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1977年度の初等教育3年生用の算数教科書です。
文章問題、計算問題、図形問題など全部で1091個の設問が掲載されています。

しかし、問題の解き方を記述している箇所はあまりなく、最初のページから最終ページまでほとんど設問で構成されています。

その為、一見、問題集のような印象を受けますが、1091個の設問とは別に練習問題のページがわざわざ設けられていますので、やはり問題集ではなく教科書であることがわかります。
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解き方、あるいは基本的な考え方は先生が行う板書説明によることを前提として編集されている教科書なのだろう、と推測します。

文字だけのそっけない問題 ↓ もありますが、
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96.「ホールに8列の椅子があり、各々の列には12脚の椅子があります。ホールへ各クラス42人の生徒が2クラス到着しました。すべての生徒のために椅子は十分でしょうか。もし、余っていればいくつでしょうか。」

イラスト付きの文章問題もけっこうあって ↓ 想像でなんとなく質問内容がわかるような気がします。(気がするだけです)
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【На Луне все лредметы в 6 раз легче、 чем на Земле Сколько весил на Луне 「ЛУноход-1」который весил на Земле 756kg? 「ЛУноход-2」который весил на Земле 840kg? Человек、 который весит наЗемле 72kg?】 ↓
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↑ 「月の重力は地球の6分の1ですが、地上で756kgの「ルノホート1号」の重さは月ではいくらになりますか? 地上で840kgの「ルノホート2号」の重さはいくらになりますか?
体重72kgの人間はいくらになりますか?」

「Луне」(月)や「Земле」(地球・地上)、Сколько(どれだけ)、весил(量る)などの単語をたよりに超訳しましたが、だいたいこんな問いだと思います。

ルノホート1号は史上初めて他の天体(月)に到達した移動可能探査機で、1970年11月にルナ17号によって月面へ運ばれています。ルノホート2号の月面到着は1973年です。

【Первым космонавтом был гражданин Советского Союза、 коммунист Юрий Гагарин. Он совершил полёт вокруг Земли за 108мин.
Сколько часов и Сколько минут продопжался первый полёт вокруг Земли?】
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↑ 「ソ連の最初の宇宙飛行士はユーリイ・ガガーリンで、地球を108分で一周しました。これは何時間何分で周り続けたのでしょうか?」

超訳ですが、だいたいこんなことでしょう。

Первым(最初)/космонавтом(宇宙飛行士)/Юрий Гагарин(ユーリイ・ガガーリン)/полёт(フライト)/вокруг(周りに)/продопжался(続けた)、「мин」は「分」です。この教科書の裏表紙に長さや重さの単位とともに時間の単位の換算が記されています。
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 ↑ 左から「ДЛИНЫ 長さ」「МАССЫ 重さ」「ВРЕМЕНИ 時間」で、その下は「面積」です。
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割り算の問題、↑ 問425の 87:3 130:2 906:3 などは 87÷3 130÷2 906÷3 のことで、記号は日本では「比」を表す : を使っています。

問426は割り算の筆算です。答を書く位置が違うので少しとまどいますが、これは慣れの問題ですね。

掛け算は×ではなく、・ で表しています。 ↓ 数字の書き方は升目に対して斜めに書く欧米式です。
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加減乗除が混在した問題、現在の日本の小学3年生の算数教科書を見たことありませんので、この問題がどの程度のレベルか分かりませんが、少なくとも私(筆者)のときより難しそうです。
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不等号を使った問題も出てきます。 ↑ 出てくる数字も大きくて何だか難しそう。 ↓
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イラスト付きの問題はそれだけでホッとします。農場で働くトラクターや道路工事のブルドーザーなどの「働いている姿」のイラストが多いようです。
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そして、バス、トラック、電車、船、ロケット、飛行機などの男の子が喜びそうな、というか工業力をアピールするようなものばかりで、お人形さんなんかは出てきませんね。
扉絵には女の子がいるんですが・・・・。
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最後に「ソヴィエト社会主義共和国連邦の紋章」を用いた問題を載せます。
設問の冒頭に『1972年にソビエト社会主義共和国連邦の成立50周年を祝いました』と書かれています。
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取り上げられている貝は、はまぐり、さくらがいを始めとして全部で38種。

