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神代帝都考/狭間畏三著 (その4)

(2016年1月14日の続きです)

松本清張の推理小説「鴎外の婢」に挟間翁の「神代帝都考」が登場し、物語展開に重要な役割を演じていることを拙ブログの「鴎外の婢 松本清張著/2011年2月18日」「(その2)/2011年2月26日」「(その3)/2011年4月3日」及び「(その4)/2011年4月19日」に書きましたので、ここでは重複を避けますが「鴎外の婢」の中に藤田良祐著の「北九州の古代国家」からの引用がありますので少し長くなりますが転記します。

『近畿地方に成立した古代王朝の前身が、その東遷以前に、北九州の部族連合体であったことは、三世紀半に編纂された三国史東夷伝倭人の条の記事を見ても明らかである。(中略)記紀には人名にも地名にもトヨの字が多く出てくるが、魏志倭人伝の「台与」がその音を写したものとすれば、後代に「豊」の漢字をあてはめた地名は北九州にずっと以前からあったものとみなければならない。

ツクシが奈良朝期にできた九州の広い呼び名で、豊の国がその中の狭い地域の呼び名であったことから、豊のほうが古い名であり、大化後の行政区画である豊前豊後のうち、豊前がその原体である。それも豊前平野を占める京都郡(旧仲津郡を含む)が中心であったことは、従来史家のいずれも認めるところである。(後略)』

記紀に多出する「トヨ」と北九州との係りを述べたくだりですが、実は著者の藤田良祐もその著書「北九州の古代国家」も「鴎外の婢」の中だけに存在する架空の著者・著書です。松本清張はかなりのページ数を割いて「北九州の古代国家」の内容と小説中の人物・藤田良祐の歴史解説を記していますが、これは取りも直さず清張自身の歴史認識と解して良いと思われます。
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「鴎外の婢」 ↑ 光文社/昭和56年4月1日34版発行(昭和45年4月30日初版)/カッパ・ノベルス新書版/カバーイラスト生頼範義

「神代帝都考」では「トヨ」と挟間翁の主張する帝都の場所との関係を「第1篇 国号考」から説いています。

多くの別名を持つ日本の国号のうち、神代以降の国号を除いたいくつかの国号、例えば「豊瑞穂国」「豊葦原瑞穂国」「豊葦原中津国」「豊葦原千五百秋瑞穂国」「筑紫国」「浦安国」「磯輪上秀真国(しわかみほつまのくに)」「細戈千足国(くはしほこちたりのくに)」などがいずれも「豊の国」を指していることを「豊前古城記」に載る「祝詞」や「神代秘要抄」の中の「豊前風土記」の文章、あるいは「神別本紀」の一節を挙げて詳細に記しています。

また、記紀に云う「筑紫日向」が九州(筑紫)のなかの日向国(宮崎県)ではなく、「筑紫」とは「豊の国」そのものであることを、日本書紀景行紀、安閑紀、仲哀紀、雄略紀、継体紀、旧事紀本紀、古事記神武東征の条の記事などを挙げて論証し、「筑紫」が九州全体を示すようになるのは後の世のこととしています。

さらに、「日向国(宮崎県~鹿児島県)」の名は景行天皇の治世に名づけられたものであり、神代にあるはずはなく、「日向」とは「日向国」のことではなく文字通り「向陽」の義で皇居の近傍の地をいう美称としています。

「神代帝都考」は苅田町高城山(高千穂峯)からカルスト台地平尾台一帯をイザナギ・イザナミ二神に因む「イサヤマ」としていますが、そのイサヤマの南端(平尾台の最南端)に「竜ケ鼻」と呼ばれる山塊があります。

下の画像の左最奥の「へ」の字の形の山です。この「竜ケ鼻」の麓にイサヤマの名を遺す「諌山村」、現みやこ町勝山諌山(いさやま)があります。また、諌山地区には「宮原」の地名を始めとして神跡地を示す地名がいくつか残されている、としています。 ↓
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苅田町上片島より撮影 中央を流れる川は小波瀬川です。

「竜ケ鼻」の「竜」もそうですが、豊前地方には「ヒコホホデミノミコト(山幸彦)」の妃「トヨタマヒメ」の神話に仏教説話が入り込んだ結果と思われる「竜」の字がつく地名が散在しています。

