カテゴリ:未分類( 183 )

予定より少し遅れて12時49分に香春駅に到着。
d0163575_11332844.jpg

たちまちホームに人が溢れ、身動きできない状態に。
しかし、混乱やトラブルなどはなく、代わるがわるSLの前面に出て記念撮影。
d0163575_11335818.jpg

見学の皆さんがSLの前部に移動したのを機に、とりあえず炭水車の後部を撮影。
小倉総合車両センターで検査終了した「SL人吉」は、全面ピカピカの鏡状態で人物や風景が映り込んでいます。
d0163575_11342328.jpg

d0163575_11344863.jpg

運転台も光り輝いています。
d0163575_1135944.jpg

8620形蒸気機関車58654号機「SL人吉」は、大正11年(1922年)に日立製作所笠戸工場で製造され、同じ年に長崎本線の浦上機関庫に配置。

その後、西唐津機関区や若松機関区への転属を経て、昭和43年(1968年)に人吉機関区の所属となり、昭和50年(1975年)に廃車されるまで湯前線などで運営され続けました。
d0163575_11353351.jpg

大混雑のホームでしたが、皆さんがSLに集中しているのを幸いに牽引の「DE10」を撮影。
d0163575_1135512.jpg

こちらも側面はピカピカ状態で、撮影中の女性の赤いジャンパーが映り込まれています。
d0163575_11361013.jpg

d0163575_11362989.jpg

10分ほどの停車の後、「SL人吉」はホームを離れ、
d0163575_11365148.jpg

次の停車駅「田川伊田駅」へ向います。炭水車の側面には香春駅舎近くのセメント工場の建物が映っているようです。
d0163575_1137119.jpg

日田彦山線で「SL人吉」が回送されるのは、平成11年10月に「SLクロスロードふくおか号」として自走運行されて以来、約18年ぶり、とのことでした。
[PR]
(2017年2月10日の続きです)

「富士山頂」は全22章で構成され、そのうち第1章から19章までは雑誌連載時のもの。20章~22章は連載終了後に書き加えられたものである、とのこと。また、連載終了後に著者は野中到との面会の機会を得、『構成にさしつかへない程度の訂正を加へた(作者記)』ということです。

「富士山頂」の刊行が敗戦直後の昭和23年であったことは、「高嶺の雪」の刊行時と同様の現象を世間にもたらしたようで、佐伯清の監督で映画化(昭和23年6月公開)され、戦争とそれに続く敗戦で疲弊した人々を勇気づけたようです。 また、昭和42年にも山下秀雄の監督で再度映画化されました。 

野中夫妻の山頂滞在を題材にした小説で最もよく知られているのは、新田次郎の「芙蓉の人」であろうと思いますが、こちらも幾度となくテレビドラマ化されています。

いつの時代であっても二人の壮挙とお互いの信頼・愛情は人々の胸を打つものと思われます。

d0163575_13593721.jpg

「富士山頂」挿絵 ↑ 曾宮一念 画

橋本英吉は、野中到を剛直廉潔で不撓不屈の精神を持った人物として描いています。文章中、ある意味で非情とも思えるほどの描写もあります。

しかし、岡田武松(第4代中央気象台長)は「続測候琑談」に「野中到翁」と題して次のようなエピソードを披瀝しています。

昭和8年8月、野中到は令嬢の恭子嬢を伴って例年の如く富士山頂の中央気象台観測所に滞在していたときのこと、明治28年に建設した野中観測所の跡地に風力鉄塔を建設することについてさまざまなアドバイスを行っていた野中のところへ観光客を率いた強力が近づいてきて、明治期の野中の偉業の説明を始めた。

一通り説明を終えた強力は近くにいた野中到に向って、『野中さんはモウトウに死んだでしょうな』と尋ねた。するとその当人が『モウとうに死んで仕舞った』と真面目くさって答えたと言う。

もちろん怒って答えたのではなくジョークとして発した言葉なのですが、士族の家に生まれ、明治男子として育った到ではあっても剛直だけではなく、このような一面もあった、というお話し。