正確には「なまこ」や「ひとで」「うに」なども含まれているのでこれらの棘皮動物が3種と「いそぎんちゃく」「サンゴ」の刺胞動物が2種、それに「やどかり」「えぼしがい」の節足動物2種、残り31種が軟体動物の「巻貝・二枚貝・ツノ貝・あめふらし」の記述となっています。
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それぞれの貝の特徴や生態が書かれているわけですが、すべての貝が擬人化されていて、各自が身の上話を語るという形をとって描写されています。

一番長い身の上話は32ページを使って語られる「はまぐり」の告白で、「結婚式の祝膳に鯛とともに供されることは、貝類の仲間がうらやむ晴れ姿だが、膏薬入れの容器にされるのは勘弁してもらいたい」と愚痴を言うかと思えば「桑名の焼きはまぐり」に話しは移り、「京都御所の蛤御門」の名称由来に飛んだと思えば、「碁石の白は日向産のハマグリに限ります」と言ってひとしきり碁の話しに夢中になり、そのあと「雛祭の雛壇への供物として、ハマグリはなくてはならないものの一つでしょう。」とさらに自慢話しは続きます。

「さくらがい」の章では、「おしゃれな人は、私を真似て、指の爪を美しく桜色に化粧しています」とさくら貝が言い、「砂浜に落ちている桜貝の貝殻は、春雨に降った桜の花びらのように美しい」と著者が言います。

この本の表紙に描かれ書名にもなっている「帆立貝」の章では、「ほたて貝のことを海扇と書き、青白い海の朧夜の妖気につかれて、帆船が微笑みながら、海底に沈んで貝になったのが」私たちだと帆立貝が言い、そのあと、帆立貝の形態・生態に話しが及び、途中「長唄風流船揃」で船の起源に触れ、「殻は杓子として昔、朝の味噌汁をすくう道具だった」と書いてこの章を終えています。

ハマグリの章以外、大体3~6ページでひとつの話しを終えていて、どの貝から読み始めても面白く読み進むことができます。さまざまな貝のさまざまな生態やエピソードが童話的情感で綴られていますが、メルヘンチックに溺れることなく、最終的には簡単ながら生物学的記述をもって整えています。
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「きさご」の章でもこの貝を「おはじき」などの子供の遊びに使ったと書いたあと、「嬉遊笑覧」の「ちうちうたこかいな」の数え方に移り、さらに「ちちんぷいぷい」のおまじないは三代将軍家光の「智信武勇(ちじんぶゆう)」に通じる言葉であった云々、の最後は【喜佐古 馬蹄螺科の円錐形小巻貝 殻質重厚、螺層六階、殻表の色彩は多様、殻口は半円形、紅色を帯ぶ。玩具の外、養殖魚類の餌また肥料になる。】と図鑑的説明も添えられています。

貝の生物としての説明は「貝の扇あとがき」で8ページに亘ってやや詳しく述べています。しかし、著者の立川春重(たてかわ はるしげ)は、生物学者ではなく、専門は造船学・船舶工学です。

本書の著者略歴をそのまま転写すると、『大正五年東京帝国大学工学部船舶工学科卒業/東京石川島造船所技師/現在、東京明治工業専門学校講師/著書には「船舶の理論と実際」「油槽船の構造」「船の幻燈」「波」其の他造船技術並びに科学の随筆に関するもの多し』 とあります。

「船の幻燈」「波」は科学随筆です。ほかには「日本の木船」「船渠と船舶修理」「造船所」など船舶関係多数ですが「歌舞伎」というのもあります。「貝の扇」には貝とは直接関係の無いエピソードが多々登場しますが、その著述ぶりをみると、博識多才な趣味人だったのだろう、と想像できます。貝のカットも著者です。
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『竜宮城で大演奏会が催され、乙姫さまは、侍女に、「クラリネットを持って来ておくれ」と、命じました』(本書より)
【琉球竹 螺貝、腹足類、櫛鰓目、筍貝科/筍形、螺塔高く、貝殻は堅固、殻表には、淡肉色、方形の栗黒色斑を雑へ、光沢強く、美麗である。殻高220粍、直径39粍】


