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5月27日・28日の両日、門司みなと祭が開催されました。

第74回となる今回も北九州市門司港地区をはじめとして大里地区・レトロ地区・栄町商店街などでさまざまなイベントが開催され、大勢の人々でにぎわいました。

そのイベントのひとつとして、門司港西海岸にて艦船の一般公開が行われましたので出掛けてみました。

一般公開の艦船は【汽船「銀河丸」】、【海上自衛隊ミサイル艇「しらたか」】、【海上保安庁巡視艇「はやなみ」「ともなみ」】の4隻で、そのうちの「銀河丸」と「しらたか」の船内見学に参加しました。

汽船「銀河丸」は、「独立行政法人 海技教育機構」所属の遠洋航海実習船で平成16年6月に就航しています。

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全長116.40メートル/幅18.0メートル/総トン数6185トン/最大搭載人員246名(実習生定員180名)/三井造船(株)千葉造船工場建造
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航海船橋(ブリッジ) ↑ ここには無線室もあります。 実習生用船橋はこの下層です。 ↓
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実習生用船橋 ↑ オンボード操船シュミレータの一部、さまざまな操船シュミレータ機能が付加されています。同じ船橋に航海科実習室があります。
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機関室 ↑ 三菱製ディーゼル/1基 機関科演習室と体育室はこの第2甲板(デッキ)にあります。乗組員や実習生の食堂はこの上の甲板です。
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レーダーマストと各種アンテナ群 ↑ ↓
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CAPTAIN DAY ROOMも公開されていました。 ↑
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船尾のいちばん下に「IMO 9271274」と書かれていますが、これは国際海事機関(IMO)が個々の船舶、船舶所有者、船舶管理者に与えた船舶識別番号、とのこと。

なお、「銀河丸」は6月1日に出港だそうです。

また、今後の北九州港(門司港)の練習船寄港予定は海王丸8月14日~8月18日、青雲丸10月20日~10月25日、大成丸11月7日~11月11日、ということです。


続いてミサイル艇「しらたか」に乗船。

「しらたか」は佐世保地方隊第3ミサイル艇隊に所属。竣工は平成16年3月24日です。
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全長50.1メートル/最大幅8.4メートル/基準排水量200.0トン、乗員は約21名で船体はステルス構造になっています。三菱重工業(株)下関造船所建造

ブリッジの上部から覗く白い円盤は「射撃管制レーダ・81式射撃指揮装置2型(FCS-2-31C)」、アンテナマストの最上は「電波探知装置(NOLR-9B)」です。

また、ブリッジ上部の左端に「航海用レーダ(OPS-20)」が見えています。
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電波探知装置の下は「対水上レーダ(OPS-18-3)」、白い二つの球体は「衛星通信装置」です。 ↑ 画面手前の「しらたか」と書かれたボートは複合型作業艇(臨検用)です。
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62口径76ミリ速射砲 ↑ イタリアのオート・メラーラ社開発/日本製鋼所でライセンス生産 船体同様にステルス性を考慮して傾斜をつけた外見デザインになっています。
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左右両舷に設置されている六連装の「チャフロケットランチャー(SRBOC)」 ↑ 「MARK 137 MOD 1」発射機  ↓
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ランチャーの横に置かれた説明版に「電波を反射するアルミ箔片を詰めたロケットを発射し、空中に雲のように広がったアルミ箔に敵ミサイルを誘導する」 とありました。
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ブリッジ ↑ 座席はシートベルト付きで、勤務中は全て着席、とのこと。
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SSM-1B90式対艦誘導弾発射筒 ↑ 誘導弾の射程は150~200km、弾頭重量260kg、最大速力1150km/h
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発射筒の下部(画面の右下)に質量が書かれています。↓ 「飛翔体・667kg/発射筒本体・350kg/誘導弾総質量・1017kg」 
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文字の右上の円形ハンドル状のものは「燃料注入口」
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「しらたか」の総員離艦安全守則ですが、日常生活でも活用できそうなのが一つ二つありますね???

