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待ちに待った金環日食、各地で素晴らしい天体ショーを繰り広げたようですね。
・・・が、しかし、当地では無情のくもり空。仕舞いにゃ、小粒の雨まで落ちてくるアリサマ。

それでも最大食(当地では金環ならず/最大で0.916)を迎える数分前には弱々しい光ながらも僅かなあいだ、日食を見ることが出来ました。

平成24年5月21日7時22分撮影・食分0.903/この4分後、7時25分54秒に最大食に達したハズ。太陽を見ることができたのは22~25分までの3分間のみ。しかもこの頼りなさ。

このあと雲はいっこうに薄くなる気配はなく、8時46分37秒に食は終わった(ハズ)。残念!
大事なときはいつもこうなんですよね。そして事後、決まって晴れる!

次のビッグイベント、6月6日の金星日面経過に期待を掛けます。・・・その前に6月4日の部分月食、早くも天候が気になります。
# by iruka-boshi | 2012-05-21 14:03 | Trackback | Comments(0)
大正2年12月30日に現代之科学社/裳華房より「誰にも必要な星の図」という解説ページ付き星図が発行されています。著者は当時東京天文台に在籍し、のちに海軍水路部に転籍した航海天文学・潮汐学者の小倉伸吉です。

「誰にも必要な星の図」は、明治44年(1911)に東京天文台を辞職した一戸直蔵が大正2年に創刊した科学雑誌「現代之科学」の第1巻第1号から12号までに掲載された星図がもとになっていて、出版するにあたって解説と図版が加わったもので、星図24図(24ページ)と解説22ページから成るA5判程度の書籍です。

本日の「改訂 星の図 全」は、「誰にも必要な星の図」に少しばかり補筆し、24星図のほかに北半球と南半球の星座を一緒の紙面に納めた図が1枚折り込まれた体裁の書籍で、基本的には「誰にも必要な星の図」と変わらぬ内容となっています。

「誰にも必要な星の図」及び「改訂 星の図」の解説は、星座についての解説ではなく、星座図の使い方と太陽・月・惑星・恒星・星雲星団の一般的解説、それに北極星の見つけ方を述べたものです。

文章に添えられた図版は全部で21図で、これは「誰にも必要な星の図」「改訂 星の図」ともに同じ数ですが、改訂版では月の写真や惑星のスケッチ等が少し入れ替わっています。また、星座名一覧表とギリシヤ文字の読み方一覧表が新たに加わり、いて座付近の銀河の写真がタイトルページのすぐ次に1枚収められています。

北半球の図を一部拡大、 最微星は4等星

星座図の端に「S.O.」のサインが入り、小倉伸吉が描いた図であることを示している

星座の西洋名と二十八宿名のほかに明るい星には「天津」「河鼓」「北落師門」などの中国名も添えられている


星図の判形が小さいこともあって、星と星の開き具合というか星座間の離れ具合が掴みにくいため、この星図を見ながら実際の星空のもとで星たちをたどって行くのは初心者には少し難しそう。

・・・が、地平線が描かれているのでこれをたよりにひとつずつ星を結んで行けば大体のイメージはわかるというもの、ですね。

改訂 星の図 全

大正二年十二月廿七日印刷
大正二年十二月三十日発行
大正十四年十月廿五日改訂七版発行
著者 小倉伸吉
発行者 合資会社大鐙閣代表者 榎本文雄
印刷者 上村新輔
印刷所 株式会社 博文館印刷所
発行所 東京神田今川小路 合資会社 大鐙閣
15×22.5cm/解説及び図版33ページ、星座図24ページ・24図/函付き/定価一円五十銭・送料十二銭

因みに下図にもS.Oguraのサインが入っている/「天文月報 大正9年6月号」の表紙より

当時、小倉氏の作図による毎月の星座(当月の1日午後9時と16日午後8時の天空)が「天文月報」の表紙を飾っていた。

(いるか書房本館・宇宙・天文、追加しました。)
# by iruka-boshi | 2012-05-01 22:10 | Trackback | Comments(0)
「昭和の日」の本日、みやこ町勝山公民館にて吉田学軒顕彰碑の除幕式が執り行われました。

午前9時からの顕彰会総会ののち、勝山太鼓の演技披露を経て10時ちょうどに式典開始。

みやこ町町長、顕彰会会長の挨拶に続き、関係者や来賓の方々の祝辞、ご列席者の紹介などの後、みやこ町歴史民俗博物館の川本学芸員による記念講話を持って40分ばかりの式典は終了しました。

このあと、餅まきがあったようですが私は所用のため帰りましたので詳細不明。

40名ほどの招待者のなかに、学軒の孫の三浦由紀子さん(71)、秀之さん(60)兄弟のお姿も見えました。東京と千葉から来られたとのことで、学軒の長女ふゆ子さんの四男とお姉さんとのことでした。

高さ120cmほどの碑石は、顕彰碑が建立された地の南西に位置する「障子ケ岳」の山容を模した形で、碑の上部の階段状は戦国期に置かれた山城の跡地の地形をかたどったものです。

