鴎外の婢 松本清張著(その2)
「いや、それは見たことがありませんな」
「浄土院とか等覚寺とかいうのはどっちの方角かね?」
浜村は『神代帝都考』をのぞきながら訊いた。
「浄土院はこっちの高城山の麓で、等覚寺は左側の平尾台の山つづきの向こう側です」
運転手は車を停めて説明した。(鴎外の婢/松本清張より)
小説「鴎外の婢」のなかで『神代帝都考』は大きな役割を演じている。小説の前半はこの『神代帝都考』の考証に費やされているといっても良いほどで、登場人物の言葉をかりて著者清張の歴史観を述べていると思われるような場面もある。
『神代帝都考』の著者、狭間畏三は天保13年6月15日に豊前国京都郡岡崎で生を受けている。「鴎外の婢」から引用した上記の文中「高城山」は、畏三の生地岡崎からはすぐ眼前、その三角形に整った頂上が大きく覆いかぶさるくらいの近さである。そして小説「鴎外の婢」のクライマックスはこの高城山で迎えることになるのです。
狭間翁が「神代帝都考」で述べていることをごく大雑把に言うと「天孫降臨の地は日向の高千穂ではなく京都郡苅田町近くの高城山であり、神代の帝都は豊前国京都郡である」に尽きるのですが、ここのところを『神代帝都考』より転記すると、
「高千穂槵触峯(タカチホクシフリダケ)は神代に天津彦火邇々杵命(アマツヒコホノニニギノミコト)の天降給ひし峯にして伊弉山の東部に位し京都郡苅田村大字南原と同郡白川村大字山口との境にあり
今之を高城山と称す 高千穂とは高津秀(タカツホ)の義にて高く秀てたる尊称の義なるへし(中略) 今高城山と称するは古代高千穂を訛りて高チョウと唱へ居たるものか然るを天正の頃長野三郎左衛門となるもの此山に城塞を築き居たりとて遂に濁りて高城山と称するに至りしなるへし(後略)」タカチホがタカチョウとなりついに高城の字を当てた、ということのようだ。
上記の文中「伊弉山」は伊弉諾尊(イザナギノミコト)と同じ字を当てていますが、現在「諌山」(いさやま)の地名で残っています。
『神代帝都考』についてはまたいつの日にか拙ブログで紹介させて頂くこともあるだろうと思いますので、引用はこれくらいにして、高城山の秀麗と翁の顕彰碑をご覧ください。
碑の大きさは台座を除いて縦152センチ、横213センチ、厚さ45センチの花崗岩製です。
高城山の頂上に「天の逆鉾」があると云われています。友石孝之氏の「神代帝都考解説」によると頂上は15坪ほどの台地になっていて、大小二つの奇岩が直立している、とのこと。大は高さ7メートルくらい、小は高さ3メートルくらいで岩の先は尖っていて並立しているそうです。
中央のピークが高城山で右側は大平山です。撮影位置の関係で大平山のほうが高く見えますが、大平山の標高は332メートル、高城山は419メートルです。
左の山の白い部分は石灰岩の採掘場です。
続きます。
・・・、ということは、やはり意識的にこの比率にしたのでしょうね。経験的にこの比率がベストと理解していた、とか。ちなみに碑の撰文は友石孝之氏、書は中村天邨氏です。