「みなと祭」としては少し違和感がありますが、自衛隊の広報活動の一環として陸上自衛隊小倉駐屯地の「82式指揮通信車」も展示されていましたので紹介します。
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乗員8名/全備重量13.6t/全長5.72m/全幅2.48m/全高2.38m/最低地上高0.45m/最高速度100Km/h/武装12.7mm重機関銃/小松製作所製
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(2017年4月19日・21日の続きです)

松下紀久雄はスマトラでの取材旅行中、ボルネオ報道班への転属を命じられています。

スマトラの取材旅行からシンガポールへ戻った松下紀久雄は、取材で得たスケッチを「昭南日報」へ寄稿した後、ボルネオのクチンへと向かいます。

本書の「ボルネオの一夜」によると、クチン到着は「前田閣下」の葬儀の2~3日前ということで、昭和17年10月中旬~下旬にはすでにボルネオでの取材活動に入っていたものと推測されます。

前田閣下とは、前田利為(まえだ としなり)ボルネオ守備軍司令官のことで、昭和17年9月5日にボルネオ沖で搭乗機が消息を絶ち、のちに機の残骸と遺体が発見され葬儀が執り行われています。

著者のクチン入りはその葬儀の数日前であったため、葬儀参列に各地から参集した士官・下士官・名士でクチンの町は溢れ、宿を取ることに難儀した、とのこと。

『南を見てくれ』の第3章「ボルネオ」は、11のエピソードに説明付きの31点のイラストとヤギ・サル・ワニ・コウモリなどを描いた説明なしの9点のカットで構成されています。


記事タイトルは次のとおり。

ボルネオの一夜/サラワツクの歴史/久鎮の町/サラワツク川/イカンタマコ/樹間のコーヒー店/ボルネオの子/農民指導/兵隊さんの先生/クチンウヰスキー/海ダイヤ族


サラワツクはボルネオ島の西側の現マレーシア領サラワク州でクチンはその州都、イカンタマコとは空気呼吸が可能で陸上を移動することができる「歩く魚」のことで「キノボリウオ」のことだろうと思いますが、ものの本によると空気呼吸はできるが木に登ることはない、とあるものの、著者は木に登っているのを見たと書いています。
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日の丸を付けた船が行き交う「サラワツク川」 ↑

「兵隊さんの先生」は、ボルネオでも日本語教育がさかんで、学校では子どもたちが熱心に日本語を学んでいるという話、「ボルネオの子」のなかにも日本語教育の成果がさりげなく出てきます。

この「ボルネオの章」に限らず「シンガポールの章」「スマトラの章」の各エピソードに日本語教育とその成果が頻出します。

日本語教育が占領軍の重要施策で宣伝班の主要な任務であったことがよくわかると思います。

『南を見てくれ』の記事とイラストは、現地の風俗・住居・街角の様子・子どもたち・市場風景・遭遇した出来事などに始終し、戦闘場面などの軍事的なものは一切出てきません。
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クチン港町 ↑

これは著者の現地入りがシンガポール陥落後であり、従軍記者のように最前線取材ではなかったことと関連するものと思いますが、日本軍占領後の現地は安定しているということを伝えたいがための意図的編集に加え、著者の好みというか好奇心による記事内容とイラストレーションの選択が行われた結果ではないかと推測します。

また、政治・軍事的風刺画も現地新聞に寄稿したものと想像しますが、これらは『南を見てくれ』には1点登場するのみです。その1点についても「イギリスの国旗が描かれた旅行カバンを担いで葉巻を咥えたチャーチルが旅に出る」というもので、イギリス軍の降伏を描いているのでしょうが、敵意剥き出しで描かれているわけではありません。

敗者を侮蔑的に描こうと思えばどのようにも描けたでしょうがそうしなかった、少なくとも本書には掲載しなかったということは、著者のプロパガンダに対する考え方ないしは性格が表れているように思われると同時に、本書を「東南アジア紀行画文集」に仕立てたかった、という意図を感じさせられます。
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家には一軒一軒小さな橋がかかっている ↑ 右側のイラストは、「サラを食べるこども」 サラというのは色も白いし日本の甘酒のような物で、一杯サトセン(一銭)、の説明付き

第4章は「報道漫画について 序と編輯後記にかへて」で、3ページに亘って報道漫画を含む宣伝活動の重要性とその意義が述べられています。

その中から一部を転記してこの稿を終わります。

『・・・・、報道漫画の條件としては、その作家の深い観察から来る現実性であって、抽象的な理論や、自己の主観から来るものではなく、あくまで戦争遂行上の国家目的と同目標でなくてはならないと思ふ。』

報道班員の任務上、そのとおりなのですが、本書に限っては南方の珍しい光景を集めた画文集の趣きです。



『南を見てくれ』

著者: 松下起久雄(注・奥付の印刷のまま)
印刷: 昭和十九年八月十五日
発行: 昭和十九年八月廿日 第一刷
定価: 六圓
特別行為税相当額: 五十銭
売価: 六圓五十銭
出版会承認イ180100
2000部発行(3000部と印刷した上に2000部の紙片を貼付している)
15×21cm/204ページ