さて、「富士と水銀」と「富士山頂」の作者「橋本英吉」のこと。

明治31年、福岡県築上郡吉富村、現・吉富町幸子(こうじ)に橋本周右衛門の次男として誕生。本名は「亀吉」。明治37年、父の死去に伴ない叔母の縁戚の白石家の養子となり、のちに入籍して「白石亀吉」となっています。

大正2年、高等小学校卒業後、郵便局職員となるが翌年三井田川鑛業所に転職、伊田鑛の支柱夫を8年間ほど勤め、25歳(大正11年)で上京。 大正13年、博文館印刷(後の共同印刷)のモノタイプ工となり、この頃より新聞懸賞小説に応募するようになって行き、大正15年11月、川端康成や横光利一が中心メンバーとなる「文藝時代」に「炭脈の昼」を発表し、実質的な作家デビューを果たします。


それ以後、プロレタリア文学誌「文藝戦線」やプロレタリア作家同盟の機関紙「戦旗」、前衛芸術家同盟の機関紙「前衛」、あるいは「文藝春秋」「中央公論」「改造」「文学評論」「文学界」等々、多くの雑誌に鉱山労働、農村生活、労働争議などの作品を次々に発表します。

一般的に橋本英吉はプロレタリア作家と位置付けされていますが、昭和15年に「富士」、翌年に「寵児の生涯」「天平」を発表した頃より歴史小説も手掛けるようになり、作品の幅が広がって行きます。
d0163575_140429.jpg

「富士山頂」裏表紙 ↑ 曾宮一念 画

プロレタリア作家のイメージのみを強調すると「富士山頂」は橋本英吉としては少し異色の存在です。歴史小説でもありません。しかし、過去の歴史的偉業を取り上げ、従来の考えを打破するように行動する主人公の姿を描いたこの作品は、橋本英吉の数々のプロレタリア文学作品に一脈通じるものがあるようにも思われます。
d0163575_1403718.jpg

「富士と水銀」が掲載された「文藝春秋」の目次  (挿絵は「川端龍子」) ↑ 左端の橋本英吉に並んで「横光利一」が見えるのは偶然にしても、何か因縁めいたものを感じます。

橋本英吉は29歳の頃に横光利一と出会って以来、さまざまな形で庇護を受け、一時的ではあるものの横光の紹介で文藝春秋社に席を置いたこともありました。

橋本英吉の作風は新感覚派の雄の一人である横光利一の影響を受けていると云われています。

このことを考えると、橋本英吉は昭和初期の文学界の二大潮流のひとつであるプロレタリア文学の優れた代表者のひとりであると同時に、もうひとつの潮流である新感覚派の感性をも併せ持った、まぎれもなく昭和初年から10年代を代表する作家だった、と言えるのではないでしょうか。


○ 高嶺の雪/落合直文著
明治29年9月12日印刷
明治29年9月25日発行
発行所 明治書院/定価弐拾五銭

○ 文藝春秋 第21巻第1号/「富士と水銀」を掲載
昭和17年12月20日印刷納本
昭和18年1月1日発行
発行所 文藝春秋社/定価五十銭

○ 富士山頂/橋本英吉著
昭和23年3月10日初版印刷
昭和23年3月15日初版発行
昭和23年6月30日再版発行
発行所 鎌倉文庫/定価九拾円
d0163575_141655.jpg

○ 芙蓉の人/新田次郎著(文春文庫版)
1975年5月25日 第1刷
1990年6月5日 第24刷
発行所 文藝春秋/定価360円(本体350円)
d0163575_1413353.jpg

○ 富士案内 芙蓉日記/野中至 野中千代子著(平凡社ライブラリー563)
2006年1月11日 初版第1刷
発行所 平凡社/定価1300円(税別)

なお、野中夫妻を描いた作品は上記のほかに、「芙蓉の人」の著者あとがきによると「小説と詩と評論」の第24号(昭和40年9月)に「白い標柱/石一郎著」があるとのことです。
[PR]
富士山頂での本格的な気象観測は、東京帝国大学の物理教師トマス・メンデンホールによって明治13年に行われた気圧・気温・湿度などの測定を嚆矢とします。