貝の扇
昭和二十二年七月二十五日 印刷
昭和二十二年七月三十日  発行
著者 立川春重
発行者 西村愛
印刷者 山村榮
印刷所 株式会社同興社
発行所 兼六館
カット 著者画
装丁  上田堯民
編輯  窪田睦明
18.5×13.5cm/168ページ

いるか書房本館のここに「貝の扇」をUPしました。(現在ウリキレです)
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香時計の取材先は水沢市黒石の千葉武男氏宅、取材者は歴史小説作家の小野寺公二氏。

千葉家は北上川の川べりで、代々「船肝入(ふなぎもいり)」をつとめてきた旧家とのことで、屋敷は川岸から50メートルほど離れた高台にあり、北上川を何キロかにわたって一望のうちに収めることが出来るそうです。

川岸は、現在、この屋敷の西50メートルほどのところにあるが、昔は流れがずっと東に寄っていて、屋敷の棟門の真下が船着場であったという。

千葉家はこの北上川を往来する物資運搬の平田船を監督したり、川漁業の管理などをする役目を負っていた、とのこと。

香時計は千葉氏が子供のころは一日も絶やさず焚いていたが、今は、盆と正月に焚くだけになった、と書かれているところをみると、千葉氏の年齢がわからないものの、大正の中頃、あるいは昭和の初め頃まで実際に使われていたのではないかと想像します。香時計として使っていたか、どうかは別として。
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画像の右上、香時計の全体/その左、①櫛形の「掻きならし」で灰を突き、こごりをなくす/①の下、②「ならし板」で灰を押しつける

①の左、③「ならし板」をしずかにはずすと、灰の面は平らになっている(写真の香の跡はまだ「ならしていない」部分)/③の下、④型枠を香炉のへりに嵌め込んで固定する。嵌め込み場所は一定で、ずれることはない。

③の左、⑤型枠の上に香をすくってのせる。香は合歓(ねむ)の木の葉を乾燥させ、石臼でついて粉(抹香)にしたもの、自家製。/⑤の下、⑥香を溝の中に入れる。この溝に入った量が常に一定であるように、凸凹のないようにする。
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右上、⑦「埋め込み板」を型枠の溝の中に押し込むと、溝の中の香は灰の中に埋め込まれる。/右下、⑧型枠は香炉の四分の一の大きさなので⑤⑥⑦を四回、場所を変えてやると全面に連なる。

左上、⑨抹香の線の端に点火すると、1時間にだいたい6センチの速さで香が燃えていく。一昼夜(36時間)ほど燃えている、とのこと。30分も誤差がないということですが、香時計は何時何分と時刻を知るというよりも、ある一定の時間の経過を知るためのもの。30分内の誤差でこと足りたのでしょう。

誤差は抹香の乾燥具合や埋め込む量などで生じてくるのでしょうね。多分・・・。

左下、⑩点火は、火のついた線香を埋めた香の末端に寝かせて置く。この写真の場合、中央の末端に置いているようです。


ところで、取材と執筆の小野寺公二氏、

青森県生まれで本籍地は岩手県とのことで、このことと関係あるのかデビュー作「奥羽のキリスト/昭和29年」をはじめとして「南部一揆の旗」「平泉落日」など東北地方を舞台にした歴史小説が多いようですが、「算学武士道」や「幕末算法伝」「出世の算法」等々、和算に題をとった小説も多く手がけています。

ネットをうろついていると「和算系小説」という言葉にも出会いました。ひとつのジャンルとして成り立っているようです。知らなかった!!
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「昭和レトロ」と言う言葉を聴くようになって久しい。

いつごろから言われるようになったのか詳しくは知らないが、テレビ東京系列の「開運!なんでも鑑定団」が始まった平成6年時点では「レトロブーム」という言い方はあっても「昭和レトロ」とは言ってなかったように思います。

昭和30年代以前の古い商店や住宅が数多く残っていた大分県豊後高田市内の商店街を「昭和の町」としてアピールし、現在見られるようなカタチに開発着手したのが平成13年のことで、このときすでに「昭和レトロ」という言葉があったように思われますので、多分、「昭和の町」の少し前、平成11年頃から言われだし現在に続いている言い方ではないかと想像します。(真偽は各自で検証願います)