発行者: 松川健文
整版者: 光村原色版印刷所
印刷者: 光村原色版印刷所
発行所: 新紀元社
配給元: 日本出版配給株式会社

なお、「報道漫画について 序と編輯後記にかへて」の文章末尾の日付は昭和十九年六月で、「松下紀久雄」とあり、その肩書きは「建設漫画会」です。

また、この稿を書くにあたって「戦時下の古本探訪 こんな本があった」 ↓ 櫻本富雄著/インパクト出版会発行/1997年 を参考にさせて頂きました。
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(2017年4月19日の続きです)

『南を見てくれ』の4つの章のうち第2章の「スマトラ」は、「昭南島」と「ボルネオ」の章の倍の100ページを割いて、36のエピソードに53点のイラストが添えられています。

イラストの数は「昭南島」の2倍、「ボルネオ」の3倍あります。1942年の9月に行われたと推定されるスマトラ島の取材旅行が、著者にとって如何に印象深いものだったか窺われます。

イラスト53点のうち、「南洋の中央市場 セントラル・パサル」「日本語進駐」「牛のカバラとタイプの音」「スマトラの子供」「砂糖より高い塩が出来る」の記事に添えられた5点は、「昭南日報」の連載記事「明朗なスマトラ新生譜(1942年10月16日から10月21日まで5回掲載)」に付されたイラストの再録です。

イラストの多くは住居や人物・風俗、市場の様子、旅行中の印象的な出来事、印象深い風景などです。旅行参加者は、「陣中新聞」の佐々木六郎上等兵、「昭南画報社」の菅野カメラマン、「昭南日報」の外勤部長・葉勤生、マライ紙編集次長アブドラカメル、それに松下紀久雄とマライ人の運転手の総勢6人です。

「陣中新聞」というのは、占領地で軍政を敷いた陸軍第25軍司令部新聞班が発行した日本将兵向けの「陣中新聞『建設戦』」のことです。

スマトラ島滞在中、取材旅行は2回行われています。

第1回目は、スマトラ島北部を巡る旅で、スマトラ島東北部の最大都市メダンを拠点に、海岸線沿いに北上し商都「ロークスマウェ」を経て「ビルン」に至り、さらに内陸部の「タケゴン」へと進んでいます。途中、アチェ州の漁村パンテラジヤ、シンパンバレツク温泉、シグリ、コタラジヤなどで休息・食事・取材を行っています。

取材といっても本書の記事内容を見るかぎり、「見学」に近いかたちの気が向くままの旅のようです。ただし、さまざまな危険を伴う旅行だったようで、決して気楽な旅ではなかったことと思います。
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ガヨ族の婦人たち ↑

2回目は、メダン→プラパット→バリゲ→シボロンボロン→シピロック→コタノパン→デイコック→パダン→メダンで、メダンより南側の内陸と西海岸の取材旅行でした。1回目、2回目ともに20日間程度の旅行だったようです。

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「三銭のコーヒーと一圓の定食」の挿絵 ↑ 左側のイラストは「アチェの漁村」。 ヤシの木陰で筆者たちに敬礼する少年が描かれています。

 文章なしでイラストのみのページが結構あります。『南を見てくれ』のサブタイトルが「南方画信」であることがよくわかります。

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「ガヨ族のアパート生活」の挿絵 ↑ このイラストは、「昭南日報」に掲載されたイラストの再録、とのこと。
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「スマトラは牛が多過ぎる」より ↑ 空かんを叩き、クラクションを鳴らしても動こうとしない牛たち。  右から二人目の人物は首からカメラを提げていますので「菅野カメラマン」なのでしょう。

(続きます)
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シンガポールは1942年2月15日の陥落から1945年9月12日の在シンガポール日本軍降伏までの約3年半、日本の占領下にありました。

この間、占領地の住民に対する宣伝宣撫・日本国内向けの報道・現地日本軍将兵への啓蒙及び慰問・対敵宣伝などを目的として、作家・画家・新聞記者・雑誌記者・編集者・映画関係者・放送関係者・印刷関係者・演劇関係者等々が徴用され、シンガポールをはじめとしてスマトラ・ボルネオ・ジャワなどの占領地各地でいわゆる「文化工作」が行われました。

『南を見てくれ』の著者「松下紀久雄」も徴用されて現地での「文化工作」に従事した人物のひとりで、同じく徴用された横山隆一や近藤日出造、麻生豊、清水崑、小野佐世男らと同様に漫画家でイラストレーターでした。
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南方戦線・占領地における文化政策やプロパガンダの「文化工作」従事者の徴用・派遣は1941年10月に始まっていますが、松下紀久雄の徴用時期ははっきりしていないようです。

