまな版元(切手商、美術商、日本郵趣協会などの団体や個人)から多くの種類が出されています。全部で何種類あるのかわかりませんが、そのデザインの多くは望遠鏡ドームまたは望遠鏡を描いていて切手の図案に沿ったものといえます。

しかし本日掲載の初日カバーは、私が持っている数枚の中では異色のデザインです。最初にこれを見たとき、あまりのシンブルさに少しもの足りなさを感じたほどです。他のデザインの初日カバーは天文台ドームや望遠鏡を大きく中心にもってきて迫力ある図柄となっています。
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それに比べてこのカバーはどうでしょう。ドームというよりむしろ星座が中心になっています。星空をインパクトあるデザインに仕上げることはなかなか難しいようですが、そのためにかえって秋の夜空の静かさがジンワリと伝わってきて、今ではとても好きなデザインの初日カバーです。

ドーム真上の下方経過中の北斗七星をはじめこぐま座、ケフェウス座、カシオペア座、ペルセウスにぎょしゃ、おうし座、三角座、アンドロメダの一部等々、秋の星座満載。天頂付近にはまだ夏の星座が見えます。さらによく見ると地上には大ドームのほか小ドームもちゃんと描かれています。

単色刷りのシンプルな1枚ですが味わい深い意匠となっている1枚です。版元は日本風景社。

カバーの中の説明書きを転記します。

東洋最大の望遠鏡(反射式光電赤道儀)を有する東京天文台岡山天体物理観測所がきたる10月19日開所する。ふつうの望遠鏡(屈折式)は、2つ以上のレンズをくみあわせて、物を大きくみるが、こんどのは、レンズと凹面鏡が組み合わせてあり、凹面鏡にうつった像を反射させ、それをレンズで大きくしてみるようになっている。凹面鏡は直径91cm、大きさが200倍にみえ、17等星の光でもみえる。

発行日 昭和35年(1960)10月19日
額面  10円切手 1種
図案  観測所付近の風景を描く
原画作者 木村 勝
版式  凹版1度刷
印面寸法 タテ22.5ミリ×ヨコ33.0ミリ
発行数 800万枚
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(9月16日の続き)

それにしても「食用蛙」とは何とも即物的な命名です。命名者は農商務省で大正9年のことだそうです。私たち子どもは当時(昭和30年代)食用蛙を「ショッカン」と呼んでました。

これも食用蛙を縮めただけで即物的と言われればそれまでです。他の地域では何と呼んでいたか分かりませんし大人は何と呼んでいたか知りません。ウシガエルの呼称はその後しばらくたってから知ったと記憶しています。

生息地は沼地や農用溜池で、そばを通るとヴォー ヴォーと大きな鳴き声がよく聞こえてきたものです。鳴き声から「牛蛙」と名が付けられたことも納得で、ときには「モォーモォー」とも聞こえ、牛の鳴き声によく似ていました。(牛の声よりちょっと低音かな?)

大正7年に北米から移植した東京帝大の動物学者渡瀬博士は当初食用としての繁殖を考えていたのですが、国内では食用としては定着せず、むしろ缶詰に加工して北米への輸出が大だったと言います。
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口絵のブルフロッグの図 体重240もんめ、体長6寸7分、全長1尺6寸5分、5年生

この本が書かれた当時の需要状態や価格を本書より抜き書きすると

「東京・横浜・奈良・京都・大阪・神戸の一流料理店・ホテルの外国人出入り頻繁のところはいつも要求されるので、しかたなく我国固有の野生蛙を料理している状況/いまでは一料理店にて一年間の消費数は1万疋以上/価格は北米にては100もんめ3ドルから5ドルくらい/小麦とうもろこしより多額の利益がでる」そうでさらに

「我国ではいかに供給過剰になるとも決して1疋3円以下にはならないと確信している/おたまじゃくし100疋5円から20円前後、幼蛙1疋2円から15円/親蛙重さによるが30円以上にて取引」されると強気です。

また、料理法のところではかなり具体的に記述していますので和食と洋食から一品づつ転記します。
「吸物-鶴の吸物以上に美味しく真に上品で珍しい極簡単な料理法」

「フロッグレッグディロアズ-肉を塩と胡椒で味をつけて、別に、フライパンにバタ少量と細かく刻んだベーコンを少し入れて、ベーコンが少しパリパリするように数分間火にかけ、前に味をつけてある肉を入れて約5分間煮て、トマトソースをかけ、極くトロ火にて十分間煮沸し、なほタバスコソースにて心持味をつけるのであります。」とあります。吸い物のところで「真に上品で」と表現しているのは蛙肉が淡白な味ゆえ、そのように記しているのでしょう。