碑の全文

# by iruka-boshi | 2012-04-29 14:41 | Trackback | Comments(0)
『父の死後、長い間、母と私は家の中で泣いてばかりいた。はじめて外に出て、私たちは暗いガアドの下を通っていた。母は「あの星がパッパのような気がするよ」といった。
星がほんとにたった一つ光っていた。私はほんとにそんな気がして来て泣きそうになった。』(晩年の父 小堀杏奴著/岩波文庫より)

父鴎外の死後、ある日のこと、杏奴は父と過ごした日在の別荘の星空を思い出すかのように「星の書いてある図」を持ち出して見ていると母がやって来て、「杏奴ちゃん、そんなことをするのはよしておくれ」と言う。

「パッパも星を調べていたら直き死んでしまった。そんなものを見ると、お前も死ぬような気がして来る」と言うので、それ以後星を調べるのは止してしまった、と「晩年の父」に杏奴は書いている。

杏奴が見ていた星図は、「星の書いてある図」としか書かれていないので、星座を幾つかに分けて掲載した冊子(本)だったかも知れないし、あるいは天文書のなかの付図として掲載された星の図だったのかも知れない。

しかし、鴎外が別荘で見ていた星図は「地図みたいなものを拡げて」と杏奴が記しているので、1枚ものの星図だったであろうと推測できる。

秋山光夫が「天界」に寄稿した「星と鴎外」によると、鴎外は大正7年頃から星に興味を抱くようになり、大正10年には西洋の天文書の名を挙げて、これを参考に中国名と西洋名の星名対照表を作成するように秋山に指示しているほどですから、星について相応の知識を持ち、従って星図を所持していても不思議ではありません。

しかもこの星図は留学経験のある鴎外のことですから外国製だった可能性もあります。

鴎外は中国伝来の「星宿図」を見ていた可能性もないではありませんが、実際の星空と照らし合わせる場合、星宿図では少し無理があるように思われます。

やはりここは西洋式の星図、しかも日本で作られた星図を見ていた、と思いたいもの。

鴎外が星を見た大正10年までにわが国で出された星図はいくつかあって、最初は明治24年に海軍水路部が発行した「天図」、次は明治43年に三省堂が発行した日本天文学会編の「新撰恒星図」、水路部は大正8年に「星図」というのも発行しています。

また、大正2年に「現代之科学社/裳華房」から「小倉伸吉著 星の図」が出ていますが、これは解説が33ページ、季節ごとの星座の位置を表した図が24ページ、それに全天の星座を北半球と南半球に分けて表した星図が1枚折り込まれている「本」ですので、鴎外が見ていた「地図みたいなものを拡げて」とは少し違うようですので除外。

山口県立山口博物館 収蔵資料紹介より/新撰恒星図/1900年分点/5.5等以上
そうして見ると、軍人であった鴎外は海軍にも伝手はあったでしょうから「海軍水路部の星図」を見ていたことも考えられますが、東京天文台に知人がいたことも考え合わせて、最も入手し易い「日本天文学会の新撰恒星図」を持っていたと思うのが妥当なところでしょう。

国立国会図書館・近代デジタルライブラリーより/新撰恒星図・オリオン座付近拡大

鴎外が持っていた星図が何であったかは、鴎外記念館や東京大学の鴎外文庫を訪れてみればあっさりわかることかも知れませんが、手持ちの資料でアレコレ考えて見るのもまた一興(かな?)。

さて、何だったんだろう・・・。

(ところで)

ここからは、「吉田学軒顕彰会」からのお知らせですが、来る平成24年4月29日(祝日、昭和の日)に顕彰会総会並びに顕彰碑除幕式が下記のように執り行われる予定です。
どうぞ、みやこ町勝山にお出でください。

期日:平成24年4月29日
日程:午前9時 総会/10時 除幕式、祝賀行事
場所:福岡県京都郡みやこ町勝山公民館(福岡みやこ農協勝山支所 裏)

以上です。
先日、崎山駅を見学した際、桜と廃屋に気を取られて「駅舎竣工記念」の石碑のことをすっかり忘れていました。本日は天気も良いことだし再度出かけてきました。

崎山駅を背にして左側、道路を隔てた山側に建つ「崎山駅竣工記念」の碑

石碑の左側面 信号場から旅客駅に昇格した際、増築された駅舎を記念するもの。なんの変哲もない石碑ですが、当時の地元民の喜びが伝わってくるようです。

・・・と同時に、同じ時期に開設された信号場でありながら、旅客駅に昇格出来なかった山ひとつ向こう側の「内田信号場」の悔しさ残念さも伝わってきます。


さて、石碑をあとにして近くの有名な撮影ポイントに移動。ここは旧国鉄時代から同好の士には良く知られた撮影名所。神社境内にレールが敷かれているのです。

八幡神社の「一の鳥居」と「二の鳥居」の間に鉄道が走っています。

画面の左端の鳥居のすぐ脇から急勾配の石段が社殿へと続いているし、右側の鳥居の横には川があるため鳥居を移動させることが出来なかったのでしょう。

崎山駅を離れて金田方面へ向かう「なのはな407号」 画面の奥、金田方面。山の向こう側にかつて「内田信号場」があった。

鳥居の間を抜けて崎山駅に向かう「なのはな号」画面右側、崎山・行橋方面
# by iruka-boshi | 2012-04-16 07:28 | Trackback | Comments(0)