メンデンホールは明治11年から明治14年まで東京帝国大学理学部で講師を務め、この間、明治12年からは理学部観象台の気象部門の観測主任となって気象観測にも従事しています。

明治13年の富士山頂気象観測の際は、理学部第一期生の田中館愛橘や隈本有尚、内務省地理局測量課の中村精男(のちに第3代中央気象台長就任)らを伴っており、気象観測だけではなく重力測定、天体観測、測量などを実施しています。山頂での実際の気象観測は、理学部星学科の隈本有尚が担当したとのこと。

また、明治20年には内務省地理局雇いのドイツ人技師エルヴィン・クニッピングが富士山頂を形成する八つのピークのひとつ「久須志岳」直下の須走口で中央気象台の正戸豹之助とともに気象観測を行っています。クニッピングは明治16年に日本で初めて天気図を作成し気象予報を行ったことでも知られています。

その後、明治22年に久須志岳の石室(石積みの小屋)で行われた中村精男らによる観測を経て、明治28年から富士山頂(久須志岳)での定期的な気象観測が始まることになります。

しかし、これらの観測はすべて夏の一時期だけに限られており、冬季を含む観測は皆無でした。さらには高層の気象観測の重要性は認識されつつもその観測はおろか厳冬期の富士山頂は危険すぎて未だ登頂を試みた者はいない、と言うのが当時の状況でした。

そのようななか、頂上での越冬気象観測を企図した人物がいました。橋本英吉の小説「富士と水銀」及び「富士山頂」は、無謀とも思える冬季の富士山頂での越冬気象観測を敢行した野中到・千代子夫妻の苦闘の物語です。

明治28年1月3日、野中到は冬季の富士山頂の状況確認のため御殿場から登山を開始。 その日は太郎坊の小屋で仮眠を取り、翌4日午前3時30分に小屋を出発、そして午前9時20分に五合目に到着。 しかしここで堅氷に打ち込むために持参した長柄の鳶口の柄が根元から折れ、さらに滑り止めの靴底の釘も曲がったことにより登山を断念。

この経験をもとに装備品の改良を重ねた野中は、同年2月15日から翌日にかけて再び頂上登攀を試み、強風と厳寒のなか16日正午過ぎに頂上の「銀明水」附近に達し、冬季登山が可能であることを立証しました。 

越冬観測の成功を確信した野中は、その年の夏から秋にかけて富士山頂のピークのひとつ「剣ヶ峰」に6坪ほどの観測小屋を建設し、同年10月1日より気象観測を開始します。

小説「富士と水銀」は、この観測小屋の建設場面から始まります。小屋建設地の地ならしと小屋を囲む石垣積みを任されていた石工たちは、強風と厳寒下の重労働で極度に疲弊し、工事の中断を野中に申し入れします。 

しかし工事を急ぐ野中は頑として聞き入れず続行を主張。 石工たちの再三の申し入れにも拘らず工事中断を拒否していた野中でしたが、石工棟梁の直言にはさすがに言葉をつなぐことが出来ませんでした。
d0163575_14333141.jpg

「富士と水銀」は、昭和18年発行の「文藝春秋 新年号(第21巻第1号)」 ↑ に掲載された小説ですが、それ以前に野中夫妻の偉業を書き記した著作があります。
d0163575_14325098.jpg

「富士と水銀」 ↑

観測開始から82日目の12月21日、野中到は激烈な環境下で昼夜の区別なく2時間おきに1日12回の観測、という過酷な仕事で体調を壊し、死に至る一歩手前の状態に陥ります。

そして10月12日より到とともに観測に従事した千代子も到と同様に重篤の状態下にあり、二人の救出は一刻を争うまでの状況に進展。

支援者たちの懸命により辛うじて生還したその翌年、明治29年9月25日に明治書院から夫妻の艱難辛苦と壮挙を記した「高嶺の雪」が発行されます。著者は国文学者で歌人の落合直文です。 