・・・と言うのは実は私、食べたことがあるのです。もちろん子供のころ獲って食べたのではなく、成人してから北九州市内の焼き鳥屋さんで食べました。

1970年代の終わり頃でしたがその頃まで食用として流通していた、ということでしょう。しかし焼き鳥屋さんであればどこでも食べることができたわけではなく、当時でもかなり珍しかったのではないでしょうか。(現在の流通事情はわかりません。)

味はよく鶏のささみにたとえられますが、そのとおりの味で結構美味しいものでした。


実験 食用蛙養殖法
原捨彌口述/北川與三彌著
滋賀県水産試験場・川端重五郎校閲
前田文進堂
昭和2年発行
102ページ/付録36ページ
奥付の裏側に滋賀県東洋養蛙場の広告が掲載されています。

付録ページには、産卵時期と産卵数の記述に始まってカトの飼育法・カト飼育池の構造・カトの餌についてなど詳しく書かれています。カトは蝌蚪で「おたまじゃくし」のことです。

なお、「函」のデザイン・色使いにも眼をやってください。昭和初年の特徴がよく出てるのではないでしょうか。
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他国からわが国への食用蛙移植(養殖)の試みは大正7年に始まります。

この年の4月、東京帝国大学名誉教授 渡瀬庄三郎博士は北米から食用蛙を持ち込み、帝国大学伝染病研究所内にあった古池へ放して飼育を試みます。しかし、産卵後、上手く育てることが出来ず数々の失敗ののち、大正9年にようやく種仔を得ることができ飼育の成功を収めます。

博士はその種仔を農林省へ分譲し、譲り受けた農林省は滋賀県と茨城県の水産試験場へ委託して増殖を研究、大正11年7月14日に滋賀県水産試験場にて初めて産卵を確認して養殖への道が開けて行くことになります。
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この本の口述者、原捨彌氏は大正11年に民間でも養殖事業が行われるようになって以来の養殖従事者で「原養蛙場」の経営者、共著者の北川與三彌氏は「東洋養蛙場」(滋賀県犬上郡千本村字正法寺)の経営者で共に食用蛙養殖の第一人者です。

本の内容は飼育法から事業展開の方法、料理法まで詳細を極めています。目次の一部を抜き書きします。

「農家副業と養蛙業、農家副業の必要を説く、蛙の需要・価格/食用蛙の種類・習性・雌雄識別法/造池法/飼料/産卵および孵化/冬眠/飼育法の概要/運搬および荷造り/料理法-日本料理-吸物・刺身・照焼 西洋料理-フロッグレッグディロアズ-フロッグフライドエスパニョール・フロッグステークアスパラガス」など。

文中には多くの「滋賀県水産試験場の養蛙試験のデータ」が掲載され、本書に数値的学術価値を与えています。

内容を少し抜粋すると受容と価格の箇所では「欧米特に佛國にては昔より蛙料理を賞味し、現今にても食蛙国と称される/北米にても近来需要増加し1年間消費額は7250万ドル/なかでもミシガン州はもっとも盛んで乱獲禁止の法律が設けられている」などとあります。(この本の発行は昭和2年です)


続きます。
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筑豊炭田(福岡県北東部の田川、直方、飯塚とその周辺)の一角をなす嘉穂郡頴田町(かいたまち、2006年に飯塚市に編入)の勢田地区にある「明治坑」のバス停標識です。

我が家(行橋市)から国道201号線を田川方面へ車で15分ばかり走ると五木寛之の「青春の門」で一躍その名を知られるようになった「香春岳」が見えてきます。その香春岳の麓を回り込むようにして田川直方バイパスへ出て10分あまり、筑豊魚市場を過ぎてすぐの交差点を左折します。
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この交差点は右折すると民陶の上野焼(あがのやき)の窯元が集まった上野峡へ続く道となり、左折すると旧頴田町を通って飯塚市への近道となるところです。

道はやがて緩やかな登り道となり峠に差し掛かりますが、数分ばかりで道は開けてきてまばらに民家が見えてきたあたりが旧頴田町勢田地区です。

ここは何度も通ったことがありますが、通るたびにこのバス停の地名表示が気になっていました。地名に「坑」がつくからには、土地柄からして炭鉱の入口が近くにあるのではないかと思っていたからです。調べてみると予想通りここは「明治鉱業」の「明治炭坑第1坑」が近くにあったところで、その名が地名として残っているというわけです。