しかし、1942年5月に現地華字紙「昭南日報」に彼が描いたイラストが掲載されていますので、この頃にはすでにシンガポールで活動していたと考えられています。

彼のシンガポールでの活動拠点は、日本軍が接収したロビンソン・ロード45-49号の南洋商報社(昭南画報社)で、陸軍企画部宣伝班の美術部に所属して、華字紙「昭南日報」や英字紙「昭南タイムス(THE SYONAN TIMES)」に漫画(イラストレーション)を提供していました。

『南を見てくれ』は、「昭南島」「スマトラ」「ボルネオ」「報道漫画について」の4章から成り、それぞれの土地で見聞きしたこと、経験したことを合計69のエピソードで綴り、全124点のイラストレーションを添えています。イラストは記事内容に沿ったものもあれば、記事とは関係なく現地で彼の印象に残ったと思われる風俗・人物・建物などが取り上げられています。

「昭南島」の章では17のエピソードに31点のイラストが添えられています。記事タイトルは次のとおり。


昭南島の日本語学校/神保学校/特別市立中央病院/マライの増産/チャーチル市場/ユビーとケダモノ/昭南神社/新世界/バタの臭みから味噌汁の味へ/新聞売り/南進通りオーチャード・ロード/印度人の番人/昭南島の劇場/昭南島人種展/華僑の街/税金納入済/華僑の子供


いずれも日本軍政下でのシンガポールの繁栄・日本人への親しみなどが語られ、物資の豊富さや治安のよさ、日本語教育の成果などが強調されています。

しかし実際は必ずしも現地社会が安定していたわけでなく、抗日華僑グルーブの存在や闇市の横行、金融の崩壊など多くの問題を抱えていました。

・・・が、これらには全く触れられていません。これは著者が自身の考えで意図的にスルーしたものか、軍部による指導によるものなのか判断は付きませんが、これこそ文章とイラストによるプロパガンダそのものなのでしょう。

「文化工作」の重要な仕事のひとつに「現地の人に対する日本語教育」がありましたが、『南を見てくれ』においても日本語学習熱の高まりとその成果が各エピソードの随所で見受けられます。

「昭南島の日本語学校」に添えられたイラスト ↓ 『南を見てくれ』にはたくさんの子どもと女性の姿が登場します。
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宣伝班が運営していた日本語学校は、詩人の神保光太郎を園長とする「昭南日本学園」とその付設の「昭南児童園」がありました。

学校では日本語学習に加えて、日本の皇国思想の移殖が試みられたことはいうまでもありません。

「神保学校」の挿絵 ↓ 
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「神保学校」に添えられたイラストは、「Syonan Times」の連載記事「昭南島建設」のイラストの再録です。
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「バタの臭みから味噌汁の味へ」の挿絵 ↑

タイトルの意味するところは、洋風の街並みや生活様式が日本風になってきた、ということでイラストの「ハイストリート」も日本人向きの食堂や商店が軒をならべているとのこと。

街角のインド人風の交通巡査は背中に交通指示機を背負い、日の丸の腕章をつけています。洋車(チャー)と呼ばれる人力車が重要な交通手段となっています。


(2017年4月21日に続きます)
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作業の手順として最初に蒸気機関車の動輪部分とボイラー部分を分離し、別々にトレーラーに積み込む、ということで、撤去現場に着いたときにはすでに上部のボイラー部はトレーラーに積載済みでした。
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次は動輪部分の吊り上げですが、時間を掛けての入念な作業ののち、2台のクレーンを使って積載終了。
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撤去は午前中の早い時間から始まり、炭水車の積み込みを経て、レールも撤去し、跡地を整地してすべての作業を終えたのは午後4時過ぎでした。
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トレーラーはとりあえず隣接の市役所駐車場で待機。
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移設先への移動は交通量の少なくなる夜間に行うということでしたが、午後7時前に市役所駐車場を出発したようで、偶然にも7時過ぎに移設先に向うトレーラーを国道201号線みやこ町付近で目撃。
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先導車付きでゆっくり進むものと思っていましたが、意外にも結構なスピード(法定速度でしょうが)で走り去って行きました。移設先の直方市で新たな人生(?)が始まります。

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撤去作業前のD51 ↑ ↓ 撤去前日の3月24日に撮影
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予定より少し遅れて12時49分に香春駅に到着。
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たちまちホームに人が溢れ、身動きできない状態に。
しかし、混乱やトラブルなどはなく、代わるがわるSLの前面に出て記念撮影。
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見学の皆さんがSLの前部に移動したのを機に、とりあえず炭水車の後部を撮影。
小倉総合車両センターで検査終了した「SL人吉」は、全面ピカピカの鏡状態で人物や風景が映り込んでいます。
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運転台も光り輝いています。
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8620形蒸気機関車58654号機「SL人吉」は、大正11年(1922年)に日立製作所笠戸工場で製造され、同じ年に長崎本線の浦上機関庫に配置。