「懐古趣味」はいつの時代でもあったのですが、昭和が終わる頃から数年間にわたって起きた「レトロブーム」は、その対象を大正10年代から昭和30年代前半としていたことに対し、現在の「昭和レトロ」の対象年代は主に昭和30年代から40年代のようです。しかし、人によって、あるいは場合によっては昭和50年代・60年代もその範囲に入れられて語られることも少なくありません。

・・・が、昭和30年代・40年代に少年時代を送り、ワタナベのジュースの素をリアルタイムで飲んだいた身としては、ここらあたりをレトロの対象とされるのは「チョット違うんではないか」という感じがして、個人的には「昭和モダン」と呼ばれる昭和初期、1930年代あたりこそノスタルジーの源始と信じてやみません。(人それぞれでしょうが)

さて、本日の「暮しの手帖」のこと、昭和レトロとして「暮しの手帖」を取り上げるのはいささか不本意ではありますが、ここには間違いなく昭和レトロの宝の山があります。

創刊は昭和23年9月で当初は「季刊 美しい暮しの手帖」が誌名でした。(昭和21年に花森安治と大橋鎮子が設立した「衣装研究所」から発行された『スタイルブック』が前身。)
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『暮しの手帖 1970年第6号 折れ線が気になりますが好きな表紙画のひとつ/花森安治画』

昭和28年12月の第22号から「暮しの手帖」に誌名変更し、昭和43年2月の第93号からは隔月刊に変更。

当時より外部からの広告は一切受けず、掲載広告は自社発行の書籍に限ることにより、同誌の大きな特徴のひとつである家庭電化製品や日用品を中心とした商品テストを商業主義に左右されずに厳格に行うことができ、多くの読者から支持され、また、メーカーにも大きな影響を与えた雑誌でした。
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『1970年第6号掲載記事のひとつ、「無一文で新築の3DKを手に入れる法」より、とりこわす寸前のオンボロ寮(旧・富士航空計器の社員寮、同社はかつて「新司偵」の自動操縦装置などを作っていた)』
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『無一文で新築の3DKを手に入れる法、より「3DKの中はこんなふうになっている/昭和45年撮影」寮を取り壊し、新築なった鉄筋五階建てマンションの一室と左図は間取り。写真はいずれも6帖』

この商品テストに扱われた品々やファッション記事や日常のさまざまな出来事を記した読者投稿欄の存在こそが、当時の世相を知る手掛かりとなり、いつしか昭和レトロと結びついて行くのですが、それはさておき、「暮しの手帖」1970年第6号に掲載された「香時計」についてのお話し。
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『タイトルの右の写真の左上から「香炉」、その下「香」/右上「掻きならし」、その下「ならし板」、「型枠」、「香すくい」、一番下「埋めこみ板」』

続きます。
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『父はその頃、その両親を亡くして、故郷、福岡県京都郡豊津町に帰っていた。そこから、毎日、父が校長である大里の鉄道教習所に汽車通勤をしていた。

田川線豊津駅までは徒歩約三十分、一番列車に乗って次の行橋駅で乗換え大里へ向かうのであるが、教習所に着くのはおそらく八時頃だったと思われるから、家を出るのは六時頃だっただろう。』
(鶴田知也著/等閑記より)

「等閑記」は鶴田知也主幹の雑誌「農業・農民」に1972年から1977年にかけて連載された自伝。

文中の「父」とは、鶴田の実父の高橋虎太郎のことで、「その頃」というのは、1923年(大正12年)頃のこと、当時、鶴田は半年ほど滞在した北海道から徴兵検査のために豊津に帰郷していた。
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時折、粉雪の舞う豊津駅に進入する「炭都物語号」 右の車両は駅に停車中の行橋発・崎山行きの「なのはな404号」画面奥が行橋方面(平成24年2月17日撮影)

徴兵検査を終え、ほどなくして鶴田は名古屋に住む葉山嘉樹を訪ねている。

葉山夫妻の世話で名古屋に滞在したのは五ヶ月ほどだったが、この間は鶴田にとって大きな意味合いをもつ期間であって、次第に労働運動に身を投じていったのもこの頃からでした。鶴田知也、21歳の頃のことです。
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豊津駅を離れ、崎山に向かう404号
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豊津駅ですれ違う「なのはな号」 左の車両、行橋行き402号 右側、金田行き407号(平成24年2月18日撮影)