「竜ケ鼻」から続く画面右側の大きな山塊のピーク付近は「桶の辻」と呼ばれています。 ↑ この山の中腹あたりに「トヨタマヒメ伝説」が仏教説話化されたと見られる名称の鍾乳洞「青竜窟」があります。

「桶の辻」の地名は天照大神の岩戸隠れの際、アメノウズメノミコトが岩戸の前で伏せた桶を踏み鳴らしたという神話に因むもの、としています。「神代帝都考 全」では平尾台は古名の「広野(ひろの)」で出てきますが(現在でも古老は平尾台を広野と呼ぶ)、広野はカルスト台地ゆえ、鍾乳洞やドリーネなどの特有の地形を持っています。

狭間翁はこの鍾乳洞を黄泉の国への入り口と考え、鍾乳洞の奥の坂道を古事記に云う「黄泉比良坂(よもつひらさか)」に比定しています。「神代帝都考 全」に鍾乳洞の形状を詳しく述べていて、これはどうやら平尾台はもとより、日本国内では非常に珍しい竪穴の鍾乳洞「牡鹿洞」を指しているようです。

入口から洞底まで垂直に約30m、洞底から奥へ奥へと緩やかな坂道が続いていて、いかにも「黄泉比良坂」のイメージがあり、千仏鍾乳洞や羊群原と並んで平尾台観光の人気スポットとなっています。

「神代帝都考 全」を刊行した明治32年の翌年、翁は当時、陸軍第12師団の軍医部長として小倉に赴任していた森鴎外を訪ねています。

このことは、鴎外の「小倉日記」の明治33年4月22日に『挟間畏三来り訪ふ。隆準(りゅうせつ)秀眉の美丈夫にして、年四十五六なるべし。 かつて神代帝都考を著したるものなり。』と書かれています。しかし、翁が携えたであろう「神代帝都考 全」の内容なり感想については一切触れていません。

これは挟間翁の鴎外宅訪問に先立つ明治33年2月4日に翁と私塾「水哉園」で同門だった杉山貞の来訪を受けた際の日記に、杉山貞の言葉として『昔日同門の士にして、その少しく漢籍を読みしを知るのみ。はからざりき、にわかに神代帝都考を著すことあらんとは』と記して「神代帝都考」に批判的な杉山に同意したとも思われる記述を残していることに通ずるものがあります。

ここのところは、松本清張が「鴎外の婢」のなかで『著者は豊前国京都郡のひとである。郷土愛から歴史を歪め、わが住む地方に牽強付会する例は珍しくないから、この著者もそうした郷土史家の一人であろう』と「鴎外の婢」の主人公・浜村に語らせている場面や『郷土の中に天孫降臨の地や皇孫四代の皇居跡をおさめるために無理な解釈や語呂合わせが行われている。』と語る場面に見られるように(主人公・浜村の考えは著者・松本清張の考えでもある)、鴎外も同様の気持ちだったのではないでしょうか。

・・・、とは言え清張は、『ある意味の郷土愛から出たものだが、当時のことで、方法的に稚拙であったのはまぬがれない。今では考古学や比較神話学などの近接学問がよほど進み、また、発掘によって遺物の蒐集が豊富になっているので、古代の京都郡に新しい照射ができるようになった。先覚者挟間畏三翁が今日であれば、大きな感慨にふけられることであろう。』と小説中の架空の書「北九州古代国家論」に書きとめています。

「北九州古代国家論」の著者藤田良祐は、清張の分身ともいえる立場で、藤田の考えは清張の考えでもあって、清張は「神代帝都考」を全面否定するのではなく、地名考証の方法に問題があったものの、旧来の天孫降臨神話に一石を投じた「神代帝都考」の上梓を評価し、先覚者としての挟間畏三に敬意を表しつつ、「鴎外の婢」のストーリー展開に重要な役目を負わせて登場させています。
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平尾台から高城山塊へ/右端の山は大平山で、高城山・諌山はこの山に隠れて写っていません。

画面中央の山間に「神御子(こみこ)」という名の地があります。挟間翁は、ここは黄泉の国から逃げ帰ったイザナギノミコトが禊払いした時に生まれた「アマテラスオオミカミ」「ツクヨミノミコト」「スサノオノミコト」の三貴子の成長の地としています。

続きます。
by iruka-boshi | 2016-02-08 10:39 | いろんな本 | Comments(0)