この「高嶺の雪」が「富士と水銀」に先駆する厳冬期富士山頂滞在をテーマとした最初の小説となっています。

「高嶺の雪」は、野中到が明治27年11月発刊の気象集誌(大日本気象学会の機関誌)に寄稿した「富士山頂気象観測所設立のために、敢て大方の志士に告ぐ」を始めとして同じく気象集誌掲載の「富士山頂寒中滞在概況」「富士山観測所気象器械」等からの転載、あるいは救出直後の明治29年1月7日から同年2月1日まで「報知新聞」に17回連載された千代子の山頂滞在手記「芙蓉日記」からの引用などがページの多くに割かれています。それゆえ、この「高嶺の雪」は、小説・文芸作品というよりは記録文学といったほうが良いかもわかりません。

d0163575_1434099.jpg

国立国会図書館デジタルコレクションより「高嶺の雪」 ↑ ↓ 同じく、「高嶺の雪」の口絵写真 野中夫妻と富士山頂 野中観測所
d0163575_14342232.jpg

「高嶺の雪」が発刊された明治29年9月は、日清戦争終結(明治28年3月)による高揚感とその後の三国干渉(明治28年4月勧告)による挫折感と憤懣から国威発揚の気運が高まっていた時期であり、越冬観測は中断されたものの夫妻の壮挙は国民の大きな歓心を得、石塚正治は戯曲「野中至」を書き、伊井蓉峰は市村座で「野中至氏不二山剣ヶ峰測候所の場」を上演。 

千代子夫人の「芙蓉日記(明治32年「少国民第11年14号に掲載)」や「芙蓉和歌集」も出版されるなどの熱狂に包まれます。「高嶺の雪」も版を重ねたことは言うまでりません。

しかし、やがてこの壮挙は地元関係者と一部の気象関係者のみに記憶される過去の一部となって行きます。

再び野中夫妻の挙行が注目されるのは、昭和23年3月に鎌倉文庫より橋本英吉著「富士山頂」が上梓されてからのことになります。
d0163575_14472216.jpg

「富士山頂」の装幀・口絵・挿絵は、曾宮一念  ↑

「富士山頂」に先立って発表された「富士と水銀」は、過酷な石積み作業の場面から始まります。そしていくつかのエピソードを挟んで事業完遂の困難さや自然の猛威が語られ、衰弱してもなお下山を拒否する夫妻の説得と決死の救出場面で最終章を迎えています。

これらの場面のひとつひとつは非常に興味深く面白い読み物となっていますが、雑誌掲載という執筆上の制約があったのでしょうエピソード展開に少しもの足りなさを感じます。


その点は「富士山頂」のあとがきの「作者記」に、『この作品は伝記ではなく、小説でありますから、事実の取捨選択は小説らしく、かなり自由にしました。』とあるように事実の仔細には拘らず小説全体を大きく三つないし四つの場面に分け、各場面に物語のピークを持って来て書かれた単行本「富士山頂」で解決されていると言えます。

それぞれのピークは、小屋建設とそれに至るまでの困難、頂上滞在観測の過酷、衰弱の過程、救出の厳しさ、などで、これらの場面は大きく感動を呼び、深く小説内に引き込まれます。(「富士山頂」は発表時は雑誌「人間」に連載されています。また「測候時報」にも山頂滞在観測の記事があるとのこと)

(2017年2月12日へ続きます。)
[PR]
d0163575_554684.jpg

あけましておめでとうございます。本年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。


上図は、中国河南省唐河県の「針織廠画像石墓」の墓門の鋪首銜環(宮殿や地下墳墓の扉に取り付けられた円環形の引き手/銜は、「くわえる」で環をくわえている)の上部に浅浮彫りされた朱雀で、後漢前期の画像石です。