その後、西唐津機関区や若松機関区への転属を経て、昭和43年(1968年)に人吉機関区の所属となり、昭和50年(1975年)に廃車されるまで湯前線などで運営され続けました。
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大混雑のホームでしたが、皆さんがSLに集中しているのを幸いに牽引の「DE10」を撮影。
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こちらも側面はピカピカ状態で、撮影中の女性の赤いジャンパーが映り込まれています。
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10分ほどの停車の後、「SL人吉」はホームを離れ、
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次の停車駅「田川伊田駅」へ向います。炭水車の側面には香春駅舎近くのセメント工場の建物が映っているようです。
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日田彦山線で「SL人吉」が回送されるのは、平成11年10月に「SLクロスロードふくおか号」として自走運行されて以来、約18年ぶり、とのことでした。
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(2017年2月10日の続きです)

「富士山頂」は全22章で構成され、そのうち第1章から19章までは雑誌連載時のもの。20章~22章は連載終了後に書き加えられたものである、とのこと。また、連載終了後に著者は野中到との面会の機会を得、『構成にさしつかへない程度の訂正を加へた(作者記)』ということです。

「富士山頂」の刊行が敗戦直後の昭和23年であったことは、「高嶺の雪」の刊行時と同様の現象を世間にもたらしたようで、佐伯清の監督で映画化(昭和23年6月公開)され、戦争とそれに続く敗戦で疲弊した人々を勇気づけたようです。 また、昭和42年にも山下秀雄の監督で再度映画化されました。 

野中夫妻の山頂滞在を題材にした小説で最もよく知られているのは、新田次郎の「芙蓉の人」であろうと思いますが、こちらも幾度となくテレビドラマ化されています。

いつの時代であっても二人の壮挙とお互いの信頼・愛情は人々の胸を打つものと思われます。

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「富士山頂」挿絵 ↑ 曾宮一念 画

橋本英吉は、野中到を剛直廉潔で不撓不屈の精神を持った人物として描いています。文章中、ある意味で非情とも思えるほどの描写もあります。

しかし、岡田武松(第4代中央気象台長)は「続測候琑談」に「野中到翁」と題して次のようなエピソードを披瀝しています。

昭和8年8月、野中到は令嬢の恭子嬢を伴って例年の如く富士山頂の中央気象台観測所に滞在していたときのこと、明治28年に建設した野中観測所の跡地に風力鉄塔を建設することについてさまざまなアドバイスを行っていた野中のところへ観光客を率いた強力が近づいてきて、明治期の野中の偉業の説明を始めた。

一通り説明を終えた強力は近くにいた野中到に向って、『野中さんはモウトウに死んだでしょうな』と尋ねた。するとその当人が『モウとうに死んで仕舞った』と真面目くさって答えたと言う。

もちろん怒って答えたのではなくジョークとして発した言葉なのですが、士族の家に生まれ、明治男子として育った到ではあっても剛直だけではなく、このような一面もあった、というお話し。


さて、「富士と水銀」と「富士山頂」の作者「橋本英吉」のこと。

明治31年、福岡県築上郡吉富村、現・吉富町幸子(こうじ)に橋本周右衛門の次男として誕生。本名は「亀吉」。明治37年、父の死去に伴ない叔母の縁戚の白石家の養子となり、のちに入籍して「白石亀吉」となっています。

大正2年、高等小学校卒業後、郵便局職員となるが翌年三井田川鑛業所に転職、伊田鑛の支柱夫を8年間ほど勤め、25歳(大正11年)で上京。 大正13年、博文館印刷(後の共同印刷)のモノタイプ工となり、この頃より新聞懸賞小説に応募するようになって行き、大正15年11月、川端康成や横光利一が中心メンバーとなる「文藝時代」に「炭脈の昼」を発表し、実質的な作家デビューを果たします。


それ以後、プロレタリア文学誌「文藝戦線」やプロレタリア作家同盟の機関紙「戦旗」、前衛芸術家同盟の機関紙「前衛」、あるいは「文藝春秋」「中央公論」「改造」「文学評論」「文学界」等々、多くの雑誌に鉱山労働、農村生活、労働争議などの作品を次々に発表します。

一般的に橋本英吉はプロレタリア作家と位置付けされていますが、昭和15年に「富士」、翌年に「寵児の生涯」「天平」を発表した頃より歴史小説も手掛けるようになり、作品の幅が広がって行きます。
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「富士山頂」裏表紙 ↑ 曾宮一念 画