土曜日の午前10時頃、乗降客は誰もいなかった。
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2011年8月16日、当ブログにて金子式プラネタリウムの考案者の金子功著「戦い敗れて夜が明けて」を紹介させて頂きましたが、本日は同じ著者のヨーロッパ旅行見聞記です。

訪問地はイタリア/スイス/オーストリア/ドイツ/ベルギー/デンマーク/フランス/イギリス/ノルウェーの9カ国で、全行程15日間の旅でした。
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出発は1970年の8月上旬、この年は前年のアポロ11号による初の月着陸の興奮もさめやらぬうちに、3月に開幕した日本万国博覧会(大阪万博)の熱気に包まれ、かと思うと日本航空機よど号ハイジャック事件が起きたり、三島由紀夫事件に驚いたりの今でもよく覚えている出来事の連続した年でした。

わが国初の人工衛星「おおすみ」の成功もこの年でしたし、日本航空がジャンボジェット機ボーイング747を初めて就航させたのもこの1970年でした。

当時、日本航空が長距離国際線の主力にしていた機材は、DC-8スーパー62型で最大乗客定員は148人。これに対し新規導入のB747-100型は462人、国内線使用の機体では530人超というもので、ジャンボジェット機の投入は大量輸送時代の到来を告げるに相応しい出来事でした。

ちなみに金子氏が渡欧した1970年の海外旅行者数は66万3千人、翌1971年は96万人、そして1972年は初めて100万人を突破して139万人でした。

業務・留学以外の純粋な観光目的でも海外渡航が可能になったのは1964年4月1日からで、この年の渡航者数が12万7千人だったことを思うと、わずかなあいだに驚異的に海外旅行者が増えたことがわかります。

さて、金子氏の旅行。

この旅行は日本キャンピンク連盟が募集した団体旅行で、主目的はヨーロツパの青少年教育機関の視察でしたが、視察のみならず各地の観光名所もコースに入っていて、行く先々で大いに異国の自然・文化・風習・歴史に触れ、驚き、そして感心した様子が手際よく纏められています。

しかし本書に出てくる観光地はローマのスペイン広場やポンペイの遺跡、ベッキオ宮殿、オスロのビゲランド彫刻公園などごく一部で、著者の関心事はもっぱら各地の道路事情・飲料水事情・夜行列車内での出来事・ホテルのトイレなどの設備事情・シヨッピングで垣間見た経営者の営業意識のわが国との違いなどにあったようで、これらのことに多くの紙面が割かれています。

本書に添えられた著者撮影の写真もローマの街角の本屋さんの外観、ルーブル宮殿の横を流れるセーヌ川の様子、スペイン広場に群れる「ヒッピー」、ウィーンの酒場のメイドさん、チューリッヒで見た国産車トヨタの「コロナ」、ハイデルベルグのバキュームカー、パリの街路樹の根本、等々でどうやら著者は観光地よりも人々の日常の生活に興味を覚えていたように思われます。

旅の主目的の教育施設見学についてはイタリアのペルージアにある「マリア・モンテッソーリ児童館」とスイスの「ペスタロッチ記念館」訪問を比較的詳しく取り上げています。

児童館の名称になっている「マリア・モンテッソーリ」とは、イタリア初の女性の医学博士号取得者で、幼児教育や障害児教育に生涯を尽くし、モンテッソーリ教育と呼ばれる独自の幼児教育法を確立させた人、とのこと。

また、著者はいくつかの博物館も訪れたようでウィーンの自然科学博物館、コペンハーゲンの鉱物博物館、ノルウェーのバイキング博物館、コンチキ博物館などを叙述しています。
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ビゲランド彫刻公園にて

コンチキ博物館の主要展示物は、ノルウェーの民族学者トール・ヘイエルダールが古代アメリカとポリネシアとのあいだに交流があったとする学説を証明するために1947年に南米ペルーから出航したバルサ材で作った筏「コンチキ号」の実物大模型だそうですが、併せてポリネシアのカヌーがならべてあったり、イースター島の巨石文化を示す各種の展示があったりでなかなか楽しく面白いが、「一面、見世物的感じがしないでもない」とも書いて、展示の仕方に工夫を求めているようです。

