富士と水銀/富士山頂  橋本英吉著 富士山頂冬季気象観測(その1)

富士山頂での本格的な気象観測は、東京帝国大学の物理教師トマス・メンデンホールによって明治13年に行われた気圧・気温・湿度などの測定を嚆矢とします。

メンデンホールは明治11年から明治14年まで東京帝国大学理学部で講師を務め、この間、明治12年からは理学部観象台の気象部門の観測主任となって気象観測にも従事しています。

明治13年の富士山頂気象観測の際は、理学部第一期生の田中館愛橘や隈本有尚、内務省地理局測量課の中村精男(のちに第3代中央気象台長就任)らを伴っており、気象観測だけではなく重力測定、天体観測、測量などを実施しています。山頂での実際の気象観測は、理学部星学科の隈本有尚が担当したとのこと。

また、明治20年には内務省地理局雇いのドイツ人技師エルヴィン・クニッピングが富士山頂を形成する八つのピークのひとつ「久須志岳」直下の須走口で中央気象台の正戸豹之助とともに気象観測を行っています。クニッピングは明治16年に日本で初めて天気図を作成し気象予報を行ったことでも知られています。

その後、明治22年に久須志岳の石室(石積みの小屋)で行われた中村精男らによる観測を経て、明治28年から富士山頂(久須志岳)での定期的な気象観測が始まることになります。

しかし、これらの観測はすべて夏の一時期だけに限られており、冬季を含む観測は皆無でした。さらには高層の気象観測の重要性は認識されつつもその観測はおろか厳冬期の富士山頂は危険すぎて未だ登頂を試みた者はいない、と言うのが当時の状況でした。

そのようななか、頂上での越冬気象観測を企図した人物がいました。橋本英吉の小説「富士と水銀」及び「富士山頂」は、無謀とも思える冬季の富士山頂での越冬気象観測を敢行した野中到・千代子夫妻の苦闘の物語です。

明治28年1月3日、野中到は冬季の富士山頂の状況確認のため御殿場から登山を開始。 その日は太郎坊の小屋で仮眠を取り、翌4日午前3時30分に小屋を出発、そして午前9時20分に五合目に到着。 しかしここで堅氷に打ち込むために持参した長柄の鳶口の柄が根元から折れ、さらに滑り止めの靴底の釘も曲がったことにより登山を断念。

この経験をもとに装備品の改良を重ねた野中は、同年2月15日から翌日にかけて再び頂上登攀を試み、強風と厳寒のなか16日正午過ぎに頂上の「銀明水」附近に達し、冬季登山が可能であることを立証しました。 

越冬観測の成功を確信した野中は、その年の夏から秋にかけて富士山頂のピークのひとつ「剣ヶ峰」に6坪ほどの観測小屋を建設し、同年10月1日より気象観測を開始します。

小説「富士と水銀」は、この観測小屋の建設場面から始まります。小屋建設地の地ならしと小屋を囲む石垣積みを任されていた石工たちは、強風と厳寒下の重労働で極度に疲弊し、工事の中断を野中に申し入れします。 

しかし工事を急ぐ野中は頑として聞き入れず続行を主張。 石工たちの再三の申し入れにも拘らず工事中断を拒否していた野中でしたが、石工棟梁の直言にはさすがに言葉をつなぐことが出来ませんでした。
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「富士と水銀」は、昭和18年発行の「文藝春秋 新年号(第21巻第1号)」 ↑ に掲載された小説ですが、それ以前に野中夫妻の偉業を書き記した著作があります。
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「富士と水銀」 ↑

観測開始から82日目の12月21日、野中到は激烈な環境下で昼夜の区別なく2時間おきに1日12回の観測、という過酷な仕事で体調を壊し、死に至る一歩手前の状態に陥ります。

そして10月12日より到とともに観測に従事した千代子も到と同様に重篤の状態下にあり、二人の救出は一刻を争うまでの状況に進展。

支援者たちの懸命により辛うじて生還したその翌年、明治29年9月25日に明治書院から夫妻の艱難辛苦と壮挙を記した「高嶺の雪」が発行されます。著者は国文学者で歌人の落合直文です。 

この「高嶺の雪」が「富士と水銀」に先駆する厳冬期富士山頂滞在をテーマとした最初の小説となっています。

「高嶺の雪」は、野中到が明治27年11月発刊の気象集誌(大日本気象学会の機関誌)に寄稿した「富士山頂気象観測所設立のために、敢て大方の志士に告ぐ」を始めとして同じく気象集誌掲載の「富士山頂寒中滞在概況」「富士山観測所気象器械」等からの転載、あるいは救出直後の明治29年1月7日から同年2月1日まで「報知新聞」に17回連載された千代子の山頂滞在手記「芙蓉日記」からの引用などがページの多くに割かれています。それゆえ、この「高嶺の雪」は、小説・文芸作品というよりは記録文学といったほうが良いかもわかりません。

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国立国会図書館デジタルコレクションより「高嶺の雪」 ↑ ↓ 同じく、「高嶺の雪」の口絵写真 野中夫妻と富士山頂 野中観測所
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「高嶺の雪」が発刊された明治29年9月は、日清戦争終結(明治28年3月)による高揚感とその後の三国干渉(明治28年4月勧告)による挫折感と憤懣から国威発揚の気運が高まっていた時期であり、越冬観測は中断されたものの夫妻の壮挙は国民の大きな歓心を得、石塚正治は戯曲「野中至」を書き、伊井蓉峰は市村座で「野中至氏不二山剣ヶ峰測候所の場」を上演。 

千代子夫人の「芙蓉日記(明治32年「少国民第11年14号に掲載)」や「芙蓉和歌集」も出版されるなどの熱狂に包まれます。「高嶺の雪」も版を重ねたことは言うまでりません。

しかし、やがてこの壮挙は地元関係者と一部の気象関係者のみに記憶される過去の一部となって行きます。

再び野中夫妻の挙行が注目されるのは、昭和23年3月に鎌倉文庫より橋本英吉著「富士山頂」が上梓されてからのことになります。
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「富士山頂」の装幀・口絵・挿絵は、曾宮一念  ↑

「富士山頂」に先立って発表された「富士と水銀」は、過酷な石積み作業の場面から始まります。そしていくつかのエピソードを挟んで事業完遂の困難さや自然の猛威が語られ、衰弱してもなお下山を拒否する夫妻の説得と決死の救出場面で最終章を迎えています。

これらの場面のひとつひとつは非常に興味深く面白い読み物となっていますが、雑誌掲載という執筆上の制約があったのでしょうエピソード展開に少しもの足りなさを感じます。


その点は「富士山頂」のあとがきの「作者記」に、『この作品は伝記ではなく、小説でありますから、事実の取捨選択は小説らしく、かなり自由にしました。』とあるように事実の仔細には拘らず小説全体を大きく三つないし四つの場面に分け、各場面に物語のピークを持って来て書かれた単行本「富士山頂」で解決されていると言えます。

それぞれのピークは、小屋建設とそれに至るまでの困難、頂上滞在観測の過酷、衰弱の過程、救出の厳しさ、などで、これらの場面は大きく感動を呼び、深く小説内に引き込まれます。(「富士山頂」は発表時は雑誌「人間」に連載されています。また「測候時報」にも山頂滞在観測の記事があるとのこと)

(2017年2月12日へ続きます。)
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by iruka-boshi | 2017-02-10 14:34 | Comments(0)