プロレタリア作家のイメージのみを強調すると「富士山頂」は橋本英吉としては少し異色の存在です。歴史小説でもありません。しかし、過去の歴史的偉業を取り上げ、従来の考えを打破するように行動する主人公の姿を描いたこの作品は、橋本英吉の数々のプロレタリア文学作品に一脈通じるものがあるようにも思われます。
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「富士と水銀」が掲載された「文藝春秋」の目次  (挿絵は「川端龍子」) ↑ 左端の橋本英吉に並んで「横光利一」が見えるのは偶然にしても、何か因縁めいたものを感じます。

橋本英吉は29歳の頃に横光利一と出会って以来、さまざまな形で庇護を受け、一時的ではあるものの横光の紹介で文藝春秋社に席を置いたこともありました。

橋本英吉の作風は新感覚派の雄の一人である横光利一の影響を受けていると云われています。

このことを考えると、橋本英吉は昭和初期の文学界の二大潮流のひとつであるプロレタリア文学の優れた代表者のひとりであると同時に、もうひとつの潮流である新感覚派の感性をも併せ持った、まぎれもなく昭和初年から10年代を代表する作家だった、と言えるのではないでしょうか。


○ 高嶺の雪/落合直文著
明治29年9月12日印刷
明治29年9月25日発行
発行所 明治書院/定価弐拾五銭

○ 文藝春秋 第21巻第1号/「富士と水銀」を掲載
昭和17年12月20日印刷納本
昭和18年1月1日発行
発行所 文藝春秋社/定価五十銭

○ 富士山頂/橋本英吉著
昭和23年3月10日初版印刷
昭和23年3月15日初版発行
昭和23年6月30日再版発行
発行所 鎌倉文庫/定価九拾円
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○ 芙蓉の人/新田次郎著(文春文庫版)
1975年5月25日 第1刷
1990年6月5日 第24刷
発行所 文藝春秋/定価360円(本体350円)
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○ 富士案内 芙蓉日記/野中至 野中千代子著(平凡社ライブラリー563)
2006年1月11日 初版第1刷
発行所 平凡社/定価1300円(税別)

なお、野中夫妻を描いた作品は上記のほかに、「芙蓉の人」の著者あとがきによると「小説と詩と評論」の第24号(昭和40年9月)に「白い標柱/石一郎著」があるとのことです。
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富士山頂での本格的な気象観測は、東京帝国大学の物理教師トマス・メンデンホールによって明治13年に行われた気圧・気温・湿度などの測定を嚆矢とします。

メンデンホールは明治11年から明治14年まで東京帝国大学理学部で講師を務め、この間、明治12年からは理学部観象台の気象部門の観測主任となって気象観測にも従事しています。

明治13年の富士山頂気象観測の際は、理学部第一期生の田中館愛橘や隈本有尚、内務省地理局測量課の中村精男(のちに第3代中央気象台長就任)らを伴っており、気象観測だけではなく重力測定、天体観測、測量などを実施しています。山頂での実際の気象観測は、理学部星学科の隈本有尚が担当したとのこと。

また、明治20年には内務省地理局雇いのドイツ人技師エルヴィン・クニッピングが富士山頂を形成する八つのピークのひとつ「久須志岳」直下の須走口で中央気象台の正戸豹之助とともに気象観測を行っています。クニッピングは明治16年に日本で初めて天気図を作成し気象予報を行ったことでも知られています。

その後、明治22年に久須志岳の石室(石積みの小屋)で行われた中村精男らによる観測を経て、明治28年から富士山頂(久須志岳)での定期的な気象観測が始まることになります。

しかし、これらの観測はすべて夏の一時期だけに限られており、冬季を含む観測は皆無でした。さらには高層の気象観測の重要性は認識されつつもその観測はおろか厳冬期の富士山頂は危険すぎて未だ登頂を試みた者はいない、と言うのが当時の状況でした。

そのようななか、頂上での越冬気象観測を企図した人物がいました。橋本英吉の小説「富士と水銀」及び「富士山頂」は、無謀とも思える冬季の富士山頂での越冬気象観測を敢行した野中到・千代子夫妻の苦闘の物語です。

明治28年1月3日、野中到は冬季の富士山頂の状況確認のため御殿場から登山を開始。 その日は太郎坊の小屋で仮眠を取り、翌4日午前3時30分に小屋を出発、そして午前9時20分に五合目に到着。 しかしここで堅氷に打ち込むために持参した長柄の鳶口の柄が根元から折れ、さらに滑り止めの靴底の釘も曲がったことにより登山を断念。

この経験をもとに装備品の改良を重ねた野中は、同年2月15日から翌日にかけて再び頂上登攀を試み、強風と厳寒のなか16日正午過ぎに頂上の「銀明水」附近に達し、冬季登山が可能であることを立証しました。 