「欧州かけある記」は、観光地ガイドブックというものではなく、出発前にどのような準備をすれば良いのかとか、現地の人との対応の仕方などを著者の体験を通して教えてもらえるような「実例集」とでも言うべき旅行記です。

・・・が、しかし、天文台やプラネタリウムの記述がないのはどうしたことか。

わずかに鉱物博物館で見たマッチ棒の先くらいの大きさの「月の石」4~5個のことと、ペスタロッチ記念館の中の科学館を見学した折、天文関係の展示がないので「私のところで製作したプラネタリウムをプレゼントする約束をして帰ったが、近いうちに届くことだろう」、と言う記述のみです。

それにしても、金子式プラネタリウムが輸出されていたとは知りませんでした。今はどうなっているのやら・・・。


欧州かけある記
著者:金子功
発行日:1971年1月25日/自家版
13×17cm/111ページ
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(星を釣る/堀口大学詩集より「夕ぐれの時はよい時」)

夕ぐれ時はよい時 かぎりなくやさしいひと時。

それは季節にかかはらぬ、冬ならば煖爐のかたはら、夏ならば大樹の木かげ、
それはいつも神秘に満ち、それはいつも人の心を誘ふ、それは人の心が、ときに、しばしば 静寂を愛することを、知ってゐるもののやうに、小声にかたる・・・

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平成24年1月26日・18時11分/薄明残る西空の月と金星

(星を釣る/堀口大学詩集より「星を釣る」)
暗い沼に綸(いと)をたれて 星を釣る 星を粉(こ)にしてのめば いい詩が出来る
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平成24年1月26日・18時26分/日が沈む頃から雪雲は消え、西の空には月と星

(星を釣る/堀口大学詩集より「椰子の木」)
夕星 西天に 銀青の振香爐をゆれば 大なる黒十字架と身をなして 彼等は祈る。
風は梵鐘の余韻を傳へ 潮音は果のない経を読む。
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平成24年1月26日・19時50分/沈みゆく月と金星、山の端と空の境がつかないほどの暗さとなった。
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7月31日に漱石の「三四郎」に出てくる光の圧力について書いたのち、「科学と実験」の1983年2月号を拾い読みしていて、物理学者の小山慶太氏が寄稿した「『三四郎』の光線の圧力測定」に出くわした。拙ブログを書くまえにこちらの文章を読んでいたら・・・、と汗顔の至り。
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小山氏は専門の物理学の著作は勿論のこと、「漱石が見た物理学(中公新書)」や「漱石とあたたかな科学(文藝春秋/講談社学術文庫)」などの漱石文学と物理学について述べた著書、あるいは「道楽科学者列伝(中公新書)」「異貌の科学者(丸善ライブラリー)」等の科学史の著書多数。

漱石に光線の圧力の実験を教えたのは寺田寅彦ですが、その元になる論文はドイツのアナーレン・デル・フィジーク誌1903年8月号に掲載されたニコルスとハル(E.F.Nichols/G.F.Hull)の論文とのこと。
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・・・で、その論文の序文に「1619年にケプラーが、すでに彗星の尾が太陽と反対の方向を向くのは光の圧力によるものと考えた」と書かれているそうで、これは、彗星の本を読めばすぐ分かるような感じでここでも汗顔。

(蛇足ながら、彗星の尾が太陽と反対を向くのは光の圧力のためではなく、太陽風(プラズマの流れ)を受けるから。)

光線の圧力の問題は、その後18世紀になってオイラーがケプラーの考えを取り入れて波動論で示そうとし、1825年にはフレネルによって実験が試みられている。

「三四郎」の文中の「理論上はマクスエル以来予想されていたのですが、それをレベデフという人が始めて実験で証明したのです。」のマクスエルの理論は1873年のことで、レベデフの実験は1900年のこと。そして1903年のニコルスとハルの論文に至ります。

彗星の尾についても「断片」(明治四十一年)に、「物小ナレバ小ナル程LightノPressureガ強クナル、引力ガ負ケル、カラLightニ吹キ飛バサレル。Cometノtail、sunノopposite directionニアル訳」とあるそうで、ここのくだりは読んでいたはずだか、全く記憶にない!  読書はいつも寝っころがって、半分眠りながら、だからに違いない(ということにして置く)。

