『父の死後、長い間、母と私は家の中で泣いてばかりいた。はじめて外に出て、私たちは暗いガアドの下を通っていた。母は「あの星がパッパのような気がするよ」といった。
星がほんとにたった一つ光っていた。私はほんとにそんな気がして来て泣きそうになった。』(晩年の父 小堀杏奴著/岩波文庫より)
父鴎外の死後、ある日のこと、杏奴は父と過ごした日在の別荘の星空を思い出すかのように「星の書いてある図」を持ち出して見ていると母がやって来て、「杏奴ちゃん、そんなことをするのはよしておくれ」と言う。
「パッパも星を調べていたら直き死んでしまった。そんなものを見ると、お前も死ぬような気がして来る」と言うので、それ以後星を調べるのは止してしまった、と「晩年の父」に杏奴は書いている。
杏奴が見ていた星図は、「星の書いてある図」としか書かれていないので、星座を幾つかに分けて掲載した冊子(本)だったかも知れないし、あるいは天文書のなかの付図として掲載された星の図だったのかも知れない。
しかし、鴎外が別荘で見ていた星図は「地図みたいなものを拡げて」と杏奴が記しているので、1枚ものの星図だったであろうと推測できる。
秋山光夫が「天界」に寄稿した「星と鴎外」によると、鴎外は大正7年頃から星に興味を抱くようになり、大正10年には西洋の天文書の名を挙げて、これを参考に中国名と西洋名の星名対照表を作成するように秋山に指示しているほどですから、星について相応の知識を持ち、従って星図を所持していても不思議ではありません。
しかもこの星図は留学経験のある鴎外のことですから外国製だった可能性もあります。
鴎外は中国伝来の「星宿図」を見ていた可能性もないではありませんが、実際の星空と照らし合わせる場合、星宿図では少し無理があるように思われます。
やはりここは西洋式の星図、しかも日本で作られた星図を見ていた、と思いたいもの。
鴎外が星を見た大正10年までにわが国で出された星図はいくつかあって、最初は明治24年に海軍水路部が発行した「天図」、次は明治43年に三省堂が発行した日本天文学会編の「新撰恒星図」、水路部は大正8年に「星図」というのも発行しています。
また、大正2年に「現代之科学社/裳華房」から「小倉伸吉著 星の図」が出ていますが、これは解説が33ページ、季節ごとの星座の位置を表した図が24ページ、それに全天の星座を北半球と南半球に分けて表した星図が1枚折り込まれている「本」ですので、鴎外が見ていた「地図みたいなものを拡げて」とは少し違うようですので除外。
山口県立山口博物館 収蔵資料紹介より/新撰恒星図/1900年分点/5.5等以上そうして見ると、軍人であった鴎外は海軍にも伝手はあったでしょうから「海軍水路部の星図」を見ていたことも考えられますが、東京天文台に知人がいたことも考え合わせて、最も入手し易い「日本天文学会の新撰恒星図」を持っていたと思うのが妥当なところでしょう。
国立国会図書館・近代デジタルライブラリーより/新撰恒星図・オリオン座付近拡大鴎外が持っていた星図が何であったかは、鴎外記念館や東京大学の鴎外文庫を訪れてみればあっさりわかることかも知れませんが、手持ちの資料でアレコレ考えて見るのもまた一興(かな?)。
さて、何だったんだろう・・・。
(ところで)
ここからは、「吉田学軒顕彰会」からのお知らせですが、来る平成24年4月29日(祝日、昭和の日)に顕彰会総会並びに顕彰碑除幕式が下記のように執り行われる予定です。
どうぞ、みやこ町勝山にお出でください。
期日:平成24年4月29日
日程:午前9時 総会/10時 除幕式、祝賀行事
場所:福岡県京都郡みやこ町勝山公民館(福岡みやこ農協勝山支所 裏)
以上です。