越冬観測の成功を確信した野中は、その年の夏から秋にかけて富士山頂のピークのひとつ「剣ヶ峰」に6坪ほどの観測小屋を建設し、同年10月1日より気象観測を開始します。

小説「富士と水銀」は、この観測小屋の建設場面から始まります。小屋建設地の地ならしと小屋を囲む石垣積みを任されていた石工たちは、強風と厳寒下の重労働で極度に疲弊し、工事の中断を野中に申し入れします。 

しかし工事を急ぐ野中は頑として聞き入れず続行を主張。 石工たちの再三の申し入れにも拘らず工事中断を拒否していた野中でしたが、石工棟梁の直言にはさすがに言葉をつなぐことが出来ませんでした。
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「富士と水銀」は、昭和18年発行の「文藝春秋 新年号(第21巻第1号)」 ↑ に掲載された小説ですが、それ以前に野中夫妻の偉業を書き記した著作があります。
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「富士と水銀」 ↑

観測開始から82日目の12月21日、野中到は激烈な環境下で昼夜の区別なく2時間おきに1日12回の観測、という過酷な仕事で体調を壊し、死に至る一歩手前の状態に陥ります。

そして10月12日より到とともに観測に従事した千代子も到と同様に重篤の状態下にあり、二人の救出は一刻を争うまでの状況に進展。

支援者たちの懸命により辛うじて生還したその翌年、明治29年9月25日に明治書院から夫妻の艱難辛苦と壮挙を記した「高嶺の雪」が発行されます。著者は国文学者で歌人の落合直文です。 

この「高嶺の雪」が「富士と水銀」に先駆する厳冬期富士山頂滞在をテーマとした最初の小説となっています。

「高嶺の雪」は、野中到が明治27年11月発刊の気象集誌(大日本気象学会の機関誌)に寄稿した「富士山頂気象観測所設立のために、敢て大方の志士に告ぐ」を始めとして同じく気象集誌掲載の「富士山頂寒中滞在概況」「富士山観測所気象器械」等からの転載、あるいは救出直後の明治29年1月7日から同年2月1日まで「報知新聞」に17回連載された千代子の山頂滞在手記「芙蓉日記」からの引用などがページの多くに割かれています。それゆえ、この「高嶺の雪」は、小説・文芸作品というよりは記録文学といったほうが良いかもわかりません。

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国立国会図書館デジタルコレクションより「高嶺の雪」 ↑ ↓ 同じく、「高嶺の雪」の口絵写真 野中夫妻と富士山頂 野中観測所
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「高嶺の雪」が発刊された明治29年9月は、日清戦争終結(明治28年3月)による高揚感とその後の三国干渉(明治28年4月勧告)による挫折感と憤懣から国威発揚の気運が高まっていた時期であり、越冬観測は中断されたものの夫妻の壮挙は国民の大きな歓心を得、石塚正治は戯曲「野中至」を書き、伊井蓉峰は市村座で「野中至氏不二山剣ヶ峰測候所の場」を上演。 

千代子夫人の「芙蓉日記(明治32年「少国民第11年14号に掲載)」や「芙蓉和歌集」も出版されるなどの熱狂に包まれます。「高嶺の雪」も版を重ねたことは言うまでりません。

しかし、やがてこの壮挙は地元関係者と一部の気象関係者のみに記憶される過去の一部となって行きます。

再び野中夫妻の挙行が注目されるのは、昭和23年3月に鎌倉文庫より橋本英吉著「富士山頂」が上梓されてからのことになります。
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「富士山頂」の装幀・口絵・挿絵は、曾宮一念  ↑

「富士山頂」に先立って発表された「富士と水銀」は、過酷な石積み作業の場面から始まります。そしていくつかのエピソードを挟んで事業完遂の困難さや自然の猛威が語られ、衰弱してもなお下山を拒否する夫妻の説得と決死の救出場面で最終章を迎えています。

これらの場面のひとつひとつは非常に興味深く面白い読み物となっていますが、雑誌掲載という執筆上の制約があったのでしょうエピソード展開に少しもの足りなさを感じます。


その点は「富士山頂」のあとがきの「作者記」に、『この作品は伝記ではなく、小説でありますから、事実の取捨選択は小説らしく、かなり自由にしました。』とあるように事実の仔細には拘らず小説全体を大きく三つないし四つの場面に分け、各場面に物語のピークを持って来て書かれた単行本「富士山頂」で解決されていると言えます。

それぞれのピークは、小屋建設とそれに至るまでの困難、頂上滞在観測の過酷、衰弱の過程、救出の厳しさ、などで、これらの場面は大きく感動を呼び、深く小説内に引き込まれます。(「富士山頂」は発表時は雑誌「人間」に連載されています。また「測候時報」にも山頂滞在観測の記事があるとのこと)