科学と実験 1983年2月号/Vol.34/No.2/通巻426号/共立出版株式会社
18cm×26cm/82ページ

この号の主な記事は、

パキスタンの科学技術事情-森末道忠/漱石と物理実験「三四郎」の光線の圧力測定-小山慶太/謎に包まれた半導体表面-宮沢久雄/惑星の観測-佐藤健/人工血液-戸嶋直樹/物理学実験(1)-楢原良正・山内幹雄/等々等
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広島市こども文化科学館-さとうたけし氏/天体観測ガイド2・惑星の観測

ところで、表紙の写真は自然科学写真協会の吉田博氏撮影の「氷柱」。
長良川上流の川沿いで1月上旬に撮ったものだそうで、流れ落ちる水が霧状の飛沫になって、枯れ枝に付着氷結したもの。この写真で少し涼しくなったような気が・・・・。
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昭和20年8月15日を区切りとして金子功氏のいうところの暗黒時代が終わりを告げ、名古屋に米陸軍第25歩兵師団が進駐したのは、同年10月25日頃のこと。

やがて米兵ともかかわりを持つことになる金子氏は、世話になった米兵の帰国に当たって、富士山などが描かれた日本情緒豊かな風呂敷を贈っていました。

しかし、そのうちに彼らは軍刀(日本刀)を欲しがっていることが分かり、岐阜県の関の刃物組合から日本刀を一抱えほど調達してきて、贈り物とするに至ります。

・・・が、ときには金子氏自身の軍刀を所望されることがあり、親しくなった日系2世の軍曹の申し入れにも頑なにこれを断ったといいます。

氏の軍刀は、「私が将校になるための、幹部教育に東京の陸軍自動車学校に派遣された時に、両親が当時にしては大金を投じて買っておいてくれたもので、拵(こしらえ)は地味だが、中身は銘刀とはいえないが立派なものだった。」(本文より引用)とのこと。

金子氏は、「暗黒時代の幕引きの儀式」にこの軍刀を叩き折ることで「戦い敗れて夜が明けた」喜びをひとり静かに祝いたかった、と記しています。

「走馬灯のように蘇ってくる暗い思い出を打ち払うように、力を込めてハンマーを振り下ろすと、軍刀は三つに折れて鉄屑となった。その上に持ってきたお神酒を注ぐと、長い苦労が終わった喜びと、これからの希望を考えて涙が流れた。」(軍刀を叩き折って幕引 より一部転記)


さて、第2部の「草薙の剣飛騨に疎開」、のこと。
天皇の皇位継承のシンポル三種の神器、八咫鏡(やたのかがみ)は伊勢神宮の皇大神宮、八尺瓊勾玉(やさにのまがたま)は皇居の御所に、天叢雲剣(草薙の剣)は熱田神宮にご神体として奉斎されていました。

熱田神宮では空襲に備えて神殿の裏に3重の鉄製扉を持った鉄筋コンクリート造りの地下壕を建設し、この中で草薙の剣をお護りしていましたが、昭和20年の3月と5月の空襲で社殿の大半が被災するに至って草薙の剣の疎開が検討されるようになります。

疎開先の候補として犬山の大県神社や岐阜の南宮神社が上げられたが、最終的に飛騨一宮の水無神社に決定され、準備に入ります。・・・が、やがて終戦。

空襲による被害の心配は無くなったものの、今度は占領軍が持ち去ることを恐れて当初の計画通り疎開(隠す)を実行します。

ご神体である剣の移動(御動座)は8月21日に決定され、極秘のうちに進められることになります。

御動座に使用された御料車は金子氏が手配した東海軍司令部派遣の幌付き乗用車2台。運転手は誰でも良いというわけにはいかず、輸送司令部副官である金子功氏が務め、東海軍司令部福原参謀と神宮側から長谷宮司と加藤儀式課長の二名が同乗。

予備の車両は河井公二下士官の運転で、当日の朝に出発。水無神社まではたいへんな山道だったそうで、途中、川辺町あたりで車が故障するなどがあって夕方近くにようやく到着。