「明治炭坑第1坑」の開発は、安川敬一郎を祖とするのちの「明治鉱業」によるもので、その明治鉱業の社史に

『明治20年12月、大城炭坑に機械装置の立坑(坑口の幅7.6尺長さ12尺)開鑿の工を起し、翌21年5月、120尺(3636.36糎)で上層3尺層に、6月末192尺で第2層5尺層に達した。当時、筑豊における立坑としては、目尾立坑(180尺、5454.50糎)、藤棚立坑(120尺)、新入旧立坑(130尺)、大之浦立坑(125尺)の4坑だけで、しかもいずれもが3カ年以上の年月を要したのに比べ、大城炭坑では当時としては驚異的な短い期間に堀さくを完了したのである』

という一節があります。

この大城炭坑がのちの「明治第1坑」で、明治29年4月に「明治炭坑株式会社」を創立した際に改称されています。

バス停の写真は一昨日の9月12日に撮ったものですが、残暑厳しい午後2時頃撮影とあって、人影は皆無です。車にもほとんど出会いませんでした。

朝夕の時間帯の通行状況はわかりませんが、すぐ近くをこの道と平行して国道200号パイパスが飯塚まで通っていますので、大体想像は付くのではないでしょうか。

将来このバス路線は廃止になること無きにしもあらず、です。そうなると、当然そのうちにバス停は撤去されることでしょうから、このバス停周辺の人はともかくとして、他の地区からの通過者たちは「明治坑」の地名表示を見ることもなく、やがて忘れられてしまうのではないでしょうか。

そう考えるとこのバス停表示は「昔、ここに炭鉱坑道入口があったんだ」という記念碑のようにも思えてきて、カメラのシャッターを切った次第です。

地名はその土地の歴史そのものをあらわしていると思います。ゆめゆめ読みにくいとか地名発音が硬いとか親しみが持てないとか行政上管理がしやすいなどの理由で廃止・地名変更などはしてもらいたくないと思いつつ、ちょっと飯塚まで行ってきました。我が家から飯塚市内まで一時間あまりのドライブでした。
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昭和31年(1956)11月8日、第一次南極地域観測隊53名を載せた「宗谷」、東京晴海ふ頭より出航。翌年1月24日、オングル島の西方13kmに到着し、ここを最終着岸地点と決定。1月31日に基地設営地を決定し、翌日より建設作業開始。

2月15日、作業は一応終了し、観測隊は越冬隊員11名を残しては帰国へと向かいました。宗谷が離岸したこの日から第一次南極越冬隊の越冬生活が始まったわけで、越冬期間は1957年2月15日~1958年2月24日まででした。
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昭和32年1月26日越冬隊員候補者を発表する永田隊長(中央)その右 西堀越冬隊長
候補者名は事前に決定されていたが、この日まで極秘事項だった。

当初、第一次南極地域観測隊は「南極地域観測予備隊」と呼ばれていました。これは、1957年7月1日から1958年12月31日まで行われる「国際地球観測年」に派遣される観測隊を本隊としたことによるもので、最初の南極観測隊は文字通り本隊のための予備調査が基地建設を含めて主たる目的だったためです。

本書の執筆者は監修者の永田武南極観測隊隊長を含めて15名で全員夏隊のメンバーです。ただし、「南極洋の航海」の執筆者の松本満次氏は宗谷の船長、「宗谷の改造」の執筆者岡田宏平氏は海上保安庁船舶技術課課員で南極観測隊の隊員ではありません。「宗谷の改造」は、船の構造技術的な面に興味をもっているかたにはたいへん面白い読物と思います。
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犬ぞり偵察隊。疲れて横になつているカラフト犬たち。右の写真は、輸送隊-雪上車は計4台。一台の雪上車が1トン半の資材をのせたソリを引く。

本書内容の各項目を執筆者名とともに転記します。それぞれの観測部門の担当者による執筆で、いずれの項目も写真と図を多様し、かなり専門的な記述部分があるにもかかわらず非常に解かりやすく、豊富なエピソードを交えて楽しい科学読物になっています。

国際地球観測年と南極地域観測-永田 武
海洋-楠 宏
気象-守田康太郎
オーロラ-中村純二
宇宙線-小玉正弘
地震-村内必典
地磁気-小口 高
電離層-岡本裕光
南極洋の航海-松本満次
宗谷の改造-岡田宏平
昭和基地をつくる-清水賢治
食糧-中村純二
装備-平山善吉
医療-伊藤洋平
ヒマラヤから南極へ-村山雅美
生物-朝比奈菊雄

なお、巻末に第一次と第二次の南極観測隊員全員と宗谷乗組員全員の名簿が掲載されており、有用な資料となっています。

南極観測
永田武/監修
朝比奈菊雄/編
序文:茅 誠司
発行所:出版共同社
発行日:昭和33年2月5日 初版
15.5×21cm/227ページ
定価 380円
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