「河南省画像石拓本展図録/北九州市立美術館発行/1975年」から転載したものですが、図録の説明によると鋪首の部分を含めて大きさ136×65cmの拓本とのこと。

朱雀と鋪首は、ほぼ同じ大きさに描かれていますので、朱雀部分のみでは65×50cmくらいでしょうか。
d0163575_11465921.jpg

左側、墓門北門南扇の朱雀、右側、墓門北門北扇の朱雀 ↑

朱雀は南の守りを司る神獣(神鳥)で、宮殿や地下墳墓では南側に配されます。しかしこの「針織廠石墓」では「北門」となっています。

地下墳墓の入り口(正面)は南向きが原則です。そのため南側に朱雀が描かれることが通常ですので「南門」ではないかと思い、少し奇異な感じがします。

南門が正面入り口であれば朱雀で何の問題もないのですが、実はこの「針織廠石墓」は、東向きに築造され東が正面となっています。

南側を正面とする造墓は後漢中期以降にはっきりしてきますが、「針織廠石墓」が造られたと思われる頃(前漢後期~後漢前期)は、その前の「周」「秦」の時代より東西軸を重視した「坐西朝東」(東向き)で墳墓が造られていました。したがって「北門」は東側正面の右手、つまり北側にある門ということだと思います。

南北軸を重視する都城(城郭都市)の建設は後漢からで、宮殿も坐北朝南(南向き)です。宮殿は一般的に前殿である「朝」と後殿である「寝」に分けられています。

朝は皇帝が政務をとる場で寝は日常生活の場です。宮殿の構造に倣った地下墳墓もこの頃より南側を正面入り口とし、南面する北の奥が最高位の場所となり墳墓主室が置かれています。

下の画像は奈良県明日香村の「キトラ古墳」の朱雀です。キトラ古墳の正面入り口は正しく南側で朱雀は原則通り南壁に描かれています。西の守りを司る白虎、東の青竜、北の玄武も原則通りの位置に配されています。
d0163575_11473265.jpg

平成13年4月4日付けの毎日新聞朝刊より   ↑

キトラ古墳の築造は7世紀末~8世紀初めと考えられ、東西軸を重視した周~前漢時代より1000年以上経過しています。南北軸を重視した後漢からでも600年以上経っています。

中国の墳墓において朱雀や青竜などの方位を守護する四神が登場するのは後漢からで、それ以前では四神に相当するものは存在するものの方位の守護神としては確立していないようです。(四神の方位の原初的な観念は春秋戦国時代(前770~前221年)の曽侯乙墓にすでに見られます。)

もういちど「針織廠石墓」のことに戻ると、墳墓は東を正面として「朱雀」が描かれています。そして「白虎」と「青竜」はともに「南主室北壁門」にあり、方位とは無関係に描かれているようです。

しかも白虎も青竜も羽を持った人物「羽人」とともに描かれています。「羽人」は天帝の使者です。白虎も青竜も羽人に制御され、被葬者(墓主人)を天上界に迎えに来ているように解釈されます。また、墓中に入り込む邪鬼を追い払う「辟邪」の意味も込められていたと思われます。
d0163575_11475749.jpg

羽人と白虎  ↑ 羽人と青竜 ↓   白虎は翼があるので「麒麟」でしょうね。
d0163575_11481985.jpg

そうしてみると「針織廠石墓」の朱雀は、「河南省画像石拓本展 図録」では朱雀となっていますが、「朱雀」ではなく天帝の使者であり、被葬者(墓主人)の徳の高さを表す瑞獣である「鳳凰」とみることができるのではないでしょうか。

鳳凰は、麒麟・竜・霊亀と同じように徳の高い人物(王者などの為政者)が出現したときに現れる瑞獣とされ、戦国時代の楚の「長沙子弾庫楚墓」、同じく楚の「長沙陳家大山楚墓」、前漢の「馬王堆墓」「洛陽卜千秋墓」などに見ることが出来ます。
[PR]
月と金星の接近は何度見ても飽きないし、何度撮影しても面白い。・・が、拙ブログで何度も見せられている方々はもう飽きあきしたのでは?    ・・でもヤッパリ美しいと思うでしょ?
d0163575_20331636.jpg

2016年12月3日 17時39分撮影 月齢4、金星マイナス4等

『日暮るれば 山の端に出る 夕づつの ほしとは見れど あかぬ君かな』  「古今六帖」より
[PR]
朝10時半頃、滑走路西側の撮影スポットに到着、しかし、すでに車を止めるところ無しの状態。
仕方なくかなり離れた神社前の空き地に停車。