無事御動座を完了させ、翌日帰隊したとのこと。任務は極秘であったため、事情を知らない部下たちは数日間姿の見えない金子氏に対し、占領軍がやってくる前に逃げたのではないかと噂をしていたといいます。

そののち、占領軍の天皇及び神社仏閣に対する方針(天皇制は変わらず、米兵の神社仏閣立ち入り禁止)が決まったことを受け、9月17日に大型台風(後の枕崎台風)が接近するなか、再び水無神社へと向かいます。

金子氏たちが難所の中山七里を通る頃には一寸先も見えないほどの豪雨。落石や倒れた大木などに苦心惨憺、難行苦行の末、命からがら任務を全うした、と記されています。

戦い敗れて夜が明けて 敗戦前後300日の記録 (付)草薙の剣を飛騨に疎開
著者:山村文化研究所 金子功
1990年 初版
1990年 再版
2002年 加筆改訂版
18.5cm×26cm/104ページ/ワープロ原稿をコピー印刷して発刊

ところで、下の画像は「天文月報 第47巻第10号(1954年10月号)」に掲載された金子功氏の私設天文台・向山天文台のドーム。200坪の敷地に50坪の天文台を作り、6インチと5インチの二つの赤道儀と9cm・F4のアストロカメラを収め、工作室と小型プラネタリウムの設備をもっていた。
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左側の写真は「泉小学校のプラネタリウム」星座を投影するカゴ形の丸天井は使わない時は上に吊り上げるようになっていた。泉小学校は当時国内では珍しく理科室のなかにプラネタリウムを持っていて、金子氏が所属した豊橋天文同好会の渥美支部はここを拠点に活動していた。


(「戦い敗れて夜が明けて」をいるか書房本館・軍事/戦記/戦後にUPしました。)(現在ウリキレ)
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金子式プラネタリウムの考案者で元・向山天文台主事や東栄町立御園天文科学センター所長などを歴任し、また、山村文化研究所を主宰した金子功氏の終戦前後の回想録です。

「敗戦前後300日の記録」の副題が示すように、昭和20年3月の東京大空襲前後から軍隊が解散する同年11月末までを記録、特に終戦直前・直後の陸軍内部の混乱振りとその後の残務整理の様子に多くのページを割いています。
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著者の終戦時(金子氏は終戦ではなく「敗戦」を強調している)の所属は、名古屋(東海軍管区)の第11野戦輸送司令部の副官で、作戦逐行に必要な弾薬・物資の補給輸送の責任者の立場でした。

本書の内容は大きく二つに分かれていて、第2部の「草薙の剣を飛騨に疎開」は、著者の前記の任務と大きくかかわりを持っていたようです。

第1部、2部の目次を列記します。

第1章 銃後も戦場/飛行機乗りの養成/東京下町の大空襲
第2章 敗戦直前の陸軍/東海軍の組織/当時の私の役割
第3章 本土決戦を前に/わずかに残る人間性/盟友稲垣中尉/深刻な食料不足
第4章 敗戦の前夜/中央の混乱ぶり/輸送隊の解散/見習士官玄永埴
第5章 帝国陸軍の最後/米軍との交流/軍隊と軍旗の最後
終章 夜が明けて/敗戦と市民の表情

第2部 草薙の剣を疎開
第1章 戦前 天皇は神様
第2章 敗戦前の熱田神宮
第3章 熱田神宮と草薙の剣

「軍隊での気勢の上がらない解散に比べると、市民の表情は明るかった。8月15日の夜になると、廃墟と化した名古屋の町に灯火がよみがえってきた。今夜からは「灯火管制」という嫌な言葉がなくなった。・・・その日を境に、お城端を歩いてみると、ボロを纏ってはいるが、明るい表情の市民が散歩している姿が目についた。

名古屋市内でも熱田神宮をはじめ、各地の神社では参拝者が後を絶たなかったが、これは、いずれも遠く外地にある肉親の無事帰国を祈っているのだろう。」(「敗戦と市民の表情」より、一部転記)

著者はかねてより、「暗黒時代が終わって春がきた時には「暗黒時代の幕引の儀式」をこんな方法で行いたいと一人夢に描いて」いて、すべての残務整理が終わった11月末日、明日からは自分の生活に戻れると決まったその日、いよいよ儀式を実行に移した。

つづきます。
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