(2017年2月12日へ続きます。)
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あけましておめでとうございます。本年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。


上図は、中国河南省唐河県の「針織廠画像石墓」の墓門の鋪首銜環(宮殿や地下墳墓の扉に取り付けられた円環形の引き手/銜は、「くわえる」で環をくわえている)の上部に浅浮彫りされた朱雀で、後漢前期の画像石です。

「河南省画像石拓本展図録/北九州市立美術館発行/1975年」から転載したものですが、図録の説明によると鋪首の部分を含めて大きさ136×65cmの拓本とのこと。

朱雀と鋪首は、ほぼ同じ大きさに描かれていますので、朱雀部分のみでは65×50cmくらいでしょうか。
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左側、墓門北門南扇の朱雀、右側、墓門北門北扇の朱雀 ↑

朱雀は南の守りを司る神獣(神鳥)で、宮殿や地下墳墓では南側に配されます。しかしこの「針織廠石墓」では「北門」となっています。

地下墳墓の入り口(正面)は南向きが原則です。そのため南側に朱雀が描かれることが通常ですので「南門」ではないかと思い、少し奇異な感じがします。

南門が正面入り口であれば朱雀で何の問題もないのですが、実はこの「針織廠石墓」は、東向きに築造され東が正面となっています。

南側を正面とする造墓は後漢中期以降にはっきりしてきますが、「針織廠石墓」が造られたと思われる頃(前漢後期~後漢前期)は、その前の「周」「秦」の時代より東西軸を重視した「坐西朝東」(東向き)で墳墓が造られていました。したがって「北門」は東側正面の右手、つまり北側にある門ということだと思います。

南北軸を重視する都城(城郭都市)の建設は後漢からで、宮殿も坐北朝南(南向き)です。宮殿は一般的に前殿である「朝」と後殿である「寝」に分けられています。

朝は皇帝が政務をとる場で寝は日常生活の場です。宮殿の構造に倣った地下墳墓もこの頃より南側を正面入り口とし、南面する北の奥が最高位の場所となり墳墓主室が置かれています。

下の画像は奈良県明日香村の「キトラ古墳」の朱雀です。キトラ古墳の正面入り口は正しく南側で朱雀は原則通り南壁に描かれています。西の守りを司る白虎、東の青竜、北の玄武も原則通りの位置に配されています。
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平成13年4月4日付けの毎日新聞朝刊より   ↑

キトラ古墳の築造は7世紀末~8世紀初めと考えられ、東西軸を重視した周~前漢時代より1000年以上経過しています。南北軸を重視した後漢からでも600年以上経っています。

中国の墳墓において朱雀や青竜などの方位を守護する四神が登場するのは後漢からで、それ以前では四神に相当するものは存在するものの方位の守護神としては確立していないようです。(四神の方位の原初的な観念は春秋戦国時代(前770~前221年)の曽侯乙墓にすでに見られます。)

もういちど「針織廠石墓」のことに戻ると、墳墓は東を正面として「朱雀」が描かれています。そして「白虎」と「青竜」はともに「南主室北壁門」にあり、方位とは無関係に描かれているようです。

しかも白虎も青竜も羽を持った人物「羽人」とともに描かれています。「羽人」は天帝の使者です。白虎も青竜も羽人に制御され、被葬者(墓主人)を天上界に迎えに来ているように解釈されます。また、墓中に入り込む邪鬼を追い払う「辟邪」の意味も込められていたと思われます。
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羽人と白虎  ↑ 羽人と青竜 ↓   白虎は翼があるので「麒麟」でしょうね。
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そうしてみると「針織廠石墓」の朱雀は、「河南省画像石拓本展 図録」では朱雀となっていますが、「朱雀」ではなく天帝の使者であり、被葬者(墓主人)の徳の高さを表す瑞獣である「鳳凰」とみることができるのではないでしょうか。

鳳凰は、麒麟・竜・霊亀と同じように徳の高い人物(王者などの為政者)が出現したときに現れる瑞獣とされ、戦国時代の楚の「長沙子弾庫楚墓」、同じく楚の「長沙陳家大山楚墓」、前漢の「馬王堆墓」「洛陽卜千秋墓」などに見ることが出来ます。
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月と金星の接近は何度見ても飽きないし、何度撮影しても面白い。・・が、拙ブログで何度も見せられている方々はもう飽きあきしたのでは?    ・・でもヤッパリ美しいと思うでしょ?
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2016年12月3日 17時39分撮影 月齢4、金星マイナス4等

『日暮るれば 山の端に出る 夕づつの ほしとは見れど あかぬ君かな』  「古今六帖」より
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