F-2の機動飛行が2時間ほど続いた後、
d0163575_21264959.jpg

d0163575_21271497.jpg

d0163575_21273142.jpg

d0163575_2127506.jpg

12時50分頃、アパッチとブラックホークが飛来。
d0163575_21282132.jpg

d0163575_21283944.jpg

AH-64Dアパッチ・ロングボウ(74511) ↑
d0163575_21285845.jpg

UH-60ブラックホーク(43135) ↑
その後、14時からウイスキィー・パパのアクロバット飛行予行実施。 ↓  エクストラEA-300L
d0163575_21292140.jpg

d0163575_21293981.jpg

d0163575_2130140.jpg

d0163575_2130217.jpg

15分ほどの飛行の後、そのまま帰投?  消防車も帰ってしまったので私も14時20分に撮影ポイントを離脱。ウイスキー・パパはその後どうなったかわかりません。

明日(11月27日)の本番は登場するの? (情報は各自で入手をお願いします)
d0163575_21303931.jpg

YS-11P(52-1152)とU-4(75-3251)
明日は雨とのこと。撮影ポイントへ出撃は微妙なところです。
[PR]
2度に亘る譲渡先の公募を経て、このほど行橋市民会館横に展示保存されているD51形蒸気機関車の行き先が決定されました。

無償譲渡先は直方市のNPO法人「汽車倶楽部」とのことです。
d0163575_18562833.jpg

「汽車倶楽部」は各地で静態保存されている蒸気機関車の清掃保守や修復に多くの実績ががあり、このことが決定の決め手となったようです。
d0163575_185732.jpg

D5110は、1936年3月29に川崎重工兵庫工場にて製造(製番1652)、同年4月26日佐賀県鳥栖機関区に配属、1972年3月福岡県直方機関区に移されたのち、1973年9月10日に廃車となっています。
d0163575_1924850.jpg

廃車後は行橋機関区で保管されていましたが、1974年1月31日に旧国鉄から行橋市に貸与され、以来、市民会館横の敷地で展示されてきました。
d0163575_18582921.jpg

蒸気機関車の後景は行橋市民会館の側面壁  市民会館は解体撤去が決定され、2016年11月22日より解体工事が始まっています。
d0163575_1859263.jpg

d0163575_18593262.jpg

市民会館横に移設後、永い間、機関車の上部を覆う屋根はなく、野ざらし状態でした。屋根の設置は2001年のこと。  塗装の塗り替えや周囲の除草は、鉄道ОB会行橋支部が年2回実施していました。
d0163575_190050.jpg

しかし、老朽化が進んだことや分かりにくい設置場所などの理由で、2009年4月19日の鉄道ОB会行橋支部の総会で、解体整備とJR行橋駅西口への移転を決議
d0163575_1902122.jpg

・・・が、2016年3月1日の市議会定例会で市民会館解体に伴って機関車も解体撤去することが提案され、同時に市の有識者が2014年に設置した「蒸気機関車活用検討委員会」が譲渡先を公募することを提言。

結果、公募をしたものの移設費用のことなどで市と応募者の折り合いがつかず、2回目の公募で市が移設費用を助成するということで、無事に譲渡先が決定されたという経緯があります。

市民会館の解体はすでに始まっていますが、蒸気機関車は2017年3月頃まで現在の場所で保存されるようです。
d0163575_1932061.jpg

機関車の前に設置された説明版

ちなみにプレートはすぐ近くの歴史資料館で展示されています。
d0163575_1934688.jpg

[PR]
香春駅は、大正4年(1915)に小倉鉄道株式会社の「上香春駅」として開業。「香春駅」の名称は昭和18年(1943)に小倉鉄道が戦時買収により国有化された時から使用されるようになりました。
d0163575_1413232.jpg

現在の駅舎は平成8年に建てられたものです。以前の駅舎は前年9月10日の火災により全焼しています。
d0163575_1415986.jpg

駅前の石碑と香春岳 一の岳  石碑には貝原益軒の「豊國紀行」より香春岳の一節が抜き出され、刻まれています。平成21年建立です。
d0163575_1422895.jpg

待合室と改札口  駅は平成26年に無人化され、現在は窓口が塞がれて券売機が置かれています。
d0163575_1425030.jpg

2番ホームから駅舎を撮影  後景は日本セメント香春工場の煙突です。セメント工場の建設・創業は昭和10年で、「浅野セメント」によるものです。浅野セメントは昭和22年に「日本セメント」に商号変更、平成10年には秩父小野田セメントと合併して「太平洋セメント株式会社」となっています。

駅から香春工場まで専用線が引かれていましたが、昭和61年に廃止されています。

d0163575_1431738.jpg

同じく2番ホームから撮影 ↑ 駅舎と香春岳 左側の白い石灰岩が見えている山が「一の岳」、駅舎の屋根の上に見える山は「二の岳」。
d0163575_1433465.jpg

d0163575_143575.jpg

2番ホームへ渡るには1番ホームの端から専用通路を使います。↑ 画面奥が採銅所駅方面です。
d0163575_1441665.jpg

2番ホームに日田方面(下り)行きのキハ147が入ってきました。↑ 先頭車両はキハ147 1057、後続はキハ147 185です。

駅舎と構内を撮影後、セメント工場が背景になるポイントに移動。
d0163575_21183141.jpg

先頭はキハ147 1069 香春駅を出、一本松駅(画面左側)に向っています。↑ 岡踏切付近にて撮影
d0163575_1444191.jpg

d0163575_145630.jpg

岡踏切より香春岳を撮影
d0163575_1453072.jpg

香春駅に向かうキハ147 185 ↑ 岡踏切付近にて撮影 手前のハゼの木の紅葉はすでに散り、赤黒の実を豊富に現しています。
d0163575_1461063.jpg

日田方面(画面左側)へ向かうキハ147  御祓川鉄橋付近にて撮影

水に映った青空はいよいよ透明度を増し、川辺の草紅葉と相まって深まりつつある秋を堪能した一日でした。
[PR]
(2016年11月3日の続きです) 
前回は→こちら。


一階ホールへと続く階段  ↓ 壁面は外壁のデザインに呼応して屈曲し、視線をリズミカルに舞台中央へと向かわせます。
d0163575_19103095.jpg

d0163575_19105239.jpg

壁面の屈曲デザイン ↑ 画像上部のギザギザはピンルームの底部です。
d0163575_1911973.jpg

舞台は幅20メートル、奥行9.5メートル ↑ ホールは1050人収容できます。
d0163575_19112984.jpg

d0163575_19115032.jpg

ピンルームの外観デザインも直線を基調とし、会館全体の雰囲気を統一させています。
さらには、トイレドアも直線を取り入れた ↓ デザインとなっています。
d0163575_19122736.jpg

行橋市民会館は昭和39年9月の開館以来、さまざまな催し物の場として多くの市民に親しまれてきましたが、平成28年10月30日開催の「ありがとう市民会館 美夜古芸術祭」を最後として52年間の歴史を閉じることになりました。
d0163575_19124687.jpg

d0163575_1913972.jpg

最終公演は、第1部が行橋・京築地方に伝わる豊玉姫伝説をモチーフにした「音楽物語 浦島太郎」、第2部は開館から今日までの社会の幾多の出来事を歌とともに振り返り見る、という2部構成の音楽と映像と語りで綴る市民会館50年の歴史物語でした。
d0163575_19133493.jpg

市民会館の建坪は2758平方メートル、事業費1億5828万円 国民年金還元融資を受けたほか、たくさんの市民からの寄付金で完成を迎えています。

落成式は行橋市制10周年記念式典と合わせて昭和39年10月10日に行われましたが、この日は「第18回夏季オリンピック東京大会」の開会式当日でもありました。
[PR]
d0163575_1455866.jpg

平成28年11月3日17時53分撮影

タイトルに土星を入れたのですが、拙ブログの画像では多分、土星の確認は無理でしょう。

金星は月の左斜め下に辛うじて確認できると思いますが、これさえ目を凝らさないとよくわからない程度の写りです。土星の位置は、月と金星がつくる正三角形(右側に)です。

月は月齢4、金星は-4等で土星は0.4等の明るさです。
[PR]